とある音大生の女の子が知らない世界に放り出されるお話
第1章 狭間で揺れ動くは儚き花
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「な、何をするつもりですか…。」
竦む足を奮い立たせて相手を睨んだ。すると男達はゲラゲラと笑い近づいてくる。
ガシッと顎を掴まれて目を覗き込まれた。
「お前は本来いなくてもいい存在だからなあ。ヒヒッ!おい、コイツはオレ達の好きにさせてもらうぜ。」
そう言うと男は伊織を床に投げ飛ばして足蹴にする。腹を蹴り、頭を蹴り、手を踏み付けた。
伊織は悲鳴をあげて痛みを堪える。
「っう、あ゛ぁ…!!」
「オイオイもっと泣き叫べよお嬢ちゃん。オレァ綺麗なツラしたヤツが汚く惨めに!許しを乞う様を見るのが大っ好きなんだ、よ!!」
男は刀を抜いて振り上げた。
刀が伊織に届く寸前。
「やめなさい。」
みつが男に軽蔑の眼差しを向けながらそう言った。すると男は興を削がれたかのように舌打ちをして刀を鞘に納める。
「私下品な男は嫌いなの。あんた達を連れてきたのは間違いだったわ。出てって頂戴。」
「女の癖に命令すんじゃねえよ。あいつに可愛がられてるからって調子乗ってっと痛い目見るぞ!!」
「あら、私に逆らう気?へぇ、そう。私の下僕の癖にどっちが調子に乗ってるのかしら。」
内輪揉めだろうか。男は一頻りみつを睨むと唾を吐いて出て行った。
荒々しく締められたドアの音が響く。
みつは頭を抑えてため息をつき、そして伊織を見下す。
「…助けてくださったんですか。」
「ハッ、何言ってんの。自分の立場わかってる?あんたの命なんかすぐにでも奪えるのよこっちは。」
ではなぜ男を止めたのか。伊織が戸惑っているとみつが懐から短刀を取り出した。
伊織はヒュッと息を飲み込んで敬介と優子を庇うように両手を広げる。
「庇うの?たかが他人なのに。」
馬鹿みたい、とみつは短刀を手中で弄ぶ。
「あ、貴女はこの子達の母親でしょう。どうしてこんなことをするんですか…。」
「…母親、ねぇ。」
みつは古びた椅子にドカリと座って肘をついた。
屯所前では物凄い剣幕で怒鳴り散らしていたのに、今はどこか憂いた表情で短刀を見つめている。別人のような代わり具合に伊織は怪訝な面持ちでみつを見つめた。
「ね、こんなこと言っても信用できないかもしれないけどさ、私、その子達を殺すつもりなんて、なかったの。」
「どういうことですか…?」
何を言っているの?だって現にこうして拐って…
伊織は訝しげにみつと彼女の手に持つ短刀を見つめた。そんな彼女を見てみつは「ちょっと話に付き合ってよ。」と話し始めた。
「私、悟さんのことがずっと好きだった。その子達の母親と悟さんが結ばれる前から、ずっとずっと彼のことを見てきたのよ。
だから、結婚するって言われたとき、目の前が真っ暗になったわ。彼、すごく幸せそうな顔で言うんだもの。私、それなりにアピールしてたつもりだし、彼だって楽しそうに私に付き合ってくれるから好かれてると思ってた。一人の女として。」
みつは哀感を帯びた声で話を続ける。
「でも違った。結納の時、悟さんが彼女に向けた瞳は、私に向けるものと別だった。思わず逃げ出したわ。彼のあの愛しむような瞳に耐えきれなかった。
それから彼のことをずっと忘れようと思ってたくさんの人とお見合いもしたけどどうしても忘れられなくて。子供もできたし私には絶対にチャンスなんかないのは分かってても無理だった。
そんな時、彼の妻が病死したって風の噂で知ったの。一目彼を見ようと訪ねたら悟さんは憔悴し切っていた。いてもたってもいられなくて、それから彼を献身的に支えた。もちろん敬介と優子の世話もね。
