雷光が失せるとも
ふとしたとき、幼少期をしばらく過ごしたジャッポーネのことを思い出す。あの国の春は暖かかった。
ボンゴレの邸宅 を出て少し行けば町中が火照 ったようなピンク色をしていたのを覚えている。そう、桜並木が続く街道では、あの季節にだけ桃色の雨が降った。とくべつな季節だった。足元に堆積 した花弁 は絨毯 で、木々の間に見える空は川だと思った。
フィレンツェの春に見る藤の花とは違う。あの光景は、どうしてか思い出すだけで心の底を安穏 とさせた。
ミルフィオーレの連中がイタリアを蹂躙 してもう何年も経つ。もともと南部に拠点を持っていたうちのファミリーは騒動が始まってすぐ北部へ引っ込んだ。そこで今もなんとか、細々とやっている。
トレントはいい街だ。のどかで時間の流れがゆったりしている。何を食べても美味しいし、当然女性は美しい。ときどき言葉に難儀することもあるが、まあ、いまさら大した問題じゃない。
ふらふらと外を出歩いても、もう地元の人間らしく振る舞える。行きつけのバールで朝食、ネプチューン像の泉前で待ち合わせ、常連に美しい女性がいるピッツェリアや、アジトまでの近道もいくつか見つけた。
要するに、トレントで暮らすランボもすっかり板についてきたってわけだ。
「色男が耽 ってやがるな」
例によって昼間に広場まで出てきたのは、ボヴィーノの中でも付き合いの長いレオナルドとの待ち合わせのためだった。
互いに食後だと睨んだのか、現れた彼は両手にエスプレッソを持っている。
「飲むだろ?」
「遠慮する。嫌いなんだ」
ごく当たり前のように差し出されたカップを断ると一瞬時が止まった。
「……そうだった」彼は信じられないと目で語りながら静かに右手を引っ込めた。「じゃあ、オレが二杯飲もう」
これは持論だが、街中でイタリア人に石を投げればまず間違いなくカフェイン中毒者に当たる。当然にして、レオナルドもそのうちの一人だ。
「エスプレッソはイタリア人の魂だろ?」
飲めないだなんて。彼は隣へ腰を下ろすと、左手に持ったカップの中身を一口啜ってからそう言った。
「残念ながら、オレの魂には生まれつき入っていないんだ」
「それは本当に残念だ。代わりに何なら入ってるのかね?」
「さあな」
他愛のないことを言い合いながら、オレたちは特段意味もなく広場の往来を眺めた。平日の昼時を少し過ぎた頃だ。昼休みを終えてこれから再び職場へ向かう大人が幾人か通り過ぎ、入れ違いで小さな子供が数人駆け込んでくる。
春の空には雲一つ浮かんでいない。緩慢 な時の流れがどこからともなく欠伸 を呼んだ。
「しかしまあ、ここは南部の惨状が嘘みたいに穏やかだな」
レオナルドも退屈そうに瞼を下げている。
「まったくだ。ボスもここを気に入っているから、オレたちが向こうへ戻ることは、もうないかもしれないな」
「恋しいのか?」
「まさか」
そう返すと、向こうも「そう言うと思った」と言ってかすかに笑っている。
実際、サレルノの街を恋しいだなんて思ったことは一度もなかった。
そもそもオレはイタリアよりジャッポーネにいた期間のほうが長いし、イタリア生活にしてもサレルノよりシチリアのあたりを彷徨 いていた期間のほうが長い。そういう意味では、あの街に対する愛着をほかのファミリーほど持っていなかったんだろう。
あるとすれば、あの美しい海──ティレニア海を好きなだけ眺められる贅沢を手離したことに対する惜別 の情くらいか。
しかしそれも、身の危険と天秤にかけるほどのものじゃない。ファミリーもそう思ったから離れた。それだけのことだ。それくらい、南部の状況は悲惨だった。
「あのタイミングで離脱できたうちのファミリーは幸運だったな」
「そりゃしがらみがなかっただけだろうよ」
「そうとも言う」
