とある音大生の女の子が知らない世界に放り出されるお話
第1章 狭間で揺れ動くは儚き花
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「___う゛ぅ…っはぁ、……」
真夜中、銀時は遠くから聞こえる小さな唸り声で目が覚めた。
微睡む思考の中で神楽か?と考える。真夜中にうるせえなぁ…と重たい目蓋を閉じて寝返りを打つ。ふと目を開けて伊織の布団を視界に入れたら、それはもぬけの殻だった。
霞かけていた意識が一瞬で引き戻され、ガバリと飛び起きる。
声が聞こえるのは神楽が寝ている押入れでも、この寝室でもない。寝室の向こうの事務所からだった。
「伊織!」
バッと襖を開けて呼びかけると、真っ暗な部屋の中、引きつったような声を上げてソファからベシャリと転げ落ちた。
「オイ伊織!しっかりしろ!!」
「…はぁっ…っっ!はっはっ…」
慌てて駆け寄って伊織の体を起こそうとするも、伊織は気が動転しているのか声にならない悲鳴をあげて弱々しく抵抗する。
突然ドタドタと音がして事務所に明かりがついた。
「何があったアルか?!」
神楽が伊織と銀時を見て駆け寄ってくる。
「伊織ちゃん!伊織ちゃん!しっかりするアル!」
「伊織、落ち着いて深呼吸しろ。」
銀時は震えて蹲る伊織を抱き起こして背中をさすった。荒い息と涙ぐんだ声が静かな部屋に響く。
銀時の寝巻きにポタポタと伊織の涙が落ちた。
「…す、すみま、せ…」
「謝んなって。落ち着いたか?」
伊織は小さく頷いた。
神楽が心配そうに銀時の腕の中にいる伊織を見ると、握り締められた手は真っ白でカタカタと震えている。そっと手に触れただけで伊織はびくりと肩を揺らした。
「伊織ちゃん、眠れなかったら銀ちゃんでも私でも定春でも叩き起こせばいいネ。だから次からはこんなふうに一人で我慢しちゃ駄目アルよ。」
「そうだぞ。マジで銀さんも焦るから。隣の部屋から唸り声聞こえるとか軽くホラーだからな?!マジで一瞬お化けかと思って肝が冷えたわ…。」
伊織は銀時の言い分に思わずほんの少しだけクスリと笑みをこぼす。伊織がようやく笑ったのを見て、神楽は伊織に抱きついた。もう一人分の体重がかけられた銀時は「おわっ!?」と声を上げて体勢を崩す。
「怖い夢でもみたアルか?」
「え、えと、…ちょっとだけ、あの日、のことを思い出しちゃって…」
銀時は医者の言葉を思い出した。
あの事件は相当伊織の身体にも心にも深い傷跡を残したということを改めて実感させられる。
どうしたものか、と考えながら伊織の腰に回した片腕に少しだけ力を込めた。このまま絞めてしまえば簡単に内臓が飛び出してきそうなくらい軟弱な身体。それに刻まれた傷はどう考えたって不釣り合いだ。
あと少し、早く助けに行っていたら傷つけずに済んだのだろうか。
脇腹の傷があるであろう場所をスルリと撫でた。
「……ひぇっ」
伊織が体をフルリと震わせて小さな悲鳴をあげる。
銀時はヤベッ!!と動きを止めた。背中を冷や汗が流れ落ちる。ソロ〜っと伊織を見ると、驚いた顔で口を抑えてこちらを見つめていた。
「ご、ごめんなさい…。その、傷に、触れられると、ゾワゾワしちゃって…」
「…悪りぃ。」
二人が妙な雰囲気になっていると、神楽が銀時を軽蔑したように睨んで彼の手をギリギリと握りしめる。
「この状況ならセクハラできるとでも思ったアルか?やっぱり腐れ天パアルな。私は銀ちゃんをこんな子に育てた覚えはないネ!!」
「イダだだだ!!オイ離せ神楽!!別にやましい気持ちは無かったんだ!!」
「今更何を言っても無駄ヨ。とっとと伊織ちゃんから離れるヨロシ!」
