とある音大生の女の子が知らない世界に放り出されるお話
第1章 狭間で揺れ動くは儚き花
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目覚めてから数日が経ち、伊織は自分で立ってゆっくりと歩けるくらいには筋力が戻った。銀時達は毎日欠かさずお見舞いに来ている。
伊織は今、傷の経過等を医者に診てもらっているところだ。
「うーん、数日経ったけど、一向に血圧も血糖値も上がらないねぇ。ちゃんとご飯食べる?それと寝てるかい?」
「食事…、もちろん、頑張ってはいるんですけど…。」
「この子一度も完食したことがないんですよ、先生。いつも私が見ていなきゃ半分も食べきらないし。」
看護師の言葉に伊織はとある日の朝食を思い出す。
*
「おはようございまーす」という挨拶とともに看護師がやって来た。ベッドの近くにカートを移動させ、顔を覗き込んでくる。
「神崎さん、身体起こしますねー。」
「え、は、い゛っ…」
ゆっくりと丁寧に身体を起こされるも、少しの動きが傷に響いて呻き声を上げた。
目の前に置かれた朝食は全体的にドロドロしている。数日間飲まず食わずだったから胃がびっくりしないようにらしい。
食欲、ないんだよなぁ…なんて考えながらスプーンを手に取る。が、カタリと音を立てて手から滑り落ちた。
目を点にしてもう一度手に取るが、なんとスプーンを持つだけで手がプルプルと震えるのだ。
「うそぉ…。」
「あらあら、やっぱり筋力低下しちゃってるわよね。なんせ5日間も寝たっきりだったもの。しょうがないわ。」
看護師は伊織の手からスプーンを取り、おかゆのようなものを掬うと口元まで持ってくる。
「あ、あの、私、そんなにお腹、空いてなくて…。」
「もう!なに言ってるのよ!食べないと元気にならないわよ!ほら、あーん!」
「もがっ!」
やや強引にスプーンを突っ込まれ、咀嚼する。ほとんど味はなく、美味しいかと言われたら素直に肯けないような代物だ。
それからわんこそばのような要領で何回も口元にそれを押し付けられ、「もう食べられないですぅ…」とベソベソしながら訴えたが、「問答無用!」と口へと突っ込まれたのであった。
*
とまあ、こんな調子で最初は食べさせてもらっていた。最近では食事は一人でできるから、と訴えたものの、食べる量が少ないとのことで監視付きで食事をしているのだ。
「ふむ。とにかく食べなきゃ身体が回復しないよ。君の場合、自然治癒力が低下しているんだろう。だから傷の治りも遅い。」
「はい…すみません。」
「謝らなくていいんだ。ゆっくりと治療していこう。それで睡眠の方は?」
「以前から少し不眠気味で、今も、その…ふとした時にあの日のことを思い出してしまうんです。だから余計、眠るのが、怖くて……。」
「安心して過ごせる場所なら気も休まるかもしれないね。出来るだけ早く自宅に戻れるように対処しよう。
神崎さん、君は身体だけじゃなく心にも傷を負ってるんだ。不安なことや相談したいことは私でも家族の方でも良いから打ち明けること。溜め込んではいけないよ。」
「家族…」
医者はそう言うといつものように痛み止めをうって処置を終えた。
看護師に連れられて診察室から出る。点滴のスタンドを杖代わりにとぼとぼと歩いていたが、ふと耳に入ってきた音にハッと顔をあげた。
「あの、もしかしてこの病院、ピアノありますか?」
「ん?あぁ、あるわよ。ロビーの隅にポツンって置かれてるわ。あれ、江戸城から寄付だかなんだか知らないけど送られてきたの。まあうちにはあんな大層なもの弾ける人いないからせいぜい子供がふざけて弾くぐらいだけどね。気になるなら行ってみる?」
「…は、はい!」
二人は方向転換して1階のロビーへと向かった。
広々としたロビーの片隅に子供達が集まってはしゃいでいる。
「あれよ。」
「わぁ…とても立派なグランドピアノですね。」
