とある音大生の女の子が知らない世界に放り出されるお話
第1章 狭間で揺れ動くは儚き花
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とある真夏日の午後、そこかしこでセミの鳴き声が聞こえる日だった。大学で科された課題に行き詰まった伊織は自宅から少し離れた河川敷を歩いていた。川の向こう岸は陽炎が立ち上っている。少し立ち止まってその様子を眺めていたが、こめかみ辺りを生温い汗が流れ落ちたことで我に帰り歩き出す。
日傘を差すことが面倒ならせめて帽子を被ってくるべきだった、とげんなりとため息をつき、来た道を引き返す。うだるような暑さの中、ノロノロと足を動かしていると、先ほど通った時には無かったはずの石が目についた。それは太陽の光を反射して鈍い光を放っている。
「こんな石、さっきあったかな」
伊織はしゃがみこみ、ゆっくりとその石を持つと太陽に透かしてみた。ほんのりと熱を持ったそれは光にかざすとキラキラと様々な色に変化する。辺りを見回すとこの石のかけらのようなものがいくつか転がっていた。なんとなくそのかけらを全て拾い集め、伊織は立ち上がる。
しばらく歩きながらそれをどうするかぼんやりと考えていたら、突然後ろから羽交い締めにされた。伊織は後ろから聞こえる荒い呼吸と、首元に突きつけられた刃物に目を白黒させた。
__________今動いたら殺される。
喉の奥から何かが迫り上がってくるのを必死に押さえていると、後ろから男が鼻息荒く喋り出す。
「オイ、今その手に持っているものを今すぐ俺に寄越せ。さもなくばお前の首を掻っ切るぞ…!!!!」
伊織は分かりました、と声に出そうと口を開いたが、カラカラの喉からは空気が漏れる音しかせず、ハクハクと口が動くだけだった。今すぐにでも石のかけらを投げ捨てたいのに恐怖や緊張で固く握り締められた手に石のかけらが食い込むのを感じることしかできなかった。
切羽詰まっているのか、男は刃物を落とし、伊織の首を締め上げ、もう一方の手で彼女の細腕を掴んだ。
すると突然、手の中で石が光り、あたりが眩い光に包まれたため、伊織はギュッと目を瞑った。
伊織の体は震え、過呼吸気味に息をしていると突如圧迫感から解放され、ハッと目を開いた。自分の首元に目を向けると先ほどまで締め付けていた男の手は見当たらず、どっと汗が噴き出てきた。崩れ落ちるようにその場に座り込み、震える手を見つめたが、握り締めていた石は見当たらず、かけらまで強く握り締めていたせいか伊織の手には血が滲んでいた。
時間にしたらほんの数分だっただろうが、初めて死ぬかもしれない恐怖を感じたため、目にはじわじわと涙が溜まってきて、まだ震えの治らない身体を両手で掻き抱いて咽び泣く。先ほどの恐怖を振り払うかのように息を整えていたが、また何者かに殺されるかもしれない、と頭の中を嫌な予感がよぎった伊織は震える足に鞭を打ち、よろよろと歩き出した。
しばらく俯きながら歩いていると、ドンッと何かに当たり尻餅をつく。
伊織は瞬時に肝が冷え、先程刃物を突きつけてきた男かもしれない、と身を固くし、ギュッと目を瞑った。
「あぁ!すまないねえ、お嬢ちゃん。怪我はないかい?」
しかし聞こえてきたのは少し歳をとった女性の声。震える息を吐きながら見上げると、渋い色の少しくたびれた着物を着た初老の女性がオロオロと立っていた。
なかなか立とうとしない伊織に痺れを切らしたのか、グイッと腕を掴んで立ち上がらせる。
「あんた、ここいらじゃ見ない顔だねぇ。それに、珍しい格好だ。」
伊織の姿をまじまじと見つめて物珍しそうな顔をする女性に伊織は首を傾げた。
「わ、私の方こそ、前をよく見ずにぶつかってしまって、すみません。
あの、私もお婆さんのような服装の方を見かけるのは…」
「あら!なんだい、若者からしたらこんなもんはもう時代遅れってことかい?」
「い、いえいえ!その、とても風流だと、思います。」
老婦はぽかんとした後、はっはっは!と大きな笑い声をたてた。
「そうかいそうかい!いやあ、久々に褒められると気持ちいいもんだねえ!
