気遣い
収入は少ないが定時で帰る事が出来るのが、派遣の数少ない良いところである。しかも今の職場は、これまで未央が勤めた職場の数々の中で、最も人間関係がいい。
未央は上機嫌で鞄を振り振り帰路を歩いていた。ここ数年来、生理中でもピークを過ぎればすぐ調子が戻る。こういう時ばかりは歳を取った甲斐があったと思うのだった。
今日は気分がいいから、ちょっと寄り道をして帰ろう、と未央は思った。そして駅にほど近い、品揃えの豊富な書店へと入った。
予算二千円と決めて、今まであまり読んだ事のないジャンルから適当に選んで買ってみることにした。そうして30分程店内をぶらぶらし、めぼしい文庫本を3冊手に取った。
会計の前に、雑誌コーナーを通った。ふと、演劇専門誌の棚が目に留まった。これこそ、未央がこれまでの人生で関心を持って来なかったジャンルである。
思ったより色々あるのね。
と、感心しながら通りすぎようとした未央だったが、つと立ち止まって、平積みされていたとある雑誌の表紙を思わず二度見した。爽やかな笑顔で微笑む百鬼丸が写っていたからである。
ええええー!!
実は有名人だったの!?
***
アパートに帰ると、狭い庭でなにやらわいわいと子供達が騒いでいた。
「すっげーな兄ちゃん!そんな上手いんなら金取れんぜ」
と歓声をあげたのは、たまに遊びに来る、大家の孫だった。
未央は騒ぎの横を通り、階段を上がった。
喧騒の中心では、百鬼丸が木刀を振っていた。剣の稽古というよりは芝居の稽古なのだろうか。彼は刀身を振り下ろすと、腰に巻いた紐に木刀を挟んだ。子供達が一斉に拍手をする。だが百鬼丸は迷惑顔だ。
「あ、未央姉、お帰りー」
大家の孫が、二階の未央を見上げて言った。
「ただいま、どろろちゃん」
「『ちゃん』つけんじゃねー!」
憤慨したどろろは、拳を振り上げながらぴょんぴょん跳ねる。きっと側にいたら容赦ない回し蹴りが未央の脛にお見舞いされることだろう。どろろは、今時の可愛らしい本名を持った女の子だが、いつも男の子みたいななりをしていて、女扱いをされるのをとても嫌っているのだった。でも未央は、どろろがまだ小さかった頃のように、つい「どろろちゃん」と呼んでしまう。
「ねえ未央姉、この兄ちゃん誰ー?未央姉のカレシ?」
「えっ、そんなんじゃないよ。ただの、えっと」
未央が言いあぐねていると、
「ただの居候。お帰り、みお」
百鬼丸が手拭いで汗を拭きつつ言った。
「ただいま……」
「なんだそれ、意味わかんねぇ。やっとカレシいない歴イコール年齢に終止符打ったのかと思ったのに。もしかしてあれかぁ、兄ちゃん未央姉のヒモなの?」
まったくこの子、意味分かってて言ってるの?
未央は頬が熱くなるのを感じた。
***
「もういいかい」
「もういいよ」
と、百鬼丸が言うので、窓の方を向いて正座していた未央は、足を崩して振り返った。が、
「ちょっとー!全然よくないじゃないのっ」
慌てて両手で顔を覆い、再び窓の方へ向いた。いいと言った百鬼丸だったが、まだパンツだけ履いた姿で、ゆっくりのんびりスエットのズボンに脚を通している最中だったのだ。
六畳一間の狭小ワンルーム。それでもトイレと風呂が別個でついているのがこの部屋の良いところだが、狭さ故に脱衣場まではついていないのである。だから、一方が風呂を使う前後は、もう一方は相手の着替えが済むまでこうして目隠しをしなければならないのだった。
せめて百鬼丸が履いているのがトランクスだったらまだマシたのだが、あいにくピチピチのビキニパンツだったので、より一層目のやり場に困ってしまった未央である。
「何で。男の裸なんて見てもなんもなくない?」
百鬼丸が呆れ声で言った。
「で、でも……それはやっぱり、よくないと、おもいます…………」
未央が小声で言うと、百鬼丸はくつくつと笑った。
「いい加減慣れてよ。大体みおは、おれの胸に雑巾がけだってしたじゃないか」
は、今なんて?