「まあどっかの星からの献上品らしいからね。でもこんなとこに置いてたって宝の持ち腐れよ。誰も素敵な音なんて出しゃしないもの。」
呆れたように首を振る看護師にふふふと笑ってピアノに視線を送った。
「あの、ここまで案内してくださってありがとうございます。病室へは一人で戻れるので、もう少しここにいても良いですか?」
「えぇ、でも長居はしないでね。まだ体調は万全じゃないしここは冷えるから。」
「それじゃ」とナースステーションへ戻る看護師の後ろ姿にお辞儀をして再びピアノへと視線を向ける。
近くの長椅子に座ってピアノに群がる子供達を眺めた。
少し乱雑に鳴るピアノの音を聴いて笑みを溢す。
この数日でいろんな人たちがお見舞いに来てくれた。
月詠さんと晴太くん、お妙ちゃん、お登勢さん達、真選組の方々、万事屋の皆、そして見廻組の佐々木さんと今井さん。
佐々木は例の隊士について謝罪と口止めという名目でやってきた。伊織自身も今回のことは大事にしたくなかったため、あっさりと彼の言い分を受け入れたのだ。
月詠と晴太とは寺子屋の話をした。怪我のことは真選組から教師に連絡があったようだ。年内はもう治療に専念してゆっくり体を休めてほしい、と田浦先生からの言伝を聞いた。月詠はいつも通りの態度だったが、言葉の節々から伊織への心配や気遣いが窺えてほっこりとした。「月詠姉はツンデレなんだ」と晴太に耳打ちをされたり。
良い人ばかりに出会えたんだなぁ。一生分の運を使ってしまったかも。
そんなことを考えていると、ピアノを囲んでいた子供達は飽きてしまったのか何処かへと行ってしまった。
ゆっくりと立ち上がってピアノの元へ向かう。つるりとした表面を撫でていると、1ヶ月ほど前の当たり前だった日常を思い出す。
ポーン
病院のロビーに一音が響く。
たった一音。しかしそれは先程まで子供達が鳴らしていた音とは明らかに違った。丸く、優しく、静かに響き渡る。
伊織の両手は自然と鍵盤に添えられ、右足はペダルに掛けられた。
スッと思い浮かんだ一曲は、『アラベスク第一番』。
この曲は両親が一番大好きだった曲。
小学生の頃、母と父の喜ぶ顔が見たくて一生懸命練習したなぁ。弾き終えると頭を撫でてたくさん褒めてくれたんだ。
最後の和音を弾き終えて自分の両手を見ると、微かに震えている。目の前がうるうるとぼやけ出して弾かれたように立ち上がり、その場を後にする。伊織の耳には拍手や称賛の声なんて聞こえていなかった。
泣いちゃダメだ、と自分に言い聞かせながらできるだけ早足で病室へ戻り、ベッドへ倒れ込む。布団を掻き抱いて頭を埋めた。
帰りたい。
伊織の心をただ一つの思いが埋め尽くす。
本当の家族に会いたい、当たり障りのない日常が喉から手が出るほど恋しい。
布団には涙の染みが点々と増えていった。
*
山崎は総悟と共に大江戸病院に来ていた。目的は相も変わらず伊織のお見舞い。
伊織には気に病まないでくれと言われたものの、やはり自責の念は中々拭えずにどうしても足が向いてしまうのだ。
「珍しいですね。沖田隊長がお見舞いについてくるなんて。」
「そりゃ、俺だって少しは申し訳ない気持ちがあるんでねィ。」
沖田隊長も人間らしい心を持ち合わせているんだ、なんて失礼なことを考えながら入り口をくぐる。
いつも通り上の階の病室へ向かおうとすると、総悟があ、と声を漏らした。
「どうしたんですか?」
「あそこにいるの、伊織さんじゃねえか。」
顎でクイッと指された方向を見ると、伊織がピアノの前に座っていた。こんなところにいるなんて珍しいな、と思いながらその様子を見ていると、彼女は徐にピアノを弾き始めた。
ロビーにいた人々は足を止めて物珍しそうに伊織の演奏に耳を傾ける。美しい旋律にその場にいた誰もが酔いしれていた。
「なんだか、神聖な一枚の絵画を見ている気分ですね。」