とにかく、怪我がなかったならよかったよ。
それにしたって、アンタ、寒くないのかい?それに靴も片方脱げてるじゃないか!」
「え?」
今は真夏じゃないか、そう言おうとしたが、スッと冷たい風で髪の毛が煽られて思考が停止した。老婦は目の前でゴソゴソと荷物を漁っている。
古びたブリキ人形のように首を動かし、周囲を確認すると、川は見当たらず、古びた長屋がポツポツと点在している。サンダルの脱げた足の裏に感じるのは硬いアスファルトではなく少し湿った土。
血の気が引いていくのを感じながら必死に考えるが、何がなんだか分からない伊織は老婦に声をかけた。
「あの、ここって…」
「ん?なんだい、お嬢ちゃん、やっぱりおのぼりさんかい?かぶき町は道が入り組んでいるから新参者にゃあ、ちょいとばかし分かりにくいからねえ。どれ、表の道まで案内してあげようじゃないか。」
かぶき町とは一体どこなのか。
目の前にあるもの全てが理解しがたい状況で、伊織は空っぽの頭でコクリと頷いた。
「取り敢えず、裸足で歩くのをわたしゃ見てらんないからこれ、履きな!服を汚したお詫びとでも思っておくれ。」
伊織は断る気力さえ湧いてこず、深々と頭を下げて差し出された草鞋を履いた。老婦の後をついていきながら家屋や道、通り過ぎる人々、そして今自分が履いている草鞋を見る。
明らかに違う。何もかもが違う。
履きなれない草鞋で足が少し痛むのを感じながら数分歩き続けたら、大通りにでた。
目の前を明らかに人間ではない風貌のナニカが通り過ぎた時、伊織は思わず手の中のサンダルを握り締めた。
「大通りはここさね。あんたみたいなかわいいお嬢ちゃんは悪い虫がくっつきやすそうだから、できるだけ人通りの多い道を選んで帰んな!じゃああたしは用事があるからそろそろお暇するよ。」
老婦はせっかちなのか道案内をするとさっさと来た道を戻ってしまった。
ろくにお礼もせずに呆然と老婦の背を見つめていたが、建物に遮られて見えなくなり、もう一度大通りの方を振り返る。
建物は現代的なものや古びた日本家屋が混じっていて、行き交う人の中には人ではない奇妙な姿のナニカが混じっている。しかし、双方気にする様子もなく歩いているため、この町ではこれが普通なのだろう。
殺されかけた次は見たことも、聞いたこともない町に飛ばされた伊織は自分の中の何かがガラガラと音を立てて崩れていく気がした。
胸に手を当てるとバクバクと心臓が動いている。吹く風にブルリと震える。
間違いなく生きている。死んでいない。
しかし、ここは、明らかに私がいた場所ではない。
伊織はただ、立ち尽くすことしかできなかった。いつの間にか溜まった涙が頬を伝う。
町の喧騒によって意識が引き戻された伊織は涙を拭い、大通りへと踏み出した。このまま突っ立っていても状況は変わらない。とにかく動こう。体の震えは依然として収まらず、ヨタヨタと人や怪物のようなものを避けて歩き出す。
この道を進んだ先には一体何があるのか。様々な不安が頭をよぎるが、人混みの中で足を止めることはできず、ただただ歩く。遠くには大きなタワーのようなものがそびえ立っており、空には飛行機ではない何かがたくさん飛んでいる。
昔の日本のようだが、そうではない。ちぐはぐな世界観にぐるぐると頭が回り、クラクラする。おぼつかない足取りで歩いていたらいつの間にか行き止まりに差し掛かった。左右に道がつながっているが。大通りを外れるのが怖くなった伊織は道を引き返す。