百鬼丸の胸に雑巾がけ、とは。
今私、とんでもない聞き違いをしたような気がする。と、未央は考えた。もともと彼女は「聞き違い魔人」と他人から揶揄されてしまう程に聞き違いが多いのだ。どんなに食い詰めてもコールセンターの仕事だけは固辞して来た程である。
一体、何をどうしてそんな風に聞き間違えたのだろう?だが、聞き返すのも恥ずかしいので、未央は何も聞かなかった事にした。百鬼丸も特に何か言っては来なかった。
「もういいよ」
未央が振り返ると、百鬼丸はちゃんと黒いTシャツを着て、濡髪を拭きつつテーブルの向こう側に腰を下ろすところだった。
「ここ、みおの家なのに、おれが先に風呂入ってよかったの?」
「えっ」
勝手に住み着いたわりに、変なところで気遣いを見せた百鬼丸だった。
「別にいいよ。いつもは私が先なんだし、たまには」
「昨日もおれが先だった」
「あれー、そうだったっけ」
未央は視線を泳がせた。出来れば生理中は彼に先に風呂を使って欲しいのだが、どう説明したらいいのかわからない。
百鬼丸はじいっと未央の目を覗き込んだ。さ迷わせていた未央の視線は、彼の視線に絡め取られてしまったように、動けなくなった。
彼の、深遠な闇のように真っ黒い瞳は、まるで未央の心の奥の方まで見透しているかのようだ。
やめて、そんなに見詰めないで欲しい。
未央はたじろいたが、かといって心の中に何か疚しい事がある訳ではない。生理中なのがバレて変に気を遣われたくないとか、その程度の些細な羞恥心くらいしか自分の内面には無いのであり、むしろ自分のそういう底の浅さが嫌なのである。
「もしかしなくても、みおは男が苦手だな」
「へっ?あぁえっと、そんなことも、あるかなぁ……」
男を目の前にしてそれを肯定してしまうのは、いかがなものかと思いながら、未央は答えた。
「彼氏いない歴イコール年齢とか」
「ひぁっ!そんなこと覚えてたの!?やだもう、忘れてよそんなこと!」
「や、そんなにモテないわけないだろうと思って」
そうか、そんなに男がダメなのかぁ、と頭をかきながら呟いて、百鬼丸は立ち上がった。
「どうしたの?」
やはり気を悪くされたのだろうか。未央がそう案じていると、百鬼丸は神妙な顔をして言った。
「風呂洗ってくる」
「えっ」
「いや、おれが先に入ったから、男臭いかなと思って」
「そんな、気にしないよ全然!大丈夫大丈夫、百鬼丸変な臭いとかしないし、換気扇回ってるし、それにお湯勿体ないしね!?」
言ってしまってから「換気扇回ってるし」は余計だったと焦る未央だった。
百鬼丸は目を見開いた。
「なるほど。それもそうか」
そしてストンと座り、胡座を組んだのだった。
「そうそう、お湯冷めたら勿体ないから、私お風呂入って来るね」
今度は未央が、タオルと着替えを持って立ち上がった。
「どうぞごゆっくり」
百鬼丸は未央に背を向けて言った。
未央が風呂から上がると、百鬼丸は膝に台本を広げたまま、滑舌の練習をしていた。
いっぺきぺきにへぎほしはじかみ盆まめぼん米ぼん牛蒡、
摘蓼つみ豆つみ山椒、
書写山の社僧正、
こごめの生がみこごめの生がみらんこ米のこなまがみ、
繻子々々緋繻子繻子繻珍、
親も嘉兵衛子も嘉兵衛、親嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛、
古栗の木のふる切口、
雨合羽かばん合羽、
貴様の脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆、
しっ皮袴のしっぽころびを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ」
未央は邪魔にならないようにベッドに腰掛け、髪を拭きながら百鬼丸が流暢に暗唱するのを聴いていた。
「さすがだね」
彼が練習を終えた後で未央が言うと、
「おれ、滑舌が悪いから、ちゃんと毎日練習しないと」
百鬼丸はそう応えたが、未央がじっと見詰めているのに気づいて、目を上げた。
「何か、聞きたいことでも?」
やはり何もかもお見通しのようだ。
実は、雑誌の表紙に百鬼丸が載っている件について、未央は訊きたいと思っていたのだ。芸能関係に疎い未央は知らなかったが、彼はもしかしてかなり人気のある俳優なのではないかと。
そうだとしたら、彼がここに住み着いているのをマスコミなどに知られたら、まずいのではないかと。
かといって、それを指摘して彼が「やっぱりまずいので、出ていきまーす」と言い出したら悲しいので、未央は何も言えなかった。
「やっぱり、おれがここに居るのは嫌?」
みおはギクリとした。
「そんなことないよ」
百鬼丸がいると、私、楽しいし……。
そう言おうとして口を開いた未央だったが、思いもよらない言葉が口をついて出た。
「百鬼丸、いっぱいおしゃべり出来るようになったのね」
未央が自分自身の言葉に呆気に取られていると、百鬼丸もまた口をあんぐり開けて驚いていた。しばらくして彼は台本に目を落とし、
「うん、よかったよ」
と呟いた。
未央は上機嫌で鞄を振り振り帰路を歩いていた。ここ数年来、生理中でもピークを過ぎればすぐ調子が戻る。こういう時ばかりは歳を取った甲斐があったと思うのだった。
今日は気分がいいから、ちょっと寄り道をして帰ろう、と未央は思った。そして駅にほど近い、品揃えの豊富な書店へと入った。
予算二千円と決めて、今まであまり読んだ事のないジャンルから適当に選んで買ってみることにした。そうして30分程店内をぶらぶらし、めぼしい文庫本を3冊手に取った。
会計の前に、雑誌コーナーを通った。ふと、演劇専門誌の棚が目に留まった。これこそ、未央がこれまでの人生で関心を持って来なかったジャンルである。
思ったより色々あるのね。
と、感心しながら通りすぎようとした未央だったが、つと立ち止まって、平積みされていたとある雑誌の表紙を思わず二度見した。爽やかな笑顔で微笑む百鬼丸が写っていたからである。
ええええー!!
