とある音大生の女の子が知らない世界に放り出されるお話
第1章 狭間で揺れ動くは儚き花
お名前は
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「伊織ちゃん、準備できたアルか?」
「うん、大丈夫だよ。行こうか。」
熱が下がって体調が回復した伊織は衰えた体力を少しでも戻すために、神楽と共に定春の散歩に着いていこうと外に出る支度を終えた所だった。
玄関で草履を引っ掛けているところに銀時がやってくる。
「伊織。」
「はい?」
名前を呼ばれて何かと振り返ると、首にふわりと何かを巻き付けられた。
「外、さみぃからこれでも巻いとけ。」
「あ、ありがとうございます…」
「それおっさん臭くないアルか?」
「オイ、失礼なこと言うんじゃねーぞコノヤロー。銀さんまだ加齢臭とかしねぇから!フローラルな香り撒き散らしてるから!!」
「銀ちゃんが撒き散らしてるのは乳臭いいちごの香りアル。」
「乳臭いいちご言うな!いちご牛乳の香りと言え!いい匂いだろうが!」
二人の口論を苦笑しながら見守っていると、突然二人の視線がこちらを捉えた。銀時の目は「臭くないよね!?そうだと言ってよ!!」と訴えている。
伊織は思わずフッと吹き出して緩んだ口元を隠すように銀時のマフラーを手繰り寄せた。
「ふふ、大丈夫ですよ。臭くなんかないです。
坂田さんに抱きしめられた時と同じ良いにお、い、が……」
思ったことをそのまま口にした伊織は途中で自分がとんでも発言をしていることに気づいて「しまった…」と視線を逸らした。
神楽は顔を真っ赤にして俯いてしまった伊織とそんな彼女を見つめたまま固まっている銀時を交互に見比べて息をつく。そして伊織の手を取ると銀時には見向きもせずに「ほら定春、とっとと行くアルよ〜」と外に連れ出したのだった。
*
「銀さーん?いつまでそこにいるんですか?」
なかなか戻ってこない銀時を不審に思ったのか、新八が居間から顔を出して彼の背に向かって声を掛ける。
銀時はハッと意識を取り戻すとその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。
「ぱっつぁん…俺もうダメかもしんねぇわ…」
「え?銀さんがダメ人間なのは前からじゃないですか。」
「バッキャロー!そういうのじゃねェっての!!あークソ!!!」
ワシワシと髪の毛をかきむしりながら足音を立てて居間へ戻ると、ジャンプを手に取ってソファに寝転がる。パラパラとページを捲ったが内容は全く頭に入ってこない。悶々としながら適当に開かれたそれを顔面に押し付けて長い長いため息をつく。
新八はあからさまに様子のおかしい銀時に首を傾げた。
「なんなんですか、さっきから。銀さん変ですよ。」
「ウルセー…別に何もねーから。至って普通だしぃ?!」
「はぁ…」
背もたれの方を向いて動かなくなった銀時を「なんなんだコイツ…」とゲンナリしながら見つめる。
さっき玄関で何か騒いでたけど、余程ひどいことを神楽ちゃんに言われたんだろうか?なんて考えながら机の上に散らばった書類を片していく。
触らぬ面倒臭いモードの銀さんに祟りなし…と足音を潜めて新八は居間から抜け出した。
*
私、物凄く気持ち悪いこと言っちゃったよね、あれは完全に失言だよ…
伊織は神楽に手を引かれながら空っ風で熱くなった頬を冷ましていた。
「絶対引かれた…どうしよう、もう顔を見れない…」
小さくうめきながら顔に手を当てる伊織を見て神楽はケラケラと笑う。あの時、銀時の耳が赤くなっていたのを見たのは自分だけだったようだ。惜しいような惜しくないような…。
「気にすることないネ!伊織ちゃんはいつも銀ちゃんに気を遣いすぎアル。」
「そ、そうかなぁ?
