紅葉つ木の葉の愛を知る
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あれから数週間が経った。
伊織は与謝野の家で二日ほど寝泊まりをしていたが、武装探偵社社長である福沢諭吉が伝を頼り伊織の身元を預かってくれる人を見つけたのであった。
余談だが福沢との出会いはそれはもう緊張で震え上がっていた。見かねた乱歩が「ちょ、大丈夫?」と声をかけたぐらいである。しかし、話をすれば理知的で寛仁な福沢の人物像が掴めたのか最終的には張り詰めるほどの緊張感は無くなっていたとか。
***
「神崎ちゃん、この駄菓子あげるよ」
「あ、ありがとうございます、江戸川さ「だーかーら!乱歩でいいって!」
乱歩は探偵社から少し離れた、行きつけの駄菓子屋のベンチに座って大人買いした大量の駄菓子を漁っていた。
その隣に少し間をあけて座る伊織は手渡された駄菓子にあわあわしながらお礼を述べる。乱歩が拗ねる理由はただ一つ。彼女の呼び方が気に入らないのだ。何だか他人行儀な苗字呼びが嫌で、乱歩さんと呼ばせたいらしい。少し緊張した面持ちで「乱歩さん」と伊織が言い直せば、満足そうにチョコバーを頬張った。
乱歩は伊織のことを認識してからいたく彼女のことを気に入り、このヨコハマの街を連れ歩いている。
「あの、江戸、ら、乱歩さんはよく、私を連れ出してくれますが…その、お仕事の邪魔になっていたり、しないですか?」
「何云ってるの。君の記憶を探すことだって仕事のうちだろう。」
「でも、私全然、思い出せてないですし…その、え、…乱歩さんや他の方の手を煩わせないように私一人でも、」
「君はなーんでそんなに遠慮しいなのかねえ。頼れるものには頼るに越したことはないだろう。
それに無理に思い出そうとしたって思い出せるものじゃない。何でもいいからきっかけを見つけることが重要なんだ。」
現在伊織の身元を引き受けているのは心理カウンセリングを職業とする初老の女性。笑うと目元に皺ができるとても穏やかで優しい人だ。
診療所兼自宅となっているそこで彼女の仕事や家事の手伝いをすることを条件に伊織は衣食住を得ているのだ。
先生の職業柄、伊織の日々の行動を観察してしまうらしく。だんだんとそこでの生活に慣れてきてはいるもののやはり無意識のうちに緊張の糸が張り詰めてしまっているようで、どうにかできないかしらとこっそり探偵社に相談していた。そこで記憶探しのついでと言ってはなんだが、探偵社の者たちは時折伊織を連れ出して息抜きをさせているのである。
「あ、これりんご味だ」
「江戸川さんは駄菓子が本当にお好きですね」
「乱歩」
「ら、乱歩、さん…すみません…」
「まあね」と言いながら乱歩は棒状のゼリーを啜る。
「うんうん。赤いからイチゴ味だと思ってたけど、これもなかなかいけるな」
「赤、ですか」
伊織は瞳を閉じてベンチに背中を預ける。何か考え込むような彼女に乱歩は距離を詰めて「何さ」と声をかけた。
「どんな色なんだろう、って想像しているんです。」
「このゼリーの色?」
「ふふ、ゼリーなんですね」
イチゴやリンゴの赤は、鮮やかで、ツヤツヤしていて美味しそうな色。元気が湧いてきそうな、そんな明るい色。
ゼリーもそんな赤色をしているのかしら。でもゼリーは透明っていうから、きっとお水にりんごの赤を一滴垂らしたような、素敵な色?ううん、お菓子の色はどれも鮮やかって聞くし、りんごの赤を一滴じゃ薄すぎるのかも。赤い絵の具がついた筆をお水で洗ったときのようなそんな色をしているのかもしれない。
「…って、絵の具じゃ何だかおいしくなさそうですね。」