行き交う人々に違和感を覚えるが、それは彼女だけでなく、彼女を見ている人々も伊織に対して奇妙な目を向けていた。秋の寒空にノースリーブのワンピース一枚、裸足に草鞋。明らかに浮いているが、自分のことで一杯一杯の彼女はそんな視線に気づかない。
伊織は泣くな、泣くな、と自分自身に言い聞かせながら何度も同じ道をウロウロと往復した。
そして四度目。同じ道を歩いていると、「もし、お嬢さん」と老夫婦が声を掛けてきた。
「お嬢さん、ここの道で何度も見かけるけど、迷子かえ?」
心配そうな顔をしている二人に此処はどこなのか、と消え入りそうな声で聞くと、先ほどの老婦と同じように此処はかぶき町の大通りだ、と答える。
「大丈夫かい?顔色が悪いねえ、ま!それにすごく冷えてるじゃないかい!取り敢えずこれを羽織りんしゃい。」
最初に出会った老婦よりも落ち着いた雰囲気の優しげな老人が道の脇まで手を引いて、羽織を肩に掛けてくれた。思わず涙がこぼれ、すみません、ありがとうございます、と何度も頭を下げると二人は伊織の背中を撫でながら「世の中助け合いさ。そんなに泣きなさんな。」と優しく語りかけた。
「お嬢さん、もしかして訳ありかね?」
「こら、そんな不躾なこと聞くんじゃないよ。」
奥方にピシャリと肩を叩かれ、すまんすまんと肩を竦める。
二人はいくつか質問をするが、なんと答えたら良いのか分からず、口を噤む伊織。
「私たちも何かしてやりたいのは山々なんだがねえ。こんな身体だから。」
「もし本当に困ってることがあったら万事屋に頼むといい。」
「…万事屋、ですか?」
「あぁ。此処の道をまっすぐ行って左に曲がるとあるんだがね。
頼めばなんでもしてくれる奴が居るから、こんな老いぼれよか役に立つだろうよ。」
「お嬢さん、そんな辛気臭い顔しなさんな。せっかくの美人が台無しだよ。大丈夫、人生何とかなるもんさ。」
二人はそれ以上何も詮索することなく、ぽんっと背中を叩いて去って行く。慌てて羽織を返そうと後を追ったが、すでに人混みに紛れて二人の姿を見失った。人混みの中にいるであろう老夫婦に向かって頭を下げありがとうございました、と小さく口にする。
その後、老夫婦に言われた通りの道を進むと、『万事屋銀ちゃん』と書かれた看板のある建物を見つけた。近くに寄ってみると、その下にはスナックがあるが、まだ開いている様子はない。すぐそばにある階段を見つめながら老夫婦に言われたことを思い出す。
頼めばなんでもやってくれる。
元いたところではそんな店も、人も、聞いたことがない。何でも屋、ということは犯罪にも手を出すのだろうか。
さっきのような怖い人がいたら___
嫌な汗が背中を流れていき、死にかけた恐怖を思い出す。
息が上がってきて、指先が冷たくなる。
もしかしたらあの男が今もこの人混みの中にいるのかもしれない。そう思うと行き交うすべての人が自分を狙っているように思えてきた。いてもたってもいられなくなり、手すりにつかまりながらなんとか階段をのぼる。
伊織は扉の前に立ち、深呼吸をした。怖い人が出てきたらすぐに立ち去ろう、そんなことを考えながらそっとインターホンを押す。
中でピンポーンと音が鳴るのが聞こえた。少ししてドタバタと音が聞こえたのち、足音が近づいてくる。
やっぱりやめたらよかった、と思いながら暴れる心臓をぐっと押さえて人が出てくるのを待つ。
「なんだぁ?新聞も宗教の勧誘もお断りだ、コノヤロー。」
気の抜けるような男性の声にぎゅっと瞑っていた目を開け、足元から確認する。視線を徐々に上げて行くと、男性の腰に見えたのは刀のようなものだった。
その瞬間ブワリと鳥肌が立ち、一気に血の気が引いて行く。
