短文置き場
キドキラ(髪)
2022/07/20 10:41海賊
空はよく晴れていた。しかしながら、モップや雑巾を片手に甲板の掃除をする船員たちの士気は低い。そもそも、海賊などという上品とは程遠い生業についている人間どもが、掃除などというせせこましい作業を好くわけもなかった。
「放っておけばそのうち雨で流れるのに、意味あります? これ」
モップで血痕をこすりながら嘆いたのは、若い船員のひとりだった。キッド海賊団には数少ない女性クルーだ。着ているシャツにも仮面にも髪にも血がついたままのキラーは、デッキブラシを片手に肩をすくめた。
「意味はないが、雨がいつ降るかわからねェだろ」
「そうですけど」
「血は乾くと落ちにくいからな。小雨じゃ流れなくなるぞ」
ほんの一時間ほど前のことだ。キッド海賊団の面々は、補給に立ち寄った島で海軍に遭遇した。まだこの島じゃ略奪も暴行もしてねェぞ! と叫んだのは誰だったか。見たところ大して強くもなさそうな師団ひとつ、相手にするまでもないのでクルーを集めてさっさと船を出したが、相手はいっそ健気に職務を果たそうとした。船の大きさと性能だけはあちらのほうが有利で、彼らは怯えた顔でヴィクトリア・パンク号を追いかけてきたのである。しかし、中将クラスひとりいない小さな師団は、可哀想なことになんの戦果も得られないまま、キッド海賊団の返り討ちにあってしまった。そうして今は、キッド海賊団船員総出でモップや雑巾を使い甲板に散った返り血を洗い流しているところである。
「ていうか、そんなこと言うならキラーさんは先に服洗濯してマスク洗ったほうがいいんじゃないですか」
「……それもそうだな」
甲板の掃除など、わざわざこの船のナンバー2を務めるキラーがしなくてもよい作業であることは事実だ。
キラーはいったんデッキブラシを柵に立てかけ、甲板を流すために汲んだ海水を入れたタライに近づいた。さっさと脱いだ青いTシャツをざぶんと沈めて軽く振ると、うっすらと血が溶けていく。いったん満足すると、次に皆から背を向け仮面を外し、これもまた海水につける。
あとは髪も洗いてェな、とキラーは自分の髪をつまんで見る。実際血が乾いて固まると厄介なのは、髪も甲板も同じだ。とはいえ、洋上では真水は貴重なものであり、無駄にするわけにはいかない。キラーは転がっていたバケツで海水をすくうと、そのまま頭からかぶって量の多い髪に染みた血を流した。口の中の塩辛さに眉を寄せ、もう一杯海水をすくう。あとでべたつくだろうからシャワーは別に浴びるとして、いったん血だけでも流してしまおうという算段だった。
ぶるぶると頭を振るうと、あたりに水滴が飛び散った。「ちょっとキラーさん!」と周囲の船員が非難の声を上げるのを、すまんといなしつつ、Tシャツをしぼる。
「おーおー、海に落ちたわけでもねェのに全身ビショ濡れだな」
船長権限で掃除を免除されているキッドがやってきて、ちょっと唇に皮肉げな笑みを浮かべた。キッドはなんの手応えもない戦いを嫌う。さっきの戦闘も船員たちに任せてほとんど参加しなかったし、今もあまり機嫌がよくないのだろう。
「向こうがわざわざ血が噴き出るような急所ばかり晒してくるからついな」
言いながらキラーは仮面を被った。さっき海水につけたばかりなので、潮の濃い臭いがする。まあ、被っていてもいなくても、海にいれば臭いは同じだ。髪は風に当てて乾かすしかない。
「せめて髪が乾くまで仮面取っておけよ」
籠もって臭くなりそうだ、という苦言を言外に含め、キッドはため息をついた。
キラーはそれでも仮面を被ったまま「そうだな」と言うだけ言って頷く。船にいるのは付き合いの長い家族同然の仲間たちだけである。家族同然――そも、本当の家族というものをよく知らないキッドやキラーからしてみれば、彼らは家族そのものの存在であった。風呂だなんだと、仮面を外しているところを見られたことがないわけではないし、だから素顔を見られることに強い抵抗があるわけでもない。