数年経って、お互いたくさんたくさん悩んでいろんな葛藤があったけど私たちは結婚した。
彼に愛する人がいたことも、これからも彼は彼女のことを忘れずに愛し続けることも、二人の子供だって全部受け入れた上で、その全てを愛したわ。」
「愛しているならどうして…!」
「子供が、出来たの。」
俯いて自分の腹を撫でる。
伊織はその様子を見て目頭が熱くなった。
「自分がこの子と同じように二人を愛せるか、悟さんが二人と同じようにこの子を愛せるか、怖いのよ…。
その不安が消えなくて、二人を突き放して、冷たくあしらって。酷いことしちゃったわ。
今日だってイライラして怒鳴った。少しだけ痛い目に合わせてやろうなんて考えてた。でもあの男が、『殺せ』って…」
「あの男?」
「今ここにいる攘夷浪士共を牛耳っている奴。奴のおかげで今はあいつら私の言いなりなの。
そのうち見廻組が来て全員検挙されるって言ってた。」
「でもそれじゃ、貴女も捕まってしまうのでは…」
「確かにここでは一旦捕まるけど、私がしたことは全部浪士達に無理やりやらされたことにするからすぐに釈放されるんですって。」
「それでもいいから二人を少しでも痛めつけてやろうって思ってたなんて…ほんと、何やってんだろ私…」
みつは嘆くように顔を覆った。
「これから、どうするつもりですか。」
「わかんない…でも、殺せない。敬介と優子は、殺せない…。」
「だったら」
伊織はみつの両手を掴んで目を合わせた。
「私たちと一緒にここを出ましょう。そしてもう一度やり直すんです。」
「でも、子供はここで殺さないとアイツらが手に掛けるわ。勿論貴女も。奴も裏切ったなんて知ったらきっと私を殺す…。アイツに殺されるくらいならいっそここで」
「か、簡単にあきらめないでください!貴女は、敬介くんと優子ちゃんとお腹の中にいる赤ちゃんの母親なんですよ!?
しっかりしてください!子供を守るのは親の役目でしょう!!」
みつの両手を強く握りしめて説得する。
この人は絶対に死なせちゃいけない、そんな思いが伊織を突き動かす。
「今、貴女は命令してきた男の言いなりじゃありません。それに、敬介くんと優子ちゃんも、貴女が踏み止まったからまだちゃんと生きている。」
伊織はみつに笑いかけて優しく彼女の手を引き、立ち上がらせた。
「私、変われるかな…?ちゃんと、母親に戻れるかな…?」
「変われます。今の貴女は、もう母親の目をしていますよ。」
みつは顔を歪ませて涙を流す。頬に伝うそれを袖でぐっと拭って表情を引き締めた。
「…ありがとう。貴女のおかげで目が覚めた。
ねえ、名前を聞いてもいい?」
「伊織です。」
「伊織、さん。私はみつ。
叶うなら、こんなところじゃなくて別の場所で会いたかったわ。私が馬鹿なことを考える前に貴女に話を聞いてもらったら、きっと違ってたんだろうな…。」
もの悲しそうに笑うみつの瞳には涙が滲んでいた。
『御用改である、真選組だぁあああ!!人質を解放してとっととお縄に突きやがれええええ!!!!』
突然聞こえてきた叫び声に伊織とみつは顔を合わせた。
「どうして?真選組は見廻組よりも先にここにたどり着けるはずが…。」
みつは一瞬眉を潜めたが、頭を振り払って伊織を力強く見据えた。
「伊織さん、私はできるだけ建物の中にいる浪士達を集める。少しでも時間を稼ぐから貴女は二人を連れてここから逃げて。多分正面は見張りがずっとついてるから無理。酷かもしれないけど、どうにか逃げ道を見つけて欲しい…できる?」
伊織が頷くとみつはドアに向かって歩き出す。
「真選組の狙いは浪士共の検挙じゃなくておそらく人質の救出。だからそう簡単に突入してこないと思う。つまり貴女達がここから脱出できれば勝ちよ。」
「みつさん。」