なんていうか、坂田さんには醜態ばっかり晒してるから、気を遣わざるを得ないっていうか…」
初めて万事屋を訪れた時は碌に挨拶もせずに逃げ出しちゃったし、大体泣いているところは見られているし、この間なんて、……
今までの粗相を思い出して罪悪感や恥ずかしさが込み上げてきた伊織は目を閉じて顔を顰めた。
「それアル!」
「それ?」
「その”坂田さん”呼びアルよ!」
神楽はピコンっと思いついたように指をさす。
伊織は「お、思ってた”気を遣う”となんか違うぞ…?」と頬に手を当てた。
「私も新八も名前で呼ぶのに、銀ちゃんのことは名前で呼ばないアルか?」
「名前で!?そ、れは、失礼かなって…坂田さん、私より年上だし…。なんとなく、私の中で年下の子は名前でも呼べるけど、年上の、増して異性の方を名前で呼ぶなんて、考えたこともなかったな。」
「それを言うならクソサドだって伊織ちゃんより年下アルよ?」
「えっと、沖田さんのこと?…え、沖田さんって私より年下なの!?」
「確か姉御と同じネ。」
呆気に取られて「18…沖田さんは、18…」とうわ言のように呟いている伊織の顔の前で手を振ると、ハッと意識を取り戻した。
「なんとなく同い年くらいかと思っていたけれど違ったのね。
うーん…沖田さん。沖田くん。総悟、くん…」
「…やっぱアイツは沖田さん呼びでいいアル。アイツの話はもうおしまいっ!!」
神楽は伊織に名前で呼ばれて総悟が喜ぶ未来を想像し、気に食わなく思ったのかスッパリと彼の話題を取り下げて銀時の話に軌道を戻した。
「銀ちゃんは伊織ちゃんが思ってるほど大層な大人じゃないヨ。伊織ちゃんだって身を以て分かったでしょ?あれはただの変態野郎アル。」
ギクっと肩を揺らして唇を噛み締める伊織は恥ずかしい記憶を追い出すように頭をブンブンと振った。
「ま、まあ、人間誰しも欠点は持ち合わせているものだからね…。」
伊織はマフラーに視線を落として微笑む。
「でも、やっぱり私にとって坂田さんは、尊敬する人だよ。」
「尊敬?」
「うん。無条件に人を助けるなんて、誰にでもできることじゃないもの。
あぁでも、それは坂田さんだけじゃなくて神楽ちゃんや新八くんに真選組の皆さん、桂さんだったり、他にもたくさん。かぶき町は優しい人が本当に多くてびっくりしちゃう。」
「みんな考えなしの馬鹿なだけアルよ。」
「ふふ、そういうふうに思えるのも神楽ちゃんが皆さんのことをよく知っていて信頼してるってことなのかもね。
後腐れのない喧嘩だったり言い合いをできる神楽ちゃん達万事屋さんは特にそう思うな。」
気恥ずかしくて、胸がむず痒くなるようなことを平然と言ってのける伊織に神楽はほんの少し頬を染めて口をつぐんだ。
「坂田さんはそういう優しい人たちの中心にいるように見えるの。憎まれ口を叩くけど、みんなどこかで坂田さんのことを信頼してる。
少なくとも、私が生きてきた中でそんな人に出会えたのは坂田さんが初めてだから…。やっぱり坂田さんって、すごく素敵な人だと思うな。」
ニコニコと笑っている伊織を見て神楽は繋いだ手に力を込めた。やるときはやる男だと分かっている。がしかし、基本的にはだらしない姿でいる銀時の印象は正直に言うとよく思われないことが多い。
そんなうちの社長をこうも真っ向から褒められると自分のことのように悦ばしいとは。
「伊織ちゃんは人の良いところを見つけるのが得意アルな。」
「ふふふ、そうかなあ」
伊織も神楽の手を握り返し、互いに顔を見合わせてくすくすと笑う。いつの間にか折り返し地点の公園に着いていた伊織たちは休憩がてらにベンチに座った。
「定春、遊んできていいアルよ。可愛い子見つけても追っていっちゃ駄目ヨ〜!」
神楽がそう言うや否や定春は人の少ない芝生の方へと走り去っていった。
こんなに寒いのに元気だなぁ、と感心しながら定春を見送る。
少し先の方で元気よく飛んだり跳ねたりしている定春を暫くぼーっと見つめていた。
「あの、伊織ちゃん…」
「なあに?」