だが、長年被り続けた仮面は既にからだの一部のようなものだ。小さな穴から覗く狭い視界が、その重みが、表情ごと顔を隠してくれる安心感が、既にキラーの一部になっている。
「お前、テメェの船長が言ったこと、聞いてたか?」
「そのうちな」
キラーは長い髪を肩越しにからだの前に持ってくると、雑に自らの髪を絞る。ボタボタと容赦なく水滴が甲板に落ちた。上裸に仮面の相棒を見て、キッドはさっきまでのわずかな苛立ちを忘れて思わず笑ってしまった。
*
掃除が終わる頃には、キラーの髪も体も、案の定海水のせいですっかりべたついていた。キラーは自分のロッカーから着替えを引っ張り出し、混み合う前にシャワー室に向かう。さっさと髪やからだを流して濡れた髪を簡単にまとめ、服を着替える。そのたった三十分ほどのあいだに、ヴィクトリア・パンク号は雨の海域に突入してしまった。これだから偉大なる航路の天候というものは困る。風がないのは幸いだが、キラーは思わずため息をついた。髪が乾くのに時間がかかってしまう。いつかは乾くとはいえ、髪が濡れたままでは本や新聞が読みづらい。Tシャツは新しいものに取り替えたが、髪はそういうわけにはいかなかった。
どうしたものか、とキラーは考える。そういえば、同じく髪を乾かすのに時間がかかるタイプのヒートは、昔少しでも早く乾かそうと自ら火を噴いてみたが、結果髪を焦がしてしまってそれ以来やっていない、などと言っていた。キラーは、しかしそのアイディアを採用することにした。なんのことはない、キッチンに行って火のそばで料理でもすれば、少しは早くだろう、という目論見だった。
ところがキッチンには先客の料理人がいて、しかも特に手伝うこともない、と首を横に振られてしまった。いよいよ髪を乾かすすべがない。どうしたものかと廊下を歩いていると、さきほどの若い船員に出くわした。
「あ、キラーさん、見てくださいよ結局雨降ったじゃないですかぁ」
「新世界の天気がおれに読めるわけもないだろう」
「見聞色の覇気とかでできないんすか」
若々しい親しさで軽口を叩いてくる船員に応じながら、キラーはふと首を傾げた。彼女もまた、自分ほどではないが、髪には長さがある。
「そうだ、髪を早く乾かす方法を知らないか?」
船員は驚いたように目を見開いて、それからぱちぱちとまばたきをした。キラーを上から下まで眺めて小首を傾げる。
「キラーさんが知らないことを私が知るわけないじゃないですか」
「そういうのはいらねェ」
「うーん、タオルで抑えてできるだけ水分取るくらいしかないんじゃないですか? いやー、あったかい風が出る機械でもあればいいんですけどね」
あっ、そういうの、キャプテンに作ってもらったらどうです? できたら私たちにも貸してくださいね。船員がからかうように言うので、キラーは口を閉じた。船員たちにある程度自分たちの関係を知られていることはわかってはいるものの、面と向かって言われるのは少々抵抗がある。
「それにしても、キラーさん髪パッサパサですよね。伸ばすなら、オイルとかつけたらいいのに。今度貸しましょうか?」
海の上にいる人間で髪が美しいままでいられるためには、よほど念入りに手入れをしなければならない。太陽の光が、潮の香りが、日に日に髪を傷めつけるからだ。それでも、キッド海賊団の数少ない女性クルーは皆、きちんと手入れをして、その傷みを最小限にする努力をしているようだった。
「気が向いたらな」
「うわ、キラーさん枝毛しかない、ヤバい」
いつの間にか船員はキラーの背中に回ってキラーの髪を一房手に取って言った。さすがの身のこなしだ、とキラーはやや斜め上に感心しながら「やめろ」と言った。船員はぱっとキラーの髪から手を離す。
「気が向かなくてもちゃんとケアしたほうがいいと思うけどまあいっか! じゃあ私女子部屋行くんで」
ケア、とキラーは口の中で呟く。いつからおれは髪を伸ばすだけ伸ばすようになってしまったのか。