「点滴の針ぶっ刺して入院着着てなきゃなァ。」
「それは仕方ないでしょうが…。」
「でも、綺麗でさァ。」
二人はじっと伊織を眺める。
やがて彼女が演奏を終えると、自然と拍手をしていた。周りの人々も同じで、伊織はスタンディングオベーションを浴びている。
声を掛けようと彼女の元へ歩を進めたとき、伊織は俯きがちにパッとその場を離れた。
後を追おうとするも、ピアノの周辺にできた人だかりから抜け出すのに一苦労。
数分かかってようやく伊織の病室の前に到着した。
コンコンとノックをして呼び掛けたが、中からの返事は聞こえない。総悟と顔を見合わせて、控えめにドアを開いた。
「失礼します。伊織ちゃーん、いますか?」
中を覗くと布団はこんもりと盛り上がっていて、ベッドの縁から足が垂れている。
近寄って声をかけると、足がびくっと動いて、布団の中からモゾモゾと顔を出した。
「や、山崎さんに沖田さん…。すみません、お見苦しい格好で…」
「全然構わないよ。あ、これお見舞いのプリン、よかったらどうぞ。」
「わぁ!いつもいつも素敵なものをありがとうございます。」
袋の中を覗いて嬉しそうに笑う伊織。総悟は「点数稼ぎ…」と山崎に聞こえるぐらいの声量で呟いたが、山崎は笑顔を保ったまま総悟のことを肘で小突いた。
「せっかく3つありますし、みんなで食べませんか?」
「お、じゃあ遠慮なく。」
「ちょっと沖田隊長!なに当たり前みたいに食べてるんですか!」
「どうせ残っててもあのチャイナ野郎に食われるだけでさァ。だから俺が食べる。」
伊織はクスクスと笑いながら山崎に残りの一個を差し出した。
結局三人でプリンを食べながら談笑をする。
「そういえばさっき伊織ちゃんがロビーでピアノ弾いているところ見たんだ。俺音楽のこととか全然わかんないけど思わず聴き入っちゃったよ。」
「…あ、はは。そんな、大層なものではないので…」
「なに言ってるんでさァ。あそこにいた連中、皆拍手喝采だったじゃねえですか。」
「へ?!そ、そんなに聴かれてたんですか?」
伊織は真っ赤な頬に手を当てて恥ずかしそうに唸る。観客がいたことには気付いていなかったようだ。
「そういえば傷の具合は?」
「えと、ほんの少しだけ治りが遅いらしいんですけど、そろそろ退院…
あれ、待って、私…」
伊織の動きがピタリと止まり、サァッと顔が青ざめていく。
「ど、どうしたの伊織ちゃん?」
「わ、私……保険証持っていないんですけど、治療費っておいくらなんでしょうか……?」
山崎と総悟は思わずブハッと吹き出した。あまりに深刻そうだから何か大変なことがあったのかと思えば、まさかお金の心配とは。
「ハハッ!そいつの心配はいらねえですぜィ。伊織さんの入院費は真選組持ちでさァ。」
「えっ」
「あ、これは絶対譲れないからなにを言っても無駄だよ伊織ちゃん。全然迷惑とかじゃないからね。むしろこれくらい払わせて貰わなきゃ困るくらいだ。」
山崎は伊織の思考を先読みする。謙虚な伊織は申し訳ないから自分で払うと言い出すのが手にとるようにわかるのだ。
どうやらそれは図星のようで、伊織は何かを言い籠っている。
「ウゥン…。これは、お言葉に甘えても良いんでしょうか…」
「もちろん!」
食い気味に答えた山崎に伊織は素直にお礼を言った。
帰り際、総悟は伊織の目元をそっとなぞった。突然のことに伊織はドギマギして真っ赤になる。
「薄ら隈が出来てらァ。ちゃんと寝なせェ。」
「は、はぇ…」
伊織の動揺した表情を見てくつくつと笑う。
布団を握りしめる伊織に後ろ手に手を振って病室を後にした。
山崎は「じゃあお大事に。」と小さく笑って扉を閉めた。
病室を出てスタスタと前を歩く総悟に不思議に思いながら声を掛ける。
「沖田隊長って伊織ちゃんに対して素っ気ないかと思ったら不意に優しくなりますよね。」
でも、決して酷いようには扱わない。この態度の違いはただの気紛れなのか?
