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「あら、あなたどこから入ってきたの?」
「ナーオ…」と弱々しく鳴く子猫に向かって身をかがめて「おいで」と手招きをすると、積荷の隙間から恐る恐る顔を出し伊織の手を一舐めした後、すり寄ってきた。
「ふふふ、珍しいお客さん。でもここは遊ぶには危険だよ。」
伊織の優しい雰囲気を感じ取ったのか、すっかり喉を鳴らして甘える黒猫。伊織はそっと抱き上げて頭を撫でた。
伊織がいる場所は鬼兵隊の船の甲板だ。冬のよく晴れた昼下がりは洗濯物を干せばすぐに乾く。何かと汚れ物の多い鬼兵隊、伊織はちょうど物干し紐に大量に掛けられた洗濯物を取り終えたところだった。
「朝の積載の時に紛れ込んだのかな?まだ停泊中でよかったね。きっとお母さん猫が探してるだろうからこの船からは降りようか。」
「にゃぁ…」
「あまり元気がない…もしかしてお腹空いてる?」
伊織が目線を合わせるように猫の身体を持ち上げると、前足を伊織の鼻に向かってぺちっと振りかぶった。特段痛いわけではないが、反射で「あてっ」と声をあげてしまった伊織はクスクスと笑みをこぼす。
「今日の伊織殿の音色はひどく楽しげでござるな。」
「ひっっっ!?……あ、か、河上、さん…」
「おっと…これは驚かせてしまったようだ。」
万斉は珍しく柔らかでいて心地よいリズムを奏でる伊織の音を堪能していたが、声をかけた途端にキリキリと張り詰めた、こちらにまで緊張が伝わってくるような音に様変わりしたのを心惜しく思った。
彼女が気を緩めていた原因は此奴か、と彼女の腕に抱かれた子猫を見つめる。伊織に視線を移すと遠慮がちに口を開いた。
「あの、この子、お腹が空いているみたいで…その、できるなら……」
「何か食べ物を与えてやりたいと。では厨房に行くか。」
「い、いいんですか…?」
万斉の言葉に表情をパァッと明るくさせたが、途端にしゅんっと困り顔で「でも、た、高杉さんに、怒られてしまうかも…」と呟いた。
万斉はフッと吹き出して伊織の頭を撫でる。
「良い良い。高杉に叱られるのが怖いなら拙者が許可したと言っておこう。なに、煮干しの一つや二つで怒るほど器の狭い男ではござらんよ。」
二人は厨房で少量の煮干しと水をもらい、船の隅っこで子猫にそれを与えた。伊織は餌にがっつく子猫を見て微笑む。
「ゆっくりお食べ。誰も取ったりしないよ。」
万斉は壁に寄りかかって一人と一匹の様子を眺めていた。
彼らは鬼兵隊しか知らないはずの駐屯地に現れた伊織を偶然そこに居合わせたまた子が捕らえたことにより出会った。また子曰く、何もなかった場所に不意に音も無く現れたらしい。季節外れの装いで江戸も何も知らないくせに『日本』から来たと主張する彼女はひどく怯えていた。
異質な存在に興味を惹かれたのか、高杉は伊織を殺しはせず、手元に置くことにした。伊織は銃を向けられたり刀を向けられたりはしたものの、命を奪わずに保護してくれた恩人だと認識しているが、側から見たら何も知らない女性を監禁している悪党ども以外の何者でもない。
そう、伊織は鬼兵隊の船内以外出歩くことを許されておらず、初めてこの地に降り立った日以降、一度も地に足をつけていないのだ。
伊織は彼らが巷で噂の過激派テロリストだということは知らない。せいぜい『武装しているほんのちょっぴりお顔が怖い人達』くらいにしか思っていない。ちなみにこれは保護(監禁)されてすぐの頃、また子が監視している最中に「アンタ私たちのこと何だと思ってるんスか。」と訊ねた時に答えた言葉だ。
