気遣い
「ふふっ……いっぱいおしゃべりできるようになったのね」
うふふ、うふふ。
未央は自分の笑い声で目を覚まし、飛び起きた。両手で頬を触ると、まだふにゃりと弛んでいる。
これって、寝言ならぬ、寝笑い?
「やだー、恥ずかしっ」
自分の部屋に独りっきりでいるのだから、別に誰に見られる訳でもない。いや、少し前はそうだったのだが、今は同居人がいる、はずなのだが。
「あれ?」
百鬼丸がいない。彼女の隣はもぬけの殻だった。
ある日の夕方、突然未央の部屋に乱入してきた謎のイケメンこと百鬼丸は、以来ちゃっかりここに居候しているのだった。
押入を改造したクローゼットが開けっ放しになっている。百鬼丸が器用にDIYしたのだった。そこには未央の服よりずっと沢山の男物が、ずらりと並んでいる。初めて出会った時はぼろを身にまとっていた百鬼丸だったが、案外衣装持ちなのである。しかしそうして余所行きばかり増殖させているから、彼は日々の食べ物に事欠くほどの極貧だったのだ。
畳には、百鬼丸のスエットの上下が脱ぎ散らかされていた。いつもの事である。彼はしばしば未央の知らないうちに部屋を抜け出して、何処かへ行ってしまう。
テーブルには、コピー用紙を束ねただけのくたびれた冊子が置いてある。これは演劇の台本だ。百鬼丸の職業は、本人曰く売れない舞台俳優なのだそうだ。突き抜けた美貌を持つ彼だが、性格は大人しく無口なので、それは意外だと未央は思った。
舞台の稽古は昼間だというし、夜は一体何をしているのやら。
ちょっと気になるものの、口を出す義理はないかなと思って、何も聞かずにいる未央だった。
外はまだ暗い。未央は再び布団に潜り込んだ。下腹がじんじんと痛む。生理2日目。明日の仕事に差し障らないように、充分に睡眠を取らなければ……。
目を覚ますと、外はすっかり明るくなっていた。とはいえまだ6時半。ずいぶんと日が長くなったものだ。未央はもそもそと起き出して、トイレに入った。ところが、
「無いっ!」
トイレットペーパーが。空のペーパーホルダーの上には、紙芯がちょこんと載っていた。
「終わっちゃったんなら言ってよぉ」
しかもこんな時に限って、ストックを買い忘れているのである。気付いたのが下着を下ろす前だったのが、不幸中の幸いだ。だが、もたもたしていると経血が漏れそうである。未央はいそいそと着替え、部屋を飛び出した。
「おはよう、未央さん。今朝はやけに早いねぇ」
アパートの庭で大家が草むしりをしていた。
「おはようございます、大家さん。ご苦労様です。ちょっと買い物です」
「気を付けてね」
未央は小走りでコンビニへと向かった。
大通りに面した小さなマンションの一階にあるその店は、未央のアパートの最寄りのコンビニなのだが、未央は今のように急用でもなければ立ち寄る事はない。というのも、非常に態度の悪い若い女性店員がいるからである。
「いらっしゃいませー」
店内に入ると、溌剌とした声が未央を迎えたが、店員の姿は見えなかった。
左手奥にあるトイレにちらりと目をやると、清掃中の看板が立てられていた。未央はさっさとトイレットペーパーのパックを取り、ついでに朝食用にとジャスミン茶とサンドイッチを籠に入れて、レジへ行った。
レジには誰もいなかった。
「ヒロちゃん、レジお願い」
後方から女性の声がした。すると、「ほい」とおどけた返事がフライヤー室から聞こえ、間もなく揚げたてのアメリカンドッグを山盛りにしたバットを手に、マスクをした若い男性店員が姿を現した。
「いらっしゃいま……え?」
店員は驚いた表情で未央を見た。未央も店員を見てぎょっとした。
「ひゃっ……!」
見慣れた黒いウルフヘア。店員はマスクを指で下げ、顔を見せた。百鬼丸である。
「来てくれたんだ」
という彼は、いつもの様子とはうって変わって、シャキッ!パリッ!とした好青年の風情である。仕事向きの演技なのかもしれない。
「……ていうか、あんたここでバイトしてたの?」
どおりでどこかで会ったことがある気がした訳である。そうだ、制服である緑色のポロシャツを着たこの姿なら、見覚えがある。だいぶ前だが、払込票で何かの支払いをした際に受付を担当したのが、この男ではなかったか。すると未央の名前と住所を知っていたのも頷ける。
百鬼丸は照れ臭そうに笑った。これも未央にはこれまで見せた事のない表情である。
この子ほんとに、顔がいい。
未央は改めてそう思った。
「結構長いよ」
「そうなんだ。それで私のこと知ってたのね」
「まあね」
彼は手早く全ての商品をスキャンし終えた。未央はプリペイドカードで支払った。
百鬼丸の胸に着けられたネームプレートには、ごくありふれた日本人の苗字が書かれていた。先程は「ヒロちゃん」と呼ばれていたし、百鬼丸というのはやはり偽名だったのだ。本名だったらむしろその方がびっくりだが。
派手な髪型とメイクの若い女性店員がつかつかとレジにやって来て、手伝う程でもない袋詰めを手伝った。彼女はちらっと顔を上げたが、その一瞬に物凄い憎悪を込めて未央を睨み付けた。この店員がいるから、この店には来たくないのである。
未央が店を出ようとした時、背後で女性店員が聞こえよがしに百鬼丸に言った。
「今のオバサン、知り合い?」
「うん、世帯主」
百鬼丸の答えにすっとんきょうな声を上げた女性店員だった。もしかすると、未央が何もしていないのにあの店員から嫌われていたのも、百鬼丸が原因だったのかもしれない。
うふふ、うふふ。
未央は自分の笑い声で目を覚まし、飛び起きた。両手で頬を触ると、まだふにゃりと弛んでいる。
これって、寝言ならぬ、寝笑い?