神楽は伊織の頭を抱き寄せて銀時の顔面を足で蹴った。
床に転がった銀時に唾を吐きかけて伊織を連れて寝室へと戻る。
「ケダモノは床で十分アル。朝まで入ってくんじゃねーぞ。」
ピシャリと襖を閉められて、銀時は天井を仰いだ。
「役得とはこのことか…」
*
「伊織ちゃん、一緒に寝ようヨ!」
「か、神楽ちゃ、坂田さん…」
「あんなクズは放っておいて大丈夫アル。ほらほら!」
神楽は伊織を布団の中に押し込んで自分も入ると彼女に抱きついた。
人肌に触れているからか、神楽は幸せそうな顔をしてあっという間に眠りにつく。伊織は微笑んで神楽の頭を撫でた。
「…起こしちゃってごめんね。おやすみなさい、神楽ちゃん。」
やっぱり夜は眠れそうにないな…とぼんやり考える。
以前の帰ることができない不安や心配に加えて、今はあの日の恐怖がどうしてもちらつくのだ。
急に意識が落ちる感覚は変わらない。ただ、ものすごく夢見が悪くなった。埃っぽい廃工場の廊下を何かから逃げていたり、真剣で斬られたり、目の前で誰かが殺されるといった悪夢。
目覚める瞬間は決まって誰かが死ぬ。それは自分だったり他人だったり様々だが、どうしても刃物が迫ってくる瞬間、身体が金縛りにあったかのように止まり、迫ってくる刃を見つめることしかできない。
日中に頭が重くなるから、できれば寝たいんだけど…。こんな思いするなら起きてたほうがマシだよなぁ。
*
日の出から数時間後、新八は「おはようございまーす」と挨拶をして万事屋の戸を開けた。
荷物を置こうと事務所に足を踏み入れ、床に転がる人影に悲鳴をあげた。
「ぎゃあああ!!!…って、銀さんじゃないですか。」
「新八ぃ、俺ぁ身体が痛くて動けねぇ。」
「せめてソファで寝ればよかったのに…。何があったんですか?」
呆れながら問いかけると、銀時はむくりと起き上がって頭を掻きながらソファに寝転がった。
「夜中、伊織がここで蹲ってたんだよ。」
「え?!大丈夫だったんですか?」
「や、まあ、そこは神楽と二人でどうにか落ち着けたからなんとか。」
「…で、セクハラでもしたんですか?」
ギクリと肩を揺らした銀時を見て新八はため息をついた。図星か。
「何やってんですか銀さん…。怪我人相手にセクハラなんて最低ですよ。」
「違うんだって!!マジで下心は無かったんだ!信じてくれよぱっつぁん!」
朝食を食べながらも銀時は神楽と新八に蔑まれて肩身の狭い思いをした。
伊織が申し訳なさそうに弁解して、彼女が嫌な思いはしなかったことを確認してようやく銀時を許したとか。
「あ、新八くん、後片付けは私がやるね。」
「伊織さんはゆっくりしてて下さい。まだ傷だって痛むんじゃ…」
「ふふ、心配してくれてありがとう。でも大丈夫。朝食作れなかったしせめてお皿洗いくらいはしたいな。」
そう言いながら食器を持って台所へと向かう。
お茶碗を手に取ってスポンジを掴んだとき、ふとまな板の上に置かれた包丁が目に入った。ぶわりと汗が吹き出して血の気が引く。
するっと手からお茶碗が滑り落ち、他の食器に当たって音を立てた。
「伊織さん?」
食器がぶつかる音が聞こえたのか、新八は台所に顔を出して伊織に声をかけた。
しかし伊織は気づかず、動く気配もない。どうしたんだろう?と近寄って側で声をかけると、ようやく新八の存在に気付いてハッと顔をあげた。
伊織の顔は紙のように真っ白で、新八は驚いて声を上げた。
「伊織さん顔色めちゃくちゃ悪いですよ!?だ、大丈夫ですか?」
「私、…ごめん、新八くん……ど、どうしよう…」