さきほどの船員からのアドバイスを実践するため、キラーはシャワー室に引き返し、脱衣所から船員共有の薄っぺらなタオルを二枚引っ張り出すと、すぐ近くの食堂に向かった。食事の時間にはかなり早いが、雨で外に出られないせいでいつもより人が多い。あちらで談笑、あちらで酒盛り、あちらでカードゲームといった具合だ。キラーは隅の椅子に座ると、早速タオルで髪を挟んでみる。タオルがしっとりと湿るのを指先で確かめると、なるほどただ蒸発を待つよりはこうして他所に移したほうがはやそうだ、と彼女のアドバイスにひとりで頷いた。だが、自分の髪の量からして、全部にタオルをあてがうのには、それなりに時間がかかりそうだ。
あまりにも真剣に髪を乾かそうとしているものだから、キラーに話しかけてくる者もいなかった。いよいよ一枚目のタオルが水を吸わなくなってくると、タオルを取り替える。
およそ毛先はやるだけやった。あとは仮面を外して、後頭部や前髪から水分を取りたい。できればもっと人が少ないところでやりたいが――。キラーは立ち上がった。タオル二枚を片手に、食堂を出る。
この船で人があまり立ち入らない場所はいくつかあるけれど、いちばん仮面を外すのにいいのは船長室だ。キッドの前では、キッドの前だけでは、キラーは仮面を外すことを躊躇わない。キラーはそっと部屋のドアを開けると、滑り込むように中に入った。もっとも、そのキッドは食堂でビーフジャーキーを貪りながらカードゲームをしているのを見掛けたので、部屋は無人だ。
壁にそって設置された黒い革張りのソファに座ると、さっさと仮面を外す。キラーはさっそく仮面の内部を拭い、次に、今までタオルが届かなかった前髪にタオルをあてがった。ぐっと抑えると、手のひらにじわりと微かにタオルが濡れるのが伝わる。ハチから髪を取り、またタオルを当てる。そのうち二枚目のタオルも水分を吸わなくなってきて、キラーはもう一枚持ってくればよかった、と息を吐きながらタオルを床に落とした。いや、もうかなり頑張ったほうだろう、ここまででいいんじゃないか。ここから再び脱衣所に行くのは少しばかり億劫だ。
「何してンだ、お前」
「キッド」
ぐずぐずしている間に、部屋の主が戻ってきた。キラーはキッドを見上げた。彼はそのまま部屋に入ってくると、キラーの横にどっかりと腰を下ろした。早く返答しろ、とばかりにくっと顎をしゃくってみせる。まったく偉そうな態度だ。
「髪が乾かねェから水分取ってただけだ」
キラーは床に放ったタオルを、行儀悪く爪先で示した。キッドはそれを一瞥し、興味がなさそうにキラーに向き合った。
「食堂でもやってただろ、あァ、あそこじゃマスクの下できねェからここに来たのか」
全くその通りであるので、キラーは返事をしなかった。ずっと前から、それでキッドは正確に自分の意図を読み取ってくれる。
「血が残ってねェか、見てやろうか」
キッドは提案というていでそう言って、キラーは肩をすくめた。いまは十分に時間があり、キッドがやりたがっているのなら否を口にする気もない。キッドはにやにやと笑ってキラーを後ろに向かせた。まだ水分が残っている髪はいつもよりはいくらか大人しい。それでもかなりの量があるので、キッドはその髪をかきわけなければならなかった。
「トランプはもういいのか」
「あんまり盛り上がらなかったんだよ。ワイヤーの奴ばっかり負けっから」
「なにやってたんだ?」
「ジジ抜き」
口では適当な雑談をしながら、キッドはキラーの量の多い金髪をあれこれいじっている。それにしても、キラーの髪は傷みきっている。キッドとて自分の赤い髪が昔より乾燥していることくらいは気づいているが、キラーほどではない、とも自負していた。故郷にいた頃のキラーの髪は、ロクなものを食っていないなりにもう少しは艶があったと記憶している。だが今となってはどうだ。昔から癖の強かった髪は年を経るごとに更に広がるようになり、キューティクルは開ききり、背中から見た姿はよく言えばライオンの鬣、もう少し小規模に言うならハリネズミを思わせた。色は褪せつつあり、金というよりはくすんだ藁色で、髪同士が絡み合うこともしばしば、毛先は枝毛だらけだ。ちょっとひっぱれば、ぷちんと切れてしまう。