恥ずかしそうに頬をかく伊織と食べかけで半分残ったままの赤いゼリーをじっと見つめる乱歩。
「君はそうやって世界の色を想像しているのか」
「私も、同じ景色を見たいと思ったんです。えへへ…すみません、つまらないです、よね」
「そんなことないさ。
きっと君の世界は美しい色で溢れているんだろうな。」
「このゼリーの色ねェ…
そうだな、レッドスピネルの赤に似ている気がする。」
「レッドスピネル…宝石ですね。キラキラツヤツヤしていて、赤くて…」
絵の具を溶いた水なんかよりもピッタリの表現だ。
りんご味のゼリーの色はレッドスピネルの赤色のようにキラキラツヤツヤとしていて光に透ける。
「うん、素敵。宝石を食むって、何だかとっても素敵です。」
ふにゃりと笑った顔に釣られて乱歩も思わず自分の口角が上がる。何度も連れ出したが、今日初めて彼女の素がわかるような笑顔を見ることができた気がする。
伊織は不意にあ、と何かを思い出したように小首を傾げた。
「どうしたの?」
「あ、いえ…そういえば、私が一番最初に好きになった色って赤だったなって。」
「ふぅん。どうして?何故赤が一番好きなの」
「それは、…なんで、でしょう…?」
伊織が頬に手を当ててええと、と考え込む様子を見つめる。
“同じ景色を見たかった誰か”と赤色が好きなこと。断片的な記憶のピースが今出てきたことには何か関係があるということなのだろうか。
「大切な誰かと同じ景色を見たいと思った。家族や友人?もしくは恋」
そう言いかけたところで伊織はズイッと顔を近づけてきた。キラキラとした瞳と間近で目が合って、一瞬自分のことが見えているんじゃないかと勘違いしてしまいそうになった。
少し紅潮した頬に風に揺られた髪の毛が影を落とした。
「お、お父さんです…!私、父と、おんなじ景色が見たくて、そう…!泣いたの、っ泣いたんです!
父は秋に赤く染まる紅葉 が大好きで、でも、私にはそれがどういう色をしているのか、どんな景色なのか分からなくて…
そうしたらお父さん、紅葉の赤色はこういう色だよってたくさん、言葉で教えてくれたんです。だから、赤色が好きになった。」
伊織は嬉しそうな、だけどどこか寂しそうな表情を浮かべて両手で口元を覆った。
「何で忘れていたんだろう…私、毎年秋になると父と一緒にだんだん色づいていく山肌を眺めてどんな色なのか聞くのがすごく大好きでした。」
「そこに母親はいなかったの?」
「どうでしょう…私、父の声ばかり聞いていたような気がします。母もいたのかも、しれないけれど…」
「家族構成については父親がいたことは確実ってことか。そして毎年眺めていたとなると君の家からは山が見えた。他に何か思い出せそうなことはあるかい?」
「えっと、…あ、そういえば、
今年も綺麗な紅葉のこと、お父さんにちゃんと伝えられるかなって」
「伝える?どういう色なのか聞くのが楽しかったんじゃあないのか」
「あれ?そうですよね…記憶違い、ですかね…?」
「今年も、伝える…」
伊織の父親には紅葉を見ることができない原因があった。
「今年も」それはつまり少なくとも2年は伊織が父に紅葉の様子を伝えていたということだろう。それに思い返せば父の話をする時彼女は全て過去形だった。
それはつまり、彼女の父親はすでに______
数少ない手がかりから導かれた一つの結論は何だか彼女に伝えるのはまだ時期尚早な気がして、乱歩は小さく開いた口を閉じた。
駄菓子が詰め込まれた紙袋の口をクシャリと丸めて立ち上がる。
「ま、今日これだけ思い出せたなら上々じゃないか。」
「これっぽっち、じゃないですか…うぅん、何か思い出せないのかなぁ…」
頭を抱えて唸る伊織の額を小突く。
「焦りは禁物って与謝野さんも言ってたろ?
