紅葉つ木の葉の愛を知る
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ゆっくりと歩いていく中雨足は弱まることなく、三人がビルに着く頃にはすっかり足元が濡れそぼっていた。
鏡花たちに促され、エレベーターに乗った伊織は内心これ以上迷惑をかけてしまって本当に大丈夫なのだろうかと気が気でなかった。そんな伊織の気も知らずエレベーターのベルは音を鳴らす。
ドアが開き、鏡花は伊織の手を引いた。
「着いた。そのまままっすぐ進んで。」
「ここが武装探偵社です。さあ、中に入ってください。」
「あ、あの、でも他にお仕事をしていらっしゃる方が…」
「アンタたち随分濡れてるじゃないか。ほら、とりあえずこれで拭いてそこに座んな。」
帰ってきた敦と鏡花、そして伊織に気づいた与謝野はタオルを渡し、三人を応接間へ手招く。
「ここに座って。」
「あああの、いえ、大丈夫、です…」
「随分身体も冷えてますし、とりあえず一旦座ってください。僕お茶入れてきますね。」
「そそんなっ、すみませ、あの本当にお構いなく…」
伊織は真っ白な顔を大きく横に振ってあたふたとするが、半ば強引に鏡花が座らせ濡れた肩にタオルを被せた。
「誰かを待っていたの?それとも何か探しているの?」
「わ、私…えと、その、」
「まあまあ鏡花ちゃん落ち着いて。お茶、どうぞ。」
「っすみません、ありがとうございます。な、中島…さん?」
声のする方向に顔を向け、敦の居場所を手探りする伊織に敦は「あっ」と声を上げた。
「すみません、気をつかえなくて…僕はここです。」
「そんな、ずっと親切にしていただいて…」
彼女の手をとり居場所を伝えた敦はその手がぶるぶると震えていることに気づき、縮こまった伊織の肩を見て心配そうに眉を下げる。
困っている人は見過ごせない性分の敦だ。一体なんと声をかけたらこの人を安心させる事ができるのだろうか。
「あの「おやおやこれは…!なんと麗しのお嬢さんっ!!」
敦と伊織の間にぬるりと割り込んできた男は大袈裟な身振り手振りで伊織へと手を差し伸べる。
「私は太宰治と申します。ここで出会えたのはきっと運命の導き…お嬢さん、私とし「怯えているのが分からんのか太宰!とっとと離れろ!」
見知らぬ男の乱入に恐縮したのか伊織は両手を胸に押し当てて固まっていた。国木田はガミガミ叱りつけながら太宰の首根っこを掴んで引きずる。
「騒がしくてすみません…びっくりしましたよね」
「は、い…あっいえ!そんなことは、…」
思わず飛び出た本音にあっと口を塞ぐ伊織。苦笑いを浮かべた敦はところで、と話を切り出す。
「お名前を伺ってもいいですか?さっきからなんて呼べばいいのかずっと考えていて…」
「す、すみませんっ、ずっと名乗りもせずに…
神崎伊織と申します。
あの、み、道案内に、雨宿りに、何から何まで、ありがとうございます…!、っっ!?」
立ち上がって頭を下げようとした伊織はテーブルの縁に思いっきり脛をぶつける。そして痛みに悶える彼女の足に溢れた緑茶が降りかかった。
ぱしゃり
しんと静まり返った空間に伊織が悶える小さな声が響いた。
「伊織さん大丈夫ですか!?」
「すっ、すみま、せん…!!おお、お茶、こぼしっ…床、汚してっ!」
「そんなことよりも火傷していないかい?鏡花、手を借してあげな。」
鏡花が支えてソファに座らせるも、伊織は真っ青な顔で慌てふためいている。
「落ち着きな、床なんて拭けば大丈夫だよ。
自己紹介が遅れたね、妾は与謝野晶子。わかるかい?今アンタの目の前にいる。」
与謝野は自分の存在を確かめさせるかのように伊織の手を自身の頬に押し当てた。
「慣れないところじゃ無理もない。妾らがもっと配慮するべきだったよ。
さ、火傷していないか少し足を触らせてもらうよ。」