一杯目のカップを潰して、レオナルドは二杯目に手を伸ばした。
「お前の片足 は災難だった」
片足というのは、ファミリーがオレに対してボンゴレの話を振るときに使う隠語だ。ボヴィーノとボンゴレ、二足のわらじを履いていたから、ボヴィーノでないもう一方という意味で片足と言う。
誰が初めに言い出したんだったか、今ではもう憶えちゃいないが、トレントに移ってきた頃からだということははっきり憶えている。今時、裏社会に通ずるまともな人間でボンゴレの名を口にする迂闊 な奴はいない。ミルフィオーレの連中がどこで聞き耳を立てているかわからないからだ。
「あれほど大手ともなると、俺達中小ファミリーのように尻尾巻いて逃げるってわけにもいかなかったんだろうな」
視線の先にそびえるレッラ邸には、刃を研ぐ老女の壁画が描かれている。
彼はそれを見るともなく見て、切なげにため息をついた。
「名のある同盟ファミリーも軒並み潰れちまって、目も当てられない」
「仕方ないさ。渦中だったんだ」
「渦中?」
太陽に向かって右手を翳すと、血液の道筋が透けて見えた。かつてはこの手に雷の刻印が入った指輪をしていたが、果たしてどの指だったか。もう痕跡も残っていない。
「オレたちはみんな、あの戦いの真ん中にいたんだ」
「──ああ、そうか」
レオナルドは納得したように一人ごちた。「お前は幹部扱いだったか」
「幹部なら、その後について何か聞いていないのか」
「いんや。さっぱりだ」
「そうか……。まあ、兼業じゃあそんなもんなのかね」
隣でエスプレッソを啜る音がやけに響いた。広場では十歳に満たないくらいの子供たちがじゃれ合って遊んでいる。
「あのボスは、オレのことをいつまでも泣き虫の子供だと思っていたのさ」
「子供? まさかお前を?」
視界の端 でもわかるくらい見開いた目がこちらを向いた。
「オレたちは指輪に選ばれてあの人の守護者になった。五つの時から十数年。色んな仕事をしたし、その度色んな通名が付いたりもしたが、結局オレを〝ボンゴレファミリーのランボ〟たらしめていたのはあの指輪だったんだ。それが失くなった今、オレこそがそうであった証明は、もうどこにもない」
最初にそれを受け取った日のことを、オレはもう憶えていない。
子供だった。
それがどれほど尊く、どれほどの価値と信頼を自分に与えてくれるものなのかもわからず、生まれも年齢も、所属している組織さえも違う自分と彼らとを繋ぐ唯一のものであることもわからなかった。
まるで雷光が天と地を結ぶように強固で、夢幻 のものだと知らなかったんだ。
だから言われるがまま、簡単に手放せた。
「ここに在るのは、田舎暮らしを享受する、ただのボヴィーノファミリーのランボだ」
今ならそうはしない。きっと、そうはしないだろう。
思ったところで、後の祭りだ。
「……あまり悲観するなよ。裏社会で長く続いたひとつの時代が終わった。それだけなんだから」
「わかってるさ」
冬の名残を感じさせるような冷たい風が吹いた。
イタリアはジャッポーネと同じで縦に長いから、南部と北部じゃ気候が違う。北部の春先には、時折こういう風が吹く。
はやく暖かくならんかね。レオナルドが身震いしながら言った。その時だった。オレの身にそれが起こったのは。
■
はじめに体を引っ張られるような感覚があった。
皮膚の表面を何かが這って、流れていく。自分がどういう形をしていたかも忘れて、思い出し、またすぐ忘れては思い出す。それを繰り返した。永遠だったような気がするが、一瞬だったような気もする。
どうやら再び過去へ飛んでいるらしい。そのことは、すぐにわかった。
目を開けると、視界には白靄が満ちていた。
馴染みのある現象。過去へは無事に辿り着いたようだ。
今回は一体どこへ飛ばされたのか。
