紅葉つ木の葉の愛を知る
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「ああ…君が…会えて本当に嬉しいよ。さあ、どうぞ上がって。」
伊織と太宰がたどり着いたのは少し古びた一軒家。
玄関のチャイムを鳴らし出て来たのは眼鏡をかけた60歳程の男性だった。伊織の父親の面影を感じたのか少し感極まった声で「目元が彼にとてもよく似ているよ…」と呟いた。
緊張する面持ちの伊織は太宰に誘導され客間へと通される。男性は茶の用意をするから座って待っていてくれと言うと障子を閉めて廊下の奥へと姿を消した。
繋いだ太宰の手を無意識にキュッと握りしめて深呼吸を一つする。
とうとうここまで来てしまった。
やっぱり太宰さんがいてくれて本当によかった。ここまで手を引いてくれたことも、そしてこれから一緒に話を聞いてくれることも。
大丈夫、何も怖いことなんてないのよ。私はお父さんのことをただ知りたいだけだから。
*
「武装探偵社から連絡が来たときは驚いたよ。まさか何十年越しに友人の子供に会うなんて夢にも思っていなかった。」
自己紹介をして触れた男性の手には皺があり、もし父が生きていたらこんな感じだったんだろうかと少し感傷に浸った。
彼は学生時代の父の話をしてくれた。大学で知り合い、物静かな父には友人が多くいたわけではないらしい。
活発に動き回るよりも静かに本を読むことが好きだった。ただ、植物の研究をしていた父は山の調査などのフィールドワークは大好きだと言っていたそうだ。
「父は、私に紅葉が好きだとよく話してくれました。」
「ああ、そうそう。彼は植物の中でも特に落葉広葉樹、所謂紅葉が好きでね。毎年紅葉狩りに連れて行かれたよ。悲しいことに私も彼も他に誘う友人や恋人すらいなかったからね。」
「本当に懐かしい」
男性は郷愁に駆られたような、少し寂しさの混じる声でそう呟く。
しんみりとした雰囲気の中、伊織は意を決したように口を開いた。
「…父が、消息を絶った時のことを、覚えていますか?」
ここに来たのは、父との思い出を取り戻せるんじゃないかという淡い期待から。でも本当はそれだけじゃなくて。どうして父はそれまでの生活を捨てて母と共に姿を消したのか。両親の真意を知りたかったのだ。
物静かな人だと言っていた。恋人はいなかったと言っていた。この人には何も告げずに姿をくらましたのかもしれない。それでも、どうしても聞かずにはいられなかった。
男性は押し黙る。何十秒か沈黙が続き、伊織は緊張で冷えた両手を握りしめた。
「…もう、時効だろう。」と小さく呟いた彼はぽつりぽつりと語り出す。
彼が忽然と姿を消したのは23歳の、秋だった。
ある日、小さな喫茶店に誘われ一緒に珈琲を飲んだ。また今年も紅葉狩りに行こうと言い出すんだろうと思っていたら彼の口から紡がれた言葉は予想もしていなかったもので。
*
「大切な人ができたんだ。」
「は」
「放って置けないんだ。だから着いていくことにした。」
「いや、一寸待て。藪から棒になんだ。状況が理解できないのだが」
吹き出しそうになる珈琲をなんとか飲み込んで眉を顰める。
「つまり、そのなんだ。お前退学するのか?研究は?教授には相談したのか?」
「残念ながらそんな時間はなくてね。
…君にだけは別れの挨拶をと思ったんだよ。」
「何を言っているんだ。分かるように説明してくれ!」
的を得ない言い分に思わず語気を強めてテーブルに手を叩きつけた。
落ち着いてくれ、と困ったように笑う彼の目は冗談を言っているようには見えない。
「恋人でもできたのか?着いていくってどこに行く気だよ。それに最後の挨拶?…まさかお前っ、」
「あまり詳しくは言えないんだ。すまない。ただ、お前が考えているようなことはしないから安心してくれ。」
結局もやもやとしたままの主張に頭が追いつかず、顔を覆ってため息をついた。そして彼の次の言葉に目を見開いて固まる。
「別れを言っておいてなんだが、どうかこのことは誰にも話さないでほしいんだ。」
からかっているのかと思った。気でも狂ったかと思った。