また子は伊織の本性を暴いてやろうと思ってキツく問いかけた。すると伊織はええと…と口籠もって申し訳なさそうな顔をして、コソッと答えたらしい。
「私のことを拾って下さった恩人に対して失礼すぎますよね…。で、でも、本当は優しい人達だって、思います…!」とフォローを入れられた、と報告するまた子は何ともいえない表情をしていて、これには万斉と武市も噴き出さずにはいられなかった。そしてあろうことか、あの高杉までもフッと笑って顔を背けた。
毒気を抜かれた彼らは思いの外彼女を気に入り、今では高杉含めた幹部達に可愛がられている。
だからと言って伊織はつけあがることもなく、大恩人(大悪党)に報いるために自分にできることを探しては一生懸命雑務をこなしているのだった。
警戒はされていないものの、いつになったらその緊張の糸は切れるのだろうか。
その猫のようには上手く行かぬものだな。
そんなことを考えている間に猫は餌を食べ終えたようだ。皿を片して舷門へと向かう。
万斉が舷梯に足をかけた時、伊織がはたと止まった。
「どうかしたでござるか?」
「あ…私、高杉さんから、この船から出ないようにって、言われていて…」
万斉は船内にチラリと目を向け、「心配ござらん。少しの間だけだ。」と伊織の手をとると舷梯を下り始めた。
地上へと降り立った伊織は約3週間ぶりだからだろうか、揺れることのない地面に違和感を持ち、大きくよろけた。
「ぅ、わっ」
「久々の地面の感触はどうでござるか。」
「な、何だか、変な感じです…。揺れてないのに、揺れているような…」
ウゥン…?と眉を顰める伊織の反応を見てクスクスと笑う。
その場で何度か足踏みをした後、伊織はあたりをキョロキョロと見渡す。そして茂みの影に抱えている子猫よりひとまわり大きな黒猫がいるのを見つけた。
「あれがお母さんかな?今度は迷い込んじゃダメだよ。」
「にゃーお」
しゃがみこんで猫を降ろすと、伊織の足元に一頻り頭を擦り付けて茂みの方へと走って行く。子猫は親猫にペロリと頬を舐められ、二匹は茂みの奥へと消えていった。
その様子を見つめていた伊織の目は優しく微笑んではいるがどこか寂しげだ。
「いいなぁ…」
キュッと丸まった背中が小さく震え、地面にポトリと水滴が落ちた。
シトシトと小雨が降るような、憂いに満ちた切ない音が聞こえる。
そういえば以前にもこれと同じ音を耳にした。あれは確か、波風立たない静かな晩だったような…。
何と声を掛けようか考えているうちにも地面にシミが点々と生まれる。
そんな時、船の方から誰かの足音が聞こえてきた。
「また泣いているのか。」
声の主は高杉だった。紫煙を燻らせてニヒルな笑みを浮かべている。
伊織はビクッと肩を揺らして振り返った。
「た、高杉さん…」
ハラハラと涙が零れ落ちる目からは恐れや不安が滲み出ていて、小さな口が何か言いたげに動く。
高杉は少し身をかがめて伊織の顎をくっと持ち上げ、頬を伝う涙をゆるりと拭った。
「何故言いつけを破った。」
「晋助。」
万斉が少し呆れたように声を掛けるが、高杉はお構い無しに伊織を無言の圧力で問い詰める。
伊織は取り繕いもせずに正直に訳を話しだした。
「子猫が、…あのまま船が出港したら、家族と離れ離れになってしまうと思って…
勝手に出てしまって、ごめんなさい…」
「あの猫が羨ましいなら、逃げ出してみるか?