さっきまでの様子とは打って変わって神楽がモジモジとしながら伊織の名前を呼ぶ。伊織と目が合った神楽はポケットに手を突っ込んで何かを取り出し、おずおずとそれを差し出した。
伊織は神楽の手の中にあるものを見て小さく口をひらく。
「それ…私の、」
「実は、伊織ちゃんが家出したあの日、服の中から出てきたの、ずっと私が持っていたアル…。ごめんなさい…」
神楽が持っていたものとは、伊織が万事屋から飛び出したあの日、服の中から出てきた彼女のキーケースだった。
「ほ、本当は、すぐに返すつもりだったアル。でも、その、…」
視線を彷徨わせながら言葉を濁す神楽は、恐る恐る伊織の顔を見上げた。潤んだ目でそれを見つめる伊織は怒っているのかよくわからない。
不意に伊織が手を伸ばしてきて神楽はギュッと目を瞑った。
「神楽ちゃん」
伊織は神楽の手ごとキーケースを両手で包み込む。
「ありがとう。」
「この間真選組に謝りに行った時、忘れ物って渡されたのがワンピースだけだったから、てっきりもう無くしちゃったのかと思ってたの…。
神楽ちゃんが持っててくれたなんて…本当によかった。」
はぁ、と息をついた伊織は大切なものが見つかって安堵したのか、ヘラリと笑った。
「…違うヨ。私、これを渡したらまた伊織ちゃんが何処か行っちゃうんじゃないかって、それで、ずっと返せずに持ってたアル…。」
小さな声で謝る神楽の心臓が早鐘を打つ。
隠し持っていたこと、怒っているんだろうか。もう嫌われてしまったのだろうか。
神楽は目を合わせるのが怖くなってじっと足元を見つめた。そんな神楽の心情を察したのか、伊織は神楽の頭を撫でた。あまりにも優しいその手つきに緊張していた心がスッと解きほぐされた。
「…伊織ちゃん、もう何処にも行かないヨネ?」
「今の所、行く当てもないからねぇ。」
神楽の問いかけに伊織は困ったように笑う。
”今の所”それはきっと、帰り方が分かったら帰るということを意味しているのだろう。神楽はほんの少し顔を曇らせた。
「私ね、どうして此処に来てしまったのかとか、いつ帰れるのかとか、不安でしょうがなかったの。
悲しくて、寂しくて、怖くて…。考えれば考えるほどいろんなことが頭の中をよぎって苦しくなってた。」
キーケースの縁をなぞりながらぽつりと呟く。
神楽は伊織の横顔をこっそりと見つめる。
「でも、坂田さんにごちゃごちゃ考えるのはやめろって言われて、暗いことばっかり考えるのは、取り敢えず今はいいかなって思えた。もちろん、いつかはちゃんと向き合わないといけないことではあるんだけどね。」
「全然、わからないことだらけだけど、一つだけ、確かに言えることがあって…。
私にとって今のこの生活も、手放すには惜しいと思えるほど、…好きになっちゃったみたい。」
照れ臭そうに笑いながらそう言った伊織は徐に立ち上がると、小走りでどこかへと駆けて行く。
神楽は驚いてその場に固まったまま伊織を見つめていた。
伊織はドーム型の遊具の頂上に立つと、神楽の方を振り返って大きな声で叫ぶ。
「神楽ちゃーん!!」
「な、何アルかー?」
神楽がベンチから立ち上がっていつもの伊織らしからぬ様子にびっくりしながら聞き返す。伊織は緊張で震える両手を握りしめて口を開いた。
「私、やりたいこと見つかったよ!」
「これからもっと神楽ちゃん達のことを知りたいし、私のことも、たくさん知ってほしいです!」
「伊織ちゃん…」
神楽の元にはいつの間にか定春が戻ってきていて、隣に座って伊織をじっと見つめていた。
伊織はもう一度大きく息を吸い込む。
「し、自然体の、等身大の自分でいられるようになるには、時間がかかるかもしれないけど、…そっ、それでも、いいですかぁあああ!!」
伊織は声が裏返っても、それでも大きな声で叫んだ。変わりたい、変わらなくちゃいけない、そんな一心でいつもの伊織からは考えられないこんな行動を取ったのだ。
頬を真っ赤にしながら何度も息を吸っては吐いてを繰り返す。