目の前の男性は伊織に向かって何やら声を掛けているが、全く耳に入らず、伊織は後退り、両手でサンダルを握りしめながら震える口をなんとかこじ開けて掠れた声を出した。
「っは、あ、あの、…すみま、すみません。間違えました」
ペコペコと頭を下げ、男の顔を見ることなく駆け出す。声を掛けられている気がするが、転けそうになりながら階段を駆け下り、とにかく走った。
お金も何もないのに助けてくれ、なんて頼んだらあの剣で切られてしまうかもしれない。こうやって逃げ出したことに怒って次会ったら殺されるかもしれない。
ひたすら走っているとだんだん人が少なくなっていき、そのうち目の前に川が見えてきた。しかし、そこは散歩をしていた川とは全く異なり、川幅も小さく、川に沿う道も明らかに別物だった。
「はぁ…はぁ、、っな、なんで。
どういうこと…?ここ、どこ?も、わかんないよお…!!!」
涙が堰を切って溢れ出す。拭っても拭ってもこぼれ落ちるそれは地面に落ちて小さなシミを作る。
何時間も慣れない草鞋で歩いた伊織の足は擦り切れ、血が滲んでいる。伊織は座り込み、すすり泣く。
あの時、外に出ずに家にいたらこんなことにはならなかったのに。川の方に行かなければ。石を拾わなければ。
後悔ばかりが思考を埋め、何をしたらいいのか、これからどうすべきなのか、全く皆目見当もつかない。
日が落ちればいよいよ危ない。どうする、どうしたらいい。
深呼吸をしてなんとか落ち着こうとするが一向に思考は冷静にならない。
…い、……か、
伊織は後ろから聞こえる男の声に息を呑み、恐る恐る振り向いた。
そこには長髪の男性と、白いペンギンのような何かが立っていた。彼も腰には刀を携えている。
こ、殺される__________!!!
伊織は手に持ったサンダルをおもわず落とし、なんとか立ち上がる。
羽織が肩からずり落ち、草鞋も脱げそうになりながらじりじりと後ろに下がり、蚊の鳴くような声で命乞いをした。
「はっ、はぁ…、こ、こないでくださ、」
「む、驚かせてしまったか、すまない。俺は貴女に危害を加えるつもりは無い。顔色の悪い女子を放ってはおけなくてな。」
その男は伊織に歩み寄ろうとしたが、伊織は肩で息をしながらさらに後ずさった。
河川沿いの道だったため、後ずさった伊織の後ろは斜面となっており、バランスを崩した。突然の浮遊感に伊織はなす術もなく、ぐらりと身体が傾いたその瞬間、腕をグイッと力強く引っ張られ、男の腕の中に収まった。
「こんな時期に川に飛び込むものではないぞ。風邪をひいてしまう。」
男に抱かれていることに気付き、とうとう立っていられなくなった伊織はズルズルと座り込んだ。
あまりに震える彼女を見た男はやはり放っておくべきではない、と感じ、彼女に聞こえるように白い物体に声をかける。
「おい、エリザベス。俺の刀を持っていてはくれぬか。」
そういうと帯刀していた刀をエリザベスと呼ばれた者に刀を預けた。
「大丈夫だ、オレは刀を持っていない。絶対に傷つけないと約束しよう。
先程から足の怪我が気になっていたのだ、手当てをした方がいい。」
貴女に触れても大丈夫か、と優しく声を掛けたが、伊織は俯いたままだ。
男はゆっくりと近づき、とにかく場所を移動しよう、と伊織を抱き上げ、何処かへ向けて歩き出した。
エリザベスは伊織が落としたサンダルと羽織を拾い上げるとその男の後をついて行った。
男の腕の中で揺られながら伊織はこれからのことに不安を募らせるばかりだった。
______________________
不安げな顔で彷徨っていた彼女は一体なにを背負っているのか。
