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川原はたのしい

なんという無慈悲。

せっかく助けてあげようとしたのに、猫は百鬼丸の腕をバリバリと引っ掻き、一瞬ですり抜けて行った。彼だけが乗用車にはねられ、空中に投げ出された。百鬼丸が最後に見たものは、とっとと逃げ去る猫の尻であった。

金玉でっか。

人生が終わるかもしれない瞬間に思ったのは、そんなことであった。

そして世界は白い光に包まれ、何もわからなくなった。



***

目を覚ますと、彼は病院のベッドの上にいた。父親の髭もじゃの顔が、心配そうに百鬼丸の顔を覗き込んでいた。父親は息子の事故の報せを聞いて、故郷から遠路はるばる駆けつけてくれたのだ。

百鬼丸には気を失う直前の記憶が殆ど無かったが、何となく、自分が交通事故に遭って負傷し、病院に搬送されたという事を察した。

「みお、じむしょ、でんわ……」

喉と唇が酷く乾燥しており、上手く声を出せない。スマホを取って欲しくて手を挙げようとすると、鋭い痛みが身体中を電流の様に走り抜ける。百鬼丸は堪らず悲鳴を上げた。

「こんな時くらい、仕事のことを考えるのはよしなさい」

父親はうろたえつつ言った。どうやら、「事務所、電話」しか通じなかったらしい。


そうだ、父さんはみおのことを知らない。


それは、百鬼丸が未央のことを父親に話す必要性を感じた事が全くなかったからなのだが、その重大さに百鬼丸はこの時初めて気付いたのである。

「おれの、でんわは?」

父親は首を横に振った。百鬼丸のスマホは事故に遭った時にポケットから落ち、車に踏まれて粉々になってしまったのだった。

「そんな……」

ではどうやって、未央にこの窮状を知らせたらいいのか。百鬼丸は無理に起き上がろうとして、父親に押し留められた。といっても、百鬼丸はほんの少し身動ぐことしか出来なかったのだが。

その夜、百鬼丸は意識を取り戻したのを後悔するほどの、耐え難い苦痛に苛まれ続けた。

「みお…………いたい………みお……いたいよ……うた……うた……て…………みお………」

暗闇の中で百鬼丸は未央を呼び続けた。かつて、鬼神にやられた怪我の痛みで眠れぬ時に歌ってくれた歌を、聴かせて欲しかったのだ。

どれくらい経った頃か、いつの間にか気絶していた彼は、自分が意識が無いままあの赤い花の歌をうたいながらけらけらと笑っていることに気付いた。看護師が慌てて彼のもとへ駆けつけてきた。徐々に我に返っていった彼は、頬が熱くなるのを感じた。

酷い痛みはまだ引いていなかったが、気を喪う以前よりはマシのようだ。気持ちもいくぶんか平静を取り戻しつつある。

先程の異状を省みるに、どうやら狂気と正気はグラデーション状に繋がっているらしい。今後の芝居の参考によく覚えておこうと思った直後、彼ははっとした。こんな不幸な出来事すら自分は芸の肥やしにしようと考えている、と。

ほんの少し痛みが和らいできた状態で痛み止めを飲んだら、嘘みたいによく効いた。昨晩までの苦しみは、一体何だったのだろう。

看護師がベッドを起こしてくれたので、彼はやっと、自分の手足が指一本欠けずに残っているのを目視確認する事が出来た。鏡も見せて貰った。頭は何針も縫われていたし頬にも擦り傷があるものの、痕が残って困る程のものではないそうだ。

脳波の検査も受けたが異常無し。暫く療養する必要はあるが、仕事に大きく差し支えるような後遺症は残らないだろうということだった。

父親は泣いて喜んだが、百鬼丸は仕事のことを考えて憂鬱になった。やっと波に乗ったと思った矢先にこれである。しばらくは仕事のオファーが来ても全て断らなければならなくなった。そのまま波が退いてしまったらと思うと、実に口惜しいのだった。

事故から二日目には、百鬼丸は点滴のスタンドに掴まりながら院内をうろうろしていた。地方の総合病院は、患者は老人ばかりだった。

午後1時頃。昼休み中なので、総合受付前の待合所には誰もいなかった。百鬼丸は椅子に腰を下ろした。

折れなかった左腕に、幾筋かの引っ掻き傷が残っていた。百鬼丸が助けようとした野良猫につけられた傷だ。バイ菌でも入ったのか、その傷は浅いながら赤く腫れ上がって微かに熱を帯び、じんじんと鈍い痛みで己の存在を主張してくる。

このちっぽけな引っ掻き傷だけでなく、事故で身体のあちこちに受けた傷、そして咄嗟に受身を取ったことによる筋肉痛や点滴の針が刺してある箇所まで、どれもより大きな傷の痛みに打ち消されることなく、彼に同時に訴えかけてくるのである。

だがこんなことには負けていられない、と彼は思った。早く回復して退院しなければ。入院費も、何かと世話を焼いてくれる父親の滞在費用もばかにならない。それに、仕事だ。

こんな事になるなら、猫なんか助けるんじゃなかった。

百鬼丸は、あのどら猫のふてぶてしい面構えと、さっさと逃げて行く後ろ姿を思い出した。そしてすぐに自分を恥じた。仕事と猫の命を天秤にかけて、何の躊躇いもなく仕事の方が重いと判断した自分を。




生きてるだけで丸儲けじゃなかったのか。

彼は嘆息した。せっかく平和な時代に五体満足で生まれて来たというのに、最近の自分は自ら進んで、自分の魂を悪魔に売り渡そうとしている気がした。夢という名の悪魔に魅了されてしまったのか、あるいは生まれ変わった今でも、自分の心のなかには鬼が棲み続けているのか、それとも自分の本性が鬼なのか。

「早く帰りたい」

みおの待つあの部屋へ。あの人だけが自分の中の鬼を鎮めてくれるのだ。

彼はまた点滴スタンドに掴まり歩き出した。赤い花の歌を口ずさむと、少し気分が良くなった。が、廊下で行き会った彼の担当看護師は、彼が歌っているのを見るとぎょっとして、

「あまり無理しないでくださいね」

と、百鬼丸気遣わしげに言ったのだった。
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