幸いなことに少し赤くはなっているものの火傷はなく、皆がほっと胸を撫で下ろした。
「それでアンタ、何か困っていることがあるのかい?」
「え、あ…」
「よければ話してください。僕たちは人助けが仕事みたいなものなんです。きっと伊織さんの力になれると思います。」
伊織は俯きがちに、両手を握りしめながらゆっくりと言葉を探す。
「わ、私、家に帰る途中で、…その、いつもの道で、だけど、き、急に、道が分からなく、なって…」
「もしかしていつの間にか道を間違えたんでしょうか?」
「そ、それはない、かと…
いつも通りに、ちゃんと歩いていた、はず…です…多分。」
ううんと首を傾げる探偵社一行。
「迷子ということか…。ならば自宅まで送り届けます。家は何処ですか?」
「えっと、」
伊織ははたと止まった。
頭の中では思い浮かんでいるはずのそれが言葉として出てこない。まるで指の隙間から砂が溢れていくかのように何かが記憶から抜け落ちていく。
帰り道の途中にあった何かいい匂いがするあのお店は、
よく耳を立てると聞こえた、何かの鳴き声がするあの場所は、
他の場所よりも段差のある、いつも気をつけて歩いていたあの交差点は、
私が帰ろうとしていた場所は、
一体、どこに。
「わ、たし、帰ろうと、えっと、家、家は…」
わなわなと震える口元を抑えて必死に頭を回転させる。
覚えているはずなの。だって、何年間も通ってきた道で、間違えたことなんてない。目が見えなくてもわかっていたはずよ。
なのになんで、なんで、
「伊織さん、顔色が…」
「わか、り、ません…思い出せない…」
頭を抱えて浅く呼吸する伊織を見て国木田と太宰は怪訝な顔をする。
どうやらただの迷子ではなさそうだ。記憶が曖昧なのは一体…
「記憶が混濁しているのかねェ。何処かで頭を打ったり倒れたりしたかい?」
「い、いえ、何も…」
「外傷もないとなると心因的なものか、それとも…」
「そうだっ、カバンの中に保険証とか…!」
伊織は弾かれたように頭を上げた。そして肩に手を当ててひくりと喉を震わせた。
「な、ない…え、あ、いつから…?」
「…初めて貴女に会った時から荷物は持っていなかった。杖以外何も」
「嘘、そんな、」
「盗まれたんでしょうか」
「肩にかけていたものを盗られて気づかないなんてことがあるか?」
「確かに…」
紙のように真っ白な顔で血色感のない唇は震えを抑えようと硬く結ばれている。鏡花が横で心配そうに背中をさするが少しでも力を込めたら倒れそうなほど弱々しい。
太宰が伊織の横に跪き、彼女の手を取った。
「神崎さん、ここはヨコハマだ。街の名に聞き覚えはあるかい?」
「分から、ない、です…」
伊織は力なく首を振る。
「では敦君達と出会う以前に誰かと接触は?」
「人と、ぶつかりはしましたが…お話などは一切、」
考え込む太宰は最後に一つ、と質問を投げかけた。
「神崎さんの目はどれだけ見えるのか聞いても?」
「あ、な、何も…見えない、です。」
「成程。つまり神崎さんから視覚情報を得るのは難しいということだね。」
国木田は少し眉を顰めて顎をさすった。
「このまま放っておくわけにもいかん。今日のところはゆっくり休んだ方がいいだろう。」
「休むって言ったって、伊織さんは帰る場所が」
「それじゃァ妾のところに来るといい。勝手知らないところで一人でいるのは不安だろう?妾はこれでも医者でね。ここにいる奴の中ではアンタの扱いが一番分かると思うんだ。」
「確かに。僕たちの部屋はすでに鏡花ちゃんと二人で手狭だし、国木田さんや太宰さんより同性の与謝野さんが一番安全かも。」
伊織を置いてけぼりにしてとんとん拍子で話が進んでいく。あわあわと申し訳なさそうに声をかける機会を伺っていた彼女はついに立ち上がった。
「そそ、そんなにお世話になれませ、ん…!!私、大丈夫ですので、その、本当にもう、」
