永遠の花

『私語、外出厳禁』
 そう書かれた札をぼうっと眺めている。三畳程の白い個室である。
 ベッドと衣服以外何もない退屈な空間が私の生活区となって、二十日と過ぎただろうか。手に錠をかけられたまま、一日をここで過ごしている。
 やることも、やるべきことも何もない。
 私は朝起きてから日が落ちるまで、ベッドの端で酸素を二酸化炭素へと置換するだけのつまらない仕事をする。それだけが、今の私のすべてだ。
 極稀に、部屋の外へ出かける用事もあるが、それもさして気晴らしにはならない。どうせ景色は何も変わらない。
 白一色、それが続くばかりだ。
 ──この施設に来てからというもの、私は何かとよく考えるようになった。
 思考することはどの様な場所であっても限りなく、自由だ。ことさら静寂に支配された空間では、否が応でもあの方のことを考える。
 塵のようにただ生きるだけの、こんな私のもとに現れた一筋の銀糸のこと。その美しさ。そして、それを掴みきれなかったことを。
 そのただ一つの栄光が、今の私を私たらしめていた。

           □

 ここには時折、医者がやって来た。
 三十代半ばというところか。シワひとつない白衣にマスクをかけた胡散臭い男。
 顔を合わせるなり人の好い笑顔を貼り付けて、飽きもせず、毎度べらべらと舌触りのよい言葉を並べる。
 私は常々気に食わない男だと思っていたが、ここにいる者はどいつもみなその医者が好きだった。
 理解はしよう。何しろここには何もない。あんな男でも来ない日は輪をかけて退屈なものだ。口を開くこともなく、ただ日がな一日羽虫を潰して遊ぶような人生における清涼剤とでも言うべきか。
 とにかく、会話をする相手というのも貴重なものだったのだ。……
 
 そんなある時、私のもとに贈り物だと言って、包を持った医者がやって来た。
 受け取ると、直径20センチ程度の、なんてことはない地味な包である。
 送り主を考えたが、施設の外に私を偲ぶような奇特な人間に心当たりはない。第一に、普通こういった外界との品のやりとりは一切を禁止しているはずで、ということは、なるほど。
「開けてみるといい」
 医者はにやりと笑っている。
「……開けると何か良いことでも?」
「それは、開けてからのお楽しみだね。あるかもしれぬし、ないかもしれぬ」
 白々しい。どうせ胸の内では、早く開けてほしくてウズウズしているに違いないだろうに。
 私は医者の言を黙殺し、包を放った。
「良いことなど、もはや有りはしませんよ。ましてこんな小さな包に収まる程のものなど、たかが知れている」
「……なるほど、確かに」
 ──ここにいる者は、どいつもみなこの医者を好きだった。理解はしよう。医者の言動は、その眼差しは、時に子を慈しむ父のように、あるいは咎人を憐れむ神父のように、そして、地獄に垂れる蜘蛛の糸のようにも思われた。
 無理からぬ事だ。この私をしても、そう錯覚する瞬間が多少なりともあったのだから。
「良いことなど、そう有りはしないよ。包を開けてみなければ、そこに何があるのか、あるいは何もないのか、凡人にはわかるはずないのだからね。……まあ、それは君にやった物だ。好きにするといいさ」
 そう言うと、医者はあっさり部屋を出ていった。
 空虚な世界には私と怪しげな包だけが残され、再び思考が勝手に喋りだす。その繰り返し。私の人生というものは、これから、ただこの繰り返しなのだろうか。

 軽蔑を求める。
 ここは無様な人間が集まる掃き溜めに近しいところだ。どの顔を見ても下水を煮詰めたような濁った目がくっついていて、ただ黒く塗り潰された未来を睨んでいる。等しく、心臓の中で生まれた希望が膿んでいるのだ。徐々に腐っていく様を実感しながら、それでも為す術などない。
 だから、あのような医者の笑顔の底にも気が付かないでいる。
 我々など汚物として嫌悪されているに過ぎないというのに、空っぽの言葉で己を肯定されて喜ぶ憐れな傀儡なのだ。まるで初めて両親に褒められた子供のように純粋で、愚か。
 くだらないことだ。
 私には矜持がある。目を閉じると、いつでもありありと思い出す。あの方の白く冷たい掌と、声。
「君は選ばれた」そう言った声が、いつまでも耳の奥で反響している。あのときは確かに、鬱屈とした日常の中に垂れてくる一筋の銀糸を見たのだ。
 かつて世界に選ばれたというただ一つの栄光。それこそが、私とこの無様な集団とを隔てる唯一の巨大な壁であると信じている。心から、信じている。
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