とある音大生の女の子が知らない世界に放り出されるお話
第1章 狭間で揺れ動くは儚き花
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万事屋に帰り着くと、待ち構えていたお登勢達に風呂に放り込まれ、半分寝落ちして溺れかけていたところを慌てて神楽が救出して、そのまま伊織は泥のように眠りについたのだった。
*
翌朝、目覚めた伊織はぼんやりと天井を眺めていた。意識は覚醒したはずなのに、いつまで経っても天井の板目がグニャグニャと曲がって見え、あまりの気持ち悪さに眉を顰める。身を捩った瞬間に胃の奥から何かが込み上げてくるような感覚がして、思わずむせた。
重たい身体に鞭打ってのそりと起き上がる。
気怠さに耐えながら横に視線を移すと、いつもなら寝息を立てている銀時の姿が見当たらなかった。布団も片付けられ、ぽっかりと空いたスペースにスッと肝が冷えていく。
誰もいないの…?
力を振り絞って立ち上がると頭痛と目眩が襲ってきてたたらを踏んだ。なんとか踏ん張って事務所へ繋がる襖の元へ向かうが歪む視界ではまっすぐ歩くこともままならず、ガタガタっと大きな音を立てて襖にぶつかる。
衝撃で僅かに開いた襖から事務所を覗く。
真っ先に視界に入ったのはふわふわとした白い毛。その正体は「クゥン」と甘えるような鳴き声をあげて伊織に擦り寄る定春。
「さだはるくん…」
しかし押し入れも台所も洗面所も、どこにも銀時達の姿が見当たらない。伊織はとうとう玄関でへたり込んでしまった。
冷たいフローリングにポタポタと涙が落ちる。
「さ、さか…さ、っ…らちゃん、し、ん……」
定春は不安げな表情で伊織の涙をぺろっと舐め、身を寄せる。
「さだはるくん、み、みんな、どこ、いっちゃったのかなぁ…」
「キュゥン…」
定春に抱きついて気を紛らわしていたが、いてもたってもいられなくなった伊織はおぼつかない足取りで外へと飛び出した。戸を開けた途端に冷たい風が一気に入り込んでくる。冬用とはいえ寝間着一枚だと寒すぎる。全身に鳥肌が立って身体が震えるが、お構いなしに壁にもたれかかりながら歩き出した。定春が心配そうに伊織の周りをウロウロする。
手すりに縋りつき、一段一段階段を降りて息をつく。丁度踊り場に差し掛かったところでぐるんと世界が回ったかのように視界が揺れた。吐き気さえ催すほどの眩暈が襲い、口元を抑えて蹲る。
定春は『どうしたの?大丈夫?』と言いたげに何度も吠える。このままじゃいけないと感じたのか、階段を駆け下りた。
少しして、下の方からよく聞き慣れた声がかすかに聞こえ伊織は緩慢な動作で顔をあげた。
定春に背中を押されて鬱陶しそうな顔をしていた銀時は踊り場に座り込んで泣いている伊織を見ると目を丸くした。
「伊織さん?!」
「おまっ!?なんつー格好で出てきてんだよ!!」
伊織は銀時達を視界に捉えると安堵したように表情を和らげ、ふらりと立ち上がる。階段を降りようとする伊織の足取りはゆらゆらとしていてあまりに危なっかしく、銀時は急いで駆け上がった。
案の定途中で階段を踏み外し伊織の身体は宙に投げ出されかけたが銀時が難なくキャッチし、事なきを得た。
伊織の身体を支えたことで違和感を感じた銀時は一旦伊織を踊り場に座らせると彼女の額に手を当てる。明らかに平熱を超した熱さに驚きの声を上げた。
「オイ、伊織…お前スゲー熱出てんじゃん!!」
「伊織ちゃん!大丈夫アルか!?」
いつにも増してとろんとした目から涙が溢れている。
銀時が羽織の袖でそれを拭ってやると、伊織は徐に彼に手を伸ばした。伊織の熱っぽい腕が首に絡み、銀時はピタリと動きを止めて瞬きをする。熱い息が胸板に当たり、ドッと心臓が波打った。
「オーイ、伊織さーん…?」
「…よ、よかった、…さかたさんたち、みつけたぁ……」
「ひとりじゃなかった…」と呟いた伊織は目を細めて銀時の胸に頭を埋める。
神楽と新八はキョトンと顔を見合わせ、そしてフッと笑みをこぼした。