ほら、僕ここにいるの飽きちゃったからさ。」
乱歩は彼女の左手を握って軽く引っ張った。そろそろ伊織も乱歩の飽き性に気がついてきたのか、多少驚きはするものの白杖を持って立ち上がった。
「次はどこへ行くんですか?」
「さあ、どこへでも」
「ま、迷子はなっちゃ、ダメですよ。また、福沢さんにご迷惑かけてしまいますから。」
「その時は社長以外の人に電話するから大丈夫ー」
「そ、それもダメですよぉ…」
ついこの間、迷子になって福沢を頼ったことが気がかりな伊織は今回も誰かを呼ぶ羽目にならないことを祈って乱歩に着いていくのであった。
***
「伊織さん、そういえば乱歩さんから聞きましたよ。少し記憶が戻ったって。」
「あ…全然、ほんの少しだけですけど…」
敦がよかったですと嬉しそうに笑う声を聞いて伊織も照れ臭そうに小さく笑った。
伊織と一緒にいるのは敦と鏡花。
伊織は生活している場所から探偵社までの道のりを一人でも歩いてくることができるようにいくつかのルートを覚えている最中なのだ。
鏡花が手を引き、敦は道の特徴を伝える。二人の役割分担は出会ったあの日から変わることなく今日も任務を無事遂行したところで喫茶うずまきでお茶をしているところだった。
「…私の着物も赤色。紅葉の赤に、似ている」
「わあ、そうなんですか?とっても素敵です。」
「泉さんは紅葉色…」とニコニコしながら呟く伊織に鏡花は満足げな表情を浮かべる。
「伊織さん、ちょっと表情が柔らかくなりましたね。」
「えっ、そ、そうですか?中島さんと泉さんの前では、何だか気が緩んでしまうのかも…」
「もっと気を抜いたって全然構いませんよ!」
「僕たち年下ですし」と笑う敦に首を縦にふる鏡花。
両手で頬を抑える伊織は恥ずかしそうに笑みを浮かべる。年下に気を遣わせてばかりの自分が情けなく、そして頼もしい二人を羨ましく感じた。
そんな中、不意に携帯の着信音が鳴り敦が席を立ち上がった。しばらくして戻ってきた敦は申し訳なさそうに両手を合わせて二人に頭を下げる。
「すみません!今国木田さんから呼び出しがかかって。
ちょっと現場に向かうのであとは鏡花ちゃん、任せてもいいかな」
「うん、行って。伊織さんは私が送る。」
「よろしくね。
伊織さんすみません、どうしても人手が必要らしくて…」
「わわ、私は大丈夫ですので…!こちらこそお仕事の邪魔をしてしまって申し訳ありません。」
それじゃあ、と足早に去って行った敦を見送り鏡花はホットミルクを啜りながら伊織の顔を盗み見た。
彼女は基本的に敦と行動を共にする。そしてそれは伊織と出会う時も例外ではない。
鏡花は口数が多い方ではない。敦がいれば自然と伊織に話を振るのは彼で、時折会話に相槌を打つくらいで鏡花から何か会話のキャッチボールをすることはほとんどなかったのだ。それ故、鏡花は如何したものかと話の切り出し方に悩んでいるのであった。
「あの…泉さん」
声をかけられて顔を上げると、微かに赤らんだ頬の伊織がもじもじと指先を絡ませている。
カップをソーサーにおろして伊織の次の言葉を待つ。
「あの、その、もし、嫌じゃ、なかったら、
…き、鏡花ちゃんって、呼んでもいい、ですか?」
思い切って言ってしまったと、ドキドキしながら鏡花の返事を待つ伊織はまだうんともすんとも云わぬ彼女にしどろもどろに謝り先ほどの言葉を取り消そうとした。
「待って。嫌じゃない。から、そう呼んでほしい。」
「あ、あの、無理にとは」
「“泉さん”より“鏡花”がいい。」
緊張が解けたのかへにゃりと力の抜けた笑みを浮かべる伊織は嬉しそうに「鏡花ちゃん」と口にする。
「うん」
鏡花もつられて少し笑みが溢れる。鏡花と呼ぶ人は探偵社にもいて特別じゃない。けれど彼女にそう呼ばれるのは何だかくすぐったい。太陽にさらされてほんのりと暖かい真綿に包まれるようで。思わず瞼を閉じてしまいそうになった。
*
「人に触れていると安心するの。体温を感じ取れたら、ああ、この人は今私の側にちゃんといるって実感できるから。」