伊織はシンクの縁に手をついてヘナヘナと座り込む。新八は慌てて肩に手を添えて支え、銀時と神楽を呼んだ。
バタバタと足音を立てて二人が台所に入ってくる。何があったんだ?と新八に目配せをするも、新八自身も何があったのか分からず、不安げに伊織の背中をさすることしかできない。
伊織が座り込んだシンクの近くにある包丁が銀時の目にうつった。
「伊織、お前もしかして、包丁が…」
銀時の言葉に神楽と新八も作業台に置かれている包丁に目を向ける。
「ご、ごめんなさい…少し、動揺しただけなので、大丈夫、です。大丈夫、大丈夫…」
「僕、片付けするので伊織さんは向こうで休んでて下さい。」
「ま、まって。本当に、大丈夫なの。少しくらい、「伊織ちゃん」
神楽に優しく腕を引かれて台所から出る。
ソファに座らされて伊織はため息をついて顔を覆った。
「ごめん…本当にごめんなさい…」
「謝らなくていいアル。伊織ちゃん別に悪いことなんてしてないネ。」
「迷惑しかかけてないよね。私、家事もまともにできないんじゃ、ここにいる意味が…」
「そんなことないアル!家事なんて男共に任せて伊織ちゃんはドーンと構えてるヨロシ!」
神楽と定春は伊織を元気付けるように寄り添う。
一方、新八は後片付けをしながら、銀時と話をしていた。
「まさか包丁見て怖がってたなんて…。先に片付けておくべきでした。申し訳ないことしちゃったな…。」
「別に新八が落ち込むこたねえよ。どうせいつかああいう風になっちまってたんだ。むしろ俺たちがいるときに気づけてよかったじゃねえか。アイツが一人で飯の準備でもしようとして今みたいになってた方がゾッとするぜ。」
「確かに、そうですね。これからはできるだけ目に入らないようにすぐに仕舞うようにしなきゃ。」
*
それから数日が過ぎた。
伊織は自分でも驚くほど、元の生活を送れなくなっていて、日に日に自己嫌悪が増して銀時たちに見せる笑顔が引きつったような作り笑いへと変わっていった。
頑張ろうとすればするほど空回りする。「ごめんなさい」「すみません」は彼女の口癖になり、いつも俯きがちになった。
「それで、俺に助言を求めにきたというわけか。銀時。」
「仕方ねえだろ…。マジで行き詰まってんだよ。こんなこと病院のジジイに知られたらどやされるどころじゃ済まねえよ。なあどうすりゃいいと思う?ヅラァ…」
銀時はファミレスの机に突っ伏して桂に助けを求めていた。
桂はため息をついて腕を組む。
「ヅラじゃない桂だ。
よもやお前、面倒だ、なんて思ってはいないだろうな?」
「んな訳ねえだろ。そこまで腐っちゃいねえよ。」
「その返事が聞けて安心したぞ。もし肯定していたら殴っているところだった。」
銀時はスプーンでパフェを崩しながら伊織のことを考える。あの毒気を抜かれるふわふわした笑顔が恋しくてしょうがない。
「風の噂で秦野一派の崩壊は耳にしていたが、まさか伊織殿が巻き込まれていたとは思わなんだ。怪我の具合は?」
「俺ぁ見たことねえが神楽が言うにはほとんと変わらないだと。たまに辛そうに摩ってんな。医者のジジイも自然治癒力が低下してるとか言ってたわ。」
「気の毒だな。伊織殿の性格上、銀時たちに頼りっぱなしでは心苦しいのだろう。このままでは伊織殿の身が持たんだろうよ。」
「だからそうなる前にこうしてアドバイスを求めてんだっつーの…。」
空になったパフェのグラスにスプーンをカラリと置いて背もたれに背中を預けた。
「ふむ…。無理に今まで通りの生活を送ろうとどうにかするのではなくて、とりあえず好きなことややりたいことでもさせたらいいんじゃないか?少しは気分が上がると思うが。」
「伊織の好きなもの?ってなんだ。」