日傘を差すことが面倒ならせめて帽子を被ってくるべきだった、とげんなりとため息をつき、来た道を引き返す。うだるような暑さの中、ノロノロと足を動かしていると、先ほど通った時には無かったはずの石が目についた。それは太陽の光を反射して鈍い光を放っている。
「こんな石、さっきあったかな」
伊織はしゃがみこみ、ゆっくりとその石を持つと太陽に透かしてみた。ほんのりと熱を持ったそれは光にかざすとキラキラと様々な色に変化する。辺りを見回すとこの石のかけらのようなものがいくつか転がっていた。なんとなくそのかけらを全て拾い集め、伊織は立ち上がる。
しばらく歩きながらそれをどうするかぼんやりと考えていたら、突然後ろから羽交い締めにされた。伊織は後ろから聞こえる荒い呼吸と、首元に突きつけられた刃物に目を白黒させた。
__________今動いたら殺される。
喉の奥から何かが迫り上がってくるのを必死に押さえていると、後ろから男が鼻息荒く喋り出す。
「オイ、今その手に持っているものを今すぐ俺に寄越せ。さもなくばお前の首を掻っ切るぞ…!!!!」
伊織は分かりました、と声に出そうと口を開いたが、カラカラの喉からは空気が漏れる音しかせず、ハクハクと口が動くだけだった。今すぐにでも石のかけらを投げ捨てたいのに恐怖や緊張で固く握り締められた手に石のかけらが食い込むのを感じることしかできなかった。
切羽詰まっているのか、男は刃物を落とし、伊織の首を締め上げ、もう一方の手で彼女の細腕を掴んだ。
すると突然、手の中で石が光り、あたりが眩い光に包まれたため、伊織はギュッと目を瞑った。
伊織の体は震え、過呼吸気味に息をしていると突如圧迫感から解放され、ハッと目を開いた。自分の首元に目を向けると先ほどまで締め付けていた男の手は見当たらず、どっと汗が噴き出てきた。崩れ落ちるようにその場に座り込み、震える手を見つめたが、握り締めていた石は見当たらず、かけらまで強く握り締めていたせいか伊織の手には血が滲んでいた。
時間にしたらほんの数分だっただろうが、初めて死ぬかもしれない恐怖を感じたため、目にはじわじわと涙が溜まってきて、まだ震えの治らない身体を両手で掻き抱いて咽び泣く。先ほどの恐怖を振り払うかのように息を整えていたが、また何者かに殺されるかもしれない、と頭の中を嫌な予感がよぎった伊織は震える足に鞭を打ち、よろよろと歩き出した。
しばらく俯きながら歩いていると、ドンッと何かに当たり尻餅をつく。
伊織は瞬時に肝が冷え、先程刃物を突きつけてきた男かもしれない、と身を固くし、ギュッと目を瞑った。
「あぁ!すまないねえ、お嬢ちゃん。怪我はないかい?」
しかし聞こえてきたのは少し歳をとった女性の声。震える息を吐きながら見上げると、渋い色の少しくたびれた着物を着た初老の女性がオロオロと立っていた。
なかなか立とうとしない伊織に痺れを切らしたのか、グイッと腕を掴んで立ち上がらせる。
「あんた、ここいらじゃ見ない顔だねぇ。それに、珍しい格好だ。」
伊織の姿をまじまじと見つめて物珍しそうな顔をする女性に伊織は首を傾げた。
「わ、私の方こそ、前をよく見ずにぶつかってしまって、すみません。
あの、私もお婆さんのような服装の方を見かけるのは…」
「あら!なんだい、若者からしたらこんなもんはもう時代遅れってことかい?」
「い、いえいえ!その、とても風流だと、思います。」
老婦はぽかんとした後、はっはっは!と大きな笑い声をたてた。
「そうかいそうかい!いやあ、久々に褒められると気持ちいいもんだねえ!