「伊織ちゃんひとりにしてごめんネ。私たちバーさんのとこに昨日のこと話しに行ってたアル。」
「伊織さんは疲れてるだろうからまだ起きないと思ってて…。不安にさせちゃいましたね。」
伊織は銀時の肩ごしに神楽と新八を見ると、嬉しそうに微笑んで瞳を閉じた。段々力が抜け、完全に銀時に身を預けたところでふわふわとした空気が一変し、銀時達は慌てて伊織を家の中へと運び入れたのだった。
*
高熱にうなされる伊織はほとんど食事を口にせず、水分補給も促されるまでは取らずに刻々と眠り続けていた。
「熱が出てかれこれ三日目ですけど…ずっとしんどそうですね。」
心配そうに伊織が眠る居間を見つめる新八。
銀時もジャンプをめくって入るもののどこか上の空で、チラチラと伊織の様子を窺っている。
「慣れねえ環境で1ヶ月以上も気ぃ張って過ごしてたんだ。相当ストレスとか疲れが溜まってたんだろ。まぁ、長引いちまうのもしょうがねえよ。」
「慣れない環境…」
もし自分が何も知らない全く別の世界に放り込まれたら…。
大切な人たちや自分が今まで積み上げてきたものも、全部投げ捨てられてしまうんだ。それはもう二度と戻ってこないかもしれないなんて、考えただけで鳥肌が立つ。
じゃあいなくなってしまうのが姉上や銀さんたちだったら?
突然何の連絡もなしにぱったりと姿を消してしまったら。
探さずにはいられないだろう。かぶき町だけじゃない。江戸中、もしくは日本中、果ては宇宙中だって探しに行くかもしれない。きっと不安でしょうがなくって、耐えきれないだろう。
伊織さんの大切な家族や友人は、今頃そんな思いで苦しんでいるのだろうか。
「辛いなんてもんじゃ、ないですよね。」
ソファの背もたれに寄り掛かって天井を仰ぎながらぽつりと呟いた。
銀時はそんな新八を横目でチラリと見て「そうだなぁ」と相槌を打つ。
そしてフゥとため息をつき、ジャンプを閉じてのらりくらりと台所へと向かった。冷蔵庫を開けてイチゴ牛乳を取り出そうと手を伸ばす。
が、その隣にある歩狩汗が視界に入り、数秒悩んだ末に歩狩汗を取り出して寝室へと向かったのだった。
*
日もとうの昔に沈み四更をすぎる頃、銀時は天井のシミを数えながらボーッと考え事をしていた。そういや明日ジャンプの発売日だな〜とか、そろそろ年末に向けて色々片付けていかないとな〜とか、たわいもないこと。
そんな中、ふと新八の言葉を思い出しす。
『辛いなんてもんじゃ、ないですよね。』
伊織はよく自分のことを話す時、少し言葉を濁していた。慎重に言葉を掻い摘んで、言い切った後はこちらの反応を恐る恐る窺うようにじっと見つめてくる。
「へぇ、そうなんだ。」と当たり障りのない返答をすればぎゅっと握りしめていた拳の力が抜けるが、「珍しいな。」と驚けば表情が硬くなるのだ。そんな時は決まって眉を八の字にしてへらりと笑う。余計な詮索をやんわりと拒む笑みは物憂げで、最後は申し訳なさそうに口を噤む。
何故そんな顔をするのかずっと疑問だったが、今ならわかる。ありのままを話してここでの常識との乖離に気づかれることを恐れていたのだろう。
本当のことを言い出せずに罪悪感を募らせて、他人ばかりを気遣って自分のことを後回しにしていたのかと思うと、流石の銀時も胸が痛む。
もっと甘えりゃいーのに…
自分で言うのもなんだけど、俺って結構頼れる男だと思うんだけどなー。
若干(いや、大分)自惚れたことを考えていたら、伊織が起き上がった気配がした。震え気味な呼吸が聞こえ、「伊織」と声を掛ける。
「お、起こしちゃって、ごめんなさい…」
「あーいや、元々起きてたから気にすんな。具合大丈夫か?」
「…だい、じょぶです。ちょっと、お手洗い、いってきます
あの、お気になさらず…」
暗闇で伊織の顔がよく見えない。着いて行こうかと言いかけたが、流石に気を遣いすぎかと思ってそのまま見送った。
しかし、数分経っても戻ってくる気配が一向にない。
かれこれ15分ほどは経った気がする。
うーん………長くね?
