とある音大生の女の子が知らない世界に放り出されるお話
第1章 狭間で揺れ動くは儚き花
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「……んん」
スマホのアラームが聞こえ、顔を顰めて鳴り続けるアラームを止める。
ベッドから立ち上がってあくびをしながら洗面所の扉を開け、冷たい水で顔を洗い、歯磨きをしながら寝癖を直した。
「…んぇ?」
私、なんでここにいるんだろう…?
何故か見慣れた自分の家の家具や物に囲まれた自分が鏡に写っている。霧がかかったかのような頭では何かを考える気にもなれなくて、久々の一人暮らしのモーニングルーティンを黙々とこなした。
着替えを済ませて冷蔵庫を開け、取り出した烏龍茶をコップに注ぐ。フカフカのクッションの上に座ってそれを飲みながらローテーブルに置かれたままの楽譜やプリント、パソコンを眺めた。
楽譜をめくって中を覗くと、音符など一切見当たらないただの真っ白な紙だった。首を傾げながら散らばっているプリントを手に取って見るが、楽譜同様何も書かれていない。パソコンを開けば、真っ白な画面。
伊織は膝を抱えて目を閉じた。
やけにリアルな夢だと思ったら…そうでもないみたい。
突如、伊織のスマホが着信音を鳴らす。スマホを取るのも億劫で、動かずに音が途切れるのを待ったが、いつまで経っても鳴り止まない。
ため息をついて立ち上がりスマホの画面を見たが、通話ボタン以外表示が無く、誰からの着信かわからない。
恐る恐るタップしてスマホを耳に当てた。
「…もしもし?」
『あぁ伊織!』
「お、かあさん…」
『もう!全然電話出ないからまだ寝てるのかと思ったじゃない!』
「お母さん…お母さんっ!!」
伊織は手から滑り落ちそうになるスマホを両手で持って嗚咽を漏らしながら何度も「お母さん」と呟いた。
『ちょ、どうしたの?まぁた泣いてるでしょ伊織』
「っ…お母さん、私、帰りたいよぉ…!お家に、かえ、り、たいっ…!」
蹲って泣きじゃくっていると、母が優しげな声で語りかけてくる。
『伊織はいつまで経っても泣き虫ね。
ふふふ、そんなあなたに良いお知らせが一つあります!』
「…なあに?」
『私とお父さん、今伊織の家の近くまで来ているの。ね、探してご覧。私たち、伊織が来るのを待っているから…』
「どこ?ねえ、どこにいるの?お母さん!」
それ以降返事はなく、スマホの画面はパソコンのように真っ白になっていた。
伊織は涙を拭って家を飛び出した。歩道は誰も歩いていないし車道を通る車も一つも見当たらない。自分以外人の気配のない街はどこか不自然で、ボヤボヤとしている。
スニーカーで地面を蹴って必死に人影を探した。
「お母さん!!お父さん!!どこにいるの?!」
「伊織、こっちだよ。」
父の声が聞こえた方に顔を向けると、二人は海辺に立っていた。
伊織は息をこぼして顔を歪める。
「お父さん、お母さん…!」
朗らかに笑っている両親に無性に抱きつきたくなって駆け出した。
すると母が手を振りながら何かを叫ぶ。
「伊織ー!私たちあの岬まで行ってみようと思うのー!」
「ちょっと待ってよぉー!!」
声を張り上げて制止したが、二人は笑って歩き出す。
「ねえ、待ってってば!!お母さん!お父さん!」
父と母との距離がとても遠く感じて急に不安になり、さらに大きく踏み出す。途端に、砂に足を取られて両手をついた。大きな石の粒が掌に食い込んで顔をしかめる。
焦りと苛立ちで適当に手を払って二人がいる先を見る。
たった数秒しか経ってないはずなのに、なんでこんなに離れているのか。
置いていかないで。そんなに遠くに行かないでよ!