五歳ならいざ知らず、十五歳の自分が未来へ逃げ込むくらいだからよほどの修羅場かもしれない。最悪なところで言えば、ボンゴレが誇る暗殺部隊との戦闘中だった実績もある。戦闘音は聞こえないが、油断はできない。
そうして一応気を張りながら周囲を伺っていると、次第に靄が晴れてきた。少し待てば、正面に人影があることに気がつく。
「うわ……本当に二十年後のランボ来ちゃったよ……」
間もなく人影はそう呟いた。動揺を含んだような、澄んだ少年の声だった。
誰のものかは考えなくともわかる。
やがて視界が明瞭になり、想像の通り若き日のボンゴレ10代目が姿を現した。間違いなく、記憶の中にあるオレが一番世話になっていた頃のボンゴレだ。しかしこうして会うと、思っていたよりずっと小柄に感じる。
彼はオレの姿を認めて緊張したように表情を強張らせた。
「えーっと、また大人ランボが、つまり、十五歳のあなたが更に10年バズーカをですね……」
「ああ……どうやらそうらしい」
辺りを見渡すと、彼の私室だった。懐かしい匂いが嗅細胞を刺激して、幼い頃の記憶が雪崩のように思い起こされる。
脱ぎっぱなしの衣服やゲームで散らかった床の上を走ったこと、天板の埋もれた机で宝探しをしたこと、ベッドに隠れていたずらをしたこと。
あの頃は広々と感じられた室内が、なんてことはない小ぢんまりとした子供部屋だったことを知る。
「やれやれ、まったく、夢でないなら十年前の自分を褒めてやりたいくらいだな」
呼吸のたび、高揚感を孕んだ血液が全身を巡って鳥肌が立った。
「あなたにもう一度お会いしたかった」
「え、オレに?」
彼は驚いたように目を見開いて、人差し指で自身を指した。その手に、ボンゴレファミリーの紋章が入ったリングが光っている。少年の手には重すぎる至宝の輝き。オレが失った、ファミリーである証だ。
──ざわざわ。胸の奥でざわめきが起こる。
突然、それを持たないオレはここにいるべきじゃないのではないかという気が起こった。この人と目を合わせる資格すらないと誰かが囁いている。誰かって? さあ、誰だろうな。
陽光を閉じ込めた瞳が不思議そうにオレを映した。その視線に、咎められている気になる。
鼻の奥が痛い。喉頭 がちぢこまって吐きそうだ。
「あ」
逃げるように目を逸らすと、丁度よくボンゴレが声を漏らした。
「飴があるんだった。いりますか?」
そうそう、と彼は思い付いたように言って、机の上をごそごそし出す。
「母さんからランボにって渡されたやつなんですけど、あなたもランボだし──って、飴で二十五歳の機嫌取ろうとしてるオレも何言ってんだって感じだけど……」
振り返ったボンゴレの手にあったのは、ブドウの写真がプリントされた袋入りの飴だった。懐かしさで視界が歪む。二十年前、俺がこの世で一番好きだったものだ。
あまりの感動で返答に窮 した。
「いらないか、さすがに」彼の表情が切なげに翳る。
「いいえ。ぜひいただきたい」
「……もちろん!」
ボンゴレはほっとしたように頬を緩めた。
手のひらを差し出すと、彼はそこへ向かって袋を傾ける。二度、三度と振って、個包装の飴が二つ転がってきた。
「二十年後にもまだあるのかな」袋を振り続けながら、彼は独り言のように呟く。「あ、イタリアにあるわけないか」
言い終わるのと同時だった。勢い余って飛び出した飴が、足元にばらばら散らばった。やっちった。ボンゴレはそれを見ながら頭をかく。
オレたちは二人して、小さくなりながらそれを拾った。一粒拾っては袋へ戻し、また拾っては戻す。そうやって最後の一粒を拾い上げたとき、ボンゴレはそれを数秒見つめたあとで、
「まあいいや、向こうに無いんなら全部持っていきなよ」
と言った。
「そんなことをすると、五歳のオレがまた面倒をかけますよ」