心配になった銀時は起き上がって伊織の元へ向かった。
お手洗いの扉は薄く開いていて灯りが漏れている。控えめにノックをしたが反応はなく、「伊織、入るぞー…」と断りを入れてドアノブを引いた。
伊織は床にうずくまって苦しげに息をついていた。背中をさすってやると驚いたようにこちらを見やる。
「す、すみませっ…あの、
「いいって。それより気持ち悪ィんだろ?全部吐いちまえ。その方が楽になっから。」
伊織はハフハフと呼吸を繰り返すばかりでなかなか吐かない。
手伝ってやるか、と鳩尾あたりに右手を添えると彼女の身体がびくりと揺れた。左手で顎を掴み、人差し指をすこしカサついた唇にフニッと押し当てる。
「ほら、口開けてみ?」
イヤイヤと首を振る伊織は銀時の手を押しのけた。
「いいいや、あの、いいです…」
「だーいじょうぶだって。俺酔っ払いの介抱よくするし吐くのも吐かせんの得意だから。」
「で、も…」
「大丈夫大丈夫。怖くない怖くない。」
逃げ腰な伊織を半ば強引に捕まえてもう一度指を添えると、観念したかのように小さく口を開いた。
伊織の口の中はとても熱く、人差し指を入り込ませればねっとりと唾液が絡み付く。伊織は眉を顰めてポロポロと涙をこぼしながら頬を上気させた。
「っん、…ぁ、」
身体を震わせて小さく喘ぐ伊織はひどく艶かしく、銀時は思わずゴクリと喉を鳴らした。
このままコイツの口ん中を掻き回したら、どうなっちまうのか___
そんな考えが銀時の頭の中をよぎった。しかし今からするのは決して淫らな行為などではない。
いかんいかん…と心を落ち着かせていると、動きを止めたことで不安になったのか、伊織が指を加えたまま銀時を見上げた。
やけに情欲をそそられる伊織の顔をじっと見つめる。無意識に口内に入れた人差し指を彼女の舌にグリッと擦り合わせた。
伊織は驚いたように目を丸くし、苦しげな表情で銀時の指を遠慮がちに舌で押しやる。伊織の口の端から唾液がツゥっと垂れてきたところでようやく我に返り、「い。いくぞー」とすこし裏返った間抜けな声を出した。
舌の付け根をグッと押して鳩尾をほんの少し圧迫してやる。
「…んん…っっひ、…ぅえ゛ぇ、…」
「おー上手上手」
そうして胃液を吐き終えた伊織は羞恥心やら何やらで顔を覆ってグスグスと泣いていた。銀時はタオルと口を濯ぐための水を取りに足早に台所へと向かう。
思いっきり蛇口を捻ってまだ彼女の熱が残った手を流水で洗う。
…ヤベエエエエ!!!!
俺さっき何しようとした!!??雰囲気に呑まれちまうところだったわ!
いや、雰囲気も何も、ただ伊織が上手く吐けないから俺はそれを手伝ってやっただけなんだけどね!?べべべべ別にヤラシイこと考えてねえから!うん!
俺はただ!介抱してやっただけ!!!そう!ただの!介抱!!
グワァアアア!!!と頭を掻きむしって平常心を取り戻した銀時は急いで伊織のところへと戻った。
「おし。もう大丈夫だな。」
「う゛ぅ…ほんとに、ごめんなひゃい…」
「いや、気にすんなって。」
つーか、こっちこそ色々すんません…と心の中で謝った銀時は俯いたままの伊織の頭をポンポンと撫でる。
「んじゃ、布団に戻るか。」
立ち上がれそうにない伊織を抱き上げると心底申し訳なさそうに謝って身を縮こませた。
寝室に戻って伊織を布団に寝かすと、銀時もすぐに自分の布団の中に潜り込む。そして枕に顔を埋めて「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」と声にならない叫び声をあげた。
伊織の舌の感触も、上目遣いで見つめる潤んだ瞳も、悩ましげなあの表情も、全てが生々しく思い返される。
あのまま滅茶苦茶に乱してやりたい…って、いやいやいや…
ダメだろ!流石にそりゃねえよ!!俺ただのド屑野郎じゃねーか!!