涙を堪えて走り出す。走って走って、何度も呼び掛けた。
それでもどんどん距離は開いていく。
気がつけば辺り一面は真っ暗闇で海なんて見えやしない。しかし、伊織が前に進むのを阻むかのように黒い水のような何かが足にまとわりつく。ザブザブとかき分けて必死に手を伸ばす。
父と母は私のことを待っている。だって、二人も手を伸ばして、笑ってるじゃない!
「伊織!早くこっち来なさいよぉ!」
「伊織、ほら、おいで。」
「ずっと進んでるのに近づけないの!ねえ、お母さんたちがこっちに来てよ…!!」
「___…でしょう。」
「………と。」
「待って!ねえ、聞こえないの!!何を言っているの?!ねえったら!!!」
伊織はギュッと目を瞑って叫んだ。ボロボロと涙がこぼれ落ちて闇に吸い込まれていく。
手の甲で涙を拭って走ろうとした時、自分の格好が変わっていることに気づいた。お登勢にもらった着物を纏っている。
「な、んで…」
キンッキンッ!
伊織は背後から聞こえてきた金属がぶつかり合う音に驚いて振り向いた。
「…っっ!」
口を塞いで息を潜める。
銀時達が誰かと戦っていた。襲ってくる敵に一太刀浴びせ、鳩尾を蹴り上げ、顔面を殴りつける。容赦無くバッサバッサと斬れば敵の血が舞った。
「ひっ…!!」
喧騒から目を背け、耳を塞いで蹲る。呻き声も何かが引き裂かれる音も何も聞きたくないのに、聞こえてしまう。
怖くなった伊織はブルブルと震える足を鞭打って銀時達がいる場所とは逆方向に走り出した。
怖い…!怖い!!
「伊織!!そっちに行くんじゃねえ!!!」
「私達から離れちゃダメアル!」
「伊織さん戻ってきてください!」
嫌に鳴り響く喧騒に混じって銀時達の声が聞こえ、振り返ろうとした時だった。
自分に大きな影が落ちているのに気づき、上を見上げると、刀を振り上げた男が一人。心臓が一際強く波打ち、斬撃を避けようと後ずさるも既に真剣は目の前に迫っていた。
悲鳴を上げる前に胸元を袈裟懸けに斬られ、あの日と同じ、身体から血が流れ出てカッと熱くなるような痛みを感じる。
血の気が引いていくのと共に、次第に意識も遠のいていった。
………
「…っっ!!」
勢いよく顔を上げると、パッと涙が飛び散った。
あたりを見渡せば、そこは万事屋の居間で、ピタリと寄り添った定春と目が合う。
しゃくり上げながら一度しまったワンピースと鍵を取り出した。震える手で帯を解いて着物や足袋を脱ぎ捨て、それに着替える。
ポケットに鍵を突っ込んで居間から飛び出し、事務所に置いてある紙と鉛筆を手に取り、文字を殴り書く。
「ごめんなさい…ごめんなさいっ…!!」
やっぱり私はここに居れない…!もう、帰りたいっ…!!