「いいよ、べつに。こっちじゃいつでも買えるんだから」
言いながら、オレの手のひらに乗せた分もまとめて袋に放り込む。それを差し出されて、思わず受け取ってしまった。
本当にいいのか。視線で確認するも、彼はいいよいいよと言って、返品は受け付けないとばかりに後ろ手を組む。
「では、ありがたく」
パッケージには見慣れないジャッポネーゼが並んでいて、読める言葉はほとんどない。こちらに住んでいた頃に少しは習った記憶があるが、もうすっかり忘れてしまった。
難しい呪文のようだ。その感覚すらも懐かしい。
「まだ好きなんだね」
しばらく眺めていると、見守るようなやわらかい視線が向く。
「……ええ。プールに敷き詰めて泳ぎたいくらいには」
「なんだそれ」
ボンゴレはわたげを吹くように笑った。
暖かい日向や木漏れ日で粒子が光ってる光景が浮かぶ。そう、こういう笑い方だった。そうだった。
どうして忘れてしまったんだろうか。
オレは一時、自分が泣き虫で何の力もない五歳児に戻ったような錯覚を抱いた。
「──なんか」ボンゴレはベットに腰掛けると、穏やかな表情をして言った。
「二十年経ったら怖い感じになっちゃうんだと思ってたんだけど、やっぱランボはランボだな」
そのとき、明け放たれた窓から春の風が吹き込んだ。それはオレの胸の真ん中を通って、翳を何もかも攫って抜けていく。
ふと、太陽の香りがした。顔を上げると、切り取られた景色の向こうで桃色の雨が降っていた。
気がつけば、代わり映えのしないトレントの広場だった。
「よお、おかえり」
数分前と変わらず、隣にはレオナルドが座っている。カップは二つとも空になっていた。
「土産か? 何を貰ったんだ?」彼はオレの手にある物を目敏く見つけると、一も二もなくそれをひったくった。「何だこりゃ」
「……向こうの菓子だ」
「へえ、ずいぶんポップだな」
「そういう国だ」
呪文みたいだ。彼はそう言って、物珍しそうにパッケージを眺めている。
「にしても久しぶりだったなあ、10年バズーカ」
「ああ」
袋をこちらへ寄越しながら、レオナルドはからかうように口元を歪めた。
何度経験しても、知り合いに軟弱な過去の自分を見られるのは尻の穴を見られるようで恥ずかしい。
この顔。一体十年前の自分が彼の前でどんな醜態を晒したんだか、想像もしたくない。
「こんなにちっこくてナヨっとしてたぞ。ああして見ると、お前も十年ですっかり変わったな」
彼は真新しい記憶をなぞるように言った。
まったくもって、その通りだと思った。
十年前と比べても、年齢、背丈、話し方、好きなものや住んでいる場所、数え出せばきりがないほど変わった。何もかも。変わった、と思っていた。
「案外、そうでもないらしい」
「……ふうん?」
見上げた先で太陽が輝いている。ふと、どこかで聞きかじった古典の一節が思い起こされた。
──天は汝らを呼び、その周囲をめぐり、永遠の美を誇示している。それなのに、汝らの眼はただ地のみを見つめている。
広場には観光客の姿が目立ち始めた。
「そろそろボスの所へ行くとするかね」
「そうだな」
レオナルドは口笛を吹きながら立ち上がった。空のカップを手にすると、数歩先に見えるゴミ箱へ弾むような足取りで向かい、半ば踊りながら戻ってくる。
「おんや」そしてオレの肩口に何かを見つけ、眉をひそめた。「かわいいのをくっつけてるぞ」
ひょいと摘み上げた物を見ると、それは爪先くらいの大きさで、微酔 したような淡桃 の──「花弁?」
レオナルドの手からそれを受け取る。二股に裂けた先端が風になびいて羽ばたいているように見えた。
「……オレの魂に、エスプレッソじゃなきゃ何が入ってるんだって聞いただろ?」
「うん?」
暖かな春の匂いがした。
「ブドウの飴玉と、あの町さ」