ドアノブに手をかけたみつに制止の声をかける。みつが振り返ると伊織は心配そうな顔でこちらを見ていた。
「貴女もですよ。貴女も一緒じゃないと、意味がありません。」
「…分かってる。」
みつが出て行った後、敬介と優子を軽く揺さぶり、起こす。
「敬介くん、優子ちゃん、起きて。」
「…んぁ?伊織…」
「…伊織ちゃ、ここ、どこぉ?」
「ここは、えっと…、」
誘拐されたと言ったら二人はパニックになって動けなくなってしまうのではないか。
そう危惧した伊織はここが何処なのかはあまり触れずにできるだけ明るい声音で二人に状況を伝える。
「あのね、今私たちはここで隠れ鬼をしているの。」
「隠れ鬼?」
「そう。それも少し普段の隠れ鬼とは違うのよ。
いい?この建物の中にいる人たちが鬼。それで、私たちは鬼さんに見つからないように外にいる黒い服のお兄さんたちのところに向かうの。」
「鬼さんは一人じゃないの?」
「…うん。私と一緒に逃げようね。」
「オレ鬼ごっこ得意だよ!!」
「伊織ちゃん、優子怖いよぉ…!」
敬介はふんすと意気込んでいるが、優子は伊織に抱きついてイヤイヤと首を振る。
伊織は二人を抱きしめて頭を撫でた。
「大丈夫。絶対に私が二人を守るから。
よし、優子ちゃんは私が抱えてあげる。敬介くんは私と手を繋ごうね。」
「うん!」
「二人とも、一つだけ約束してね。ここから先はお口にチャック。絶対に声を出さないこと。」
伊織のジェスチャーを見て、敬介と優子は真似をするように口を閉じた。三人で顔を寄せ合ってクスクスと笑い合った後、三人は立ち上がった。
伊織はドアを静かに開けて、優子を抱える右手、そして敬介の手を握る左手に力を込めて震える息を吐いた。
私は怖がっちゃいけない。二人を不安にさせちゃいけない。
これは隠れ鬼。鬼から逃げるだけ。
そう言い聞かせて震える足に鞭を打ち、伊織たちは歩き出したのだった。
*
かぶき町の公道は今、巨大な犬とスクーターを筆頭にパトカーが列をなしていた。
「副長、すみません。あの時俺が先に行っててなんて言わなければ…。そもそも伊織ちゃんに世話なんかを頼まなければこんなことには」
「謝るんじゃねえ。頼んだのは俺も同じだ。」
「…。」
殴ったっていい、罵倒してくれて構わない。嫌われる覚悟だって、もう出来ている。
必ず助け出すんだ!だからどうか!まだ生きていてくれ…!!!
山崎は無事を念じてアクセルを強く踏み込んだ。
だんだん町のはずれへと近づいてきたのか周りの建物が少なく、廃れたものへと変わっていく。
定春はスンスンと鼻をひくつかせて伊織の居場所を辿る。匂いがあるのかはわからない。この際野性の感だって良いのだ。ただ、見つけ出してくれさえすればこちらのもの。
そうして走り続けること数十分。定春は一つの廃工場の前で止まった。
「定春、ここに伊織ちゃんがいるアルか?」
「わん!」
パトカーがサイレンを響かせながら工場の入り口を塞ぐと割れた窓ガラスから数名の浪士が顔を覗かせてギョッとする。
神楽がすぐさま突入しようとするところを土方達は慌てて止めた。
「馬鹿かお前は!!向こうには神崎達がいるんだぞ!!」
「神楽ちゃん落ち着いて!今無闇に突入したって伊織さんを危険な目に遭わせるだけだよ!!」
「お前らこそ何言ってるアルか!!?伊織ちゃんはすでに危険な目に遭ってるだろうが!離せヨ!!コンニャローーー!!!」
新八達に羽交い締めにされている神楽はジタバタと暴れている。
総悟はスッと刀を抜いて神楽にその刃を向けて言葉を放った。
「おいクソチャイナ。お前の大事な伊織さん殺したくなきゃ軽率な行動は控えなァ。それでも行こうってんなら俺がその首、斬ってやんよ。」