まばらとは言え日中の公園にはチラホラと人がいて、興味深げな視線が身体中に突き刺さるが、それでも伊織はグッと耐えて逃げ出さずにいた。
「そんなの…、いっくらでも待つアル!!」
神楽の返事を聞いて漸く気が抜けたのか、その場にヘナヘナとかがみ込んだ伊織は両手で顔を覆った。神楽と定春が駆け足で彼女の元へと向かう。
「伊織ちゃん」
「わたし、私、頑張って、変わるから…!」
思わず溢れてきた涙を拭ってクシャリと笑う伊織の表情は晴れ晴れとしていて、一切の陰りがない。嬉しくなった神楽は伊織をぎゅうっと抱きしめた。
「頑張らなくてもいいアル。伊織ちゃんのペースでいいヨ。」
神楽の言葉にコクコクと頷きながら鼻を啜る。そして一つ、深呼吸をして神楽と定春の顔を見た。
「お家、帰ろっか。」
神楽は満面の笑みで元気よく「うん!」と返事をすると、伊織の手を引っ張って定春の背中に飛び乗った。伊織が目を白黒させているうちに定春は万事屋へと駆け出す。
「ひぇええ…!」
情けない声を上げながら神楽の腰にしがみついた。別の意味で涙が出てきそう…と思いながら引き攣ったような声を絞り出す。
「かぐ、神楽ちゃ、あ、歩いて、帰らないのぉ…!?」
「こっちの方が速いアル!ねぇ?定春!」
「わん!」
「それはっ、そうだけど…!」
まるで安全バー無しのジェットコースターに乗っているような感覚にヒヤヒヤしながら腕に力を込めた。
そのうち、なんだか笑いが込み上げてきて悲鳴混じりの笑い声をあげていると、神楽も楽しげに笑い出す。
どうなるかわからないんだったら、ちょっとくらい楽しんでみたっていいんじゃないか。もしかしたらこの判断を後悔する日が来るかもしれない。でも、それでもいい。私は今を生きればいい。未来のことは、未来の自分に託そう。
今まで自分が元の世界で生きてきた証は自分自身。記憶は塗り替えられていくんじゃない。新しく刻まれていってるだけ。
大丈夫、大丈夫__
心の中で呟いて自分に言い聞かせる。
よし、と顔を上げればもう目の前には”万事屋銀ちゃん”の文字が迫っていた。
階段を登り切った先には私のもう一つの帰る場所がそこに。
__________________
「ただいま」は、今までで一等輝いた笑顔を携えて。
「うん、大丈夫だよ。行こうか。」
熱が下がって体調が回復した伊織は衰えた体力を少しでも戻すために、神楽と共に定春の散歩に着いていこうと外に出る支度を終えた所だった。
玄関で草履を引っ掛けているところに銀時がやってくる。
「伊織。」
「はい?」
名前を呼ばれて何かと振り返ると、首にふわりと何かを巻き付けられた。
「外、さみぃからこれでも巻いとけ。」
「あ、ありがとうございます…」
「それおっさん臭くないアルか?」
「オイ、失礼なこと言うんじゃねーぞコノヤロー。銀さんまだ加齢臭とかしねぇから!フローラルな香り撒き散らしてるから!!」
「銀ちゃんが撒き散らしてるのは乳臭いいちごの香りアル。」
「乳臭いいちご言うな!いちご牛乳の香りと言え!いい匂いだろうが!」
二人の口論を苦笑しながら見守っていると、突然二人の視線がこちらを捉えた。銀時の目は「臭くないよね!?そうだと言ってよ!!」と訴えている。
伊織は思わずフッと吹き出して緩んだ口元を隠すように銀時のマフラーを手繰り寄せた。
「ふふ、大丈夫ですよ。臭くなんかないです。
坂田さんに抱きしめられた時と同じ良いにお、い、が……」
思ったことをそのまま口にした伊織は途中で自分がとんでも発言をしていることに気づいて「しまった…」と視線を逸らした。
神楽は顔を真っ赤にして俯いてしまった伊織とそんな彼女を見つめたまま固まっている銀時を交互に見比べて息をつく。そして伊織の手を取ると銀時には見向きもせずに「ほら定春、とっとと行くアルよ〜」と外に連れ出したのだった。
*
「銀さーん?いつまでそこにいるんですか?」
なかなか戻ってこない銀時を不審に思ったのか、新八が居間から顔を出して彼の背に向かって声を掛ける。
