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待っていた男

あまりにも驚き過ぎて、声は喉の奥でもつれ絡まり、つっかえて出てこなかった。



5月の心地よい風に髪をそよがせ、買い物袋をぶらぶらさせながら、未央は自宅のある路地へと入ったのだった。

こんな爽やかな晩春の夕暮れ、よもやこんな辺鄙な場所に不審者が出るとは!

未央は、呆気に取られてアパートの階段を見上げた。階段の上の辺りに、見知らぬ若い男が腰を下ろしている。彼を通り越してすぐの所が、未央の部屋なのに。

「おかえり、みお」

「……たっ……、ただ、いま……」

思わず返事をしてしまったのは、彼の容姿が極めて美しかったせいである。ボサボサの前髪から覗く、まるで精巧な人形のように整った顔立ちに、遠目に見ても滑らかな白い肌。細身だがしっかりとした広い肩、そして長い手足。身に付けているのは、よれよれのTシャツと穴だらけのジーンズに、妙な模様の入った濃紺の上着。だが、それらの衣服は彼を貧相に見せるどころか、生来の美貌を際立たせるのに役立っていた。

しばしの間、未央は男にボーッと見とれてしまっていたが、我に返ると自分を恥じた。それから、念のためにキョロキョロと背後を確認してみた。もしかしたら、誰か他の女性が自分の後ろに立っていて、階上の綺麗な男は自分ではなくその女性に話しかけているのではないかと思ったのだ。

けれどもやはり、背後には誰もいなかった。そもそも、未央の記憶によれば、このボロアパートに若い女性は住んでいないはずなのだ。未央が空室だと思っている部屋に実は誰か住んでいるというのでなければ。

だいいち、男は未央の名前を知っていて、呼び掛けてきたではないか。

類い希なるイケメンとはいえ、一方的にこちらの名前と住居を知っていて、未央の帰りを待ち構えていた男など、不審者以外の何者であろうか?

しかし何で私がターゲットに。

未央は謎のイケメンから顔を逸らし、考えた。じぶんはもはやアラフォーと言っていい年齢の、うだつの上がらない地味な底辺労働者である。こんな女を犯して一体何が楽しいのだろうか。

あ、そうか。襲われても「オバサンの戯言」とか「性犯罪被害ですら自慢にするイタい奴」などと、被害を訴えても誰も取り合ってくれないのを畏れて被害届を出すことが出来ないと、思われているのか!

と思ったらはらわたがふつふつと煮えてきたので、未央は一言言ってやろうとして、きっと顔を上げた。その時、

ぐう。

男の腹が鳴った。

ぐるぐるぐる……。


「お腹、空いた」

男は短くて細い眉をハの字にして、べそをかく子供のように口角を下げた。





百鬼丸と名乗った男は今、未央の夕食になるはずだったグラタンを、物凄い勢いで平らげようとしている。朝食にするはずだったサンドイッチは既に食べ尽くされ、未央はそれを包んでいたラップを丸めてコンビニのレジ袋に突っ込んだところだ。

何やってるんだろう、私。

未央はため息をついた。


先ほど、未央は腹を抱えて踞ってしまった男の横を足早に通りすぎて、さっさと部屋に入ってしまおうとした。バッグから鍵を出してドアノブに挿そうとした時、男が彼女のすぐ後ろに立ち、彼女の背にぴったりと引っ付いて来た。耳許で、男の息遣いが聴こえる。

やばいやばいやばい!

急上昇する恐怖と焦燥感とは裏腹に、未央の手はゆっくりと鍵を左に回し、ドアのロックを外した。自分でも何をやっているのかわからないままドアを開けると、男はそのまま彼女の背を押すようにして室内に侵入してきた。

未央は大急ぎでパンプスを脱ぎ捨て短い廊下にかけ上がり、廊下とワンルームをへだてるドアを閉めた。そして手荷物を投げ捨て、すぐ横にあるキッチンの、まな板の上に出しっぱなしになっていた牛刀を震える手で握りしめた。

ドアに牛刀の切っ先を向けると、ずるずると床を這いずる音と呻き声が聴こえた。

で、どうすればいいのこの状況。

警察に通報しようにも、携帯電話は投げてしまったバッグの中で、バッグはテーブルの下に潜り込んでしまっている。

両手で包丁を構えたまま、どれだけの時間が経っただろうか。おそらくほんの数分だった筈だが、未央にはそれが何時間にも思えた。

いくら待っても何にも起こらないので、未央は牛刀を右手に持ちかえて、いつでも振り下ろせるよう半身に構え直しつつ、左手をドアノブにかけ、ゆっくりと引いた。

すると、男は床に這いつくばり、

「何か食べ物」

と、憐れっぽい声で乞い、未央を見上げたのだった。







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