実は有名人だったの!?
***
アパートに帰ると、狭い庭でなにやらわいわいと子供達が騒いでいた。
「すっげーな兄ちゃん!そんな上手いんなら金取れんぜ」
と歓声をあげたのは、たまに遊びに来る、大家の孫だった。
未央は騒ぎの横を通り、階段を上がった。
喧騒の中心では、百鬼丸が木刀を振っていた。剣の稽古というよりは芝居の稽古なのだろうか。彼は刀身を振り下ろすと、腰に巻いた紐に木刀を挟んだ。子供達が一斉に拍手をする。だが百鬼丸は迷惑顔だ。
「あ、未央姉、お帰りー」
大家の孫が、二階の未央を見上げて言った。
「ただいま、どろろちゃん」
「『ちゃん』つけんじゃねー!」
憤慨したどろろは、拳を振り上げながらぴょんぴょん跳ねる。きっと側にいたら容赦ない回し蹴りが未央の脛にお見舞いされることだろう。どろろは、今時の可愛らしい本名を持った女の子だが、いつも男の子みたいななりをしていて、女扱いをされるのをとても嫌っているのだった。でも未央は、どろろがまだ小さかった頃のように、つい「どろろちゃん」と呼んでしまう。
「ねえ未央姉、この兄ちゃん誰ー?未央姉のカレシ?」
「えっ、そんなんじゃないよ。ただの、えっと」
未央が言いあぐねていると、
「ただの居候。お帰り、みお」
百鬼丸が手拭いで汗を拭きつつ言った。
「ただいま……」
「なんだそれ、意味わかんねぇ。やっとカレシいない歴イコール年齢に終止符打ったのかと思ったのに。もしかしてあれかぁ、兄ちゃん未央姉のヒモなの?」
まったくこの子、意味分かってて言ってるの?
未央は頬が熱くなるのを感じた。
***
「もういいかい」
「もういいよ」
と、百鬼丸が言うので、窓の方を向いて正座していた未央は、足を崩して振り返った。が、
「ちょっとー!全然よくないじゃないのっ」
慌てて両手で顔を覆い、再び窓の方へ向いた。いいと言った百鬼丸だったが、まだパンツだけ履いた姿で、ゆっくりのんびりスエットのズボンに脚を通している最中だったのだ。
六畳一間の狭小ワンルーム。それでもトイレと風呂が別個でついているのがこの部屋の良いところだが、狭さ故に脱衣場まではついていないのである。だから、一方が風呂を使う前後は、もう一方は相手の着替えが済むまでこうして目隠しをしなければならないのだった。
せめて百鬼丸が履いているのがトランクスだったらまだマシたのだが、あいにくピチピチのビキニパンツだったので、より一層目のやり場に困ってしまった未央である。
「何で。男の裸なんて見てもなんもなくない?」
百鬼丸が呆れ声で言った。
「で、でも……それはやっぱり、よくないと、おもいます…………」
未央が小声で言うと、百鬼丸はくつくつと笑った。
「いい加減慣れてよ。大体みおは、おれの胸に雑巾がけだってしたじゃないか」
は、今なんて?