「私ね、鏡花ちゃんの手が好きよ。
鏡花ちゃんとこうやって手を繋いでいると何にも怖くないって思えるの。あの時、鏡花ちゃんが私の手を握ってくれて本当によかった。」
「ありがとう、鏡花ちゃん」と言って伊織は鏡花と繋いだ左手をゆらゆらと振る。
あれから伊織はすっかり鏡花と打ち解けたのだった。もし歳の離れた妹がいたらこんな感じなのかな、と思いながら口元を緩ませる。
相槌を打つ鏡花は優しくてふわふわとした彼女の言葉に心をくすぐられるようで、何だか少し頬が熱いような気がした。
探偵社ではあんなに身体を強張らせていた伊織が自分の前では柔和な笑みを浮かべているのがちょっぴり誇らしい。彼がいなくなったのは存外ラッキーだったのかもしれない。
鏡花はキュッと彼女の手を握る右手に力を込めて、二人の間に流れるゆったりとしたこの時間を小さく噛み締めた。
_______
君の瞳に映る世界
柔らかな真綿に包 まれて
伊織は与謝野の家で二日ほど寝泊まりをしていたが、武装探偵社社長である福沢諭吉が伝を頼り伊織の身元を預かってくれる人を見つけたのであった。
余談だが福沢との出会いはそれはもう緊張で震え上がっていた。見かねた乱歩が「ちょ、大丈夫?」と声をかけたぐらいである。しかし、話をすれば理知的で寛仁な福沢の人物像が掴めたのか最終的には張り詰めるほどの緊張感は無くなっていたとか。
***
「神崎ちゃん、この駄菓子あげるよ」
「あ、ありがとうございます、江戸川さ「だーかーら!乱歩でいいって!」
乱歩は探偵社から少し離れた、行きつけの駄菓子屋のベンチに座って大人買いした大量の駄菓子を漁っていた。
その隣に少し間をあけて座る伊織は手渡された駄菓子にあわあわしながらお礼を述べる。乱歩が拗ねる理由はただ一つ。彼女の呼び方が気に入らないのだ。何だか他人行儀な苗字呼びが嫌で、乱歩さんと呼ばせたいらしい。少し緊張した面持ちで「乱歩さん」と伊織が言い直せば、満足そうにチョコバーを頬張った。
乱歩は伊織のことを認識してからいたく彼女のことを気に入り、このヨコハマの街を連れ歩いている。
「あの、江戸、ら、乱歩さんはよく、私を連れ出してくれますが…その、お仕事の邪魔になっていたり、しないですか?」
「何云ってるの。君の記憶を探すことだって仕事のうちだろう。」
「でも、私全然、思い出せてないですし…その、え、…乱歩さんや他の方の手を煩わせないように私一人でも、」
「君はなーんでそんなに遠慮しいなのかねえ。頼れるものには頼るに越したことはないだろう。
それに無理に思い出そうとしたって思い出せるものじゃない。何でもいいからきっかけを見つけることが重要なんだ。」
現在伊織の身元を引き受けているのは心理カウンセリングを職業とする初老の女性。笑うと目元に皺ができるとても穏やかで優しい人だ。
診療所兼自宅となっているそこで彼女の仕事や家事の手伝いをすることを条件に伊織は衣食住を得ているのだ。
先生の職業柄、伊織の日々の行動を観察してしまうらしく。だんだんとそこでの生活に慣れてきてはいるもののやはり無意識のうちに緊張の糸が張り詰めてしまっているようで、どうにかできないかしらとこっそり探偵社に相談していた。そこで記憶探しのついでと言ってはなんだが、探偵社の者たちは時折伊織を連れ出して息抜きをさせているのである。
「あ、これりんご味だ」
「江戸川さんは駄菓子が本当にお好きですね」
「乱歩」
「ら、乱歩、さん…すみません…」
「まあね」と言いながら乱歩は棒状のゼリーを啜る。
「うんうん。赤いからイチゴ味だと思ってたけど、これもなかなかいけるな」
「赤、ですか」
伊織は瞳を閉じてベンチに背中を預ける。何か考え込むような彼女に乱歩は距離を詰めて「何さ」と声をかけた。
「どんな色なんだろう、って想像しているんです。」
「このゼリーの色?」
「ふふ、ゼリーなんですね」
イチゴやリンゴの赤は、鮮やかで、ツヤツヤしていて美味しそうな色。元気が湧いてきそうな、そんな明るい色。