「なんだ、一つも出てこないのか。」
呆れる桂に銀時はストップをかけ、ウゥンと記憶をほじくり返す。
「ガキとか?寺子屋の手伝いとか家庭教師して楽しそうにしてるし。」
「それは仕事だろう…。手負いの彼女を働かせるつもりか?」
「…やっぱ今のナシで。」
好きなもの好きなもの…なんか言ってたっけ?アイツ…
「ま、知らないなら彼女に聞くしかあるまい。
何はともあれ一番辛いのは伊織殿なんだ。お前たちが辛気臭い顔をするべきではないのは確かだな。」
「オウ。」
「なあ銀時。俺は彼女のような人間はこの国にとって希望の光となり得ると思うよ。暴力を好まない、人が傷つくことを心の底から怯えている。それは何より彼女が平和な場所で生きてきた証だろう。
この町の人間はどんな脅威にも恐れを成さずに立ち向かう者がそこら中にいる。女子供も関係なくな。自由を手に入れるために傷つき、傷つけることが仕方ないとは言え、それが当たり前になっているとは思わないか。俺たちからしたら伊織殿は平和ボケも良いところだと異常に思うかもしれないが、あれこそが本来の平和な国に生きる人間のあるべき姿ではないか。
あの瞳が争い事で陰るのはあまりに惜しい。銀時、伊織殿を先の事件のようなことに慣れさせてくれるなよ。」
「もう危険なことに巻き込ませなんかしねえさ。アイツはふにゃふにゃ笑ってんのが一番お似合いだからなぁ。」
*
伊織は今、万事屋で定春と一緒に留守番をしている。定春は伊織に元気がないのがわかるのか、ピタリとくっついて尻尾を振っている。
そんな定春を撫でながら伊織は自己嫌悪に浸っていた。
ネガティブな思考を振り払うかのように徐に立ち上がって、押入れへと近づく。ふすまを開けて、自分の荷物や貴重品などが入っている箱を取り出す。持ち物の大半は寺子屋で使用している教材で、あとはお妙などからもらった装飾品などがちらほらと見受けられる。
それでも自分の荷物は増えた方だな、と思いながら底に手を突っ込んだ。
取り出したのは夏物のワンピース。初めて銀時たちと会ったときに着ていたものだ。
ワンピースのポケットからあるものを取り出す。
チャリッと音を立てて手のひらに転がるのは、刺繍の施されたキーケースに収まる2つの鍵。一つは実家のもので、もう一つは一人暮らしをしているアパートのものだ。
伊織は気になってすり寄ってきた定春を撫でながら鍵を見せてあげた。
「ふふ、気になる?これね、私のおうちの鍵なの。これを見せたのはここでは定春くんが初めてなのよ。みんなには内緒ね。」
「わん!」
お利口さんだね、と頭を撫でると、定春はくすぐったそうに目を閉じた。定春にもたれかかって鍵を眺める。
私がこれを使える日はいつ来るのだろうか。
もう此処に来て1ヶ月以上経った。
諦めるにはまだ早いのか、どれだけ考えても答えは出ない。
海にでも飛び込んでみようか?いや、空の方がいいんじゃないか…
ハッと意識を取り戻す。一瞬でも自分が死のうと考えたことに驚いた。
死ぬのは怖い。自殺なんて絶対に無理だ。
じゃあなんで恐怖も感じずにそんなことを考えたんだろう。
あぁそうだ。死にたいと思ったんじゃない。
この世界で自分という存在がなくなることで、元の世界に戻れるかもしれないと考えたんだ。私は、帰る方法の一つの選択肢を思いついたんだ。
これは正常な思考なのか?と自嘲しながらワンピースと鍵を箱の中に乱雑に投げ入れた。
蓋を閉めていると、手の甲に滴が落ち、自分が泣いていることに気づく。袖でぐしぐしと拭って箱を押し込み、襖を閉めると、定春に抱きついた。
「こんな顔、坂田さんたちに見せられないや…。」