「昔はもう少し大人しかったよな、お前の毛も」
キッドはキラーの髪を手櫛で梳きながら言った。頭頂部から下ろした手櫛は、後頭部半分くらいでひっかかっている。無理に梳かそうとすれば、髪が切れるか抜けるか、散々な有様になることは想像に難くない。
実際、二年ほど前、キラーがまだ今ほど筋肉を育てていなかった頃は、キラーの髪はもう少し落ち着いていた。そりゃあ、癖がなかったとは言い切れないが、いまほど広がってはいなかったし、乾燥もしていなかったように思う。
「そうだな、――少し前まではなんとか落ち着かないかとオイルを塗ったりしていたんだが」
そう、さっきの女性船員に言われるまでもなく、キラーだってあれこれ試していた時期があった。船に乗って、髪が傷んでいくのを実感して、立ち寄った島の薬局でオイルやトリートメントを買ったこともある。だが、圧倒的な髪の量のせいで、減りは早く、髪の傷みはどんどん進行している。それに自分以外のクルーは――もちろんキッドも、髪のことなどまるで気にしていないように見えたので、キラーは新世界に入った頃から髪をどうこうしようとするのはやめた。なんといっても、その頃には筋トレにハマってしまって、髪の「ケア」にかける時間があれば腕立て伏せの百回はできる、などと考えるようになってしまったのもまずかったが。
「まあ、諦めた、というのが正しいか」
「知ってるよ」
キッドは指先にひっかかった枝毛を抜いてやり、床に捨てた。一本抜いたところでなんの変化もないだろうが、もうキッドの手櫛どうこうでできる問題ではない。
「知ってたのか」
「知らねェワケねェだろうが」
それもそうだな、とキラーも思う。なにしろ自分たちは幼い頃から今までずっと近くにいた。以前はしていた髪の手入れをしなくなったことくらい、とうに気づいていただろう。
「それにお前、けっこうこうやって髪触られるの好きだろ」
「ファ、」
キッドが背中に体重をかけてくる。鼻筋を濡れたキラーの髪に埋めて、まだちょっと潮くせえぞ、と笑った。
「だからそれなりに髪をどうにかしようとしてたんだろうが」
「……自惚れるな」
「おれはお前に撫でられるのが好きだったけどな」
「お前な……、」
まだふたりがみすぼらしい姿の少年だったころ、キラーはキッドのことを褒めるとき、いつもその赤毛をかき分けるようにして、撫でてやるのが常だった。キラーはため息をつく。キッドは敵やライバルには常に皮肉っぽいことを言うくせに、こういうときばかりはあまりに真っ直ぐに言葉を遣う。これだからたちが悪いのだ。
「やはり育て方を間違えたな」
「なんでだよ、大正解だろ」
「だからなお悪いんだよ」
キラーは自分でも髪に触れてみる。まだ乾いたと言うには程遠い。よくキッドはこんなに冷たい髪に触れ続けているものだ。
「まァ、おれとしては傷んでいようがいまいがどっちでも構わねェよ」
「構わないのか」
「そこ疑うのか?」
たとえキラーの髪が今より更にひどいくせ毛でも、逆に今より艶があってまっすぐな金髪であったとしても、あるいはこの髪がまったくなくなったとしても。キッドからしてみれば、これまでキラーがしてくれたことに変わりはなく、また、これからキラーがすることに変わりがないように思えた。
「疑ってるわけじゃねェよ」
キラーは言った。本当に育て方を間違えた、と思う。ここまでにすることはなかったんじゃないか。ここまで、おれを……、二十年近くそばにいて、それでもなお日々熱くさせられるようになるなんて思いもしなかった。
一度ため息をついて動揺を吐き出すと、キラーは少しだけ目線を上に向けた。
「で、結局血は残ってたのか?」
「いや、今のところ見つかってねェ」