率直な疑問である。
総悟は頭の後ろで腕を組んで気怠げに先を歩く。
「俺ぁあの目が苦手なんでィ。大人のくせにあんなガキみてえに純真な目で見つめられるとむず痒くてしょうがねえ。気を抜くとそのまま溺れちまいそうになる。」
「それって…」
「別に惚れてるわけじゃねえよ。それに、例え惚れてるにしろ自分のモノにしたいなんておこがましすぎらァ。あれは綺麗すぎていけねえや。」
そう言うと総悟はくるりと振り返って山崎のことを見つめた。
「つうかオメーの方がよっぽど伊織さんにご執心じゃねえか。愛しのたまさんはどうしたんだよ。」
「は?!い、いや、何言ってるんですか隊長!?俺は別にそんな…!」
「ま、お前が鞍替えするつもりなら俺がその恋路、全力で邪魔してやらァ。ははっ、覚悟しとけよザキ。」
「いや、だからそんなんじゃないですって!沖田隊長ー!!!」
たまのお見合いの時と同様、黒い笑みを見せた総悟を慌てて追いかける。
やっぱり隊長だって伊織ちゃんのこと好きなんじゃないか!!
そんな事言えるはずもなく、山崎は今日も今日とて振り回されるのだった。
_____________
澄んだ水のように曇無き眼と穢れを知らない手
伊織は今、傷の経過等を医者に診てもらっているところだ。
「うーん、数日経ったけど、一向に血圧も血糖値も上がらないねぇ。ちゃんとご飯食べる?それと寝てるかい?」
「食事…、もちろん、頑張ってはいるんですけど…。」
「この子一度も完食したことがないんですよ、先生。いつも私が見ていなきゃ半分も食べきらないし。」
看護師の言葉に伊織はとある日の朝食を思い出す。
*
「おはようございまーす」という挨拶とともに看護師がやって来た。ベッドの近くにカートを移動させ、顔を覗き込んでくる。
「神崎さん、身体起こしますねー。」
「え、は、い゛っ…」
ゆっくりと丁寧に身体を起こされるも、少しの動きが傷に響いて呻き声を上げた。
目の前に置かれた朝食は全体的にドロドロしている。数日間飲まず食わずだったから胃がびっくりしないようにらしい。
食欲、ないんだよなぁ…なんて考えながらスプーンを手に取る。が、カタリと音を立てて手から滑り落ちた。
目を点にしてもう一度手に取るが、なんとスプーンを持つだけで手がプルプルと震えるのだ。
「うそぉ…。」
「あらあら、やっぱり筋力低下しちゃってるわよね。なんせ5日間も寝たっきりだったもの。しょうがないわ。」
看護師は伊織の手からスプーンを取り、おかゆのようなものを掬うと口元まで持ってくる。
「あ、あの、私、そんなにお腹、空いてなくて…。」
「もう!なに言ってるのよ!食べないと元気にならないわよ!ほら、あーん!」
「もがっ!」
やや強引にスプーンを突っ込まれ、咀嚼する。ほとんど味はなく、美味しいかと言われたら素直に肯けないような代物だ。
それからわんこそばのような要領で何回も口元にそれを押し付けられ、「もう食べられないですぅ…」とベソベソしながら訴えたが、「問答無用!」と口へと突っ込まれたのであった。
*
とまあ、こんな調子で最初は食べさせてもらっていた。最近では食事は一人でできるから、と訴えたものの、食べる量が少ないとのことで監視付きで食事をしているのだ。
「ふむ。とにかく食べなきゃ身体が回復しないよ。君の場合、自然治癒力が低下しているんだろう。だから傷の治りも遅い。」
「はい…すみません。」
「謝らなくていいんだ。ゆっくりと治療していこう。それで睡眠の方は?」