俺ァ別にこのまま置き去りにしてやってもいいんだぜ。」
伊織は目を見開いた。一際大きく開かれた瞳から大粒の涙が溢れる。
ドッと心臓が波打ち、全身の血の気が引いていく気がした。何か言わなくては、と急いで立ち上がって高杉に向き合ったとき、大きな眩暈が襲ってきて伊織の身体が後ろに傾いた。
「ぁ、っ…」
万斉は手を伸ばしたが、彼が伊織を受け止める前に高杉が彼女の右腕を掴んだ。力の抜けた身体は高杉が手を離せば容易に頽れてしまうだろう。
「…な、んでも、しま、す……から、お、置い、てかない、で………」
潤んだ声で小さく呟く伊織は片手で頭を押さえながら弱々しく息をつく。
高杉はくつくつと喉を鳴らして伊織を抱き上げた。
「晋助、意地の悪い男は嫌われるぞ。」
「何言ってやがる。行く当ても帰る家もねェ猫にこうして居場所を与えてやってンだ。十分『優しい』だろ?」
「そろそろ船を出す。乗り遅れるなよ。」と言い残し、羽織を翻して船へ向かって歩き出す。
「…まったく哀れな娘にござる。主が縋り付く男は『優しい』恩人などではござらんよ。
奴に気に入られてしまったのが主の運の尽き…」
手放すつもりなどさらさら無いくせにどの口が___
万斉の独白は誰の耳に届くこともなく海風に攫われて消えた。
*
自室へとたどり着いた高杉は伊織を布団の上に下ろし、煙管を煙管立てに置くと、徐々に距離を詰めていく。
伊織は眩暈に耐えながら布団に手をつき、少しずつ身体を退け反らせた。
「っ、たかすぎ、さ…」
互いの前髪が触れ合うほどの近さに伊織は自分の体温が上がっていくのを感じる。息を飲んでギュッと目を瞑ると幕を張っていた涙が頬を伝った。
高杉は伊織の肩をトンっと押してそのまま組み敷いた。
柔らかな猫っ毛が布団の上に散らばる。
「ひ、ぁ……」
これでもかというほど顔を真っ赤にし、大きく顔を背けて手の甲で顔を覆い隠す。高杉の眼前に白くて細い首筋が曝け出された。
「誘ってるのか?」
ゆるりと首筋を撫であげれば引き攣った声が聞こえ、伊織の身体が強張る。
「ち、ちがっ………ゃ、」
伊織は震える手で恐る恐る高杉の胸を押し返す。
初めての抵抗に高杉はえも云われぬ高揚感を覚え、喉の奥から込み上がってくる笑いをグッと押し殺した。
「オイオイ、そんなんじゃァ野郎を余計に煽っちまうだけだぜ。」
手首を掴んで布団に縫いつけ、耳元で低く囁く。伊織はビクッと身体を震わせた。
少し顔を上げ、高杉の隻眼が伊織の潤んだ目を捉える。押し倒され、今にも襲われそうな状況下だというのに、その瞳からうかがえる伊織の感情は”恐怖”ではなく”困惑”だった。
「…お前は俺が怖くねェのか。」
彼女の手首から手を離し、目尻に溜まった涙を拭う。
「全然怖く、ないと言ったら、嘘になります…」
戸惑いながらそう答える伊織に高杉は眉をピクリと動かした。
遠慮がちに手を伸ばした伊織は高杉の目にかかる髪の毛を優しく抑え、親指でそっと目元をなぞる。
「私を見る高杉さんの目は、いつもどこか優しげだから…
その、多分私は…高杉さんに、置いていかれるのが、怖いんだと思います……」
俺が怖くないどころか、優しい目をしてるだと…?
コイツの目は節穴か何かか…仮にも俺は泣く子も黙る悪党だというのに。
訳がわからなくなって大きなため息をつくと、伊織が慌てて手を離した。
「ご、ごめんなさい…不快でした、よね…」
伊織の上から退き、煙管を手に取る。伊織が起きあがろうとしたところを再び肩を押して布団に押し倒した。
「寝てろ。」
「え、で、でも…」
「陸酔いは数日続くこともある。無理して倒れられると迷惑だ。」
少しぶっきらぼうに言い捨てて高杉は部屋を後にした。
*
煙管をふかしながら歩く高杉はガシガシと頭を掻き、そのまま手を滑らせて目尻に触れた。窓に映った自分の顔をジトッと見つめる。
伊織の言葉を思い出し、そんなことあるはずがない、と自分に言い聞かせて操縦室へと向かった。
「晋助殿!」
「船を出せ。」
手早く指揮を出し、船の前方を見据える。そんな高杉のそばにまた子が近寄ってきた。
「そういえば晋助様、さっきから伊織の姿が見当たらないっス。」
「…アイツなら俺の部屋で休ませている。お前がついていろ。」
「具合でも悪くなったっスか?」
「ただの陸酔いだ。」
「陸酔い…。ホントに脆弱なヤツっスね。」
「猪女と一緒にしては伊織さんが不憫です。彼女は貴女と違って繊細な女性なんですよ。」
「あ゛ぁ?!もっぺん言ってみろこのロリコン野郎!!」
「ロリコンじゃない、フェミニストです。」
ギャアギャアと騒ぐ二人を他所に、万斉は高杉へと近寄った。
「どうしたでござるか。そんな浮かない顔をして。」
「別に何でもねェよ。」
「主達に邪魔が入らぬよう人払いをしたが…その必要はなかったようだな。」
「余計な気ィ回してんじゃねェ。」
ハハハと笑い声をあげる万斉に舌打ちをする。
「晋助ほどの男でも大人しい猫を手懐けるのは難しいものにござるか?