キッドは髪をいじる手を止めて、そう返事をした。
「なら、そろそろ満足しただろ」
キラーに言われて、キッドはふん、と鼻を鳴らす。
「お前こそ満足したのか?」
「ナマ言いやがる」
まあ、まだ格好つけたがる年頃だよな、とキラーは思い直した。きっとお互い、今後も変わらないものも変わってしまうものもあるが、それがなんだというのだろう。キラーが振り返ると、キッドは素直にキラーの頭から手を離した。
「ありがとう、キッド」
言いながらキラーはキッドの頭に手を伸ばした。赤い髪に指を埋めると、キッドの顔のほうまでほんのりと血色がよくなるから面白かった。
「キラー、やめろ」
「好きなんだろ? さっき言ってたもんな」
ご褒美だ、と囁くと、キッドは「あとで覚えてろ」と悪態をついたが、その声はいつもに比べると小さい上に、案の定キラーの手を払いのけることもしなかった。キラーは声を出して笑うと、可愛い船長に口づけをする。
「放っておけばそのうち雨で流れるのに、意味あります? これ」
モップで血痕をこすりながら嘆いたのは、若い船員のひとりだった。キッド海賊団には数少ない女性クルーだ。着ているシャツにも仮面にも髪にも血がついたままのキラーは、デッキブラシを片手に肩をすくめた。
「意味はないが、雨がいつ降るかわからねェだろ」
「そうですけど」
「血は乾くと落ちにくいからな。小雨じゃ流れなくなるぞ」
ほんの一時間ほど前のことだ。キッド海賊団の面々は、補給に立ち寄った島で海軍に遭遇した。まだこの島じゃ略奪も暴行もしてねェぞ! と叫んだのは誰だったか。見たところ大して強くもなさそうな師団ひとつ、相手にするまでもないのでクルーを集めてさっさと船を出したが、相手はいっそ健気に職務を果たそうとした。船の大きさと性能だけはあちらのほうが有利で、彼らは怯えた顔でヴィクトリア・パンク号を追いかけてきたのである。しかし、中将クラスひとりいない小さな師団は、可哀想なことになんの戦果も得られないまま、キッド海賊団の返り討ちにあってしまった。そうして今は、キッド海賊団船員総出でモップや雑巾を使い甲板に散った返り血を洗い流しているところである。
「ていうか、そんなこと言うならキラーさんは先に服洗濯してマスク洗ったほうがいいんじゃないですか」
「……それもそうだな」
甲板の掃除など、わざわざこの船のナンバー2を務めるキラーがしなくてもよい作業であることは事実だ。
キラーはいったんデッキブラシを柵に立てかけ、甲板を流すために汲んだ海水を入れたタライに近づいた。さっさと脱いだ青いTシャツをざぶんと沈めて軽く振ると、うっすらと血が溶けていく。いったん満足すると、次に皆から背を向け仮面を外し、これもまた海水につける。
あとは髪も洗いてェな、とキラーは自分の髪をつまんで見る。実際血が乾いて固まると厄介なのは、髪も甲板も同じだ。とはいえ、洋上では真水は貴重なものであり、無駄にするわけにはいかない。キラーは転がっていたバケツで海水をすくうと、そのまま頭からかぶって量の多い髪に染みた血を流した。口の中の塩辛さに眉を寄せ、もう一杯海水をすくう。あとでべたつくだろうからシャワーは別に浴びるとして、いったん血だけでも流してしまおうという算段だった。
ぶるぶると頭を振るうと、あたりに水滴が飛び散った。「ちょっとキラーさん!」と周囲の船員が非難の声を上げるのを、すまんといなしつつ、Tシャツをしぼる。
「おーおー、海に落ちたわけでもねェのに全身ビショ濡れだな」
船長権限で掃除を免除されているキッドがやってきて、ちょっと唇に皮肉げな笑みを浮かべた。キッドはなんの手応えもない戦いを嫌う。さっきの戦闘も船員たちに任せてほとんど参加しなかったし、今もあまり機嫌がよくないのだろう。
「向こうがわざわざ血が噴き出るような急所ばかり晒してくるからついな」
言いながらキラーは仮面を被った。さっき海水につけたばかりなので、潮の濃い臭いがする。まあ、被っていてもいなくても、海にいれば臭いは同じだ。髪は風に当てて乾かすしかない。