こんな風に出ていくことがどれだけ失礼で迷惑かは分かっている。
分かっているけど、これからもずっと迷惑をかけながら居座り続けるなんて耐えられない。それに、またあの日のように怖い思いをするのももう懲り懲りだ。
汚い字で書き終えたそれをテーブルに置いたまま、フラッと立ち上がり玄関に向かった。すると定春が尻尾を振ってついて来る。伊織の顔を見ると涙をペロリと舐めてすりすりと頭を擦り付けた。
「ごめんっ、…ごめんね、定春くん」
伊織は定春を弱々しく押しのけて草履を引っ掛けると戸を開けた。それでもついて来ようとする定春を見て唇を噛み締める。
「…っ、ついてきちゃ、ダメだから。私、もうっ、帰る…!」
「クゥン…」
「…ごめんね、っふ…本当に、ごめんなさい…!」
ピシャリと戸を閉めて伊織は走り出した。
いろんな感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて滂沱の涙を流す。冷たい風が、空気が身に刺さるが、何も考えずに足を動かす。
寒さで手足は悴み、吹き曝しの二の腕には鳥肌が立っている。傷がジンジンと痛む。
それでも足を止めずに歩き続けた。何分、何時間、どれだけ時間が経ったかわからない。いつの間にか冷たい雨がシトシトと降り出し、冷え切った身体からさらに体温を奪っていく。
「…っうぁ!」
足がもつれてバランスを崩した。疲れ切った体では持ち堪えることができず、地面に倒れ伏す。
いたい……っ、痛い、よぉ…!もう、やだあ…
いつの間にか土砂降りになった雨が全身に降りかかる。蹲って脇腹の傷を抑えて泣き声をあげた。
帰るべき場所に帰れない。戻れる場所にも戻れない。向かうべき所はどこなのか。
殴りつけるような雨はまるで伊織の心を表しているかのようだった。
*
「新八!伊織ちゃんいたアルか?!」
「ううん…こっちはいない」
「こっちもいねえぞ。あとは山崎だけか…」
神楽達はかぶき町中を探し回った。しかし、伊織らしき人影はどこにも見当たらない。
神楽は傘の柄をギュッと握りしめて歯を食いしばる。
三人が山崎を待っていると、一台のパトカーが彼らの前に止まり、運転席の窓が開いた。
「皆乗って!」
山崎の一声で三人はすぐにパトカーに乗り込み、そのまま急発進した。
「実はさっき局長から連絡があったんだ。四半刻前くらいに○○辺りで傘もささずに薄着で歩いている女性がいたって通報があったらしい。」
「それきっと伊織ちゃんネ!着物が脱ぎ捨ててあったのはそういうことアルか…」
「普通に考えて徒歩で行く距離じゃねえな。オイ、土方さん達は?」
「それが全く真逆に行ってたらしいです…今急いで引き返しているところかと。」
「天候もだんだん荒れてきているし、怪我だってまだ治りかけなのに…伊織さん大丈夫でしょうか…?」
新八は眼鏡についた滴を拭って窓の外を見た。雲に覆われた空からはバケツをひっくり返したかのような雨降っている。
こんな天候の中数時間も歩き回っていたら確実に体力も体温も奪われてしまうだろう。
何処かで倒れてやしないか、怪我してはいないか、いろんな不安がモヤモヤと募るばかりだ。
「新八くん、伊織さんが何処に行ったのか、何か手がかりはないの?」
「手がかり、って言えるかわからないんですが…書き置きがあったんです。帰り道が分かったかもしれない、と。」
「え?じゃあ伊織ちゃんは自分の家に向かっているってこと?」
「違うアル!絶対、伊織ちゃんは嘘ついてるネ!」
神楽が運転席のシートを掴んで声を張り上げた。山崎は「うわぁ!?」と驚いてハンドルを捻り、ガクンと車が揺れる。
総悟はミラー越しに神楽と新八を見てほんの少し眉を潜めた。
「なんでそう言えるんだよ。」
「だって、あんなに乱雑に書かれた文字で、しかも涙の跡だってあったんですよ!?どう考えたって不自然ですよ!!」
「…オイ、お前何が言いたいアルか。探す必要がないとでも思ってるアルか。」
総悟の突っかかるような物言いに神楽は青筋を立てて静かに問うた。車内の空気が凍りつき、山崎と新八はオロオロと二人を窺う。
総悟はハァと息を吐いて「別にそういう意味じゃねえよ」と呟いた。
「仮にだ。伊織さんが本当に帰り道が分かっていたとしたらどうすんだ、って言ってんだよ。
オメーらにとっちゃ伊織さんは家族も同然なのかもしれねえが、伊織さんは居たくて万事屋に居座ってるわけじゃねえ。迷子で家がどこにあんのか分かんねえから仮の家としてそこに居る。」
「伊織ちゃんは万事屋に居たいって自分の口でそう言ったアル!勝手なこと言ってんじゃねえヨ!!」
新八は初めて伊織にかぶき町を案内して河原で話したときのことを思い出した。
かぶき町を見渡す伊織はずっとビクビクしていた。帰れるのかな、と呟いた伊織の横顔はすごく寂しそうで…
そういえばあの時は絶対に家に送り返してあげるんだ、って励ましたり、情報をかき集めたりしてたんだ。でも、伊織さんがいるのがすごく居心地良くて、いつの間にか僕たちは伊織さんが此処で安心して過ごせるにはどうしたらいいのか、とかそんなことばかり考えてた。
もしかして、僕たちの存在は伊織さんにとって障害になっているんだろうか。僕たちは今、無意識に伊織さんを帰らせないように引き止めているんじゃないか?