怖がられて引っ掻かれたのならあとで傷薬でも貰いにいくといい。」
「オイ万斉、ふざけるのも大概にしろよ」
「すまんすまん。主がそんな顔をするなんて珍しくてつい揶揄ってしまったでござる。」
操縦室にいる連中は高杉の不機嫌なオーラを肌で感じ取り顔を強ばらせているが、そんな彼の隣で呑気に笑う万斉はやはり只者ではない。
笑いを堪えながら横目で見ると、高杉は眉を寄せて腕を組んでいた。
「…なァ、俺の目は、……『優しそう』か?」
万斉はブハッと吹き出した。
「もしや伊織殿にそう言われたのか。これは傑作にござるな。極悪非道の冷血漢を『優しい目』呼ばわりとは!」
「…オイ」
「おっと失敬。…そうさなぁ、確かに晋助は伊織殿を見ている時、音色が柔らかくなっている、…ような気がするでござる。伊織殿はおそらくその微かな気の緩みを感じ取っているのだろう。」
ンな馬鹿みてェなことがあってたまるか、と心の中で毒づく。
「伊織殿は聡い。彼女がそういうのなら、主は『優しい』目をしているのでござろう。良かったな、晋助。」
「良かねえよ…俺は優しくした覚えなんて無い。」
イライラしながら顔を抑える高杉は脳裏に伊織を思い浮かべる。
何となく拾ってやっただけ。
ある晩、酒のつまみにでもなるかと奴を呼びつけ、「お前の知っている日本はどう言ったものだ」と聞いた。自分の知らない日本の在り方を懇切丁寧に説明する奴に尚更興味が湧いた。それからは気が向いた時に呼びつけては様々な話をさせる内、捨て置くのが惜しい存在であると悟った。
奴の知識は頭の回る者が知れば、国さえ揺るがすある意味『危険なもの』だとすぐに気づくだろう。誰も思いつかなかったことを当たり前のようにしゃべる女は自分の価値に気づいていない。
それならこの俺が飼い殺してやろう。
ただの道具、それ以上もそれ以下でもない。
悪事に利用されるとも知らずにちょこまかと動き回る女は滑稽だった。
日々視界の端に映り込む女を見ては心の中でせせら笑っていた。
しかしある日、空を見上げてほろほろと涙を流す姿を見つけた。出会った日以来、初めて見た泣き顔だった。
女はよく笑っていた。大半は緊張や不安が滲み出ているが、時たま花が咲いたような笑みを見せることがある。後者の笑みは誰に見せるでもない、ただ雪が降ったとか、洗濯で汚れが綺麗に落ちたとか、…猫パンチをお見舞いされたとか、そんなしょうもない時だ。
他の連中が知らない顔を知っていると言うのは居心地が良い。俺に見られていることに気づいて頬を染める反応も新鮮でなかなか面白かった。
しかしそれ以上に女はよく泣いていたのだ。決して誰にも気付かれぬように声はあげない。
女が涕泣する姿はひどく流麗だった。
見ていて飽きないとはこのことか。
奴の表情を観察するのは日々の暇潰しにちょうど良い。戦い方も知らない、テメエの守り方さえ知らない繊弱な奴は意外にも使い道があったのだ。
「間抜けヅラを拝みすぎて焼きが回っちまったか…」
伊織に触れられた髪をクシャリと握り潰して余計な思考を追い払うように煙を吐き散らした。
_________________________________
どうやら女を雁字搦めにしていた見えない鎖はいつの間にか男の腕さえも絡め取っていたらしい。