「せめて髪が乾くまで仮面取っておけよ」
籠もって臭くなりそうだ、という苦言を言外に含め、キッドはため息をついた。
キラーはそれでも仮面を被ったまま「そうだな」と言うだけ言って頷く。船にいるのは付き合いの長い家族同然の仲間たちだけである。家族同然――そも、本当の家族というものをよく知らないキッドやキラーからしてみれば、彼らは家族そのものの存在であった。風呂だなんだと、仮面を外しているところを見られたことがないわけではないし、だから素顔を見られることに強い抵抗があるわけでもない。
だが、長年被り続けた仮面は既にからだの一部のようなものだ。小さな穴から覗く狭い視界が、その重みが、表情ごと顔を隠してくれる安心感が、既にキラーの一部になっている。
「お前、テメェの船長が言ったこと、聞いてたか?」
「そのうちな」
キラーは長い髪を肩越しにからだの前に持ってくると、雑に自らの髪を絞る。ボタボタと容赦なく水滴が甲板に落ちた。上裸に仮面の相棒を見て、キッドはさっきまでのわずかな苛立ちを忘れて思わず笑ってしまった。
*
掃除が終わる頃には、キラーの髪も体も、案の定海水のせいですっかりべたついていた。キラーは自分のロッカーから着替えを引っ張り出し、混み合う前にシャワー室に向かう。さっさと髪やからだを流して濡れた髪を簡単にまとめ、服を着替える。そのたった三十分ほどのあいだに、ヴィクトリア・パンク号は雨の海域に突入してしまった。これだから偉大なる航路の天候というものは困る。風がないのは幸いだが、キラーは思わずため息をついた。髪が乾くのに時間がかかってしまう。いつかは乾くとはいえ、髪が濡れたままでは本や新聞が読みづらい。Tシャツは新しいものに取り替えたが、髪はそういうわけにはいかなかった。
どうしたものか、とキラーは考える。そういえば、同じく髪を乾かすのに時間がかかるタイプのヒートは、昔少しでも早く乾かそうと自ら火を噴いてみたが、結果髪を焦がしてしまってそれ以来やっていない、などと言っていた。キラーは、しかしそのアイディアを採用することにした。なんのことはない、キッチンに行って火のそばで料理でもすれば、少しは早くだろう、という目論見だった。
ところがキッチンには先客の料理人がいて、しかも特に手伝うこともない、と首を横に振られてしまった。いよいよ髪を乾かすすべがない。どうしたものかと廊下を歩いていると、さきほどの若い船員に出くわした。
「あ、キラーさん、見てくださいよ結局雨降ったじゃないですかぁ」
「新世界の天気がおれに読めるわけもないだろう」
「見聞色の覇気とかでできないんすか」
若々しい親しさで軽口を叩いてくる船員に応じながら、キラーはふと首を傾げた。彼女もまた、自分ほどではないが、髪には長さがある。
「そうだ、髪を早く乾かす方法を知らないか?」
船員は驚いたように目を見開いて、それからぱちぱちとまばたきをした。キラーを上から下まで眺めて小首を傾げる。
「キラーさんが知らないことを私が知るわけないじゃないですか」
「そういうのはいらねェ」
「うーん、タオルで抑えてできるだけ水分取るくらいしかないんじゃないですか? いやー、あったかい風が出る機械でもあればいいんですけどね」
あっ、そういうの、キャプテンに作ってもらったらどうです? できたら私たちにも貸してくださいね。船員がからかうように言うので、キラーは口を閉じた。船員たちにある程度自分たちの関係を知られていることはわかってはいるものの、面と向かって言われるのは少々抵抗がある。
「それにしても、キラーさん髪パッサパサですよね。伸ばすなら、オイルとかつけたらいいのに。今度貸しましょうか?」
海の上にいる人間で髪が美しいままでいられるためには、よほど念入りに手入れをしなければならない。太陽の光が、潮の香りが、日に日に髪を傷めつけるからだ。それでも、キッド海賊団の数少ない女性クルーは皆、きちんと手入れをして、その傷みを最小限にする努力をしているようだった。