少しの間が空いて、彼は納得したように浅く頷いた。
「じゃあ、お前は間違いなく〝ボンゴレファミリーのランボ〟だな」
言い終わると同時に、再び口笛が聞こえ始めた。
頬が弛緩 するのを放置して、花弁をそっと懐に滑り込ませる。そうしてオレたちは広場を出た。
街道を抜ける道すがら飴玉を一つ口に放り込むと、懐かしい甘さに唾液腺が震える。
今頃、ジャッポーネには桃色の雨が降っているだろうか。仰向いた先に見える川べりに、桜並木が続いているのを想像した。
それ以来、過去へのタイムトラベルは一度も起こっていない。
ボンゴレの
フィレンツェの春に見る藤の花とは違う。あの光景は、どうしてか思い出すだけで心の底を
ミルフィオーレの連中がイタリアを
トレントはいい街だ。のどかで時間の流れがゆったりしている。何を食べても美味しいし、当然女性は美しい。ときどき言葉に難儀することもあるが、まあ、いまさら大した問題じゃない。
ふらふらと外を出歩いても、もう地元の人間らしく振る舞える。行きつけのバールで朝食、ネプチューン像の泉前で待ち合わせ、常連に美しい女性がいるピッツェリアや、アジトまでの近道もいくつか見つけた。
要するに、トレントで暮らすランボもすっかり板についてきたってわけだ。
「色男が
例によって昼間に広場まで出てきたのは、ボヴィーノの中でも付き合いの長いレオナルドとの待ち合わせのためだった。
互いに食後だと睨んだのか、現れた彼は両手にエスプレッソを持っている。
「飲むだろ?」
「遠慮する。嫌いなんだ」
ごく当たり前のように差し出されたカップを断ると一瞬時が止まった。
「……そうだった」彼は信じられないと目で語りながら静かに右手を引っ込めた。「じゃあ、オレが二杯飲もう」
これは持論だが、街中でイタリア人に石を投げればまず間違いなくカフェイン中毒者に当たる。当然にして、レオナルドもそのうちの一人だ。
「エスプレッソはイタリア人の魂だろ?」
飲めないだなんて。彼は隣へ腰を下ろすと、左手に持ったカップの中身を一口啜ってからそう言った。
「残念ながら、オレの魂には生まれつき入っていないんだ」
「それは本当に残念だ。代わりに何なら入ってるのかね?」
「さあな」
他愛のないことを言い合いながら、オレたちは特段意味もなく広場の往来を眺めた。平日の昼時を少し過ぎた頃だ。昼休みを終えてこれから再び職場へ向かう大人が幾人か通り過ぎ、入れ違いで小さな子供が数人駆け込んでくる。
春の空には雲一つ浮かんでいない。
「しかしまあ、ここは南部の惨状が嘘みたいに穏やかだな」
レオナルドも退屈そうに瞼を下げている。
「まったくだ。ボスもここを気に入っているから、オレたちが向こうへ戻ることは、もうないかもしれないな」
「恋しいのか?」
「まさか」
そう返すと、向こうも「そう言うと思った」と言ってかすかに笑っている。
実際、サレルノの街を恋しいだなんて思ったことは一度もなかった。
そもそもオレはイタリアよりジャッポーネにいた期間のほうが長いし、イタリア生活にしてもサレルノよりシチリアのあたりを
あるとすれば、あの美しい海──ティレニア海を好きなだけ眺められる贅沢を手離したことに対する
しかしそれも、身の危険と天秤にかけるほどのものじゃない。ファミリーもそう思ったから離れた。それだけのことだ。それくらい、南部の状況は悲惨だった。
「あのタイミングで離脱できたうちのファミリーは幸運だったな」
「そりゃしがらみがなかっただけだろうよ」
「そうとも言う」
一杯目のカップを潰して、レオナルドは二杯目に手を伸ばした。
「お前の
片足というのは、ファミリーがオレに対してボンゴレの話を振るときに使う隠語だ。ボヴィーノとボンゴレ、二足のわらじを履いていたから、ボヴィーノでないもう一方という意味で片足と言う。