しかし目の前にいる男はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「本当は誰にも話さずに去るつもりだった…がやはり親友の君に何も言わずに、というのは気が引けたんでね。
だって君、どうして何も相談してくれなかったのかって責任を感じてしまうだろう?」
「…そんなの、」
「頼むよ、私からの一生のお願いってことで」
眉を下げて笑う彼は両手を合わせて「な?」と首を傾げた。
何が一生のお願いだ。
ぐしゃぐしゃ頭を掻き回して珈琲を一気に流し込む。
「…言っておくが俺はあの頑固な教授は止められないぞ。
警察からお前の知り合いまで片っ端から電話をかけてお前の自宅を引っ掻き回すだろうが。」
「それは仕方ないさ。大丈夫、君に今話したこと以外に知られて困ることは何もないからね。」
「そんなに信用するな。俺だってうっかり口を滑らせて…」
「まさか、義理堅い君に限ってそんなことしないだろう。」
それから少しでも情報を聞き出せないかと粘ってみたが結局何も聞き出せず、あれこれと話をしていくうちにいつものようにたわいない内容になっていつの間にか日が暮れていた。
喫茶店を出てからは最後の挨拶だというのに、いつものように片手をあげて「それじゃあ」と軽く笑うだけで。自分も変わらず「おう」と短く返事をしてその背中を見送った。
______その日を境に、彼は大学に姿を現すこともなくこの町を出て行った。
*
「案の定教授は捜索願を出したが事件性はないと判断されてね、特に大きな捜査はされなかったよ。教授や警察から色々と事情聴取をされたが知らないの一点張りで突き通した。
親友からの一生のお願いなんて、守らないわけにはいかなかった。」
思い出を噛み締めるように一言一言大切そうに彼は語る。
「本当に、幸せそうな顔をしていたんだ。引き止めるなんてできるわけない。…とても愛おしそうな目で大切な人だと話していたよ。」
ああ、そうか。お父さんとお母さんは、幸せだったんだ。
じんわりと目元が熱くなり、唇を噛み締める。
泣いてしまいそうだけど嬉しくて。きっと私は今すごく変な顔をしているんだろう。
父の記憶がわずかに思い出される。
私の記憶の中のお父さんも確かにおしゃべりな人ではなかった。それでもすごく優しくて穏やかな声をしていて。静かな、陽の当たる部屋で膝の上に座りゆりかごのようにゆらゆらと揺れながら抱きしめてくれたんだ。
穏やかで心地の良い温かさが、心の底から大好きだった。
*
「ありがとうございました。父の話を聞けて本当に良かったです。」
「いいや、こちらこそ。
彼が幸せな生涯を過ごしたということがわかったからとても嬉しいんだ。何十年の時を経て彼奴が残した宝物に出会えたからね。」
伊織は立ち上がり深く頭を下げた。
「すまないね。写真の一つでも渡せやしないかと探してはみたんだが、私たちはそういうことに疎くて…」
「そんな…お話を聞けただけで十分すぎるほどです。気になさらないでください。」
「いやしかし…待てよ、確か」
何かを思い出したのか、「物置の棚に…」と呟く男性は腰に手を当てながら立ち上がる。
「何かお手伝いしましょうか?」
「おお、いいのかい。君は随分上背があるから高いところまで手が届きそうだ。」
「任せてください、お安い御用です。」
「ははは、頼もしいね。それじゃあ伊織さんもおいで。」
「は、はい」
そうして三人は物置部屋へと向かった。
廊下を少し進み、右手にあるドアが開く。カチリと電気をつける音が響いた。本の匂いと、少しホコリの匂い。
「ものが多くて悪いね。転ぶと危ないだろうから伊織さんは扉の近くで待っていてくれるかい」
「わかりました。お気遣いありがとうございます。」
太宰は男性の指示を受けて棚の一番上に置かれている木箱をいくつか床に下ろした。その中身を一つ一つ確認し、しばらくして「ああ、これだ」と男性は分厚いハガキ大の大きさの厚紙が束ねられた一冊を取り出す。
「それは?」
「院生時代に森で採集した植物たちの標本だよ。これらの箱に入っているものは全てね。」