______________
不甲斐ない自分が、大っ嫌い。
真夜中、銀時は遠くから聞こえる小さな唸り声で目が覚めた。
微睡む思考の中で神楽か?と考える。真夜中にうるせえなぁ…と重たい目蓋を閉じて寝返りを打つ。ふと目を開けて伊織の布団を視界に入れたら、それはもぬけの殻だった。
霞かけていた意識が一瞬で引き戻され、ガバリと飛び起きる。
声が聞こえるのは神楽が寝ている押入れでも、この寝室でもない。寝室の向こうの事務所からだった。
「伊織!」
バッと襖を開けて呼びかけると、真っ暗な部屋の中、引きつったような声を上げてソファからベシャリと転げ落ちた。
「オイ伊織!しっかりしろ!!」
「…はぁっ…っっ!はっはっ…」
慌てて駆け寄って伊織の体を起こそうとするも、伊織は気が動転しているのか声にならない悲鳴をあげて弱々しく抵抗する。
突然ドタドタと音がして事務所に明かりがついた。
「何があったアルか?!」
神楽が伊織と銀時を見て駆け寄ってくる。
「伊織ちゃん!伊織ちゃん!しっかりするアル!」
「伊織、落ち着いて深呼吸しろ。」
銀時は震えて蹲る伊織を抱き起こして背中をさすった。荒い息と涙ぐんだ声が静かな部屋に響く。
銀時の寝巻きにポタポタと伊織の涙が落ちた。
「…す、すみま、せ…」
「謝んなって。落ち着いたか?」
伊織は小さく頷いた。
神楽が心配そうに銀時の腕の中にいる伊織を見ると、握り締められた手は真っ白でカタカタと震えている。そっと手に触れただけで伊織はびくりと肩を揺らした。
「伊織ちゃん、眠れなかったら銀ちゃんでも私でも定春でも叩き起こせばいいネ。だから次からはこんなふうに一人で我慢しちゃ駄目アルよ。」
「そうだぞ。マジで銀さんも焦るから。隣の部屋から唸り声聞こえるとか軽くホラーだからな?!マジで一瞬お化けかと思って肝が冷えたわ…。」
伊織は銀時の言い分に思わずほんの少しだけクスリと笑みをこぼす。伊織がようやく笑ったのを見て、神楽は伊織に抱きついた。もう一人分の体重がかけられた銀時は「おわっ!?」と声を上げて体勢を崩す。
「怖い夢でもみたアルか?」
「え、えと、…ちょっとだけ、あの日、のことを思い出しちゃって…」
銀時は医者の言葉を思い出した。
あの事件は相当伊織の身体にも心にも深い傷跡を残したということを改めて実感させられる。
どうしたものか、と考えながら伊織の腰に回した片腕に少しだけ力を込めた。このまま絞めてしまえば簡単に内臓が飛び出してきそうなくらい軟弱な身体。それに刻まれた傷はどう考えたって不釣り合いだ。
あと少し、早く助けに行っていたら傷つけずに済んだのだろうか。
脇腹の傷があるであろう場所をスルリと撫でた。
「……ひぇっ」
伊織が体をフルリと震わせて小さな悲鳴をあげる。
銀時はヤベッ!!と動きを止めた。背中を冷や汗が流れ落ちる。ソロ〜っと伊織を見ると、驚いた顔で口を抑えてこちらを見つめていた。
「ご、ごめんなさい…。その、傷に、触れられると、ゾワゾワしちゃって…」
「…悪りぃ。」
二人が妙な雰囲気になっていると、神楽が銀時を軽蔑したように睨んで彼の手をギリギリと握りしめる。
「この状況ならセクハラできるとでも思ったアルか?やっぱり腐れ天パアルな。私は銀ちゃんをこんな子に育てた覚えはないネ!!」
「イダだだだ!!オイ離せ神楽!!別にやましい気持ちは無かったんだ!!」
「今更何を言っても無駄ヨ。とっとと伊織ちゃんから離れるヨロシ!」
神楽は伊織の頭を抱き寄せて銀時の顔面を足で蹴った。
床に転がった銀時に唾を吐きかけて伊織を連れて寝室へと戻る。