「元はと言えばお前らのせいでこうなった癖に偉そうな口聞くんじゃねーヨ。こっちこそお前のドタマぶち抜くぞアァン??!!」
「ちょっと!こんなところで仲間割れなんてしないでくださいよ!!神楽ちゃんも落ち着いて!」
バチバチと火花を散らす神楽と総悟。
新八が落ち着かせるも一発触発の雰囲気は収まらない。
「お前ら聞けぇ!!俺たちが今、最優先すべきは人質救出!下手に敵を煽るんじゃねえぞ!」
近藤の言葉に隊士達は頷いた。その横で土方が拡声機を取り出してスゥッと息を吸う。
『御用改である、真選組だぁあああ!!人質を解放してとっととお縄に突きやがれええええ!!!!』
「えぇええええ??!!!トシ????あれ、俺今敵を煽るなって言ったよね?!!」
「何やってるんですか副長おおお!!!あぁああ…なんかアイツら臨戦態勢入っちゃってますって!!!」
山崎が入り口付近の攘夷浪士を見て青ざめる。
土方の言葉に反応した敵は刀を構えてギロリと睨んでいた。
「クソッ!!なんでサツが…!!」
「一歩も入れんじゃねえぞ!」
「ガキ共はもう殺しちまったんだろ?!人質がいねえと分かればアイツら踏み込んでくるぞ!!」
「まだ生きてるってことにすりゃいい!!女共を盾に少しでも逃げる時間を確保するんだ!」
正面に固まる見張りの浪士達は不測の事態に動揺してざわついている。しかしそれを悟られまいと一人の男が真選組に向かって叫んだ。
「おい!!お前らそこから動くんじゃねえ!!ガキと女がどうなってもいいのか!!!」
真選組と万事屋は為す術なく歯を食いしばってその場に立ち尽くす。
「銀ちゃん!どうするアルか?このままただ待ってるの?私そんなのいやヨ!!」
「銀さん、真選組が駄目なら僕たちだけでも!」
「落ち着け神楽、新八。大丈夫だ、伊織は必ず助け出す。
だが今は待て。」
銀時は工場から目を離さずに静かにそう言った。
神楽と新八はそれ以上何も言えずに銀時と同じように建物に視線を移したのだった。
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泣きたい気持ちを堪えて勇気を振り絞る。
竦む足を奮い立たせて相手を睨んだ。すると男達はゲラゲラと笑い近づいてくる。
ガシッと顎を掴まれて目を覗き込まれた。
「お前は本来いなくてもいい存在だからなあ。ヒヒッ!おい、コイツはオレ達の好きにさせてもらうぜ。」
そう言うと男は伊織を床に投げ飛ばして足蹴にする。腹を蹴り、頭を蹴り、手を踏み付けた。
伊織は悲鳴をあげて痛みを堪える。
「っう、あ゛ぁ…!!」
「オイオイもっと泣き叫べよお嬢ちゃん。オレァ綺麗なツラしたヤツが汚く惨めに!許しを乞う様を見るのが大っ好きなんだ、よ!!」
男は刀を抜いて振り上げた。
刀が伊織に届く寸前。
「やめなさい。」
みつが男に軽蔑の眼差しを向けながらそう言った。すると男は興を削がれたかのように舌打ちをして刀を鞘に納める。
「私下品な男は嫌いなの。あんた達を連れてきたのは間違いだったわ。出てって頂戴。」
「女の癖に命令すんじゃねえよ。あいつに可愛がられてるからって調子乗ってっと痛い目見るぞ!!」
「あら、私に逆らう気?へぇ、そう。私の下僕の癖にどっちが調子に乗ってるのかしら。」
内輪揉めだろうか。男は一頻りみつを睨むと唾を吐いて出て行った。
荒々しく締められたドアの音が響く。
みつは頭を抑えてため息をつき、そして伊織を見下す。
「…助けてくださったんですか。」
「ハッ、何言ってんの。自分の立場わかってる?あんたの命なんかすぐにでも奪えるのよこっちは。」
ではなぜ男を止めたのか。伊織が戸惑っているとみつが懐から短刀を取り出した。
伊織はヒュッと息を飲み込んで敬介と優子を庇うように両手を広げる。