誰が初めに言い出したんだったか、今ではもう憶えちゃいないが、トレントに移ってきた頃からだということははっきり憶えている。今時、裏社会に通ずるまともな人間でボンゴレの名を口にする
「あれほど大手ともなると、俺達中小ファミリーのように尻尾巻いて逃げるってわけにもいかなかったんだろうな」
視線の先にそびえるレッラ邸には、刃を研ぐ老女の壁画が描かれている。
彼はそれを見るともなく見て、切なげにため息をついた。
「名のある同盟ファミリーも軒並み潰れちまって、目も当てられない」
「仕方ないさ。渦中だったんだ」
「渦中?」
太陽に向かって右手を翳すと、血液の道筋が透けて見えた。かつてはこの手に雷の刻印が入った指輪をしていたが、果たしてどの指だったか。もう痕跡も残っていない。
「オレたちはみんな、あの戦いの真ん中にいたんだ」
「──ああ、そうか」
レオナルドは納得したように一人ごちた。「お前は幹部扱いだったか」
「幹部なら、その後について何か聞いていないのか」
「いんや。さっぱりだ」
「そうか……。まあ、兼業じゃあそんなもんなのかね」
隣でエスプレッソを啜る音がやけに響いた。広場では十歳に満たないくらいの子供たちがじゃれ合って遊んでいる。
「あのボスは、オレのことをいつまでも泣き虫の子供だと思っていたのさ」
「子供? まさかお前を?」
視界の
「オレたちは指輪に選ばれてあの人の守護者になった。五つの時から十数年。色んな仕事をしたし、その度色んな通名が付いたりもしたが、結局オレを〝ボンゴレファミリーのランボ〟たらしめていたのはあの指輪だったんだ。それが失くなった今、オレこそがそうであった証明は、もうどこにもない」
最初にそれを受け取った日のことを、オレはもう憶えていない。
子供だった。
それがどれほど尊く、どれほどの価値と信頼を自分に与えてくれるものなのかもわからず、生まれも年齢も、所属している組織さえも違う自分と彼らとを繋ぐ唯一のものであることもわからなかった。
まるで雷光が天と地を結ぶように強固で、
だから言われるがまま、簡単に手放せた。
「ここに在るのは、田舎暮らしを享受する、ただのボヴィーノファミリーのランボだ」
今ならそうはしない。きっと、そうはしないだろう。
思ったところで、後の祭りだ。
「……あまり悲観するなよ。裏社会で長く続いたひとつの時代が終わった。それだけなんだから」
「わかってるさ」
冬の名残を感じさせるような冷たい風が吹いた。
イタリアはジャッポーネと同じで縦に長いから、南部と北部じゃ気候が違う。北部の春先には、時折こういう風が吹く。
はやく暖かくならんかね。レオナルドが身震いしながら言った。その時だった。オレの身にそれが起こったのは。
■
はじめに体を引っ張られるような感覚があった。
皮膚の表面を何かが這って、流れていく。自分がどういう形をしていたかも忘れて、思い出し、またすぐ忘れては思い出す。それを繰り返した。永遠だったような気がするが、一瞬だったような気もする。
どうやら再び過去へ飛んでいるらしい。そのことは、すぐにわかった。
目を開けると、視界には白靄が満ちていた。
馴染みのある現象。過去へは無事に辿り着いたようだ。
今回は一体どこへ飛ばされたのか。
五歳ならいざ知らず、十五歳の自分が未来へ逃げ込むくらいだからよほどの修羅場かもしれない。最悪なところで言えば、ボンゴレが誇る暗殺部隊との戦闘中だった実績もある。戦闘音は聞こえないが、油断はできない。
そうして一応気を張りながら周囲を伺っていると、次第に靄が晴れてきた。少し待てば、正面に人影があることに気がつく。
「うわ……本当に二十年後のランボ来ちゃったよ……」
間もなく人影はそう呟いた。動揺を含んだような、澄んだ少年の声だった。