「ケダモノは床で十分アル。朝まで入ってくんじゃねーぞ。」
ピシャリと襖を閉められて、銀時は天井を仰いだ。
「役得とはこのことか…」
*
「伊織ちゃん、一緒に寝ようヨ!」
「か、神楽ちゃ、坂田さん…」
「あんなクズは放っておいて大丈夫アル。ほらほら!」
神楽は伊織を布団の中に押し込んで自分も入ると彼女に抱きついた。
人肌に触れているからか、神楽は幸せそうな顔をしてあっという間に眠りにつく。伊織は微笑んで神楽の頭を撫でた。
「…起こしちゃってごめんね。おやすみなさい、神楽ちゃん。」
やっぱり夜は眠れそうにないな…とぼんやり考える。
以前の帰ることができない不安や心配に加えて、今はあの日の恐怖がどうしてもちらつくのだ。
急に意識が落ちる感覚は変わらない。ただ、ものすごく夢見が悪くなった。埃っぽい廃工場の廊下を何かから逃げていたり、真剣で斬られたり、目の前で誰かが殺されるといった悪夢。
目覚める瞬間は決まって誰かが死ぬ。それは自分だったり他人だったり様々だが、どうしても刃物が迫ってくる瞬間、身体が金縛りにあったかのように止まり、迫ってくる刃を見つめることしかできない。
日中に頭が重くなるから、できれば寝たいんだけど…。こんな思いするなら起きてたほうがマシだよなぁ。
*
日の出から数時間後、新八は「おはようございまーす」と挨拶をして万事屋の戸を開けた。
荷物を置こうと事務所に足を踏み入れ、床に転がる人影に悲鳴をあげた。
「ぎゃあああ!!!…って、銀さんじゃないですか。」
「新八ぃ、俺ぁ身体が痛くて動けねぇ。」
「せめてソファで寝ればよかったのに…。何があったんですか?」
呆れながら問いかけると、銀時はむくりと起き上がって頭を掻きながらソファに寝転がった。
「夜中、伊織がここで蹲ってたんだよ。」
「え?!大丈夫だったんですか?」
「や、まあ、そこは神楽と二人でどうにか落ち着けたからなんとか。」
「…で、セクハラでもしたんですか?」
ギクリと肩を揺らした銀時を見て新八はため息をついた。図星か。
「何やってんですか銀さん…。怪我人相手にセクハラなんて最低ですよ。」
「違うんだって!!マジで下心は無かったんだ!信じてくれよぱっつぁん!」
朝食を食べながらも銀時は神楽と新八に蔑まれて肩身の狭い思いをした。
伊織が申し訳なさそうに弁解して、彼女が嫌な思いはしなかったことを確認してようやく銀時を許したとか。
「あ、新八くん、後片付けは私がやるね。」
「伊織さんはゆっくりしてて下さい。まだ傷だって痛むんじゃ…」
「ふふ、心配してくれてありがとう。でも大丈夫。朝食作れなかったしせめてお皿洗いくらいはしたいな。」
そう言いながら食器を持って台所へと向かう。
お茶碗を手に取ってスポンジを掴んだとき、ふとまな板の上に置かれた包丁が目に入った。ぶわりと汗が吹き出して血の気が引く。
するっと手からお茶碗が滑り落ち、他の食器に当たって音を立てた。
「伊織さん?」
食器がぶつかる音が聞こえたのか、新八は台所に顔を出して伊織に声をかけた。
しかし伊織は気づかず、動く気配もない。どうしたんだろう?と近寄って側で声をかけると、ようやく新八の存在に気付いてハッと顔をあげた。
伊織の顔は紙のように真っ白で、新八は驚いて声を上げた。
「伊織さん顔色めちゃくちゃ悪いですよ!?だ、大丈夫ですか?」
「私、…ごめん、新八くん……ど、どうしよう…」
伊織はシンクの縁に手をついてヘナヘナと座り込む。新八は慌てて肩に手を添えて支え、銀時と神楽を呼んだ。
バタバタと足音を立てて二人が台所に入ってくる。何があったんだ?と新八に目配せをするも、新八自身も何があったのか分からず、不安げに伊織の背中をさすることしかできない。