「以前から少し不眠気味で、今も、その…ふとした時にあの日のことを思い出してしまうんです。だから余計、眠るのが、怖くて……。」
「安心して過ごせる場所なら気も休まるかもしれないね。出来るだけ早く自宅に戻れるように対処しよう。
神崎さん、君は身体だけじゃなく心にも傷を負ってるんだ。不安なことや相談したいことは私でも家族の方でも良いから打ち明けること。溜め込んではいけないよ。」
「家族…」
医者はそう言うといつものように痛み止めをうって処置を終えた。
看護師に連れられて診察室から出る。点滴のスタンドを杖代わりにとぼとぼと歩いていたが、ふと耳に入ってきた音にハッと顔をあげた。
「あの、もしかしてこの病院、ピアノありますか?」
「ん?あぁ、あるわよ。ロビーの隅にポツンって置かれてるわ。あれ、江戸城から寄付だかなんだか知らないけど送られてきたの。まあうちにはあんな大層なもの弾ける人いないからせいぜい子供がふざけて弾くぐらいだけどね。気になるなら行ってみる?」
「…は、はい!」
二人は方向転換して1階のロビーへと向かった。
広々としたロビーの片隅に子供達が集まってはしゃいでいる。
「あれよ。」
「わぁ…とても立派なグランドピアノですね。」
「まあどっかの星からの献上品らしいからね。でもこんなとこに置いてたって宝の持ち腐れよ。誰も素敵な音なんて出しゃしないもの。」
呆れたように首を振る看護師にふふふと笑ってピアノに視線を送った。
「あの、ここまで案内してくださってありがとうございます。病室へは一人で戻れるので、もう少しここにいても良いですか?」
「えぇ、でも長居はしないでね。まだ体調は万全じゃないしここは冷えるから。」
「それじゃ」とナースステーションへ戻る看護師の後ろ姿にお辞儀をして再びピアノへと視線を向ける。
近くの長椅子に座ってピアノに群がる子供達を眺めた。
少し乱雑に鳴るピアノの音を聴いて笑みを溢す。
この数日でいろんな人たちがお見舞いに来てくれた。
月詠さんと晴太くん、お妙ちゃん、お登勢さん達、真選組の方々、万事屋の皆、そして見廻組の佐々木さんと今井さん。
佐々木は例の隊士について謝罪と口止めという名目でやってきた。伊織自身も今回のことは大事にしたくなかったため、あっさりと彼の言い分を受け入れたのだ。
月詠と晴太とは寺子屋の話をした。怪我のことは真選組から教師に連絡があったようだ。年内はもう治療に専念してゆっくり体を休めてほしい、と田浦先生からの言伝を聞いた。月詠はいつも通りの態度だったが、言葉の節々から伊織への心配や気遣いが窺えてほっこりとした。「月詠姉はツンデレなんだ」と晴太に耳打ちをされたり。
良い人ばかりに出会えたんだなぁ。一生分の運を使ってしまったかも。
そんなことを考えていると、ピアノを囲んでいた子供達は飽きてしまったのか何処かへと行ってしまった。
ゆっくりと立ち上がってピアノの元へ向かう。つるりとした表面を撫でていると、1ヶ月ほど前の当たり前だった日常を思い出す。
ポーン
病院のロビーに一音が響く。
たった一音。しかしそれは先程まで子供達が鳴らしていた音とは明らかに違った。丸く、優しく、静かに響き渡る。
伊織の両手は自然と鍵盤に添えられ、右足はペダルに掛けられた。
スッと思い浮かんだ一曲は、『アラベスク第一番』。
この曲は両親が一番大好きだった曲。