銀時はハッと意識を取り戻すとその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。
「ぱっつぁん…俺もうダメかもしんねぇわ…」
「え?銀さんがダメ人間なのは前からじゃないですか。」
「バッキャロー!そういうのじゃねェっての!!あークソ!!!」
ワシワシと髪の毛をかきむしりながら足音を立てて居間へ戻ると、ジャンプを手に取ってソファに寝転がる。パラパラとページを捲ったが内容は全く頭に入ってこない。悶々としながら適当に開かれたそれを顔面に押し付けて長い長いため息をつく。
新八はあからさまに様子のおかしい銀時に首を傾げた。
「なんなんですか、さっきから。銀さん変ですよ。」
「ウルセー…別に何もねーから。至って普通だしぃ?!」
「はぁ…」
背もたれの方を向いて動かなくなった銀時を「なんなんだコイツ…」とゲンナリしながら見つめる。
さっき玄関で何か騒いでたけど、余程ひどいことを神楽ちゃんに言われたんだろうか?なんて考えながら机の上に散らばった書類を片していく。
触らぬ面倒臭いモードの銀さんに祟りなし…と足音を潜めて新八は居間から抜け出した。
*
私、物凄く気持ち悪いこと言っちゃったよね、あれは完全に失言だよ…
伊織は神楽に手を引かれながら空っ風で熱くなった頬を冷ましていた。
「絶対引かれた…どうしよう、もう顔を見れない…」
小さくうめきながら顔に手を当てる伊織を見て神楽はケラケラと笑う。あの時、銀時の耳が赤くなっていたのを見たのは自分だけだったようだ。惜しいような惜しくないような…。
「気にすることないネ!伊織ちゃんはいつも銀ちゃんに気を遣いすぎアル。」
「そ、そうかなぁ?
なんていうか、坂田さんには醜態ばっかり晒してるから、気を遣わざるを得ないっていうか…」
初めて万事屋を訪れた時は碌に挨拶もせずに逃げ出しちゃったし、大体泣いているところは見られているし、この間なんて、……
今までの粗相を思い出して罪悪感や恥ずかしさが込み上げてきた伊織は目を閉じて顔を顰めた。
「それアル!」
「それ?」
「その”坂田さん”呼びアルよ!」
神楽はピコンっと思いついたように指をさす。
伊織は「お、思ってた”気を遣う”となんか違うぞ…?」と頬に手を当てた。
「私も新八も名前で呼ぶのに、銀ちゃんのことは名前で呼ばないアルか?」
「名前で!?そ、れは、失礼かなって…坂田さん、私より年上だし…。なんとなく、私の中で年下の子は名前でも呼べるけど、年上の、増して異性の方を名前で呼ぶなんて、考えたこともなかったな。」
「それを言うならクソサドだって伊織ちゃんより年下アルよ?」
「えっと、沖田さんのこと?…え、沖田さんって私より年下なの!?」
「確か姉御と同じネ。」
呆気に取られて「18…沖田さんは、18…」とうわ言のように呟いている伊織の顔の前で手を振ると、ハッと意識を取り戻した。
「なんとなく同い年くらいかと思っていたけれど違ったのね。
うーん…沖田さん。沖田くん。総悟、くん…」
「…やっぱアイツは沖田さん呼びでいいアル。アイツの話はもうおしまいっ!!」
神楽は伊織に名前で呼ばれて総悟が喜ぶ未来を想像し、気に食わなく思ったのかスッパリと彼の話題を取り下げて銀時の話に軌道を戻した。
「銀ちゃんは伊織ちゃんが思ってるほど大層な大人じゃないヨ。伊織ちゃんだって身を以て分かったでしょ?あれはただの変態野郎アル。」
ギクっと肩を揺らして唇を噛み締める伊織は恥ずかしい記憶を追い出すように頭をブンブンと振った。
「ま、まあ、人間誰しも欠点は持ち合わせているものだからね…。」
伊織はマフラーに視線を落として微笑む。
「でも、やっぱり私にとって坂田さんは、尊敬する人だよ。」
「尊敬?」
「うん。無条件に人を助けるなんて、誰にでもできることじゃないもの。
あぁでも、それは坂田さんだけじゃなくて神楽ちゃんや新八くんに真選組の皆さん、桂さんだったり、他にもたくさん。かぶき町は優しい人が本当に多くてびっくりしちゃう。」