初めて会った日からそこそこ変態発言をしてついこの間はエッチだと指摘されたのに、これ以上の失態を犯すつもりか!と自分に叱責する。
いや、でも……
好きでもない奴のことを本気で抱きたいとは思わねえんだよなァ…
…………は?
待て待て待て待て…ちょーっと落ち着けェ俺!!!?
いや、確かにそうは思わないよ?いや、でもそれってつまり………
ガバッと起き上がって勢いよく首を捻る。いつもは向こうを向いて決して寝顔を見せない伊織が今日に限ってこちらを向いていた。薄く開いた口に視線が集中する。ハッと正気に戻るとウオオオオオ!!!とまたもや頭を掻きむしって気を紛らわせる。
好きって言うのはlikeの好きであって別にloveじゃないっていうか…
いや、違う。否定したいわけじゃ無いんだ。
ほら、伊織って可愛いし優しいじゃん?
良い女だよ。おう、それは断言できる。
顔がいい奴も優しい奴も別にいないわけじゃないけど、でもそいつらとはなんか違うっつーか…
なんかこう…ただ優しいから好きだーとかそんなんじゃなくて…
そう、あれは伊織だから成せる技というかだな。ほら、雰囲気とか声音とか仕草とかな!一つでも欠けてたらあぁはならないんだよ。うん。
……じゃなくて!!!!
いや、普通に考えて俺気持ち悪くね?何言ってんだ俺は…
思春期のガキじゃねェんだから!!
ウガアアアアア!!!!やめだやめ!!もう俺は何も考えねえから!!知らん!!俺ァ何も知らんぞ!!!
銀時は布団に倒れ込み、唸りながらゴロゴロとのたうち回る。
結局その後は一睡もできず、翌朝万事屋を訪れた新八が寝起きの銀時を見て「うわっ!?」と驚嘆の声を上げた。
「銀さん…今日の頭はいつも以上にクルクルパーですね…」
「うるせーよ…これはオシャレだから。頭パーとか言わないでくんない?傷つくんだけど。俺めっさ頭良いから。ごっさクレバーだから。」
「いや、別に頭がパーとは言ってないんですけど…」
呆れたように突っ込む新八をよそに銀時は重苦しいため息をついて洗面所へと向かったのだった。
__________________
今はまだ、知らないふりをする。
*
翌朝、目覚めた伊織はぼんやりと天井を眺めていた。意識は覚醒したはずなのに、いつまで経っても天井の板目がグニャグニャと曲がって見え、あまりの気持ち悪さに眉を顰める。身を捩った瞬間に胃の奥から何かが込み上げてくるような感覚がして、思わずむせた。
重たい身体に鞭打ってのそりと起き上がる。
気怠さに耐えながら横に視線を移すと、いつもなら寝息を立てている銀時の姿が見当たらなかった。布団も片付けられ、ぽっかりと空いたスペースにスッと肝が冷えていく。
誰もいないの…?
力を振り絞って立ち上がると頭痛と目眩が襲ってきてたたらを踏んだ。なんとか踏ん張って事務所へ繋がる襖の元へ向かうが歪む視界ではまっすぐ歩くこともままならず、ガタガタっと大きな音を立てて襖にぶつかる。
衝撃で僅かに開いた襖から事務所を覗く。
真っ先に視界に入ったのはふわふわとした白い毛。その正体は「クゥン」と甘えるような鳴き声をあげて伊織に擦り寄る定春。
「さだはるくん…」
しかし押し入れも台所も洗面所も、どこにも銀時達の姿が見当たらない。伊織はとうとう玄関でへたり込んでしまった。
冷たいフローリングにポタポタと涙が落ちる。
「さ、さか…さ、っ…らちゃん、し、ん……」
定春は不安げな表情で伊織の涙をぺろっと舐め、身を寄せる。
「さだはるくん、み、みんな、どこ、いっちゃったのかなぁ…」