「庇うの?たかが他人なのに。」
馬鹿みたい、とみつは短刀を手中で弄ぶ。
「あ、貴女はこの子達の母親でしょう。どうしてこんなことをするんですか…。」
「…母親、ねぇ。」
みつは古びた椅子にドカリと座って肘をついた。
屯所前では物凄い剣幕で怒鳴り散らしていたのに、今はどこか憂いた表情で短刀を見つめている。別人のような代わり具合に伊織は怪訝な面持ちでみつを見つめた。
「ね、こんなこと言っても信用できないかもしれないけどさ、私、その子達を殺すつもりなんて、なかったの。」
「どういうことですか…?」
何を言っているの?だって現にこうして拐って…
伊織は訝しげにみつと彼女の手に持つ短刀を見つめた。そんな彼女を見てみつは「ちょっと話に付き合ってよ。」と話し始めた。
「私、悟さんのことがずっと好きだった。その子達の母親と悟さんが結ばれる前から、ずっとずっと彼のことを見てきたのよ。
だから、結婚するって言われたとき、目の前が真っ暗になったわ。彼、すごく幸せそうな顔で言うんだもの。私、それなりにアピールしてたつもりだし、彼だって楽しそうに私に付き合ってくれるから好かれてると思ってた。一人の女として。」
みつは哀感を帯びた声で話を続ける。
「でも違った。結納の時、悟さんが彼女に向けた瞳は、私に向けるものと別だった。思わず逃げ出したわ。彼のあの愛しむような瞳に耐えきれなかった。
それから彼のことをずっと忘れようと思ってたくさんの人とお見合いもしたけどどうしても忘れられなくて。子供もできたし私には絶対にチャンスなんかないのは分かってても無理だった。
そんな時、彼の妻が病死したって風の噂で知ったの。一目彼を見ようと訪ねたら悟さんは憔悴し切っていた。いてもたってもいられなくて、それから彼を献身的に支えた。もちろん敬介と優子の世話もね。
数年経って、お互いたくさんたくさん悩んでいろんな葛藤があったけど私たちは結婚した。
彼に愛する人がいたことも、これからも彼は彼女のことを忘れずに愛し続けることも、二人の子供だって全部受け入れた上で、その全てを愛したわ。」
「愛しているならどうして…!」
「子供が、出来たの。」
俯いて自分の腹を撫でる。
伊織はその様子を見て目頭が熱くなった。
「自分がこの子と同じように二人を愛せるか、悟さんが二人と同じようにこの子を愛せるか、怖いのよ…。
その不安が消えなくて、二人を突き放して、冷たくあしらって。酷いことしちゃったわ。
今日だってイライラして怒鳴った。少しだけ痛い目に合わせてやろうなんて考えてた。でもあの男が、『殺せ』って…」
「あの男?」
「今ここにいる攘夷浪士共を牛耳っている奴。奴のおかげで今はあいつら私の言いなりなの。
そのうち見廻組が来て全員検挙されるって言ってた。」
「でもそれじゃ、貴女も捕まってしまうのでは…」
「確かにここでは一旦捕まるけど、私がしたことは全部浪士達に無理やりやらされたことにするからすぐに釈放されるんですって。」
「それでもいいから二人を少しでも痛めつけてやろうって思ってたなんて…ほんと、何やってんだろ私…」
みつは嘆くように顔を覆った。
「これから、どうするつもりですか。」
「わかんない…でも、殺せない。敬介と優子は、殺せない…。」
「だったら」
伊織はみつの両手を掴んで目を合わせた。
「私たちと一緒にここを出ましょう。そしてもう一度やり直すんです。」
「でも、子供はここで殺さないとアイツらが手に掛けるわ。勿論貴女も。奴も裏切ったなんて知ったらきっと私を殺す…。アイツに殺されるくらいならいっそここで」
「か、簡単にあきらめないでください!貴女は、敬介くんと優子ちゃんとお腹の中にいる赤ちゃんの母親なんですよ!?