「みんな考えなしの馬鹿なだけアルよ。」
「ふふ、そういうふうに思えるのも神楽ちゃんが皆さんのことをよく知っていて信頼してるってことなのかもね。
後腐れのない喧嘩だったり言い合いをできる神楽ちゃん達万事屋さんは特にそう思うな。」
気恥ずかしくて、胸がむず痒くなるようなことを平然と言ってのける伊織に神楽はほんの少し頬を染めて口をつぐんだ。
「坂田さんはそういう優しい人たちの中心にいるように見えるの。憎まれ口を叩くけど、みんなどこかで坂田さんのことを信頼してる。
少なくとも、私が生きてきた中でそんな人に出会えたのは坂田さんが初めてだから…。やっぱり坂田さんって、すごく素敵な人だと思うな。」
ニコニコと笑っている伊織を見て神楽は繋いだ手に力を込めた。やるときはやる男だと分かっている。がしかし、基本的にはだらしない姿でいる銀時の印象は正直に言うとよく思われないことが多い。
そんなうちの社長をこうも真っ向から褒められると自分のことのように悦ばしいとは。
「伊織ちゃんは人の良いところを見つけるのが得意アルな。」
「ふふふ、そうかなあ」
伊織も神楽の手を握り返し、互いに顔を見合わせてくすくすと笑う。いつの間にか折り返し地点の公園に着いていた伊織たちは休憩がてらにベンチに座った。
「定春、遊んできていいアルよ。可愛い子見つけても追っていっちゃ駄目ヨ〜!」
神楽がそう言うや否や定春は人の少ない芝生の方へと走り去っていった。
こんなに寒いのに元気だなぁ、と感心しながら定春を見送る。
少し先の方で元気よく飛んだり跳ねたりしている定春を暫くぼーっと見つめていた。
「あの、伊織ちゃん…」
「なあに?」
さっきまでの様子とは打って変わって神楽がモジモジとしながら伊織の名前を呼ぶ。伊織と目が合った神楽はポケットに手を突っ込んで何かを取り出し、おずおずとそれを差し出した。
伊織は神楽の手の中にあるものを見て小さく口をひらく。
「それ…私の、」
「実は、伊織ちゃんが家出したあの日、服の中から出てきたの、ずっと私が持っていたアル…。ごめんなさい…」
神楽が持っていたものとは、伊織が万事屋から飛び出したあの日、服の中から出てきた彼女のキーケースだった。
「ほ、本当は、すぐに返すつもりだったアル。でも、その、…」
視線を彷徨わせながら言葉を濁す神楽は、恐る恐る伊織の顔を見上げた。潤んだ目でそれを見つめる伊織は怒っているのかよくわからない。
不意に伊織が手を伸ばしてきて神楽はギュッと目を瞑った。
「神楽ちゃん」
伊織は神楽の手ごとキーケースを両手で包み込む。
「ありがとう。」
「この間真選組に謝りに行った時、忘れ物って渡されたのがワンピースだけだったから、てっきりもう無くしちゃったのかと思ってたの…。
神楽ちゃんが持っててくれたなんて…本当によかった。」
はぁ、と息をついた伊織は大切なものが見つかって安堵したのか、ヘラリと笑った。
「…違うヨ。私、これを渡したらまた伊織ちゃんが何処か行っちゃうんじゃないかって、それで、ずっと返せずに持ってたアル…。」
小さな声で謝る神楽の心臓が早鐘を打つ。
隠し持っていたこと、怒っているんだろうか。もう嫌われてしまったのだろうか。
神楽は目を合わせるのが怖くなってじっと足元を見つめた。そんな神楽の心情を察したのか、伊織は神楽の頭を撫でた。あまりにも優しいその手つきに緊張していた心がスッと解きほぐされた。
「…伊織ちゃん、もう何処にも行かないヨネ?」
「今の所、行く当てもないからねぇ。」
神楽の問いかけに伊織は困ったように笑う。
”今の所”それはきっと、帰り方が分かったら帰るということを意味しているのだろう。神楽はほんの少し顔を曇らせた。
「私ね、どうして此処に来てしまったのかとか、いつ帰れるのかとか、不安でしょうがなかったの。
悲しくて、寂しくて、怖くて…。考えれば考えるほどいろんなことが頭の中をよぎって苦しくなってた。」