「ナーオ…」と弱々しく鳴く子猫に向かって身をかがめて「おいで」と手招きをすると、積荷の隙間から恐る恐る顔を出し伊織の手を一舐めした後、すり寄ってきた。
「ふふふ、珍しいお客さん。でもここは遊ぶには危険だよ。」
伊織の優しい雰囲気を感じ取ったのか、すっかり喉を鳴らして甘える黒猫。伊織はそっと抱き上げて頭を撫でた。
伊織がいる場所は鬼兵隊の船の甲板だ。冬のよく晴れた昼下がりは洗濯物を干せばすぐに乾く。何かと汚れ物の多い鬼兵隊、伊織はちょうど物干し紐に大量に掛けられた洗濯物を取り終えたところだった。
「朝の積載の時に紛れ込んだのかな?まだ停泊中でよかったね。きっとお母さん猫が探してるだろうからこの船からは降りようか。」
「にゃぁ…」
「あまり元気がない…もしかしてお腹空いてる?」
伊織が目線を合わせるように猫の身体を持ち上げると、前足を伊織の鼻に向かってぺちっと振りかぶった。特段痛いわけではないが、反射で「あてっ」と声をあげてしまった伊織はクスクスと笑みをこぼす。
「今日の伊織殿の音色はひどく楽しげでござるな。」
「ひっっっ!?……あ、か、河上、さん…」
「おっと…これは驚かせてしまったようだ。」
万斉は珍しく柔らかでいて心地よいリズムを奏でる伊織の音を堪能していたが、声をかけた途端にキリキリと張り詰めた、こちらにまで緊張が伝わってくるような音に様変わりしたのを心惜しく思った。
彼女が気を緩めていた原因は此奴か、と彼女の腕に抱かれた子猫を見つめる。伊織に視線を移すと遠慮がちに口を開いた。
「あの、この子、お腹が空いているみたいで…その、できるなら……」
「何か食べ物を与えてやりたいと。では厨房に行くか。」
「い、いいんですか…?」
万斉の言葉に表情をパァッと明るくさせたが、途端にしゅんっと困り顔で「でも、た、高杉さんに、怒られてしまうかも…」と呟いた。
万斉はフッと吹き出して伊織の頭を撫でる。
「良い良い。高杉に叱られるのが怖いなら拙者が許可したと言っておこう。なに、煮干しの一つや二つで怒るほど器の狭い男ではござらんよ。」
二人は厨房で少量の煮干しと水をもらい、船の隅っこで子猫にそれを与えた。伊織は餌にがっつく子猫を見て微笑む。
「ゆっくりお食べ。誰も取ったりしないよ。」
万斉は壁に寄りかかって一人と一匹の様子を眺めていた。
彼らは鬼兵隊しか知らないはずの駐屯地に現れた伊織を偶然そこに居合わせたまた子が捕らえたことにより出会った。また子曰く、何もなかった場所に不意に音も無く現れたらしい。季節外れの装いで江戸も何も知らないくせに『日本』から来たと主張する彼女はひどく怯えていた。
異質な存在に興味を惹かれたのか、高杉は伊織を殺しはせず、手元に置くことにした。伊織は銃を向けられたり刀を向けられたりはしたものの、命を奪わずに保護してくれた恩人だと認識しているが、側から見たら何も知らない女性を監禁している悪党ども以外の何者でもない。
そう、伊織は鬼兵隊の船内以外出歩くことを許されておらず、初めてこの地に降り立った日以降、一度も地に足をつけていないのだ。
伊織は彼らが巷で噂の過激派テロリストだということは知らない。せいぜい『武装しているほんのちょっぴりお顔が怖い人達』くらいにしか思っていない。ちなみにこれは保護(監禁)されてすぐの頃、また子が監視している最中に「アンタ私たちのこと何だと思ってるんスか。」と訊ねた時に答えた言葉だ。