ゼリーもそんな赤色をしているのかしら。でもゼリーは透明っていうから、きっとお水にりんごの赤を一滴垂らしたような、素敵な色?ううん、お菓子の色はどれも鮮やかって聞くし、りんごの赤を一滴じゃ薄すぎるのかも。赤い絵の具がついた筆をお水で洗ったときのようなそんな色をしているのかもしれない。
「…って、絵の具じゃ何だかおいしくなさそうですね。」
恥ずかしそうに頬をかく伊織と食べかけで半分残ったままの赤いゼリーをじっと見つめる乱歩。
「君はそうやって世界の色を想像しているのか」
「私も、同じ景色を見たいと思ったんです。えへへ…すみません、つまらないです、よね」
「そんなことないさ。
きっと君の世界は美しい色で溢れているんだろうな。」
「このゼリーの色ねェ…
そうだな、レッドスピネルの赤に似ている気がする。」
「レッドスピネル…宝石ですね。キラキラツヤツヤしていて、赤くて…」
絵の具を溶いた水なんかよりもピッタリの表現だ。
りんご味のゼリーの色はレッドスピネルの赤色のようにキラキラツヤツヤとしていて光に透ける。
「うん、素敵。宝石を食むって、何だかとっても素敵です。」
ふにゃりと笑った顔に釣られて乱歩も思わず自分の口角が上がる。何度も連れ出したが、今日初めて彼女の素がわかるような笑顔を見ることができた気がする。
伊織は不意にあ、と何かを思い出したように小首を傾げた。
「どうしたの?」
「あ、いえ…そういえば、私が一番最初に好きになった色って赤だったなって。」
「ふぅん。どうして?何故赤が一番好きなの」
「それは、…なんで、でしょう…?」
伊織が頬に手を当ててええと、と考え込む様子を見つめる。
“同じ景色を見たかった誰か”と赤色が好きなこと。断片的な記憶のピースが今出てきたことには何か関係があるということなのだろうか。
「大切な誰かと同じ景色を見たいと思った。家族や友人?もしくは恋」
そう言いかけたところで伊織はズイッと顔を近づけてきた。キラキラとした瞳と間近で目が合って、一瞬自分のことが見えているんじゃないかと勘違いしてしまいそうになった。
少し紅潮した頬に風に揺られた髪の毛が影を落とした。
「お、お父さんです…!私、父と、おんなじ景色が見たくて、そう…!泣いたの、っ泣いたんです!
父は秋に赤く染まる
そうしたらお父さん、紅葉の赤色はこういう色だよってたくさん、言葉で教えてくれたんです。だから、赤色が好きになった。」
伊織は嬉しそうな、だけどどこか寂しそうな表情を浮かべて両手で口元を覆った。
「何で忘れていたんだろう…私、毎年秋になると父と一緒にだんだん色づいていく山肌を眺めてどんな色なのか聞くのがすごく大好きでした。」
「そこに母親はいなかったの?」
「どうでしょう…私、父の声ばかり聞いていたような気がします。母もいたのかも、しれないけれど…」
「家族構成については父親がいたことは確実ってことか。そして毎年眺めていたとなると君の家からは山が見えた。他に何か思い出せそうなことはあるかい?」
「えっと、…あ、そういえば、
今年も綺麗な紅葉のこと、お父さんにちゃんと伝えられるかなって」
「伝える?どういう色なのか聞くのが楽しかったんじゃあないのか」
「あれ?そうですよね…記憶違い、ですかね…?」
「今年も、伝える…」
伊織の父親には紅葉を見ることができない原因があった。
「今年も」それはつまり少なくとも2年は伊織が父に紅葉の様子を伝えていたということだろう。それに思い返せば父の話をする時彼女は全て過去形だった。
それはつまり、彼女の父親はすでに______
数少ない手がかりから導かれた一つの結論は何だか彼女に伝えるのはまだ時期尚早な気がして、乱歩は小さく開いた口を閉じた。
駄菓子が詰め込まれた紙袋の口をクシャリと丸めて立ち上がる。
「ま、今日これだけ思い出せたなら上々じゃないか。」
「これっぽっち、じゃないですか…うぅん、何か思い出せないのかなぁ…」
頭を抱えて唸る伊織の額を小突く。
「焦りは禁物って与謝野さんも言ってたろ?