しっかりしてください!子供を守るのは親の役目でしょう!!」
みつの両手を強く握りしめて説得する。
この人は絶対に死なせちゃいけない、そんな思いが伊織を突き動かす。
「今、貴女は命令してきた男の言いなりじゃありません。それに、敬介くんと優子ちゃんも、貴女が踏み止まったからまだちゃんと生きている。」
伊織はみつに笑いかけて優しく彼女の手を引き、立ち上がらせた。
「私、変われるかな…?ちゃんと、母親に戻れるかな…?」
「変われます。今の貴女は、もう母親の目をしていますよ。」
みつは顔を歪ませて涙を流す。頬に伝うそれを袖でぐっと拭って表情を引き締めた。
「…ありがとう。貴女のおかげで目が覚めた。
ねえ、名前を聞いてもいい?」
「伊織です。」
「伊織、さん。私はみつ。
叶うなら、こんなところじゃなくて別の場所で会いたかったわ。私が馬鹿なことを考える前に貴女に話を聞いてもらったら、きっと違ってたんだろうな…。」
もの悲しそうに笑うみつの瞳には涙が滲んでいた。
『御用改である、真選組だぁあああ!!人質を解放してとっととお縄に突きやがれええええ!!!!』
突然聞こえてきた叫び声に伊織とみつは顔を合わせた。
「どうして?真選組は見廻組よりも先にここにたどり着けるはずが…。」
みつは一瞬眉を潜めたが、頭を振り払って伊織を力強く見据えた。
「伊織さん、私はできるだけ建物の中にいる浪士達を集める。少しでも時間を稼ぐから貴女は二人を連れてここから逃げて。多分正面は見張りがずっとついてるから無理。酷かもしれないけど、どうにか逃げ道を見つけて欲しい…できる?」
伊織が頷くとみつはドアに向かって歩き出す。
「真選組の狙いは浪士共の検挙じゃなくておそらく人質の救出。だからそう簡単に突入してこないと思う。つまり貴女達がここから脱出できれば勝ちよ。」
「みつさん。」
ドアノブに手をかけたみつに制止の声をかける。みつが振り返ると伊織は心配そうな顔でこちらを見ていた。
「貴女もですよ。貴女も一緒じゃないと、意味がありません。」
「…分かってる。」
みつが出て行った後、敬介と優子を軽く揺さぶり、起こす。
「敬介くん、優子ちゃん、起きて。」
「…んぁ?伊織…」
「…伊織ちゃ、ここ、どこぉ?」
「ここは、えっと…、」
誘拐されたと言ったら二人はパニックになって動けなくなってしまうのではないか。
そう危惧した伊織はここが何処なのかはあまり触れずにできるだけ明るい声音で二人に状況を伝える。
「あのね、今私たちはここで隠れ鬼をしているの。」
「隠れ鬼?」
「そう。それも少し普段の隠れ鬼とは違うのよ。
いい?この建物の中にいる人たちが鬼。それで、私たちは鬼さんに見つからないように外にいる黒い服のお兄さんたちのところに向かうの。」
「鬼さんは一人じゃないの?」
「…うん。私と一緒に逃げようね。」
「オレ鬼ごっこ得意だよ!!」
「伊織ちゃん、優子怖いよぉ…!」
敬介はふんすと意気込んでいるが、優子は伊織に抱きついてイヤイヤと首を振る。
伊織は二人を抱きしめて頭を撫でた。
「大丈夫。絶対に私が二人を守るから。
よし、優子ちゃんは私が抱えてあげる。敬介くんは私と手を繋ごうね。」
「うん!」
「二人とも、一つだけ約束してね。ここから先はお口にチャック。絶対に声を出さないこと。」
伊織のジェスチャーを見て、敬介と優子は真似をするように口を閉じた。三人で顔を寄せ合ってクスクスと笑い合った後、三人は立ち上がった。
伊織はドアを静かに開けて、優子を抱える右手、そして敬介の手を握る左手に力を込めて震える息を吐いた。
私は怖がっちゃいけない。二人を不安にさせちゃいけない。
これは隠れ鬼。鬼から逃げるだけ。
そう言い聞かせて震える足に鞭を打ち、伊織たちは歩き出したのだった。
*
かぶき町の公道は今、巨大な犬とスクーターを筆頭にパトカーが列をなしていた。
「副長、すみません。あの時俺が先に行っててなんて言わなければ…。そもそも伊織ちゃんに世話なんかを頼まなければこんなことには」
「謝るんじゃねえ。頼んだのは俺も同じだ。」
「…。」
殴ったっていい、罵倒してくれて構わない。嫌われる覚悟だって、もう出来ている。
必ず助け出すんだ!だからどうか!まだ生きていてくれ…!!!