ページを捲ると色褪せたパラフィン紙で覆われた植物の標本が目に入る。さまざまな花や葉が丁寧に保存されており、太宰はほう、と声を上げた。
そしてある一枚のページに目が止まる。
「なるほどこれは…」
「大したものではないがね」
「伊織さん、触ってごらん」と男性は伊織に近づいてページのパラフィン紙を取り払い、それを彼女の前に差し出した。
ドキドキしながら手を伸ばす。
まず最初に感じたのはさらりとした紙の感触。次に指先が何かの縁に触れる。縁はギザギザとしていて手のひらのような形をしている。かさついた感触と細い脈のような凹凸。
「葉っぱ、ですか?」
「ああそうだよ。
Acer palmatum、通称イロハモミジ。
これはね、君のお父さんが採集したものなんだ。」
ページの右下に貼られたラベル。採集者の欄には神崎の名が記されていた。
「私も標本用に採取したんだが、彼がそれを見たらもっと綺麗でいいものがあるだろうと押し付けてきたんだ。標本は自分で集めたもので作りたいからと断っても聞かなくてね。」
「父が…なんだか意外です。」
「はは、一番好きな植物だったからだろうね。これに関しては相当強情だったから私も驚いたものだよ。」
父の意外な一面に笑みが溢れる。
指の間からすり抜けわずかに残った記憶しか父の存在を証明することはできないと思っていた。幻のようで、消えてしまわないか不安で仕様がなかった。だが父の生きた証がこうして、実物として残っている。
唇の隙間から震える吐息が漏れた。
「…どんな、色をしていますか?」
「長い間保存していて随分色褪せてしまったんだ。あまり…」
申し訳なさそうに眉を下げる男性に「そんなことありませんよ」と太宰が声を掛ける。少し腰を折って伊織が手に持つそれをじっと見つめ、微笑んだ。
「とても綺麗な茜色だ。」
息を呑む。
茜色。父が、私が大好きな赤い色。
それは__
「幸せの、色ですね」
くしゃりと笑った彼女は壊さぬようにそれをそっと包み込んだ。
_______
在りし日の思い出
伊織と太宰がたどり着いたのは少し古びた一軒家。
玄関のチャイムを鳴らし出て来たのは眼鏡をかけた60歳程の男性だった。伊織の父親の面影を感じたのか少し感極まった声で「目元が彼にとてもよく似ているよ…」と呟いた。
緊張する面持ちの伊織は太宰に誘導され客間へと通される。男性は茶の用意をするから座って待っていてくれと言うと障子を閉めて廊下の奥へと姿を消した。
繋いだ太宰の手を無意識にキュッと握りしめて深呼吸を一つする。
とうとうここまで来てしまった。
やっぱり太宰さんがいてくれて本当によかった。ここまで手を引いてくれたことも、そしてこれから一緒に話を聞いてくれることも。
大丈夫、何も怖いことなんてないのよ。私はお父さんのことをただ知りたいだけだから。
*
「武装探偵社から連絡が来たときは驚いたよ。まさか何十年越しに友人の子供に会うなんて夢にも思っていなかった。」
自己紹介をして触れた男性の手には皺があり、もし父が生きていたらこんな感じだったんだろうかと少し感傷に浸った。
彼は学生時代の父の話をしてくれた。大学で知り合い、物静かな父には友人が多くいたわけではないらしい。
活発に動き回るよりも静かに本を読むことが好きだった。ただ、植物の研究をしていた父は山の調査などのフィールドワークは大好きだと言っていたそうだ。
「父は、私に紅葉が好きだとよく話してくれました。」
「ああ、そうそう。彼は植物の中でも特に落葉広葉樹、所謂紅葉が好きでね。毎年紅葉狩りに連れて行かれたよ。悲しいことに私も彼も他に誘う友人や恋人すらいなかったからね。」
「本当に懐かしい」
男性は郷愁に駆られたような、少し寂しさの混じる声でそう呟く。
しんみりとした雰囲気の中、伊織は意を決したように口を開いた。
「…父が、消息を絶った時のことを、覚えていますか?」
ここに来たのは、父との思い出を取り戻せるんじゃないかという淡い期待から。でも本当はそれだけじゃなくて。どうして父はそれまでの生活を捨てて母と共に姿を消したのか。両親の真意を知りたかったのだ。