「ここから出て行ったとして貴女は他に行くあてがあるの?」
「それは、えっと、……け、警察、とか、」
国木田と太宰は目を合わせた。
身分を提示できるものも持たず、記憶が混濁している。彼女は何か事件に巻き込まれたのではないだろうか。
ただの迷子ではないのなら、或いは異能力か…
このまま警察に引き渡してしまって、果たして本当に良いのか。
「貴女の今の状況はおそらく普通ではない。警察に頼るのは確かに一つの手だが得策ではないでしょう。」
「ど、どういうこと、でしょうか?」
「異能力者による犯罪や事件に巻き込まれた可能性があるということです。」
「異能力者?」
「まあ平たく言えば特殊な力を持った人のことさ。」
「特殊な…」
「とにかく、貴女は一度休むべき。」
「そうですよ。それに言ったじゃないですか。僕たち武装探偵社は人を助けるのが仕事なんです。きっと伊織さんの力になって見せます!」
「今日は出払っているけど、ウチには優秀な名探偵がいるんだ。アンタの家だって言い当ててくれるかもしれない。明日もう一度ゆっくり話を聞こうじゃないか。だから今日のところは私のところで休みな。」
「でも、…」
言葉に詰まる伊織。
確かに今頼ることができるのは目の前にいる彼らだ。しかし出会ってからずっと助けれっぱなしのこの状況で寝床まで提供してもらうのはいかがなものか。
「わたしお金も何も、持っていなくて…何も、返せないのに…」
「見返りが欲しくて助けたわけじゃない。」
鏡花が俯いている伊織の頬を包んで上を向かせた。
「大丈夫だから」
裏表のない、ただ純粋に伊織を助けたいと思った気持ちをまっすぐに伝える。
鏡花の手の温もりが不安や緊張で凝り固まった心をゆっくりと融解していくようだ。こわばっていた肩から少し力が抜けていくのがわかった。
こくりと首を縦に振った彼女。
敦はほっと息をこぼした。
*
「…太宰」
あれから彼女は何度も何度も感謝の言葉を口にし深くお辞儀をした後、探偵社を去った。与謝野に連れられ外へ出た伊織の背を窓から眺めていた敦は国木田の声に振り向く。
国木田の視線の先、太宰を見やれば腕を組んで何やら考え込んでいる様子だ。
「彼女自身の異能の暴走、と言う可能性はないね。私が触っても反応はなかった。」
「伊織さんの異能?」
「記憶の混濁が彼女自身が気づかなかった異能力によるものではないかと疑ったんだ。だが何も反応はなかった。彼女は異能力者じゃない。」
「では何者かが異能力を使って彼女をあの状況に陥れた可能性は?」
「なくはないだろうね。ただしその場合、異能力者自体を叩くかもしくは彼女の体内に入り込んだ異能自体に触れなければ解除はできない。」
「根源がわからなければどうにもならんわけか…」
「伊織さん、大丈夫でしょうか」
敦が不安げな声でポツリと呟く。
国木田がツカツカと歩み寄ってきて手帳の角を彼の頭にコツンと当てた。
「一番不安なのは彼女自身だろう。お前がそんな顔をするんじゃない。」
「す、すみません!」
「ただ今の状況では手も足も出ん。まずは彼女の身元を洗い出すぞ。」
「わかりました。」
「私も手伝う。」
よし、とやる気を出した敦や鏡花を見て国木田は少し目元を緩める。
「じゃ、私は彼女がいた場所に何かないか少し調べてくるとしよう。」
「おい太宰…今日の業務はどうする気だ!」
「国木田くん、私は困っている女性をこのまま放っておくのは大変心苦しいのだよ。一刻も早く彼女を家に届けて差し上げるためには仕方がないことだと思わないかい?」
「確かに…」と押し黙った国木田にしめしめと味を占めて太宰は颯爽と探偵社を抜け出した。
彼が出て行った数分後に国木田はデスクに溜まった仕事の束を目の端にとらえ、「太宰ぃぃいい!!!」と叫んだのはまた別の話である。