「興奮してんじゃねえよ。俺はただ、お前らに伊織さんと別れる覚悟があんのか聞いてんだ。特にお前だチャイナぁ。
そんな調子じゃあ、駄々捏ねて伊織さんを困らせるのが目に見えてるぜ。ズカズカ他人のパーソナルスペースに入り込んでお前らの輪の中に入れるのは結構なことだが、俺は伊織さんのことはキッチリ線引きする必要があると思う。」
「沖田隊長…今そんなこと言わなくたっていいじゃないですかぁ。」
「うるせえよザキ。俺は率直な意見を言っただけだ。家族ごっこをやって離れ難くなるんだったらただの迷子とその保護者の関係に戻れっつってんだ。」
神楽はまるで頭を石で殴りつけられたかのような衝撃を受けた。
初めて会った時から伊織の雰囲気が妙に心地良く、彼女の優しさには邪なものが一切ないとすぐに見抜くことができた。
だからもっと側にいたくて。桂に泣かされたあの日、伊織とこれからも一緒に万事屋で生活出来ることが嬉しくてたまらなかった。
しかし、総悟が言うように伊織は本当に帰るべき場所が見つかれば帰ってしまうんだ。そうか、この生活は元々期限付きなんだ。
でも…
「…もし、伊織ちゃんの家がどこにあるのか分かっても、今は引き止めるアル。」
「神楽ちゃん…」
「だって、まだ伊織ちゃんはあの日の怪我も治ってない。心だってずっと傷ついたままネ。そんな状態のままお別れなんて無責任にも程があるアル。だから絶対に連れて帰る。」
「僕もそう思う。伊織さんをこのまま帰すなんてできないよ。伊織さんのこと支えてあげるって決めたんだ。投げ出したりなんかしない。」
半分はさよならをしたくないための言い訳でもある。それでも、伊織を思う気持ちに嘘偽りはなかった。
総悟はミラーから視線を逸らした。
「伊織ちゃんの家がどこにあるのか分かったにしろ分かってないにしろ、今は伊織ちゃんを見つけることが最優先、ですね。
それに俺だって伊織ちゃんをこのまま家に帰すのは反対ですよ。元気になってくれるまでなんでもするって決めたんで。」
「分かってらぁ。それに俺はもしもの話をしてんだ。
伊織さんがこんな大胆な出て行き方するとは思えねえしな。
ま、ただの戯言だと思って忘れてくれィ。」
「戯言って…隊長はもっとタイミングを見計らうべきだと思います。」
「黙れジミー。モブは黙って運転しときゃいいんだよ。」
「ひどい!そんな言い方はないでしょ!!」
山崎はぐぬぬと眉間にシワを寄せてハンドルを切った。
「…やっぱりお前はクソサドアル。ほんとヤな奴過ぎて反吐が出るネ。」
「そりゃどーも。」
神楽が窓の外を見ながら総悟の悪態をつく。総悟は薄ら笑いを浮かべながら嫌味ったらしく返事をした。
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今は別れなんて考えない。ただ君に寄り添いたいんだ。