物静かな人だと言っていた。恋人はいなかったと言っていた。この人には何も告げずに姿をくらましたのかもしれない。それでも、どうしても聞かずにはいられなかった。
男性は押し黙る。何十秒か沈黙が続き、伊織は緊張で冷えた両手を握りしめた。
「…もう、時効だろう。」と小さく呟いた彼はぽつりぽつりと語り出す。
彼が忽然と姿を消したのは23歳の、秋だった。
ある日、小さな喫茶店に誘われ一緒に珈琲を飲んだ。また今年も紅葉狩りに行こうと言い出すんだろうと思っていたら彼の口から紡がれた言葉は予想もしていなかったもので。
*
「大切な人ができたんだ。」
「は」
「放って置けないんだ。だから着いていくことにした。」
「いや、一寸待て。藪から棒になんだ。状況が理解できないのだが」
吹き出しそうになる珈琲をなんとか飲み込んで眉を顰める。
「つまり、そのなんだ。お前退学するのか?研究は?教授には相談したのか?」
「残念ながらそんな時間はなくてね。
…君にだけは別れの挨拶をと思ったんだよ。」
「何を言っているんだ。分かるように説明してくれ!」
的を得ない言い分に思わず語気を強めてテーブルに手を叩きつけた。
落ち着いてくれ、と困ったように笑う彼の目は冗談を言っているようには見えない。
「恋人でもできたのか?着いていくってどこに行く気だよ。それに最後の挨拶?…まさかお前っ、」
「あまり詳しくは言えないんだ。すまない。ただ、お前が考えているようなことはしないから安心してくれ。」
結局もやもやとしたままの主張に頭が追いつかず、顔を覆ってため息をついた。そして彼の次の言葉に目を見開いて固まる。
「別れを言っておいてなんだが、どうかこのことは誰にも話さないでほしいんだ。」
からかっているのかと思った。気でも狂ったかと思った。
しかし目の前にいる男はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「本当は誰にも話さずに去るつもりだった…がやはり親友の君に何も言わずに、というのは気が引けたんでね。
だって君、どうして何も相談してくれなかったのかって責任を感じてしまうだろう?」
「…そんなの、」
「頼むよ、私からの一生のお願いってことで」
眉を下げて笑う彼は両手を合わせて「な?」と首を傾げた。
何が一生のお願いだ。
ぐしゃぐしゃ頭を掻き回して珈琲を一気に流し込む。
「…言っておくが俺はあの頑固な教授は止められないぞ。
警察からお前の知り合いまで片っ端から電話をかけてお前の自宅を引っ掻き回すだろうが。」
「それは仕方ないさ。大丈夫、君に今話したこと以外に知られて困ることは何もないからね。」
「そんなに信用するな。俺だってうっかり口を滑らせて…」
「まさか、義理堅い君に限ってそんなことしないだろう。」
それから少しでも情報を聞き出せないかと粘ってみたが結局何も聞き出せず、あれこれと話をしていくうちにいつものようにたわいない内容になっていつの間にか日が暮れていた。
喫茶店を出てからは最後の挨拶だというのに、いつものように片手をあげて「それじゃあ」と軽く笑うだけで。自分も変わらず「おう」と短く返事をしてその背中を見送った。
______その日を境に、彼は大学に姿を現すこともなくこの町を出て行った。
*
「案の定教授は捜索願を出したが事件性はないと判断されてね、特に大きな捜査はされなかったよ。教授や警察から色々と事情聴取をされたが知らないの一点張りで突き通した。
親友からの一生のお願いなんて、守らないわけにはいかなかった。」
思い出を噛み締めるように一言一言大切そうに彼は語る。
「本当に、幸せそうな顔をしていたんだ。引き止めるなんてできるわけない。…とても愛おしそうな目で大切な人だと話していたよ。」
ああ、そうか。お父さんとお母さんは、幸せだったんだ。
じんわりと目元が熱くなり、唇を噛み締める。
泣いてしまいそうだけど嬉しくて。きっと私は今すごく変な顔をしているんだろう。