とにかく、怪我がなかったならよかったよ。
それにしたって、アンタ、寒くないのかい?それに靴も片方脱げてるじゃないか!」
「え?」
今は真夏じゃないか、そう言おうとしたが、スッと冷たい風で髪の毛が煽られて思考が停止した。老婦は目の前でゴソゴソと荷物を漁っている。
古びたブリキ人形のように首を動かし、周囲を確認すると、川は見当たらず、古びた長屋がポツポツと点在している。サンダルの脱げた足の裏に感じるのは硬いアスファルトではなく少し湿った土。
血の気が引いていくのを感じながら必死に考えるが、何がなんだか分からない伊織は老婦に声をかけた。
「あの、ここって…」
「ん?なんだい、お嬢ちゃん、やっぱりおのぼりさんかい?かぶき町は道が入り組んでいるから新参者にゃあ、ちょいとばかし分かりにくいからねえ。どれ、表の道まで案内してあげようじゃないか。」
かぶき町とは一体どこなのか。
目の前にあるもの全てが理解しがたい状況で、伊織は空っぽの頭でコクリと頷いた。
「取り敢えず、裸足で歩くのをわたしゃ見てらんないからこれ、履きな!服を汚したお詫びとでも思っておくれ。」
伊織は断る気力さえ湧いてこず、深々と頭を下げて差し出された草鞋を履いた。老婦の後をついていきながら家屋や道、通り過ぎる人々、そして今自分が履いている草鞋を見る。
明らかに違う。何もかもが違う。
履きなれない草鞋で足が少し痛むのを感じながら数分歩き続けたら、大通りにでた。
目の前を明らかに人間ではない風貌のナニカが通り過ぎた時、伊織は思わず手の中のサンダルを握り締めた。
「大通りはここさね。あんたみたいなかわいいお嬢ちゃんは悪い虫がくっつきやすそうだから、できるだけ人通りの多い道を選んで帰んな!じゃああたしは用事があるからそろそろお暇するよ。」
老婦はせっかちなのか道案内をするとさっさと来た道を戻ってしまった。
ろくにお礼もせずに呆然と老婦の背を見つめていたが、建物に遮られて見えなくなり、もう一度大通りの方を振り返る。
建物は現代的なものや古びた日本家屋が混じっていて、行き交う人の中には人ではない奇妙な姿のナニカが混じっている。しかし、双方気にする様子もなく歩いているため、この町ではこれが普通なのだろう。
殺されかけた次は見たことも、聞いたこともない町に飛ばされた伊織は自分の中の何かがガラガラと音を立てて崩れていく気がした。
胸に手を当てるとバクバクと心臓が動いている。吹く風にブルリと震える。
間違いなく生きている。死んでいない。
しかし、ここは、明らかに私がいた場所ではない。
伊織はただ、立ち尽くすことしかできなかった。いつの間にか溜まった涙が頬を伝う。
町の喧騒によって意識が引き戻された伊織は涙を拭い、大通りへと踏み出した。このまま突っ立っていても状況は変わらない。とにかく動こう。体の震えは依然として収まらず、ヨタヨタと人や怪物のようなものを避けて歩き出す。
この道を進んだ先には一体何があるのか。様々な不安が頭をよぎるが、人混みの中で足を止めることはできず、ただただ歩く。遠くには大きなタワーのようなものがそびえ立っており、空には飛行機ではない何かがたくさん飛んでいる。
昔の日本のようだが、そうではない。ちぐはぐな世界観にぐるぐると頭が回り、クラクラする。おぼつかない足取りで歩いていたらいつの間にか行き止まりに差し掛かった。左右に道がつながっているが。大通りを外れるのが怖くなった伊織は道を引き返す。
行き交う人々に違和感を覚えるが、それは彼女だけでなく、彼女を見ている人々も伊織に対して奇妙な目を向けていた。秋の寒空にノースリーブのワンピース一枚、裸足に草鞋。明らかに浮いているが、自分のことで一杯一杯の彼女はそんな視線に気づかない。