***
「伊織、もう寝たかい?」
月の明かりがカーテンの隙間から漏れる夜。
布団に横たわった与謝野は、伊織が眠る布団に背を向けた状態で問いかけた。と言うのももそもそと寝返りを打つ音が時折聞こえ、彼女の様子が気になったからだ。
声を掛けると衣擦れの音はやみ、しんとした中彼女の「いえ…」と言う小さな声が聞こえた。
「やっぱり落ち着かないかい?」
「い、いえっ!そんなことない、ですっ」
「ハハっ、別に取って食いやしないから安心して寝な」
「あ、あ、そんな、…与謝野さんはとても優しい方で、そんなふうには、」
「おや、嬉しいこと言ってくれるね。探偵社の奴らにゃなんでか怖がられるんだけどねェ。」
伊織が少しでも気を休められるようたわいもない話を続ける。
驚いたり、関心したり、彼女は相槌を打って与謝野の話に耳を傾けた。
30分ほどだろうか。しばらくして聞こえてきたのは相槌ではなく小さな寝息。
与謝野は音を立てないようにゆっくりと体を起こして彼女の様子を伺った。ようやく眠ったようだ。安心して再び布団を被り、今日の彼女の様子を思い返す。
家についてからは伊織の記憶については一歳触れていない。思い出せないことを何度も問うては彼女の不安を煽るだけだと判断した与謝野は身体を休めることを優先させた。
一時的な記憶の混乱であれば、明日には完全に戻りはしなくても何かしらの手がかりは掴めるかもしれない。それにおそらく国木田達が彼女に関する情報を集めているはずだ。
きっと大丈夫だ。
そう信じて与謝野は目を閉じた。
真っ暗闇の中。伊織の寝息や風の音が聞こえる。不意に手を伸ばしてみたが、何かを掴むわけでもなくその手は空を切った。
「怖いなんてもんじゃぁ、ないンだろうね」
知らない場所に立たされた時、もし視界を奪われてしまったら。一体何に頼ればいいのだろうか。
腕で目元を覆って深く息を吐く。
伊織の緊張や不安で引き攣った表情が和らぐことを願い、与謝野は一夜を明かすのであった。
________
暗闇の中の灯火
鏡花たちに促され、エレベーターに乗った伊織は内心これ以上迷惑をかけてしまって本当に大丈夫なのだろうかと気が気でなかった。そんな伊織の気も知らずエレベーターのベルは音を鳴らす。
ドアが開き、鏡花は伊織の手を引いた。
「着いた。そのまままっすぐ進んで。」
「ここが武装探偵社です。さあ、中に入ってください。」
「あ、あの、でも他にお仕事をしていらっしゃる方が…」
「アンタたち随分濡れてるじゃないか。ほら、とりあえずこれで拭いてそこに座んな。」
帰ってきた敦と鏡花、そして伊織に気づいた与謝野はタオルを渡し、三人を応接間へ手招く。
「ここに座って。」
「あああの、いえ、大丈夫、です…」
「随分身体も冷えてますし、とりあえず一旦座ってください。僕お茶入れてきますね。」
「そそんなっ、すみませ、あの本当にお構いなく…」
伊織は真っ白な顔を大きく横に振ってあたふたとするが、半ば強引に鏡花が座らせ濡れた肩にタオルを被せた。
「誰かを待っていたの?それとも何か探しているの?」
「わ、私…えと、その、」
「まあまあ鏡花ちゃん落ち着いて。お茶、どうぞ。」
「っすみません、ありがとうございます。な、中島…さん?」
声のする方向に顔を向け、敦の居場所を手探りする伊織に敦は「あっ」と声を上げた。
「すみません、気をつかえなくて…僕はここです。」
「そんな、ずっと親切にしていただいて…」
彼女の手をとり居場所を伝えた敦はその手がぶるぶると震えていることに気づき、縮こまった伊織の肩を見て心配そうに眉を下げる。
困っている人は見過ごせない性分の敦だ。一体なんと声をかけたらこの人を安心させる事ができるのだろうか。
「あの「おやおやこれは…!なんと麗しのお嬢さんっ!!」