父の記憶がわずかに思い出される。
私の記憶の中のお父さんも確かにおしゃべりな人ではなかった。それでもすごく優しくて穏やかな声をしていて。静かな、陽の当たる部屋で膝の上に座りゆりかごのようにゆらゆらと揺れながら抱きしめてくれたんだ。
穏やかで心地の良い温かさが、心の底から大好きだった。
*
「ありがとうございました。父の話を聞けて本当に良かったです。」
「いいや、こちらこそ。
彼が幸せな生涯を過ごしたということがわかったからとても嬉しいんだ。何十年の時を経て彼奴が残した宝物に出会えたからね。」
伊織は立ち上がり深く頭を下げた。
「すまないね。写真の一つでも渡せやしないかと探してはみたんだが、私たちはそういうことに疎くて…」
「そんな…お話を聞けただけで十分すぎるほどです。気になさらないでください。」
「いやしかし…待てよ、確か」
何かを思い出したのか、「物置の棚に…」と呟く男性は腰に手を当てながら立ち上がる。
「何かお手伝いしましょうか?」
「おお、いいのかい。君は随分上背があるから高いところまで手が届きそうだ。」
「任せてください、お安い御用です。」
「ははは、頼もしいね。それじゃあ伊織さんもおいで。」
「は、はい」
そうして三人は物置部屋へと向かった。
廊下を少し進み、右手にあるドアが開く。カチリと電気をつける音が響いた。本の匂いと、少しホコリの匂い。
「ものが多くて悪いね。転ぶと危ないだろうから伊織さんは扉の近くで待っていてくれるかい」
「わかりました。お気遣いありがとうございます。」
太宰は男性の指示を受けて棚の一番上に置かれている木箱をいくつか床に下ろした。その中身を一つ一つ確認し、しばらくして「ああ、これだ」と男性は分厚いハガキ大の大きさの厚紙が束ねられた一冊を取り出す。
「それは?」
「院生時代に森で採集した植物たちの標本だよ。これらの箱に入っているものは全てね。」
ページを捲ると色褪せたパラフィン紙で覆われた植物の標本が目に入る。さまざまな花や葉が丁寧に保存されており、太宰はほう、と声を上げた。
そしてある一枚のページに目が止まる。
「なるほどこれは…」
「大したものではないがね」
「伊織さん、触ってごらん」と男性は伊織に近づいてページのパラフィン紙を取り払い、それを彼女の前に差し出した。
ドキドキしながら手を伸ばす。
まず最初に感じたのはさらりとした紙の感触。次に指先が何かの縁に触れる。縁はギザギザとしていて手のひらのような形をしている。かさついた感触と細い脈のような凹凸。
「葉っぱ、ですか?」
「ああそうだよ。
Acer palmatum、通称イロハモミジ。
これはね、君のお父さんが採集したものなんだ。」
ページの右下に貼られたラベル。採集者の欄には神崎の名が記されていた。
「私も標本用に採取したんだが、彼がそれを見たらもっと綺麗でいいものがあるだろうと押し付けてきたんだ。標本は自分で集めたもので作りたいからと断っても聞かなくてね。」
「父が…なんだか意外です。」
「はは、一番好きな植物だったからだろうね。これに関しては相当強情だったから私も驚いたものだよ。」
父の意外な一面に笑みが溢れる。
指の間からすり抜けわずかに残った記憶しか父の存在を証明することはできないと思っていた。幻のようで、消えてしまわないか不安で仕様がなかった。だが父の生きた証がこうして、実物として残っている。
唇の隙間から震える吐息が漏れた。
「…どんな、色をしていますか?」
「長い間保存していて随分色褪せてしまったんだ。あまり…」
申し訳なさそうに眉を下げる男性に「そんなことありませんよ」と太宰が声を掛ける。少し腰を折って伊織が手に持つそれをじっと見つめ、微笑んだ。
「とても綺麗な茜色だ。」
息を呑む。
茜色。父が、私が大好きな赤い色。
それは__
「幸せの、色ですね」
くしゃりと笑った彼女は壊さぬようにそれをそっと包み込んだ。
_______
在りし日の思い出
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