「キュゥン…」
定春に抱きついて気を紛らわしていたが、いてもたってもいられなくなった伊織はおぼつかない足取りで外へと飛び出した。戸を開けた途端に冷たい風が一気に入り込んでくる。冬用とはいえ寝間着一枚だと寒すぎる。全身に鳥肌が立って身体が震えるが、お構いなしに壁にもたれかかりながら歩き出した。定春が心配そうに伊織の周りをウロウロする。
手すりに縋りつき、一段一段階段を降りて息をつく。丁度踊り場に差し掛かったところでぐるんと世界が回ったかのように視界が揺れた。吐き気さえ催すほどの眩暈が襲い、口元を抑えて蹲る。
定春は『どうしたの?大丈夫?』と言いたげに何度も吠える。このままじゃいけないと感じたのか、階段を駆け下りた。
少しして、下の方からよく聞き慣れた声がかすかに聞こえ伊織は緩慢な動作で顔をあげた。
定春に背中を押されて鬱陶しそうな顔をしていた銀時は踊り場に座り込んで泣いている伊織を見ると目を丸くした。
「伊織さん?!」
「おまっ!?なんつー格好で出てきてんだよ!!」
伊織は銀時達を視界に捉えると安堵したように表情を和らげ、ふらりと立ち上がる。階段を降りようとする伊織の足取りはゆらゆらとしていてあまりに危なっかしく、銀時は急いで駆け上がった。
案の定途中で階段を踏み外し伊織の身体は宙に投げ出されかけたが銀時が難なくキャッチし、事なきを得た。
伊織の身体を支えたことで違和感を感じた銀時は一旦伊織を踊り場に座らせると彼女の額に手を当てる。明らかに平熱を超した熱さに驚きの声を上げた。
「オイ、伊織…お前スゲー熱出てんじゃん!!」
「伊織ちゃん!大丈夫アルか!?」
いつにも増してとろんとした目から涙が溢れている。
銀時が羽織の袖でそれを拭ってやると、伊織は徐に彼に手を伸ばした。伊織の熱っぽい腕が首に絡み、銀時はピタリと動きを止めて瞬きをする。熱い息が胸板に当たり、ドッと心臓が波打った。
「オーイ、伊織さーん…?」
「…よ、よかった、…さかたさんたち、みつけたぁ……」
「ひとりじゃなかった…」と呟いた伊織は目を細めて銀時の胸に頭を埋める。
神楽と新八はキョトンと顔を見合わせ、そしてフッと笑みをこぼした。
「伊織ちゃんひとりにしてごめんネ。私たちバーさんのとこに昨日のこと話しに行ってたアル。」
「伊織さんは疲れてるだろうからまだ起きないと思ってて…。不安にさせちゃいましたね。」
伊織は銀時の肩ごしに神楽と新八を見ると、嬉しそうに微笑んで瞳を閉じた。段々力が抜け、完全に銀時に身を預けたところでふわふわとした空気が一変し、銀時達は慌てて伊織を家の中へと運び入れたのだった。
*
高熱にうなされる伊織はほとんど食事を口にせず、水分補給も促されるまでは取らずに刻々と眠り続けていた。
「熱が出てかれこれ三日目ですけど…ずっとしんどそうですね。」
心配そうに伊織が眠る居間を見つめる新八。
銀時もジャンプをめくって入るもののどこか上の空で、チラチラと伊織の様子を窺っている。
「慣れねえ環境で1ヶ月以上も気ぃ張って過ごしてたんだ。相当ストレスとか疲れが溜まってたんだろ。まぁ、長引いちまうのもしょうがねえよ。」
「慣れない環境…」
もし自分が何も知らない全く別の世界に放り込まれたら…。
大切な人たちや自分が今まで積み上げてきたものも、全部投げ捨てられてしまうんだ。それはもう二度と戻ってこないかもしれないなんて、考えただけで鳥肌が立つ。
じゃあいなくなってしまうのが姉上や銀さんたちだったら?