伊織は泣くな、泣くな、と自分自身に言い聞かせながら何度も同じ道をウロウロと往復した。
そして四度目。同じ道を歩いていると、「もし、お嬢さん」と老夫婦が声を掛けてきた。
「お嬢さん、ここの道で何度も見かけるけど、迷子かえ?」
心配そうな顔をしている二人に此処はどこなのか、と消え入りそうな声で聞くと、先ほどの老婦と同じように此処はかぶき町の大通りだ、と答える。
「大丈夫かい?顔色が悪いねえ、ま!それにすごく冷えてるじゃないかい!取り敢えずこれを羽織りんしゃい。」
最初に出会った老婦よりも落ち着いた雰囲気の優しげな老人が道の脇まで手を引いて、羽織を肩に掛けてくれた。思わず涙がこぼれ、すみません、ありがとうございます、と何度も頭を下げると二人は伊織の背中を撫でながら「世の中助け合いさ。そんなに泣きなさんな。」と優しく語りかけた。
「お嬢さん、もしかして訳ありかね?」
「こら、そんな不躾なこと聞くんじゃないよ。」
奥方にピシャリと肩を叩かれ、すまんすまんと肩を竦める。
二人はいくつか質問をするが、なんと答えたら良いのか分からず、口を噤む伊織。
「私たちも何かしてやりたいのは山々なんだがねえ。こんな身体だから。」
「もし本当に困ってることがあったら万事屋に頼むといい。」
「…万事屋、ですか?」
「あぁ。此処の道をまっすぐ行って左に曲がるとあるんだがね。
頼めばなんでもしてくれる奴が居るから、こんな老いぼれよか役に立つだろうよ。」
「お嬢さん、そんな辛気臭い顔しなさんな。せっかくの美人が台無しだよ。大丈夫、人生何とかなるもんさ。」
二人はそれ以上何も詮索することなく、ぽんっと背中を叩いて去って行く。慌てて羽織を返そうと後を追ったが、すでに人混みに紛れて二人の姿を見失った。人混みの中にいるであろう老夫婦に向かって頭を下げありがとうございました、と小さく口にする。
その後、老夫婦に言われた通りの道を進むと、『万事屋銀ちゃん』と書かれた看板のある建物を見つけた。近くに寄ってみると、その下にはスナックがあるが、まだ開いている様子はない。すぐそばにある階段を見つめながら老夫婦に言われたことを思い出す。
頼めばなんでもやってくれる。
元いたところではそんな店も、人も、聞いたことがない。何でも屋、ということは犯罪にも手を出すのだろうか。
さっきのような怖い人がいたら___
嫌な汗が背中を流れていき、死にかけた恐怖を思い出す。
息が上がってきて、指先が冷たくなる。
もしかしたらあの男が今もこの人混みの中にいるのかもしれない。そう思うと行き交うすべての人が自分を狙っているように思えてきた。いてもたってもいられなくなり、手すりにつかまりながらなんとか階段をのぼる。
伊織は扉の前に立ち、深呼吸をした。怖い人が出てきたらすぐに立ち去ろう、そんなことを考えながらそっとインターホンを押す。
中でピンポーンと音が鳴るのが聞こえた。少ししてドタバタと音が聞こえたのち、足音が近づいてくる。
やっぱりやめたらよかった、と思いながら暴れる心臓をぐっと押さえて人が出てくるのを待つ。
「なんだぁ?新聞も宗教の勧誘もお断りだ、コノヤロー。」
気の抜けるような男性の声にぎゅっと瞑っていた目を開け、足元から確認する。視線を徐々に上げて行くと、男性の腰に見えたのは刀のようなものだった。
その瞬間ブワリと鳥肌が立ち、一気に血の気が引いて行く。
目の前の男性は伊織に向かって何やら声を掛けているが、全く耳に入らず、伊織は後退り、両手でサンダルを握りしめながら震える口をなんとかこじ開けて掠れた声を出した。