敦と伊織の間にぬるりと割り込んできた男は大袈裟な身振り手振りで伊織へと手を差し伸べる。
「私は太宰治と申します。ここで出会えたのはきっと運命の導き…お嬢さん、私とし「怯えているのが分からんのか太宰!とっとと離れろ!」
見知らぬ男の乱入に恐縮したのか伊織は両手を胸に押し当てて固まっていた。国木田はガミガミ叱りつけながら太宰の首根っこを掴んで引きずる。
「騒がしくてすみません…びっくりしましたよね」
「は、い…あっいえ!そんなことは、…」
思わず飛び出た本音にあっと口を塞ぐ伊織。苦笑いを浮かべた敦はところで、と話を切り出す。
「お名前を伺ってもいいですか?さっきからなんて呼べばいいのかずっと考えていて…」
「す、すみませんっ、ずっと名乗りもせずに…
神崎伊織と申します。
あの、み、道案内に、雨宿りに、何から何まで、ありがとうございます…!、っっ!?」
立ち上がって頭を下げようとした伊織はテーブルの縁に思いっきり脛をぶつける。そして痛みに悶える彼女の足に溢れた緑茶が降りかかった。
ぱしゃり
しんと静まり返った空間に伊織が悶える小さな声が響いた。
「伊織さん大丈夫ですか!?」
「すっ、すみま、せん…!!おお、お茶、こぼしっ…床、汚してっ!」
「そんなことよりも火傷していないかい?鏡花、手を借してあげな。」
鏡花が支えてソファに座らせるも、伊織は真っ青な顔で慌てふためいている。
「落ち着きな、床なんて拭けば大丈夫だよ。
自己紹介が遅れたね、妾は与謝野晶子。わかるかい?今アンタの目の前にいる。」
与謝野は自分の存在を確かめさせるかのように伊織の手を自身の頬に押し当てた。
「慣れないところじゃ無理もない。妾らがもっと配慮するべきだったよ。
さ、火傷していないか少し足を触らせてもらうよ。」
幸いなことに少し赤くはなっているものの火傷はなく、皆がほっと胸を撫で下ろした。
「それでアンタ、何か困っていることがあるのかい?」
「え、あ…」
「よければ話してください。僕たちは人助けが仕事みたいなものなんです。きっと伊織さんの力になれると思います。」
伊織は俯きがちに、両手を握りしめながらゆっくりと言葉を探す。
「わ、私、家に帰る途中で、…その、いつもの道で、だけど、き、急に、道が分からなく、なって…」
「もしかしていつの間にか道を間違えたんでしょうか?」
「そ、それはない、かと…
いつも通りに、ちゃんと歩いていた、はず…です…多分。」
ううんと首を傾げる探偵社一行。
「迷子ということか…。ならば自宅まで送り届けます。家は何処ですか?」
「えっと、」
伊織ははたと止まった。
頭の中では思い浮かんでいるはずのそれが言葉として出てこない。まるで指の隙間から砂が溢れていくかのように何かが記憶から抜け落ちていく。
帰り道の途中にあった何かいい匂いがするあのお店は、
よく耳を立てると聞こえた、何かの鳴き声がするあの場所は、
他の場所よりも段差のある、いつも気をつけて歩いていたあの交差点は、
私が帰ろうとしていた場所は、
一体、どこに。
「わ、たし、帰ろうと、えっと、家、家は…」
わなわなと震える口元を抑えて必死に頭を回転させる。
覚えているはずなの。だって、何年間も通ってきた道で、間違えたことなんてない。目が見えなくてもわかっていたはずよ。
なのになんで、なんで、
「伊織さん、顔色が…」
「わか、り、ません…思い出せない…」
頭を抱えて浅く呼吸する伊織を見て国木田と太宰は怪訝な顔をする。
どうやらただの迷子ではなさそうだ。記憶が曖昧なのは一体…
「記憶が混濁しているのかねェ。何処かで頭を打ったり倒れたりしたかい?」
「い、いえ、何も…」
「外傷もないとなると心因的なものか、それとも…」
「そうだっ、カバンの中に保険証とか…!」
伊織は弾かれたように頭を上げた。そして肩に手を当ててひくりと喉を震わせた。