また子は伊織の本性を暴いてやろうと思ってキツく問いかけた。すると伊織はええと…と口籠もって申し訳なさそうな顔をして、コソッと答えたらしい。
「私のことを拾って下さった恩人に対して失礼すぎますよね…。で、でも、本当は優しい人達だって、思います…!」とフォローを入れられた、と報告するまた子は何ともいえない表情をしていて、これには万斉と武市も噴き出さずにはいられなかった。そしてあろうことか、あの高杉までもフッと笑って顔を背けた。
毒気を抜かれた彼らは思いの外彼女を気に入り、今では高杉含めた幹部達に可愛がられている。
だからと言って伊織はつけあがることもなく、大恩人(大悪党)に報いるために自分にできることを探しては一生懸命雑務をこなしているのだった。
警戒はされていないものの、いつになったらその緊張の糸は切れるのだろうか。
その猫のようには上手く行かぬものだな。
そんなことを考えている間に猫は餌を食べ終えたようだ。皿を片して舷門へと向かう。
万斉が舷梯に足をかけた時、伊織がはたと止まった。
「どうかしたでござるか?」
「あ…私、高杉さんから、この船から出ないようにって、言われていて…」
万斉は船内にチラリと目を向け、「心配ござらん。少しの間だけだ。」と伊織の手をとると舷梯を下り始めた。
地上へと降り立った伊織は約3週間ぶりだからだろうか、揺れることのない地面に違和感を持ち、大きくよろけた。
「ぅ、わっ」
「久々の地面の感触はどうでござるか。」
「な、何だか、変な感じです…。揺れてないのに、揺れているような…」
ウゥン…?と眉を顰める伊織の反応を見てクスクスと笑う。
その場で何度か足踏みをした後、伊織はあたりをキョロキョロと見渡す。そして茂みの影に抱えている子猫よりひとまわり大きな黒猫がいるのを見つけた。
「あれがお母さんかな?今度は迷い込んじゃダメだよ。」
「にゃーお」
しゃがみこんで猫を降ろすと、伊織の足元に一頻り頭を擦り付けて茂みの方へと走って行く。子猫は親猫にペロリと頬を舐められ、二匹は茂みの奥へと消えていった。
その様子を見つめていた伊織の目は優しく微笑んではいるがどこか寂しげだ。
「いいなぁ…」
キュッと丸まった背中が小さく震え、地面にポトリと水滴が落ちた。
シトシトと小雨が降るような、憂いに満ちた切ない音が聞こえる。
そういえば以前にもこれと同じ音を耳にした。あれは確か、波風立たない静かな晩だったような…。
何と声を掛けようか考えているうちにも地面にシミが点々と生まれる。
そんな時、船の方から誰かの足音が聞こえてきた。
「また泣いているのか。」
声の主は高杉だった。紫煙を燻らせてニヒルな笑みを浮かべている。
伊織はビクッと肩を揺らして振り返った。
「た、高杉さん…」
ハラハラと涙が零れ落ちる目からは恐れや不安が滲み出ていて、小さな口が何か言いたげに動く。
高杉は少し身をかがめて伊織の顎をくっと持ち上げ、頬を伝う涙をゆるりと拭った。
「何故言いつけを破った。」
「晋助。」
万斉が少し呆れたように声を掛けるが、高杉はお構い無しに伊織を無言の圧力で問い詰める。
伊織は取り繕いもせずに正直に訳を話しだした。
「子猫が、…あのまま船が出港したら、家族と離れ離れになってしまうと思って…
勝手に出てしまって、ごめんなさい…」
「あの猫が羨ましいなら、逃げ出してみるか?