誰のものかは考えなくともわかる。
やがて視界が明瞭になり、想像の通り若き日のボンゴレ10代目が姿を現した。間違いなく、記憶の中にあるオレが一番世話になっていた頃のボンゴレだ。しかしこうして会うと、思っていたよりずっと小柄に感じる。
彼はオレの姿を認めて緊張したように表情を強張らせた。
「えーっと、また大人ランボが、つまり、十五歳のあなたが更に10年バズーカをですね……」
「ああ……どうやらそうらしい」
辺りを見渡すと、彼の私室だった。懐かしい匂いが嗅細胞を刺激して、幼い頃の記憶が雪崩のように思い起こされる。
脱ぎっぱなしの衣服やゲームで散らかった床の上を走ったこと、天板の埋もれた机で宝探しをしたこと、ベッドに隠れていたずらをしたこと。
あの頃は広々と感じられた室内が、なんてことはない小ぢんまりとした子供部屋だったことを知る。
「やれやれ、まったく、夢でないなら十年前の自分を褒めてやりたいくらいだな」
呼吸のたび、高揚感を孕んだ血液が全身を巡って鳥肌が立った。
「あなたにもう一度お会いしたかった」
「え、オレに?」
彼は驚いたように目を見開いて、人差し指で自身を指した。その手に、ボンゴレファミリーの紋章が入ったリングが光っている。少年の手には重すぎる至宝の輝き。オレが失った、ファミリーである証だ。
──ざわざわ。胸の奥でざわめきが起こる。
突然、それを持たないオレはここにいるべきじゃないのではないかという気が起こった。この人と目を合わせる資格すらないと誰かが囁いている。誰かって? さあ、誰だろうな。
陽光を閉じ込めた瞳が不思議そうにオレを映した。その視線に、咎められている気になる。
鼻の奥が痛い。
「あ」
逃げるように目を逸らすと、丁度よくボンゴレが声を漏らした。
「飴があるんだった。いりますか?」
そうそう、と彼は思い付いたように言って、机の上をごそごそし出す。
「母さんからランボにって渡されたやつなんですけど、あなたもランボだし──って、飴で二十五歳の機嫌取ろうとしてるオレも何言ってんだって感じだけど……」
振り返ったボンゴレの手にあったのは、ブドウの写真がプリントされた袋入りの飴だった。懐かしさで視界が歪む。二十年前、俺がこの世で一番好きだったものだ。
あまりの感動で返答に
「いらないか、さすがに」彼の表情が切なげに翳る。
「いいえ。ぜひいただきたい」
「……もちろん!」
ボンゴレはほっとしたように頬を緩めた。
手のひらを差し出すと、彼はそこへ向かって袋を傾ける。二度、三度と振って、個包装の飴が二つ転がってきた。
「二十年後にもまだあるのかな」袋を振り続けながら、彼は独り言のように呟く。「あ、イタリアにあるわけないか」
言い終わるのと同時だった。勢い余って飛び出した飴が、足元にばらばら散らばった。やっちった。ボンゴレはそれを見ながら頭をかく。
オレたちは二人して、小さくなりながらそれを拾った。一粒拾っては袋へ戻し、また拾っては戻す。そうやって最後の一粒を拾い上げたとき、ボンゴレはそれを数秒見つめたあとで、
「まあいいや、向こうに無いんなら全部持っていきなよ」
と言った。
「そんなことをすると、五歳のオレがまた面倒をかけますよ」
「いいよ、べつに。こっちじゃいつでも買えるんだから」
言いながら、オレの手のひらに乗せた分もまとめて袋に放り込む。それを差し出されて、思わず受け取ってしまった。
本当にいいのか。視線で確認するも、彼はいいよいいよと言って、返品は受け付けないとばかりに後ろ手を組む。
「では、ありがたく」
パッケージには見慣れないジャッポネーゼが並んでいて、読める言葉はほとんどない。こちらに住んでいた頃に少しは習った記憶があるが、もうすっかり忘れてしまった。
難しい呪文のようだ。その感覚すらも懐かしい。