「な、ない…え、あ、いつから…?」
「…初めて貴女に会った時から荷物は持っていなかった。杖以外何も」
「嘘、そんな、」
「盗まれたんでしょうか」
「肩にかけていたものを盗られて気づかないなんてことがあるか?」
「確かに…」
紙のように真っ白な顔で血色感のない唇は震えを抑えようと硬く結ばれている。鏡花が横で心配そうに背中をさするが少しでも力を込めたら倒れそうなほど弱々しい。
太宰が伊織の横に跪き、彼女の手を取った。
「神崎さん、ここはヨコハマだ。街の名に聞き覚えはあるかい?」
「分から、ない、です…」
伊織は力なく首を振る。
「では敦君達と出会う以前に誰かと接触は?」
「人と、ぶつかりはしましたが…お話などは一切、」
考え込む太宰は最後に一つ、と質問を投げかけた。
「神崎さんの目はどれだけ見えるのか聞いても?」
「あ、な、何も…見えない、です。」
「成程。つまり神崎さんから視覚情報を得るのは難しいということだね。」
国木田は少し眉を顰めて顎をさすった。
「このまま放っておくわけにもいかん。今日のところはゆっくり休んだ方がいいだろう。」
「休むって言ったって、伊織さんは帰る場所が」
「それじゃァ妾のところに来るといい。勝手知らないところで一人でいるのは不安だろう?妾はこれでも医者でね。ここにいる奴の中ではアンタの扱いが一番分かると思うんだ。」
「確かに。僕たちの部屋はすでに鏡花ちゃんと二人で手狭だし、国木田さんや太宰さんより同性の与謝野さんが一番安全かも。」
伊織を置いてけぼりにしてとんとん拍子で話が進んでいく。あわあわと申し訳なさそうに声をかける機会を伺っていた彼女はついに立ち上がった。
「そそ、そんなにお世話になれませ、ん…!!私、大丈夫ですので、その、本当にもう、」
「ここから出て行ったとして貴女は他に行くあてがあるの?」
「それは、えっと、……け、警察、とか、」
国木田と太宰は目を合わせた。
身分を提示できるものも持たず、記憶が混濁している。彼女は何か事件に巻き込まれたのではないだろうか。
ただの迷子ではないのなら、或いは異能力か…
このまま警察に引き渡してしまって、果たして本当に良いのか。
「貴女の今の状況はおそらく普通ではない。警察に頼るのは確かに一つの手だが得策ではないでしょう。」
「ど、どういうこと、でしょうか?」
「異能力者による犯罪や事件に巻き込まれた可能性があるということです。」
「異能力者?」
「まあ平たく言えば特殊な力を持った人のことさ。」
「特殊な…」
「とにかく、貴女は一度休むべき。」
「そうですよ。それに言ったじゃないですか。僕たち武装探偵社は人を助けるのが仕事なんです。きっと伊織さんの力になって見せます!」
「今日は出払っているけど、ウチには優秀な名探偵がいるんだ。アンタの家だって言い当ててくれるかもしれない。明日もう一度ゆっくり話を聞こうじゃないか。だから今日のところは私のところで休みな。」
「でも、…」
言葉に詰まる伊織。
確かに今頼ることができるのは目の前にいる彼らだ。しかし出会ってからずっと助けれっぱなしのこの状況で寝床まで提供してもらうのはいかがなものか。
「わたしお金も何も、持っていなくて…何も、返せないのに…」
「見返りが欲しくて助けたわけじゃない。」
鏡花が俯いている伊織の頬を包んで上を向かせた。
「大丈夫だから」
裏表のない、ただ純粋に伊織を助けたいと思った気持ちをまっすぐに伝える。
鏡花の手の温もりが不安や緊張で凝り固まった心をゆっくりと融解していくようだ。こわばっていた肩から少し力が抜けていくのがわかった。
こくりと首を縦に振った彼女。
敦はほっと息をこぼした。
*
「…太宰」
あれから彼女は何度も何度も感謝の言葉を口にし深くお辞儀をした後、探偵社を去った。与謝野に連れられ外へ出た伊織の背を窓から眺めていた敦は国木田の声に振り向く。