「っは、あ、あの、…すみま、すみません。間違えました」
ペコペコと頭を下げ、男の顔を見ることなく駆け出す。声を掛けられている気がするが、転けそうになりながら階段を駆け下り、とにかく走った。
お金も何もないのに助けてくれ、なんて頼んだらあの剣で切られてしまうかもしれない。こうやって逃げ出したことに怒って次会ったら殺されるかもしれない。
ひたすら走っているとだんだん人が少なくなっていき、そのうち目の前に川が見えてきた。しかし、そこは散歩をしていた川とは全く異なり、川幅も小さく、川に沿う道も明らかに別物だった。
「はぁ…はぁ、、っな、なんで。
どういうこと…?ここ、どこ?も、わかんないよお…!!!」
涙が堰を切って溢れ出す。拭っても拭ってもこぼれ落ちるそれは地面に落ちて小さなシミを作る。
何時間も慣れない草鞋で歩いた伊織の足は擦り切れ、血が滲んでいる。伊織は座り込み、すすり泣く。
あの時、外に出ずに家にいたらこんなことにはならなかったのに。川の方に行かなければ。石を拾わなければ。
後悔ばかりが思考を埋め、何をしたらいいのか、これからどうすべきなのか、全く皆目見当もつかない。
日が落ちればいよいよ危ない。どうする、どうしたらいい。
深呼吸をしてなんとか落ち着こうとするが一向に思考は冷静にならない。
…い、……か、
伊織は後ろから聞こえる男の声に息を呑み、恐る恐る振り向いた。
そこには長髪の男性と、白いペンギンのような何かが立っていた。彼も腰には刀を携えている。
こ、殺される__________!!!
伊織は手に持ったサンダルをおもわず落とし、なんとか立ち上がる。
羽織が肩からずり落ち、草鞋も脱げそうになりながらじりじりと後ろに下がり、蚊の鳴くような声で命乞いをした。
「はっ、はぁ…、こ、こないでくださ、」
「む、驚かせてしまったか、すまない。俺は貴女に危害を加えるつもりは無い。顔色の悪い女子を放ってはおけなくてな。」
その男は伊織に歩み寄ろうとしたが、伊織は肩で息をしながらさらに後ずさった。
河川沿いの道だったため、後ずさった伊織の後ろは斜面となっており、バランスを崩した。突然の浮遊感に伊織はなす術もなく、ぐらりと身体が傾いたその瞬間、腕をグイッと力強く引っ張られ、男の腕の中に収まった。
「こんな時期に川に飛び込むものではないぞ。風邪をひいてしまう。」
男に抱かれていることに気付き、とうとう立っていられなくなった伊織はズルズルと座り込んだ。
あまりに震える彼女を見た男はやはり放っておくべきではない、と感じ、彼女に聞こえるように白い物体に声をかける。
「おい、エリザベス。俺の刀を持っていてはくれぬか。」
そういうと帯刀していた刀をエリザベスと呼ばれた者に刀を預けた。
「大丈夫だ、オレは刀を持っていない。絶対に傷つけないと約束しよう。
先程から足の怪我が気になっていたのだ、手当てをした方がいい。」
貴女に触れても大丈夫か、と優しく声を掛けたが、伊織は俯いたままだ。
男はゆっくりと近づき、とにかく場所を移動しよう、と伊織を抱き上げ、何処かへ向けて歩き出した。
エリザベスは伊織が落としたサンダルと羽織を拾い上げるとその男の後をついて行った。
男の腕の中で揺られながら伊織はこれからのことに不安を募らせるばかりだった。
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不安げな顔で彷徨っていた彼女は一体なにを背負っているのか。
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