小学生の頃、母と父の喜ぶ顔が見たくて一生懸命練習したなぁ。弾き終えると頭を撫でてたくさん褒めてくれたんだ。
最後の和音を弾き終えて自分の両手を見ると、微かに震えている。目の前がうるうるとぼやけ出して弾かれたように立ち上がり、その場を後にする。伊織の耳には拍手や称賛の声なんて聞こえていなかった。
泣いちゃダメだ、と自分に言い聞かせながらできるだけ早足で病室へ戻り、ベッドへ倒れ込む。布団を掻き抱いて頭を埋めた。
帰りたい。
伊織の心をただ一つの思いが埋め尽くす。
本当の家族に会いたい、当たり障りのない日常が喉から手が出るほど恋しい。
布団には涙の染みが点々と増えていった。
*
山崎は総悟と共に大江戸病院に来ていた。目的は相も変わらず伊織のお見舞い。
伊織には気に病まないでくれと言われたものの、やはり自責の念は中々拭えずにどうしても足が向いてしまうのだ。
「珍しいですね。沖田隊長がお見舞いについてくるなんて。」
「そりゃ、俺だって少しは申し訳ない気持ちがあるんでねィ。」
沖田隊長も人間らしい心を持ち合わせているんだ、なんて失礼なことを考えながら入り口をくぐる。
いつも通り上の階の病室へ向かおうとすると、総悟があ、と声を漏らした。
「どうしたんですか?」
「あそこにいるの、伊織さんじゃねえか。」
顎でクイッと指された方向を見ると、伊織がピアノの前に座っていた。こんなところにいるなんて珍しいな、と思いながらその様子を見ていると、彼女は徐にピアノを弾き始めた。
ロビーにいた人々は足を止めて物珍しそうに伊織の演奏に耳を傾ける。美しい旋律にその場にいた誰もが酔いしれていた。
「なんだか、神聖な一枚の絵画を見ている気分ですね。」
「点滴の針ぶっ刺して入院着着てなきゃなァ。」
「それは仕方ないでしょうが…。」
「でも、綺麗でさァ。」
二人はじっと伊織を眺める。
やがて彼女が演奏を終えると、自然と拍手をしていた。周りの人々も同じで、伊織はスタンディングオベーションを浴びている。
声を掛けようと彼女の元へ歩を進めたとき、伊織は俯きがちにパッとその場を離れた。
後を追おうとするも、ピアノの周辺にできた人だかりから抜け出すのに一苦労。
数分かかってようやく伊織の病室の前に到着した。
コンコンとノックをして呼び掛けたが、中からの返事は聞こえない。総悟と顔を見合わせて、控えめにドアを開いた。
「失礼します。伊織ちゃーん、いますか?」
中を覗くと布団はこんもりと盛り上がっていて、ベッドの縁から足が垂れている。
近寄って声をかけると、足がびくっと動いて、布団の中からモゾモゾと顔を出した。
「や、山崎さんに沖田さん…。すみません、お見苦しい格好で…」
「全然構わないよ。あ、これお見舞いのプリン、よかったらどうぞ。」
「わぁ!いつもいつも素敵なものをありがとうございます。」
袋の中を覗いて嬉しそうに笑う伊織。総悟は「点数稼ぎ…」と山崎に聞こえるぐらいの声量で呟いたが、山崎は笑顔を保ったまま総悟のことを肘で小突いた。
「せっかく3つありますし、みんなで食べませんか?」
「お、じゃあ遠慮なく。」
「ちょっと沖田隊長!なに当たり前みたいに食べてるんですか!」
「どうせ残っててもあのチャイナ野郎に食われるだけでさァ。だから俺が食べる。」
伊織はクスクスと笑いながら山崎に残りの一個を差し出した。
結局三人でプリンを食べながら談笑をする。