突然何の連絡もなしにぱったりと姿を消してしまったら。
探さずにはいられないだろう。かぶき町だけじゃない。江戸中、もしくは日本中、果ては宇宙中だって探しに行くかもしれない。きっと不安でしょうがなくって、耐えきれないだろう。
伊織さんの大切な家族や友人は、今頃そんな思いで苦しんでいるのだろうか。
「辛いなんてもんじゃ、ないですよね。」
ソファの背もたれに寄り掛かって天井を仰ぎながらぽつりと呟いた。
銀時はそんな新八を横目でチラリと見て「そうだなぁ」と相槌を打つ。
そしてフゥとため息をつき、ジャンプを閉じてのらりくらりと台所へと向かった。冷蔵庫を開けてイチゴ牛乳を取り出そうと手を伸ばす。
が、その隣にある歩狩汗が視界に入り、数秒悩んだ末に歩狩汗を取り出して寝室へと向かったのだった。
*
日もとうの昔に沈み四更をすぎる頃、銀時は天井のシミを数えながらボーッと考え事をしていた。そういや明日ジャンプの発売日だな〜とか、そろそろ年末に向けて色々片付けていかないとな〜とか、たわいもないこと。
そんな中、ふと新八の言葉を思い出しす。
『辛いなんてもんじゃ、ないですよね。』
伊織はよく自分のことを話す時、少し言葉を濁していた。慎重に言葉を掻い摘んで、言い切った後はこちらの反応を恐る恐る窺うようにじっと見つめてくる。
「へぇ、そうなんだ。」と当たり障りのない返答をすればぎゅっと握りしめていた拳の力が抜けるが、「珍しいな。」と驚けば表情が硬くなるのだ。そんな時は決まって眉を八の字にしてへらりと笑う。余計な詮索をやんわりと拒む笑みは物憂げで、最後は申し訳なさそうに口を噤む。
何故そんな顔をするのかずっと疑問だったが、今ならわかる。ありのままを話してここでの常識との乖離に気づかれることを恐れていたのだろう。
本当のことを言い出せずに罪悪感を募らせて、他人ばかりを気遣って自分のことを後回しにしていたのかと思うと、流石の銀時も胸が痛む。
もっと甘えりゃいーのに…
自分で言うのもなんだけど、俺って結構頼れる男だと思うんだけどなー。
若干(いや、大分)自惚れたことを考えていたら、伊織が起き上がった気配がした。震え気味な呼吸が聞こえ、「伊織」と声を掛ける。
「お、起こしちゃって、ごめんなさい…」
「あーいや、元々起きてたから気にすんな。具合大丈夫か?」
「…だい、じょぶです。ちょっと、お手洗い、いってきます
あの、お気になさらず…」
暗闇で伊織の顔がよく見えない。着いて行こうかと言いかけたが、流石に気を遣いすぎかと思ってそのまま見送った。
しかし、数分経っても戻ってくる気配が一向にない。
かれこれ15分ほどは経った気がする。
うーん………長くね?
心配になった銀時は起き上がって伊織の元へ向かった。
お手洗いの扉は薄く開いていて灯りが漏れている。控えめにノックをしたが反応はなく、「伊織、入るぞー…」と断りを入れてドアノブを引いた。
伊織は床にうずくまって苦しげに息をついていた。背中をさすってやると驚いたようにこちらを見やる。
「す、すみませっ…あの、
「いいって。それより気持ち悪ィんだろ?全部吐いちまえ。その方が楽になっから。」
伊織はハフハフと呼吸を繰り返すばかりでなかなか吐かない。
手伝ってやるか、と鳩尾あたりに右手を添えると彼女の身体がびくりと揺れた。左手で顎を掴み、人差し指をすこしカサついた唇にフニッと押し当てる。
「ほら、口開けてみ?」
イヤイヤと首を振る伊織は銀時の手を押しのけた。
「いいいや、あの、いいです…」
「だーいじょうぶだって。俺酔っ払いの介抱よくするし吐くのも吐かせんの得意だから。」
「で、も…」
「大丈夫大丈夫。怖くない怖くない。」
逃げ腰な伊織を半ば強引に捕まえてもう一度指を添えると、観念したかのように小さく口を開いた。
伊織の口の中はとても熱く、人差し指を入り込ませればねっとりと唾液が絡み付く。伊織は眉を顰めてポロポロと涙をこぼしながら頬を上気させた。
「っん、…ぁ、」
身体を震わせて小さく喘ぐ伊織はひどく艶かしく、銀時は思わずゴクリと喉を鳴らした。
このままコイツの口ん中を掻き回したら、どうなっちまうのか___
そんな考えが銀時の頭の中をよぎった。しかし今からするのは決して淫らな行為などではない。
いかんいかん…と心を落ち着かせていると、動きを止めたことで不安になったのか、伊織が指を加えたまま銀時を見上げた。
やけに情欲をそそられる伊織の顔をじっと見つめる。無意識に口内に入れた人差し指を彼女の舌にグリッと擦り合わせた。
伊織は驚いたように目を丸くし、苦しげな表情で銀時の指を遠慮がちに舌で押しやる。伊織の口の端から唾液がツゥっと垂れてきたところでようやく我に返り、「い。いくぞー」とすこし裏返った間抜けな声を出した。
舌の付け根をグッと押して鳩尾をほんの少し圧迫してやる。
「…んん…っっひ、…ぅえ゛ぇ、…」
「おー上手上手」
そうして胃液を吐き終えた伊織は羞恥心やら何やらで顔を覆ってグスグスと泣いていた。銀時はタオルと口を濯ぐための水を取りに足早に台所へと向かう。
思いっきり蛇口を捻ってまだ彼女の熱が残った手を流水で洗う。
…ヤベエエエエ!!!!
