愛、そのようなもの
四月のカレンダーには、毎年きまって不格好な花が咲く。山本家では、十四年前からそうだった。
「お電話ありがとうございます、竹寿司です。はいはい、ご予約ですね──」
開店準備中の店内に、剛の声だけが響いている。武は何となく清掃の手を止めて、客席の壁に掛かっている中綴じのカレンダーに目をやった。
厨房の奥から聞こえてくる会話に合わせて、視線を滑らせる。今月ですね? はい、四月の、十六日はお生憎ですが満席で、ええ、十九日も、申し訳ありませんが。二十一日は定休日なんですよ。ええ、ええ、そしたら二十四日ですか。二十四日は、店の都合でお休みを頂く予定でして。
目を移せども、移せども、カレンダーは空欄が続くばかりで、何の予定も書き込まれていない。それもそのはず。あくまでも来店した客用のものだから、彼に日付を確認する以上の意義はないのである。
しかし二十四日にだけは、黒いボールペンの線で花のイラストが描かれていた。一体、それは桜なのか、梅なのか、はたまた桃なのかはわからない。花弁の先が切れているから桜のつもりかもしれないし、そもそも種類なんて決まっていないのかもしれない。
武はそんなヘンテコな花を見ながら口元をゆるませた。
思い出されるのは、元日の光景。
明けましておめでとうございます、と挨拶を交わした次の段には真新しいカレンダーを四ページめくり、二十四日の欄に無骨な花を描く。それは愛息子の誕生日を示す印であり、年に一度だけ、手前勝手な理由で店を閉める日を示す印であった。
十四年間、一度も欠かすことなく行われてきた、父・剛の慣例である。
「武、すまねえが、出前に行ってきてくれねえか」
電話を終えた剛が、暖簾の間から顔を覗かせた。
「何でい、ニヤニヤしやがって」息子の顔を見るなり、眉根が訝しげに歪む。
「いんや、べつに」
武は特段取り繕おうともせず、かえって思い切り口角を上げてみせる。
無邪気な息子の様子に、剛はすっかり毒気を抜かれたような気になった。
「いいことでもあったのか?」
「なんでもねーって」
笑いながら、武は箒を片付け始める。
なんでもねえってことねえだろう。剛は不思議に思ったがしかし、機嫌がいいのはいつものことか、と一人納得した。自分の息子にしては、幾分おおらかすぎる子どもに育った。無論、それが美徳である。
「……一体、誰に似たんだかなあ」
寿司桶を包みながらしみじみと呟く。その言葉は、静かな店内にじんわりと染み込むように響いた。
支度を終えて店内を見渡すと、不意にカレンダーが目に入る。花のイラストは、青天に浮かんだ一片の雲みたいなもので、よく目立つ。二十四日は、ああ、もう二週間後に迫っている。
毎年四月二十四日を定休日にすると決めたのは、武が生まれたその日のことだった。十四年も続けていれば、常連の間ではもう知れ渡ったことである。理由を聞いて驚かれることもずいぶん減った。親馬鹿と言われることは、少し増えた。
武が中学校に上がる前、彼は突然、意を決したような顔をして「もう誕生日に店を閉めなくていい」と言ったことがあった。そのことを、あれから毎年思い出す。自分のせいで父親に仕事を休ませているということについて、子供なりに思うところがあったのだろう。剛は「息子の誕生日を、当日に面と向かって祝える贅沢を奪うんじゃねえ」と言ってこれを断った。ゆえに、慣例は今に続いている。
「言ってしまえばもう誕生日にお祝いをしてもらえなくなる」という寂しさと「それでも父ちゃんのために言うんだ」という優しさが混じったようなあの顔を、剛は生涯忘れないだろうと思う。
「お電話ありがとうございます、竹寿司です。はいはい、ご予約ですね──」
開店準備中の店内に、剛の声だけが響いている。武は何となく清掃の手を止めて、客席の壁に掛かっている中綴じのカレンダーに目をやった。
厨房の奥から聞こえてくる会話に合わせて、視線を滑らせる。今月ですね? はい、四月の、十六日はお生憎ですが満席で、ええ、十九日も、申し訳ありませんが。二十一日は定休日なんですよ。ええ、ええ、そしたら二十四日ですか。二十四日は、店の都合でお休みを頂く予定でして。
目を移せども、移せども、カレンダーは空欄が続くばかりで、何の予定も書き込まれていない。それもそのはず。あくまでも来店した客用のものだから、彼に日付を確認する以上の意義はないのである。
しかし二十四日にだけは、黒いボールペンの線で花のイラストが描かれていた。一体、それは桜なのか、梅なのか、はたまた桃なのかはわからない。花弁の先が切れているから桜のつもりかもしれないし、そもそも種類なんて決まっていないのかもしれない。
武はそんなヘンテコな花を見ながら口元をゆるませた。
思い出されるのは、元日の光景。
明けましておめでとうございます、と挨拶を交わした次の段には真新しいカレンダーを四ページめくり、二十四日の欄に無骨な花を描く。それは愛息子の誕生日を示す印であり、年に一度だけ、手前勝手な理由で店を閉める日を示す印であった。
十四年間、一度も欠かすことなく行われてきた、父・剛の慣例である。
「武、すまねえが、出前に行ってきてくれねえか」
電話を終えた剛が、暖簾の間から顔を覗かせた。
「何でい、ニヤニヤしやがって」息子の顔を見るなり、眉根が訝しげに歪む。
「いんや、べつに」
武は特段取り繕おうともせず、かえって思い切り口角を上げてみせる。
無邪気な息子の様子に、剛はすっかり毒気を抜かれたような気になった。
「いいことでもあったのか?」
「なんでもねーって」
笑いながら、武は箒を片付け始める。
なんでもねえってことねえだろう。剛は不思議に思ったがしかし、機嫌がいいのはいつものことか、と一人納得した。自分の息子にしては、幾分おおらかすぎる子どもに育った。無論、それが美徳である。
「……一体、誰に似たんだかなあ」
寿司桶を包みながらしみじみと呟く。その言葉は、静かな店内にじんわりと染み込むように響いた。
支度を終えて店内を見渡すと、不意にカレンダーが目に入る。花のイラストは、青天に浮かんだ一片の雲みたいなもので、よく目立つ。二十四日は、ああ、もう二週間後に迫っている。
毎年四月二十四日を定休日にすると決めたのは、武が生まれたその日のことだった。十四年も続けていれば、常連の間ではもう知れ渡ったことである。理由を聞いて驚かれることもずいぶん減った。親馬鹿と言われることは、少し増えた。
武が中学校に上がる前、彼は突然、意を決したような顔をして「もう誕生日に店を閉めなくていい」と言ったことがあった。そのことを、あれから毎年思い出す。自分のせいで父親に仕事を休ませているということについて、子供なりに思うところがあったのだろう。剛は「息子の誕生日を、当日に面と向かって祝える贅沢を奪うんじゃねえ」と言ってこれを断った。ゆえに、慣例は今に続いている。
「言ってしまえばもう誕生日にお祝いをしてもらえなくなる」という寂しさと「それでも父ちゃんのために言うんだ」という優しさが混じったようなあの顔を、剛は生涯忘れないだろうと思う。
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