「そういえばさっき伊織ちゃんがロビーでピアノ弾いているところ見たんだ。俺音楽のこととか全然わかんないけど思わず聴き入っちゃったよ。」
「…あ、はは。そんな、大層なものではないので…」
「なに言ってるんでさァ。あそこにいた連中、皆拍手喝采だったじゃねえですか。」
「へ?!そ、そんなに聴かれてたんですか?」
伊織は真っ赤な頬に手を当てて恥ずかしそうに唸る。観客がいたことには気付いていなかったようだ。
「そういえば傷の具合は?」
「えと、ほんの少しだけ治りが遅いらしいんですけど、そろそろ退院…
あれ、待って、私…」
伊織の動きがピタリと止まり、サァッと顔が青ざめていく。
「ど、どうしたの伊織ちゃん?」
「わ、私……保険証持っていないんですけど、治療費っておいくらなんでしょうか……?」
山崎と総悟は思わずブハッと吹き出した。あまりに深刻そうだから何か大変なことがあったのかと思えば、まさかお金の心配とは。
「ハハッ!そいつの心配はいらねえですぜィ。伊織さんの入院費は真選組持ちでさァ。」
「えっ」
「あ、これは絶対譲れないからなにを言っても無駄だよ伊織ちゃん。全然迷惑とかじゃないからね。むしろこれくらい払わせて貰わなきゃ困るくらいだ。」
山崎は伊織の思考を先読みする。謙虚な伊織は申し訳ないから自分で払うと言い出すのが手にとるようにわかるのだ。
どうやらそれは図星のようで、伊織は何かを言い籠っている。
「ウゥン…。これは、お言葉に甘えても良いんでしょうか…」
「もちろん!」
食い気味に答えた山崎に伊織は素直にお礼を言った。
帰り際、総悟は伊織の目元をそっとなぞった。突然のことに伊織はドギマギして真っ赤になる。
「薄ら隈が出来てらァ。ちゃんと寝なせェ。」
「は、はぇ…」
伊織の動揺した表情を見てくつくつと笑う。
布団を握りしめる伊織に後ろ手に手を振って病室を後にした。
山崎は「じゃあお大事に。」と小さく笑って扉を閉めた。
病室を出てスタスタと前を歩く総悟に不思議に思いながら声を掛ける。
「沖田隊長って伊織ちゃんに対して素っ気ないかと思ったら不意に優しくなりますよね。」
でも、決して酷いようには扱わない。この態度の違いはただの気紛れなのか?
率直な疑問である。
総悟は頭の後ろで腕を組んで気怠げに先を歩く。
「俺ぁあの目が苦手なんでィ。大人のくせにあんなガキみてえに純真な目で見つめられるとむず痒くてしょうがねえ。気を抜くとそのまま溺れちまいそうになる。」
「それって…」
「別に惚れてるわけじゃねえよ。それに、例え惚れてるにしろ自分のモノにしたいなんておこがましすぎらァ。あれは綺麗すぎていけねえや。」
そう言うと総悟はくるりと振り返って山崎のことを見つめた。
「つうかオメーの方がよっぽど伊織さんにご執心じゃねえか。愛しのたまさんはどうしたんだよ。」
「は?!い、いや、何言ってるんですか隊長!?俺は別にそんな…!」
「ま、お前が鞍替えするつもりなら俺がその恋路、全力で邪魔してやらァ。ははっ、覚悟しとけよザキ。」
「いや、だからそんなんじゃないですって!沖田隊長ー!!!」
たまのお見合いの時と同様、黒い笑みを見せた総悟を慌てて追いかける。
やっぱり隊長だって伊織ちゃんのこと好きなんじゃないか!!
そんな事言えるはずもなく、山崎は今日も今日とて振り回されるのだった。
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澄んだ水のように曇無き眼と穢れを知らない手