伊織が座り込んだシンクの近くにある包丁が銀時の目にうつった。
「伊織、お前もしかして、包丁が…」
銀時の言葉に神楽と新八も作業台に置かれている包丁に目を向ける。
「ご、ごめんなさい…少し、動揺しただけなので、大丈夫、です。大丈夫、大丈夫…」
「僕、片付けするので伊織さんは向こうで休んでて下さい。」
「ま、まって。本当に、大丈夫なの。少しくらい、「伊織ちゃん」
神楽に優しく腕を引かれて台所から出る。
ソファに座らされて伊織はため息をついて顔を覆った。
「ごめん…本当にごめんなさい…」
「謝らなくていいアル。伊織ちゃん別に悪いことなんてしてないネ。」
「迷惑しかかけてないよね。私、家事もまともにできないんじゃ、ここにいる意味が…」
「そんなことないアル!家事なんて男共に任せて伊織ちゃんはドーンと構えてるヨロシ!」
神楽と定春は伊織を元気付けるように寄り添う。
一方、新八は後片付けをしながら、銀時と話をしていた。
「まさか包丁見て怖がってたなんて…。先に片付けておくべきでした。申し訳ないことしちゃったな…。」
「別に新八が落ち込むこたねえよ。どうせいつかああいう風になっちまってたんだ。むしろ俺たちがいるときに気づけてよかったじゃねえか。アイツが一人で飯の準備でもしようとして今みたいになってた方がゾッとするぜ。」
「確かに、そうですね。これからはできるだけ目に入らないようにすぐに仕舞うようにしなきゃ。」
*
それから数日が過ぎた。
伊織は自分でも驚くほど、元の生活を送れなくなっていて、日に日に自己嫌悪が増して銀時たちに見せる笑顔が引きつったような作り笑いへと変わっていった。
頑張ろうとすればするほど空回りする。「ごめんなさい」「すみません」は彼女の口癖になり、いつも俯きがちになった。
「それで、俺に助言を求めにきたというわけか。銀時。」
「仕方ねえだろ…。マジで行き詰まってんだよ。こんなこと病院のジジイに知られたらどやされるどころじゃ済まねえよ。なあどうすりゃいいと思う?ヅラァ…」
銀時はファミレスの机に突っ伏して桂に助けを求めていた。
桂はため息をついて腕を組む。
「ヅラじゃない桂だ。
よもやお前、面倒だ、なんて思ってはいないだろうな?」
「んな訳ねえだろ。そこまで腐っちゃいねえよ。」
「その返事が聞けて安心したぞ。もし肯定していたら殴っているところだった。」
銀時はスプーンでパフェを崩しながら伊織のことを考える。あの毒気を抜かれるふわふわした笑顔が恋しくてしょうがない。
「風の噂で秦野一派の崩壊は耳にしていたが、まさか伊織殿が巻き込まれていたとは思わなんだ。怪我の具合は?」
「俺ぁ見たことねえが神楽が言うにはほとんと変わらないだと。たまに辛そうに摩ってんな。医者のジジイも自然治癒力が低下してるとか言ってたわ。」
「気の毒だな。伊織殿の性格上、銀時たちに頼りっぱなしでは心苦しいのだろう。このままでは伊織殿の身が持たんだろうよ。」
「だからそうなる前にこうしてアドバイスを求めてんだっつーの…。」
空になったパフェのグラスにスプーンをカラリと置いて背もたれに背中を預けた。
「ふむ…。無理に今まで通りの生活を送ろうとどうにかするのではなくて、とりあえず好きなことややりたいことでもさせたらいいんじゃないか?少しは気分が上がると思うが。」
「伊織の好きなもの?ってなんだ。」
「なんだ、一つも出てこないのか。」
呆れる桂に銀時はストップをかけ、ウゥンと記憶をほじくり返す。
「ガキとか?寺子屋の手伝いとか家庭教師して楽しそうにしてるし。」