山崎は無事を念じてアクセルを強く踏み込んだ。
だんだん町のはずれへと近づいてきたのか周りの建物が少なく、廃れたものへと変わっていく。
定春はスンスンと鼻をひくつかせて伊織の居場所を辿る。匂いがあるのかはわからない。この際野性の感だって良いのだ。ただ、見つけ出してくれさえすればこちらのもの。
そうして走り続けること数十分。定春は一つの廃工場の前で止まった。
「定春、ここに伊織ちゃんがいるアルか?」
「わん!」
パトカーがサイレンを響かせながら工場の入り口を塞ぐと割れた窓ガラスから数名の浪士が顔を覗かせてギョッとする。
神楽がすぐさま突入しようとするところを土方達は慌てて止めた。
「馬鹿かお前は!!向こうには神崎達がいるんだぞ!!」
「神楽ちゃん落ち着いて!今無闇に突入したって伊織さんを危険な目に遭わせるだけだよ!!」
「お前らこそ何言ってるアルか!!?伊織ちゃんはすでに危険な目に遭ってるだろうが!離せヨ!!コンニャローーー!!!」
新八達に羽交い締めにされている神楽はジタバタと暴れている。
総悟はスッと刀を抜いて神楽にその刃を向けて言葉を放った。
「おいクソチャイナ。お前の大事な伊織さん殺したくなきゃ軽率な行動は控えなァ。それでも行こうってんなら俺がその首、斬ってやんよ。」
「元はと言えばお前らのせいでこうなった癖に偉そうな口聞くんじゃねーヨ。こっちこそお前のドタマぶち抜くぞアァン??!!」
「ちょっと!こんなところで仲間割れなんてしないでくださいよ!!神楽ちゃんも落ち着いて!」
バチバチと火花を散らす神楽と総悟。
新八が落ち着かせるも一発触発の雰囲気は収まらない。
「お前ら聞けぇ!!俺たちが今、最優先すべきは人質救出!下手に敵を煽るんじゃねえぞ!」
近藤の言葉に隊士達は頷いた。その横で土方が拡声機を取り出してスゥッと息を吸う。
『御用改である、真選組だぁあああ!!人質を解放してとっととお縄に突きやがれええええ!!!!』
「えぇええええ??!!!トシ????あれ、俺今敵を煽るなって言ったよね?!!」
「何やってるんですか副長おおお!!!あぁああ…なんかアイツら臨戦態勢入っちゃってますって!!!」
山崎が入り口付近の攘夷浪士を見て青ざめる。
土方の言葉に反応した敵は刀を構えてギロリと睨んでいた。
「クソッ!!なんでサツが…!!」
「一歩も入れんじゃねえぞ!」
「ガキ共はもう殺しちまったんだろ?!人質がいねえと分かればアイツら踏み込んでくるぞ!!」
「まだ生きてるってことにすりゃいい!!女共を盾に少しでも逃げる時間を確保するんだ!」
正面に固まる見張りの浪士達は不測の事態に動揺してざわついている。しかしそれを悟られまいと一人の男が真選組に向かって叫んだ。
「おい!!お前らそこから動くんじゃねえ!!ガキと女がどうなってもいいのか!!!」
真選組と万事屋は為す術なく歯を食いしばってその場に立ち尽くす。
「銀ちゃん!どうするアルか?このままただ待ってるの?私そんなのいやヨ!!」
「銀さん、真選組が駄目なら僕たちだけでも!」
「落ち着け神楽、新八。大丈夫だ、伊織は必ず助け出す。
だが今は待て。」
銀時は工場から目を離さずに静かにそう言った。
神楽と新八はそれ以上何も言えずに銀時と同じように建物に視線を移したのだった。
__________________
泣きたい気持ちを堪えて勇気を振り絞る。