「やだー、恥ずかしっ」
自分の部屋に独りっきりでいるのだから、別に誰に見られる訳でもない。いや、少し前はそうだったのだが、今は同居人がいる、はずなのだが。
「あれ?」
百鬼丸がいない。彼女の隣はもぬけの殻だった。
ある日の夕方、突然未央の部屋に乱入してきた謎のイケメンこと百鬼丸は、以来ちゃっかりここに居候しているのだった。
押入を改造したクローゼットが開けっ放しになっている。百鬼丸が器用にDIYしたのだった。そこには未央の服よりずっと沢山の男物が、ずらりと並んでいる。初めて出会った時はぼろを身にまとっていた百鬼丸だったが、案外衣装持ちなのである。しかしそうして余所行きばかり増殖させているから、彼は日々の食べ物に事欠くほどの極貧だったのだ。
畳には、百鬼丸のスエットの上下が脱ぎ散らかされていた。いつもの事である。彼はしばしば未央の知らないうちに部屋を抜け出して、何処かへ行ってしまう。
テーブルには、コピー用紙を束ねただけのくたびれた冊子が置いてある。これは演劇の台本だ。百鬼丸の職業は、本人曰く売れない舞台俳優なのだそうだ。突き抜けた美貌を持つ彼だが、性格は大人しく無口なので、それは意外だと未央は思った。
舞台の稽古は昼間だというし、夜は一体何をしているのやら。
ちょっと気になるものの、口を出す義理はないかなと思って、何も聞かずにいる未央だった。
外はまだ暗い。未央は再び布団に潜り込んだ。下腹がじんじんと痛む。生理2日目。明日の仕事に差し障らないように、充分に睡眠を取らなければ……。
目を覚ますと、外はすっかり明るくなっていた。とはいえまだ6時半。ずいぶんと日が長くなったものだ。未央はもそもそと起き出して、トイレに入った。ところが、
「無いっ!」
トイレットペーパーが。空のペーパーホルダーの上には、紙芯がちょこんと載っていた。
「終わっちゃったんなら言ってよぉ」
しかもこんな時に限って、ストックを買い忘れているのである。気付いたのが下着を下ろす前だったのが、不幸中の幸いだ。だが、もたもたしていると経血が漏れそうである。未央はいそいそと着替え、部屋を飛び出した。
「おはよう、未央さん。今朝はやけに早いねぇ」
アパートの庭で大家が草むしりをしていた。
「おはようございます、大家さん。ご苦労様です。ちょっと買い物です」
「気を付けてね」
未央は小走りでコンビニへと向かった。
大通りに面した小さなマンションの一階にあるその店は、未央のアパートの最寄りのコンビニなのだが、未央は今のように急用でもなければ立ち寄る事はない。というのも、非常に態度の悪い若い女性店員がいるからである。
「いらっしゃいませー」
店内に入ると、溌剌とした声が未央を迎えたが、店員の姿は見えなかった。
左手奥にあるトイレにちらりと目をやると、清掃中の看板が立てられていた。未央はさっさとトイレットペーパーのパックを取り、ついでに朝食用にとジャスミン茶とサンドイッチを籠に入れて、レジへ行った。
レジには誰もいなかった。
「ヒロちゃん、レジお願い」
後方から女性の声がした。すると、「ほい」とおどけた返事がフライヤー室から聞こえ、間もなく揚げたてのアメリカンドッグを山盛りにしたバットを手に、マスクをした若い男性店員が姿を現した。
「いらっしゃいま……え?」
店員は驚いた表情で未央を見た。未央も店員を見てぎょっとした。
「ひゃっ……!」
見慣れた黒いウルフヘア。店員はマスクを指で下げ、顔を見せた。百鬼丸である。
「来てくれたんだ」
という彼は、いつもの様子とはうって変わって、シャキッ!パリッ!とした好青年の風情である。仕事向きの演技なのかもしれない。
「……ていうか、あんたここでバイトしてたの?」
どおりでどこかで会ったことがある気がした訳である。そうだ、制服である緑色のポロシャツを着たこの姿なら、見覚えがある。だいぶ前だが、払込票で何かの支払いをした際に受付を担当したのが、この男ではなかったか。すると未央の名前と住所を知っていたのも頷ける。
百鬼丸は照れ臭そうに笑った。これも未央にはこれまで見せた事のない表情である。
この子ほんとに、顔がいい。
未央は改めてそう思った。
「結構長いよ」
「そうなんだ。それで私のこと知ってたのね」
「まあね」
彼は手早く全ての商品をスキャンし終えた。未央はプリペイドカードで支払った。
百鬼丸の胸に着けられたネームプレートには、ごくありふれた日本人の苗字が書かれていた。先程は「ヒロちゃん」と呼ばれていたし、百鬼丸というのはやはり偽名だったのだ。本名だったらむしろその方がびっくりだが。
派手な髪型とメイクの若い女性店員がつかつかとレジにやって来て、手伝う程でもない袋詰めを手伝った。彼女はちらっと顔を上げたが、その一瞬に物凄い憎悪を込めて未央を睨み付けた。この店員がいるから、この店には来たくないのである。
未央が店を出ようとした時、背後で女性店員が聞こえよがしに百鬼丸に言った。
「今のオバサン、知り合い?」
「うん、世帯主」
百鬼丸の答えにすっとんきょうな声を上げた女性店員だった。もしかすると、未央が何もしていないのにあの店員から嫌われていたのも、百鬼丸が原因だったのかもしれない。