俺ァ別にこのまま置き去りにしてやってもいいんだぜ。」
伊織は目を見開いた。一際大きく開かれた瞳から大粒の涙が溢れる。
ドッと心臓が波打ち、全身の血の気が引いていく気がした。何か言わなくては、と急いで立ち上がって高杉に向き合ったとき、大きな眩暈が襲ってきて伊織の身体が後ろに傾いた。
「ぁ、っ…」
万斉は手を伸ばしたが、彼が伊織を受け止める前に高杉が彼女の右腕を掴んだ。力の抜けた身体は高杉が手を離せば容易に頽れてしまうだろう。
「…な、んでも、しま、す……から、お、置い、てかない、で………」
潤んだ声で小さく呟く伊織は片手で頭を押さえながら弱々しく息をつく。
高杉はくつくつと喉を鳴らして伊織を抱き上げた。
「晋助、意地の悪い男は嫌われるぞ。」
「何言ってやがる。行く当ても帰る家もねェ猫にこうして居場所を与えてやってンだ。十分『優しい』だろ?」
「そろそろ船を出す。乗り遅れるなよ。」と言い残し、羽織を翻して船へ向かって歩き出す。
「…まったく哀れな娘にござる。主が縋り付く男は『優しい』恩人などではござらんよ。
奴に気に入られてしまったのが主の運の尽き…」
手放すつもりなどさらさら無いくせにどの口が___
万斉の独白は誰の耳に届くこともなく海風に攫われて消えた。
*
自室へとたどり着いた高杉は伊織を布団の上に下ろし、煙管を煙管立てに置くと、徐々に距離を詰めていく。
伊織は眩暈に耐えながら布団に手をつき、少しずつ身体を退け反らせた。
「っ、たかすぎ、さ…」
互いの前髪が触れ合うほどの近さに伊織は自分の体温が上がっていくのを感じる。息を飲んでギュッと目を瞑ると幕を張っていた涙が頬を伝った。
高杉は伊織の肩をトンっと押してそのまま組み敷いた。
柔らかな猫っ毛が布団の上に散らばる。
「ひ、ぁ……」
これでもかというほど顔を真っ赤にし、大きく顔を背けて手の甲で顔を覆い隠す。高杉の眼前に白くて細い首筋が曝け出された。
「誘ってるのか?」
ゆるりと首筋を撫であげれば引き攣った声が聞こえ、伊織の身体が強張る。
「ち、ちがっ………ゃ、」
伊織は震える手で恐る恐る高杉の胸を押し返す。
初めての抵抗に高杉はえも云われぬ高揚感を覚え、喉の奥から込み上がってくる笑いをグッと押し殺した。
「オイオイ、そんなんじゃァ野郎を余計に煽っちまうだけだぜ。」
手首を掴んで布団に縫いつけ、耳元で低く囁く。伊織はビクッと身体を震わせた。
少し顔を上げ、高杉の隻眼が伊織の潤んだ目を捉える。押し倒され、今にも襲われそうな状況下だというのに、その瞳からうかがえる伊織の感情は”恐怖”ではなく”困惑”だった。
「…お前は俺が怖くねェのか。」
彼女の手首から手を離し、目尻に溜まった涙を拭う。
「全然怖く、ないと言ったら、嘘になります…」
戸惑いながらそう答える伊織に高杉は眉をピクリと動かした。
遠慮がちに手を伸ばした伊織は高杉の目にかかる髪の毛を優しく抑え、親指でそっと目元をなぞる。
「私を見る高杉さんの目は、いつもどこか優しげだから…
その、多分私は…高杉さんに、置いていかれるのが、怖いんだと思います……」
俺が怖くないどころか、優しい目をしてるだと…?
コイツの目は節穴か何かか…仮にも俺は泣く子も黙る悪党だというのに。
訳がわからなくなって大きなため息をつくと、伊織が慌てて手を離した。
「ご、ごめんなさい…不快でした、よね…」
伊織の上から退き、煙管を手に取る。伊織が起きあがろうとしたところを再び肩を押して布団に押し倒した。
「寝てろ。」
「え、で、でも…」
「陸酔いは数日続くこともある。無理して倒れられると迷惑だ。」
少しぶっきらぼうに言い捨てて高杉は部屋を後にした。
*
煙管をふかしながら歩く高杉はガシガシと頭を掻き、そのまま手を滑らせて目尻に触れた。窓に映った自分の顔をジトッと見つめる。
伊織の言葉を思い出し、そんなことあるはずがない、と自分に言い聞かせて操縦室へと向かった。
「晋助殿!」
「船を出せ。」
手早く指揮を出し、船の前方を見据える。そんな高杉のそばにまた子が近寄ってきた。
「そういえば晋助様、さっきから伊織の姿が見当たらないっス。」
「…アイツなら俺の部屋で休ませている。お前がついていろ。」
「具合でも悪くなったっスか?」
「ただの陸酔いだ。」
「陸酔い…。ホントに脆弱なヤツっスね。」
「猪女と一緒にしては伊織さんが不憫です。彼女は貴女と違って繊細な女性なんですよ。」
「あ゛ぁ?!もっぺん言ってみろこのロリコン野郎!!」
「ロリコンじゃない、フェミニストです。」
ギャアギャアと騒ぐ二人を他所に、万斉は高杉へと近寄った。
「どうしたでござるか。そんな浮かない顔をして。」
「別に何でもねェよ。」
「主達に邪魔が入らぬよう人払いをしたが…その必要はなかったようだな。」
「余計な気ィ回してんじゃねェ。」
ハハハと笑い声をあげる万斉に舌打ちをする。
「晋助ほどの男でも大人しい猫を手懐けるのは難しいものにござるか?