「気が向いたらな」
「うわ、キラーさん枝毛しかない、ヤバい」
いつの間にか船員はキラーの背中に回ってキラーの髪を一房手に取って言った。さすがの身のこなしだ、とキラーはやや斜め上に感心しながら「やめろ」と言った。船員はぱっとキラーの髪から手を離す。
「気が向かなくてもちゃんとケアしたほうがいいと思うけどまあいっか! じゃあ私女子部屋行くんで」
ケア、とキラーは口の中で呟く。いつからおれは髪を伸ばすだけ伸ばすようになってしまったのか。
さきほどの船員からのアドバイスを実践するため、キラーはシャワー室に引き返し、脱衣所から船員共有の薄っぺらなタオルを二枚引っ張り出すと、すぐ近くの食堂に向かった。食事の時間にはかなり早いが、雨で外に出られないせいでいつもより人が多い。あちらで談笑、あちらで酒盛り、あちらでカードゲームといった具合だ。キラーは隅の椅子に座ると、早速タオルで髪を挟んでみる。タオルがしっとりと湿るのを指先で確かめると、なるほどただ蒸発を待つよりはこうして他所に移したほうがはやそうだ、と彼女のアドバイスにひとりで頷いた。だが、自分の髪の量からして、全部にタオルをあてがうのには、それなりに時間がかかりそうだ。
あまりにも真剣に髪を乾かそうとしているものだから、キラーに話しかけてくる者もいなかった。いよいよ一枚目のタオルが水を吸わなくなってくると、タオルを取り替える。
およそ毛先はやるだけやった。あとは仮面を外して、後頭部や前髪から水分を取りたい。できればもっと人が少ないところでやりたいが――。キラーは立ち上がった。タオル二枚を片手に、食堂を出る。
この船で人があまり立ち入らない場所はいくつかあるけれど、いちばん仮面を外すのにいいのは船長室だ。キッドの前では、キッドの前だけでは、キラーは仮面を外すことを躊躇わない。キラーはそっと部屋のドアを開けると、滑り込むように中に入った。もっとも、そのキッドは食堂でビーフジャーキーを貪りながらカードゲームをしているのを見掛けたので、部屋は無人だ。
壁にそって設置された黒い革張りのソファに座ると、さっさと仮面を外す。キラーはさっそく仮面の内部を拭い、次に、今までタオルが届かなかった前髪にタオルをあてがった。ぐっと抑えると、手のひらにじわりと微かにタオルが濡れるのが伝わる。ハチから髪を取り、またタオルを当てる。そのうち二枚目のタオルも水分を吸わなくなってきて、キラーはもう一枚持ってくればよかった、と息を吐きながらタオルを床に落とした。いや、もうかなり頑張ったほうだろう、ここまででいいんじゃないか。ここから再び脱衣所に行くのは少しばかり億劫だ。
「何してンだ、お前」
「キッド」
ぐずぐずしている間に、部屋の主が戻ってきた。キラーはキッドを見上げた。彼はそのまま部屋に入ってくると、キラーの横にどっかりと腰を下ろした。早く返答しろ、とばかりにくっと顎をしゃくってみせる。まったく偉そうな態度だ。
「髪が乾かねェから水分取ってただけだ」
キラーは床に放ったタオルを、行儀悪く爪先で示した。キッドはそれを一瞥し、興味がなさそうにキラーに向き合った。
「食堂でもやってただろ、あァ、あそこじゃマスクの下できねェからここに来たのか」
全くその通りであるので、キラーは返事をしなかった。ずっと前から、それでキッドは正確に自分の意図を読み取ってくれる。
「血が残ってねェか、見てやろうか」
キッドは提案というていでそう言って、キラーは肩をすくめた。いまは十分に時間があり、キッドがやりたがっているのなら否を口にする気もない。キッドはにやにやと笑ってキラーを後ろに向かせた。まだ水分が残っている髪はいつもよりはいくらか大人しい。それでもかなりの量があるので、キッドはその髪をかきわけなければならなかった。
「トランプはもういいのか」