俺さっき何しようとした!!??雰囲気に呑まれちまうところだったわ!
いや、雰囲気も何も、ただ伊織が上手く吐けないから俺はそれを手伝ってやっただけなんだけどね!?べべべべ別にヤラシイこと考えてねえから!うん!
俺はただ!介抱してやっただけ!!!そう!ただの!介抱!!
グワァアアア!!!と頭を掻きむしって平常心を取り戻した銀時は急いで伊織のところへと戻った。
「おし。もう大丈夫だな。」
「う゛ぅ…ほんとに、ごめんなひゃい…」
「いや、気にすんなって。」
つーか、こっちこそ色々すんません…と心の中で謝った銀時は俯いたままの伊織の頭をポンポンと撫でる。
「んじゃ、布団に戻るか。」
立ち上がれそうにない伊織を抱き上げると心底申し訳なさそうに謝って身を縮こませた。
寝室に戻って伊織を布団に寝かすと、銀時もすぐに自分の布団の中に潜り込む。そして枕に顔を埋めて「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」と声にならない叫び声をあげた。
伊織の舌の感触も、上目遣いで見つめる潤んだ瞳も、悩ましげなあの表情も、全てが生々しく思い返される。
あのまま滅茶苦茶に乱してやりたい…って、いやいやいや…
ダメだろ!流石にそりゃねえよ!!俺ただのド屑野郎じゃねーか!!
初めて会った日からそこそこ変態発言をしてついこの間はエッチだと指摘されたのに、これ以上の失態を犯すつもりか!と自分に叱責する。
いや、でも……
好きでもない奴のことを本気で抱きたいとは思わねえんだよなァ…
…………は?
待て待て待て待て…ちょーっと落ち着けェ俺!!!?
いや、確かにそうは思わないよ?いや、でもそれってつまり………
ガバッと起き上がって勢いよく首を捻る。いつもは向こうを向いて決して寝顔を見せない伊織が今日に限ってこちらを向いていた。薄く開いた口に視線が集中する。ハッと正気に戻るとウオオオオオ!!!とまたもや頭を掻きむしって気を紛らわせる。
好きって言うのはlikeの好きであって別にloveじゃないっていうか…
いや、違う。否定したいわけじゃ無いんだ。
ほら、伊織って可愛いし優しいじゃん?
良い女だよ。おう、それは断言できる。
顔がいい奴も優しい奴も別にいないわけじゃないけど、でもそいつらとはなんか違うっつーか…
なんかこう…ただ優しいから好きだーとかそんなんじゃなくて…
そう、あれは伊織だから成せる技というかだな。ほら、雰囲気とか声音とか仕草とかな!一つでも欠けてたらあぁはならないんだよ。うん。
……じゃなくて!!!!
いや、普通に考えて俺気持ち悪くね?何言ってんだ俺は…
思春期のガキじゃねェんだから!!
ウガアアアアア!!!!やめだやめ!!もう俺は何も考えねえから!!知らん!!俺ァ何も知らんぞ!!!
銀時は布団に倒れ込み、唸りながらゴロゴロとのたうち回る。
結局その後は一睡もできず、翌朝万事屋を訪れた新八が寝起きの銀時を見て「うわっ!?」と驚嘆の声を上げた。
「銀さん…今日の頭はいつも以上にクルクルパーですね…」
「うるせーよ…これはオシャレだから。頭パーとか言わないでくんない?傷つくんだけど。俺めっさ頭良いから。ごっさクレバーだから。」
「いや、別に頭がパーとは言ってないんですけど…」
呆れたように突っ込む新八をよそに銀時は重苦しいため息をついて洗面所へと向かったのだった。
__________________
今はまだ、知らないふりをする。