キーケースの縁をなぞりながらぽつりと呟く。
神楽は伊織の横顔をこっそりと見つめる。
「でも、坂田さんにごちゃごちゃ考えるのはやめろって言われて、暗いことばっかり考えるのは、取り敢えず今はいいかなって思えた。もちろん、いつかはちゃんと向き合わないといけないことではあるんだけどね。」
「全然、わからないことだらけだけど、一つだけ、確かに言えることがあって…。
私にとって今のこの生活も、手放すには惜しいと思えるほど、…好きになっちゃったみたい。」
照れ臭そうに笑いながらそう言った伊織は徐に立ち上がると、小走りでどこかへと駆けて行く。
神楽は驚いてその場に固まったまま伊織を見つめていた。
伊織はドーム型の遊具の頂上に立つと、神楽の方を振り返って大きな声で叫ぶ。
「神楽ちゃーん!!」
「な、何アルかー?」
神楽がベンチから立ち上がっていつもの伊織らしからぬ様子にびっくりしながら聞き返す。伊織は緊張で震える両手を握りしめて口を開いた。
「私、やりたいこと見つかったよ!」
「これからもっと神楽ちゃん達のことを知りたいし、私のことも、たくさん知ってほしいです!」
「伊織ちゃん…」
神楽の元にはいつの間にか定春が戻ってきていて、隣に座って伊織をじっと見つめていた。
伊織はもう一度大きく息を吸い込む。
「し、自然体の、等身大の自分でいられるようになるには、時間がかかるかもしれないけど、…そっ、それでも、いいですかぁあああ!!」
伊織は声が裏返っても、それでも大きな声で叫んだ。変わりたい、変わらなくちゃいけない、そんな一心でいつもの伊織からは考えられないこんな行動を取ったのだ。
頬を真っ赤にしながら何度も息を吸っては吐いてを繰り返す。
まばらとは言え日中の公園にはチラホラと人がいて、興味深げな視線が身体中に突き刺さるが、それでも伊織はグッと耐えて逃げ出さずにいた。
「そんなの…、いっくらでも待つアル!!」
神楽の返事を聞いて漸く気が抜けたのか、その場にヘナヘナとかがみ込んだ伊織は両手で顔を覆った。神楽と定春が駆け足で彼女の元へと向かう。
「伊織ちゃん」
「わたし、私、頑張って、変わるから…!」
思わず溢れてきた涙を拭ってクシャリと笑う伊織の表情は晴れ晴れとしていて、一切の陰りがない。嬉しくなった神楽は伊織をぎゅうっと抱きしめた。
「頑張らなくてもいいアル。伊織ちゃんのペースでいいヨ。」
神楽の言葉にコクコクと頷きながら鼻を啜る。そして一つ、深呼吸をして神楽と定春の顔を見た。
「お家、帰ろっか。」
神楽は満面の笑みで元気よく「うん!」と返事をすると、伊織の手を引っ張って定春の背中に飛び乗った。伊織が目を白黒させているうちに定春は万事屋へと駆け出す。
「ひぇええ…!」
情けない声を上げながら神楽の腰にしがみついた。別の意味で涙が出てきそう…と思いながら引き攣ったような声を絞り出す。
「かぐ、神楽ちゃ、あ、歩いて、帰らないのぉ…!?」
「こっちの方が速いアル!ねぇ?定春!」
「わん!」
「それはっ、そうだけど…!」
まるで安全バー無しのジェットコースターに乗っているような感覚にヒヤヒヤしながら腕に力を込めた。
そのうち、なんだか笑いが込み上げてきて悲鳴混じりの笑い声をあげていると、神楽も楽しげに笑い出す。
どうなるかわからないんだったら、ちょっとくらい楽しんでみたっていいんじゃないか。もしかしたらこの判断を後悔する日が来るかもしれない。でも、それでもいい。私は今を生きればいい。未来のことは、未来の自分に託そう。
今まで自分が元の世界で生きてきた証は自分自身。記憶は塗り替えられていくんじゃない。新しく刻まれていってるだけ。
大丈夫、大丈夫__
心の中で呟いて自分に言い聞かせる。
よし、と顔を上げればもう目の前には”万事屋銀ちゃん”の文字が迫っていた。
階段を登り切った先には私のもう一つの帰る場所がそこに。
__________________
「ただいま」は、今までで一等輝いた笑顔を携えて。