「まだ好きなんだね」
しばらく眺めていると、見守るようなやわらかい視線が向く。
「……ええ。プールに敷き詰めて泳ぎたいくらいには」
「なんだそれ」
ボンゴレはわたげを吹くように笑った。
暖かい日向や木漏れ日で粒子が光ってる光景が浮かぶ。そう、こういう笑い方だった。そうだった。
どうして忘れてしまったんだろうか。
オレは一時、自分が泣き虫で何の力もない五歳児に戻ったような錯覚を抱いた。
「──なんか」ボンゴレはベットに腰掛けると、穏やかな表情をして言った。
「二十年経ったら怖い感じになっちゃうんだと思ってたんだけど、やっぱランボはランボだな」
そのとき、明け放たれた窓から春の風が吹き込んだ。それはオレの胸の真ん中を通って、翳を何もかも攫って抜けていく。
ふと、太陽の香りがした。顔を上げると、切り取られた景色の向こうで桃色の雨が降っていた。
気がつけば、代わり映えのしないトレントの広場だった。
「よお、おかえり」
数分前と変わらず、隣にはレオナルドが座っている。カップは二つとも空になっていた。
「土産か? 何を貰ったんだ?」彼はオレの手にある物を目敏く見つけると、一も二もなくそれをひったくった。「何だこりゃ」
「……向こうの菓子だ」
「へえ、ずいぶんポップだな」
「そういう国だ」
呪文みたいだ。彼はそう言って、物珍しそうにパッケージを眺めている。
「にしても久しぶりだったなあ、10年バズーカ」
「ああ」
袋をこちらへ寄越しながら、レオナルドはからかうように口元を歪めた。
何度経験しても、知り合いに軟弱な過去の自分を見られるのは尻の穴を見られるようで恥ずかしい。
この顔。一体十年前の自分が彼の前でどんな醜態を晒したんだか、想像もしたくない。
「こんなにちっこくてナヨっとしてたぞ。ああして見ると、お前も十年ですっかり変わったな」
彼は真新しい記憶をなぞるように言った。
まったくもって、その通りだと思った。
十年前と比べても、年齢、背丈、話し方、好きなものや住んでいる場所、数え出せばきりがないほど変わった。何もかも。変わった、と思っていた。
「案外、そうでもないらしい」
「……ふうん?」
見上げた先で太陽が輝いている。ふと、どこかで聞きかじった古典の一節が思い起こされた。
──天は汝らを呼び、その周囲をめぐり、永遠の美を誇示している。それなのに、汝らの眼はただ地のみを見つめている。
広場には観光客の姿が目立ち始めた。
「そろそろボスの所へ行くとするかね」
「そうだな」
レオナルドは口笛を吹きながら立ち上がった。空のカップを手にすると、数歩先に見えるゴミ箱へ弾むような足取りで向かい、半ば踊りながら戻ってくる。
「おんや」そしてオレの肩口に何かを見つけ、眉をひそめた。「かわいいのをくっつけてるぞ」
ひょいと摘み上げた物を見ると、それは爪先くらいの大きさで、
レオナルドの手からそれを受け取る。二股に裂けた先端が風になびいて羽ばたいているように見えた。
「……オレの魂に、エスプレッソじゃなきゃ何が入ってるんだって聞いただろ?」
「うん?」
暖かな春の匂いがした。
「ブドウの飴玉と、あの町さ」
少しの間が空いて、彼は納得したように浅く頷いた。
「じゃあ、お前は間違いなく〝ボンゴレファミリーのランボ〟だな」
言い終わると同時に、再び口笛が聞こえ始めた。
頬が
街道を抜ける道すがら飴玉を一つ口に放り込むと、懐かしい甘さに唾液腺が震える。
今頃、ジャッポーネには桃色の雨が降っているだろうか。仰向いた先に見える川べりに、桜並木が続いているのを想像した。
それ以来、過去へのタイムトラベルは一度も起こっていない。
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