百鬼丸の胸に雑巾がけ、とは。
今私、とんでもない聞き違いをしたような気がする。と、未央は考えた。もともと彼女は「聞き違い魔人」と他人から揶揄されてしまう程に聞き違いが多いのだ。どんなに食い詰めてもコールセンターの仕事だけは固辞して来た程である。
一体、何をどうしてそんな風に聞き間違えたのだろう?だが、聞き返すのも恥ずかしいので、未央は何も聞かなかった事にした。百鬼丸も特に何か言っては来なかった。
「もういいよ」
未央が振り返ると、百鬼丸はちゃんと黒いTシャツを着て、濡髪を拭きつつテーブルの向こう側に腰を下ろすところだった。
「ここ、みおの家なのに、おれが先に風呂入ってよかったの?」
「えっ」
勝手に住み着いたわりに、変なところで気遣いを見せた百鬼丸だった。
「別にいいよ。いつもは私が先なんだし、たまには」
「昨日もおれが先だった」
「あれー、そうだったっけ」
未央は視線を泳がせた。出来れば生理中は彼に先に風呂を使って欲しいのだが、どう説明したらいいのかわからない。
百鬼丸はじいっと未央の目を覗き込んだ。さ迷わせていた未央の視線は、彼の視線に絡め取られてしまったように、動けなくなった。
彼の、深遠な闇のように真っ黒い瞳は、まるで未央の心の奥の方まで見透しているかのようだ。
やめて、そんなに見詰めないで欲しい。
未央はたじろいたが、かといって心の中に何か疚しい事がある訳ではない。生理中なのがバレて変に気を遣われたくないとか、その程度の些細な羞恥心くらいしか自分の内面には無いのであり、むしろ自分のそういう底の浅さが嫌なのである。
「もしかしなくても、みおは男が苦手だな」
「へっ?あぁえっと、そんなことも、あるかなぁ……」
男を目の前にしてそれを肯定してしまうのは、いかがなものかと思いながら、未央は答えた。
「彼氏いない歴イコール年齢とか」
「ひぁっ!そんなこと覚えてたの!?やだもう、忘れてよそんなこと!」
「や、そんなにモテないわけないだろうと思って」
そうか、そんなに男がダメなのかぁ、と頭をかきながら呟いて、百鬼丸は立ち上がった。
「どうしたの?」
やはり気を悪くされたのだろうか。未央がそう案じていると、百鬼丸は神妙な顔をして言った。
「風呂洗ってくる」
「えっ」
「いや、おれが先に入ったから、男臭いかなと思って」
「そんな、気にしないよ全然!大丈夫大丈夫、百鬼丸変な臭いとかしないし、換気扇回ってるし、それにお湯勿体ないしね!?」
言ってしまってから「換気扇回ってるし」は余計だったと焦る未央だった。
百鬼丸は目を見開いた。
「なるほど。それもそうか」
そしてストンと座り、胡座を組んだのだった。
「そうそう、お湯冷めたら勿体ないから、私お風呂入って来るね」
今度は未央が、タオルと着替えを持って立ち上がった。
「どうぞごゆっくり」
百鬼丸は未央に背を向けて言った。
未央が風呂から上がると、百鬼丸は膝に台本を広げたまま、滑舌の練習をしていた。
いっぺきぺきにへぎほしはじかみ盆まめぼん米ぼん牛蒡、
摘蓼つみ豆つみ山椒、
書写山の社僧正、
こごめの生がみこごめの生がみらんこ米のこなまがみ、
繻子々々緋繻子繻子繻珍、
親も嘉兵衛子も嘉兵衛、親嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛、
古栗の木のふる切口、
雨合羽かばん合羽、
貴様の脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆、
しっ皮袴のしっぽころびを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ」
未央は邪魔にならないようにベッドに腰掛け、髪を拭きながら百鬼丸が流暢に暗唱するのを聴いていた。
「さすがだね」
彼が練習を終えた後で未央が言うと、
「おれ、滑舌が悪いから、ちゃんと毎日練習しないと」
百鬼丸はそう応えたが、未央がじっと見詰めているのに気づいて、目を上げた。
「何か、聞きたいことでも?」
やはり何もかもお見通しのようだ。
実は、雑誌の表紙に百鬼丸が載っている件について、未央は訊きたいと思っていたのだ。芸能関係に疎い未央は知らなかったが、彼はもしかしてかなり人気のある俳優なのではないかと。
そうだとしたら、彼がここに住み着いているのをマスコミなどに知られたら、まずいのではないかと。
かといって、それを指摘して彼が「やっぱりまずいので、出ていきまーす」と言い出したら悲しいので、未央は何も言えなかった。
「やっぱり、おれがここに居るのは嫌?」
みおはギクリとした。
「そんなことないよ」
百鬼丸がいると、私、楽しいし……。
そう言おうとして口を開いた未央だったが、思いもよらない言葉が口をついて出た。
「百鬼丸、いっぱいおしゃべり出来るようになったのね」
未央が自分自身の言葉に呆気に取られていると、百鬼丸もまた口をあんぐり開けて驚いていた。しばらくして彼は台本に目を落とし、
「うん、よかったよ」
と呟いた。