怖がられて引っ掻かれたのならあとで傷薬でも貰いにいくといい。」
「オイ万斉、ふざけるのも大概にしろよ」
「すまんすまん。主がそんな顔をするなんて珍しくてつい揶揄ってしまったでござる。」
操縦室にいる連中は高杉の不機嫌なオーラを肌で感じ取り顔を強ばらせているが、そんな彼の隣で呑気に笑う万斉はやはり只者ではない。
笑いを堪えながら横目で見ると、高杉は眉を寄せて腕を組んでいた。
「…なァ、俺の目は、……『優しそう』か?」
万斉はブハッと吹き出した。
「もしや伊織殿にそう言われたのか。これは傑作にござるな。極悪非道の冷血漢を『優しい目』呼ばわりとは!」
「…オイ」
「おっと失敬。…そうさなぁ、確かに晋助は伊織殿を見ている時、音色が柔らかくなっている、…ような気がするでござる。伊織殿はおそらくその微かな気の緩みを感じ取っているのだろう。」
ンな馬鹿みてェなことがあってたまるか、と心の中で毒づく。
「伊織殿は聡い。彼女がそういうのなら、主は『優しい』目をしているのでござろう。良かったな、晋助。」
「良かねえよ…俺は優しくした覚えなんて無い。」
イライラしながら顔を抑える高杉は脳裏に伊織を思い浮かべる。
何となく拾ってやっただけ。
ある晩、酒のつまみにでもなるかと奴を呼びつけ、「お前の知っている日本はどう言ったものだ」と聞いた。自分の知らない日本の在り方を懇切丁寧に説明する奴に尚更興味が湧いた。それからは気が向いた時に呼びつけては様々な話をさせる内、捨て置くのが惜しい存在であると悟った。
奴の知識は頭の回る者が知れば、国さえ揺るがすある意味『危険なもの』だとすぐに気づくだろう。誰も思いつかなかったことを当たり前のようにしゃべる女は自分の価値に気づいていない。
それならこの俺が飼い殺してやろう。
ただの道具、それ以上もそれ以下でもない。
悪事に利用されるとも知らずにちょこまかと動き回る女は滑稽だった。
日々視界の端に映り込む女を見ては心の中でせせら笑っていた。
しかしある日、空を見上げてほろほろと涙を流す姿を見つけた。出会った日以来、初めて見た泣き顔だった。
女はよく笑っていた。大半は緊張や不安が滲み出ているが、時たま花が咲いたような笑みを見せることがある。後者の笑みは誰に見せるでもない、ただ雪が降ったとか、洗濯で汚れが綺麗に落ちたとか、…猫パンチをお見舞いされたとか、そんなしょうもない時だ。
他の連中が知らない顔を知っていると言うのは居心地が良い。俺に見られていることに気づいて頬を染める反応も新鮮でなかなか面白かった。
しかしそれ以上に女はよく泣いていたのだ。決して誰にも気付かれぬように声はあげない。
女が涕泣する姿はひどく流麗だった。
見ていて飽きないとはこのことか。
奴の表情を観察するのは日々の暇潰しにちょうど良い。戦い方も知らない、テメエの守り方さえ知らない繊弱な奴は意外にも使い道があったのだ。
「間抜けヅラを拝みすぎて焼きが回っちまったか…」
伊織に触れられた髪をクシャリと握り潰して余計な思考を追い払うように煙を吐き散らした。
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どうやら女を雁字搦めにしていた見えない鎖はいつの間にか男の腕さえも絡め取っていたらしい。
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