「それは仕事だろう…。手負いの彼女を働かせるつもりか?」
「…やっぱ今のナシで。」
好きなもの好きなもの…なんか言ってたっけ?アイツ…
「ま、知らないなら彼女に聞くしかあるまい。
何はともあれ一番辛いのは伊織殿なんだ。お前たちが辛気臭い顔をするべきではないのは確かだな。」
「オウ。」
「なあ銀時。俺は彼女のような人間はこの国にとって希望の光となり得ると思うよ。暴力を好まない、人が傷つくことを心の底から怯えている。それは何より彼女が平和な場所で生きてきた証だろう。
この町の人間はどんな脅威にも恐れを成さずに立ち向かう者がそこら中にいる。女子供も関係なくな。自由を手に入れるために傷つき、傷つけることが仕方ないとは言え、それが当たり前になっているとは思わないか。俺たちからしたら伊織殿は平和ボケも良いところだと異常に思うかもしれないが、あれこそが本来の平和な国に生きる人間のあるべき姿ではないか。
あの瞳が争い事で陰るのはあまりに惜しい。銀時、伊織殿を先の事件のようなことに慣れさせてくれるなよ。」
「もう危険なことに巻き込ませなんかしねえさ。アイツはふにゃふにゃ笑ってんのが一番お似合いだからなぁ。」
*
伊織は今、万事屋で定春と一緒に留守番をしている。定春は伊織に元気がないのがわかるのか、ピタリとくっついて尻尾を振っている。
そんな定春を撫でながら伊織は自己嫌悪に浸っていた。
ネガティブな思考を振り払うかのように徐に立ち上がって、押入れへと近づく。ふすまを開けて、自分の荷物や貴重品などが入っている箱を取り出す。持ち物の大半は寺子屋で使用している教材で、あとはお妙などからもらった装飾品などがちらほらと見受けられる。
それでも自分の荷物は増えた方だな、と思いながら底に手を突っ込んだ。
取り出したのは夏物のワンピース。初めて銀時たちと会ったときに着ていたものだ。
ワンピースのポケットからあるものを取り出す。
チャリッと音を立てて手のひらに転がるのは、刺繍の施されたキーケースに収まる2つの鍵。一つは実家のもので、もう一つは一人暮らしをしているアパートのものだ。
伊織は気になってすり寄ってきた定春を撫でながら鍵を見せてあげた。
「ふふ、気になる?これね、私のおうちの鍵なの。これを見せたのはここでは定春くんが初めてなのよ。みんなには内緒ね。」
「わん!」
お利口さんだね、と頭を撫でると、定春はくすぐったそうに目を閉じた。定春にもたれかかって鍵を眺める。
私がこれを使える日はいつ来るのだろうか。
もう此処に来て1ヶ月以上経った。
諦めるにはまだ早いのか、どれだけ考えても答えは出ない。
海にでも飛び込んでみようか?いや、空の方がいいんじゃないか…
ハッと意識を取り戻す。一瞬でも自分が死のうと考えたことに驚いた。
死ぬのは怖い。自殺なんて絶対に無理だ。
じゃあなんで恐怖も感じずにそんなことを考えたんだろう。
あぁそうだ。死にたいと思ったんじゃない。
この世界で自分という存在がなくなることで、元の世界に戻れるかもしれないと考えたんだ。私は、帰る方法の一つの選択肢を思いついたんだ。
これは正常な思考なのか?と自嘲しながらワンピースと鍵を箱の中に乱雑に投げ入れた。
蓋を閉めていると、手の甲に滴が落ち、自分が泣いていることに気づく。袖でぐしぐしと拭って箱を押し込み、襖を閉めると、定春に抱きついた。
「こんな顔、坂田さんたちに見せられないや…。」
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不甲斐ない自分が、大っ嫌い。