ほら、僕ここにいるの飽きちゃったからさ。」
乱歩は彼女の左手を握って軽く引っ張った。そろそろ伊織も乱歩の飽き性に気がついてきたのか、多少驚きはするものの白杖を持って立ち上がった。
「次はどこへ行くんですか?」
「さあ、どこへでも」
「ま、迷子はなっちゃ、ダメですよ。また、福沢さんにご迷惑かけてしまいますから。」
「その時は社長以外の人に電話するから大丈夫ー」
「そ、それもダメですよぉ…」
ついこの間、迷子になって福沢を頼ったことが気がかりな伊織は今回も誰かを呼ぶ羽目にならないことを祈って乱歩に着いていくのであった。
***
「伊織さん、そういえば乱歩さんから聞きましたよ。少し記憶が戻ったって。」
「あ…全然、ほんの少しだけですけど…」
敦がよかったですと嬉しそうに笑う声を聞いて伊織も照れ臭そうに小さく笑った。
伊織と一緒にいるのは敦と鏡花。
伊織は生活している場所から探偵社までの道のりを一人でも歩いてくることができるようにいくつかのルートを覚えている最中なのだ。
鏡花が手を引き、敦は道の特徴を伝える。二人の役割分担は出会ったあの日から変わることなく今日も任務を無事遂行したところで喫茶うずまきでお茶をしているところだった。
「…私の着物も赤色。紅葉の赤に、似ている」
「わあ、そうなんですか?とっても素敵です。」
「泉さんは紅葉色…」とニコニコしながら呟く伊織に鏡花は満足げな表情を浮かべる。
「伊織さん、ちょっと表情が柔らかくなりましたね。」
「えっ、そ、そうですか?中島さんと泉さんの前では、何だか気が緩んでしまうのかも…」
「もっと気を抜いたって全然構いませんよ!」
「僕たち年下ですし」と笑う敦に首を縦にふる鏡花。
両手で頬を抑える伊織は恥ずかしそうに笑みを浮かべる。年下に気を遣わせてばかりの自分が情けなく、そして頼もしい二人を羨ましく感じた。
そんな中、不意に携帯の着信音が鳴り敦が席を立ち上がった。しばらくして戻ってきた敦は申し訳なさそうに両手を合わせて二人に頭を下げる。
「すみません!今国木田さんから呼び出しがかかって。
ちょっと現場に向かうのであとは鏡花ちゃん、任せてもいいかな」
「うん、行って。伊織さんは私が送る。」
「よろしくね。
伊織さんすみません、どうしても人手が必要らしくて…」
「わわ、私は大丈夫ですので…!こちらこそお仕事の邪魔をしてしまって申し訳ありません。」
それじゃあ、と足早に去って行った敦を見送り鏡花はホットミルクを啜りながら伊織の顔を盗み見た。
彼女は基本的に敦と行動を共にする。そしてそれは伊織と出会う時も例外ではない。
鏡花は口数が多い方ではない。敦がいれば自然と伊織に話を振るのは彼で、時折会話に相槌を打つくらいで鏡花から何か会話のキャッチボールをすることはほとんどなかったのだ。それ故、鏡花は如何したものかと話の切り出し方に悩んでいるのであった。
「あの…泉さん」
声をかけられて顔を上げると、微かに赤らんだ頬の伊織がもじもじと指先を絡ませている。
カップをソーサーにおろして伊織の次の言葉を待つ。
「あの、その、もし、嫌じゃ、なかったら、
…き、鏡花ちゃんって、呼んでもいい、ですか?」
思い切って言ってしまったと、ドキドキしながら鏡花の返事を待つ伊織はまだうんともすんとも云わぬ彼女にしどろもどろに謝り先ほどの言葉を取り消そうとした。
「待って。嫌じゃない。から、そう呼んでほしい。」
「あ、あの、無理にとは」
「“泉さん”より“鏡花”がいい。」
緊張が解けたのかへにゃりと力の抜けた笑みを浮かべる伊織は嬉しそうに「鏡花ちゃん」と口にする。
「うん」
鏡花もつられて少し笑みが溢れる。鏡花と呼ぶ人は探偵社にもいて特別じゃない。けれど彼女にそう呼ばれるのは何だかくすぐったい。太陽にさらされてほんのりと暖かい真綿に包まれるようで。思わず瞼を閉じてしまいそうになった。
*
「人に触れていると安心するの。体温を感じ取れたら、ああ、この人は今私の側にちゃんといるって実感できるから。」
「私ね、鏡花ちゃんの手が好きよ。
鏡花ちゃんとこうやって手を繋いでいると何にも怖くないって思えるの。あの時、鏡花ちゃんが私の手を握ってくれて本当によかった。」
「ありがとう、鏡花ちゃん」と言って伊織は鏡花と繋いだ左手をゆらゆらと振る。
あれから伊織はすっかり鏡花と打ち解けたのだった。もし歳の離れた妹がいたらこんな感じなのかな、と思いながら口元を緩ませる。
相槌を打つ鏡花は優しくてふわふわとした彼女の言葉に心をくすぐられるようで、何だか少し頬が熱いような気がした。
探偵社ではあんなに身体を強張らせていた伊織が自分の前では柔和な笑みを浮かべているのがちょっぴり誇らしい。彼がいなくなったのは存外ラッキーだったのかもしれない。
鏡花はキュッと彼女の手を握る右手に力を込めて、二人の間に流れるゆったりとしたこの時間を小さく噛み締めた。
_______
君の瞳に映る世界
柔らかな真綿に