国木田の視線の先、太宰を見やれば腕を組んで何やら考え込んでいる様子だ。
「彼女自身の異能の暴走、と言う可能性はないね。私が触っても反応はなかった。」
「伊織さんの異能?」
「記憶の混濁が彼女自身が気づかなかった異能力によるものではないかと疑ったんだ。だが何も反応はなかった。彼女は異能力者じゃない。」
「では何者かが異能力を使って彼女をあの状況に陥れた可能性は?」
「なくはないだろうね。ただしその場合、異能力者自体を叩くかもしくは彼女の体内に入り込んだ異能自体に触れなければ解除はできない。」
「根源がわからなければどうにもならんわけか…」
「伊織さん、大丈夫でしょうか」
敦が不安げな声でポツリと呟く。
国木田がツカツカと歩み寄ってきて手帳の角を彼の頭にコツンと当てた。
「一番不安なのは彼女自身だろう。お前がそんな顔をするんじゃない。」
「す、すみません!」
「ただ今の状況では手も足も出ん。まずは彼女の身元を洗い出すぞ。」
「わかりました。」
「私も手伝う。」
よし、とやる気を出した敦や鏡花を見て国木田は少し目元を緩める。
「じゃ、私は彼女がいた場所に何かないか少し調べてくるとしよう。」
「おい太宰…今日の業務はどうする気だ!」
「国木田くん、私は困っている女性をこのまま放っておくのは大変心苦しいのだよ。一刻も早く彼女を家に届けて差し上げるためには仕方がないことだと思わないかい?」
「確かに…」と押し黙った国木田にしめしめと味を占めて太宰は颯爽と探偵社を抜け出した。
彼が出て行った数分後に国木田はデスクに溜まった仕事の束を目の端にとらえ、「太宰ぃぃいい!!!」と叫んだのはまた別の話である。
***
「伊織、もう寝たかい?」
月の明かりがカーテンの隙間から漏れる夜。
布団に横たわった与謝野は、伊織が眠る布団に背を向けた状態で問いかけた。と言うのももそもそと寝返りを打つ音が時折聞こえ、彼女の様子が気になったからだ。
声を掛けると衣擦れの音はやみ、しんとした中彼女の「いえ…」と言う小さな声が聞こえた。
「やっぱり落ち着かないかい?」
「い、いえっ!そんなことない、ですっ」
「ハハっ、別に取って食いやしないから安心して寝な」
「あ、あ、そんな、…与謝野さんはとても優しい方で、そんなふうには、」
「おや、嬉しいこと言ってくれるね。探偵社の奴らにゃなんでか怖がられるんだけどねェ。」
伊織が少しでも気を休められるようたわいもない話を続ける。
驚いたり、関心したり、彼女は相槌を打って与謝野の話に耳を傾けた。
30分ほどだろうか。しばらくして聞こえてきたのは相槌ではなく小さな寝息。
与謝野は音を立てないようにゆっくりと体を起こして彼女の様子を伺った。ようやく眠ったようだ。安心して再び布団を被り、今日の彼女の様子を思い返す。
家についてからは伊織の記憶については一歳触れていない。思い出せないことを何度も問うては彼女の不安を煽るだけだと判断した与謝野は身体を休めることを優先させた。
一時的な記憶の混乱であれば、明日には完全に戻りはしなくても何かしらの手がかりは掴めるかもしれない。それにおそらく国木田達が彼女に関する情報を集めているはずだ。
きっと大丈夫だ。
そう信じて与謝野は目を閉じた。
真っ暗闇の中。伊織の寝息や風の音が聞こえる。不意に手を伸ばしてみたが、何かを掴むわけでもなくその手は空を切った。
「怖いなんてもんじゃぁ、ないンだろうね」
知らない場所に立たされた時、もし視界を奪われてしまったら。一体何に頼ればいいのだろうか。
腕で目元を覆って深く息を吐く。
伊織の緊張や不安で引き攣った表情が和らぐことを願い、与謝野は一夜を明かすのであった。
________
暗闇の中の灯火