「あんまり盛り上がらなかったんだよ。ワイヤーの奴ばっかり負けっから」
「なにやってたんだ?」
「ジジ抜き」
口では適当な雑談をしながら、キッドはキラーの量の多い金髪をあれこれいじっている。それにしても、キラーの髪は傷みきっている。キッドとて自分の赤い髪が昔より乾燥していることくらいは気づいているが、キラーほどではない、とも自負していた。故郷にいた頃のキラーの髪は、ロクなものを食っていないなりにもう少しは艶があったと記憶している。だが今となってはどうだ。昔から癖の強かった髪は年を経るごとに更に広がるようになり、キューティクルは開ききり、背中から見た姿はよく言えばライオンの鬣、もう少し小規模に言うならハリネズミを思わせた。色は褪せつつあり、金というよりはくすんだ藁色で、髪同士が絡み合うこともしばしば、毛先は枝毛だらけだ。ちょっとひっぱれば、ぷちんと切れてしまう。
「昔はもう少し大人しかったよな、お前の毛も」
キッドはキラーの髪を手櫛で梳きながら言った。頭頂部から下ろした手櫛は、後頭部半分くらいでひっかかっている。無理に梳かそうとすれば、髪が切れるか抜けるか、散々な有様になることは想像に難くない。
実際、二年ほど前、キラーがまだ今ほど筋肉を育てていなかった頃は、キラーの髪はもう少し落ち着いていた。そりゃあ、癖がなかったとは言い切れないが、いまほど広がってはいなかったし、乾燥もしていなかったように思う。
「そうだな、――少し前まではなんとか落ち着かないかとオイルを塗ったりしていたんだが」
そう、さっきの女性船員に言われるまでもなく、キラーだってあれこれ試していた時期があった。船に乗って、髪が傷んでいくのを実感して、立ち寄った島の薬局でオイルやトリートメントを買ったこともある。だが、圧倒的な髪の量のせいで、減りは早く、髪の傷みはどんどん進行している。それに自分以外のクルーは――もちろんキッドも、髪のことなどまるで気にしていないように見えたので、キラーは新世界に入った頃から髪をどうこうしようとするのはやめた。なんといっても、その頃には筋トレにハマってしまって、髪の「ケア」にかける時間があれば腕立て伏せの百回はできる、などと考えるようになってしまったのもまずかったが。
「まあ、諦めた、というのが正しいか」
「知ってるよ」
キッドは指先にひっかかった枝毛を抜いてやり、床に捨てた。一本抜いたところでなんの変化もないだろうが、もうキッドの手櫛どうこうでできる問題ではない。
「知ってたのか」
「知らねェワケねェだろうが」
それもそうだな、とキラーも思う。なにしろ自分たちは幼い頃から今までずっと近くにいた。以前はしていた髪の手入れをしなくなったことくらい、とうに気づいていただろう。
「それにお前、けっこうこうやって髪触られるの好きだろ」
「ファ、」
キッドが背中に体重をかけてくる。鼻筋を濡れたキラーの髪に埋めて、まだちょっと潮くせえぞ、と笑った。
「だからそれなりに髪をどうにかしようとしてたんだろうが」
「……自惚れるな」
「おれはお前に撫でられるのが好きだったけどな」
「お前な……、」
まだふたりがみすぼらしい姿の少年だったころ、キラーはキッドのことを褒めるとき、いつもその赤毛をかき分けるようにして、撫でてやるのが常だった。キラーはため息をつく。キッドは敵やライバルには常に皮肉っぽいことを言うくせに、こういうときばかりはあまりに真っ直ぐに言葉を遣う。これだからたちが悪いのだ。
「やはり育て方を間違えたな」
「なんでだよ、大正解だろ」
「だからなお悪いんだよ」
キラーは自分でも髪に触れてみる。まだ乾いたと言うには程遠い。よくキッドはこんなに冷たい髪に触れ続けているものだ。
「まァ、おれとしては傷んでいようがいまいがどっちでも構わねェよ」
「構わないのか」
「そこ疑うのか?」
たとえキラーの髪が今より更にひどいくせ毛でも、逆に今より艶があってまっすぐな金髪であったとしても、あるいはこの髪がまったくなくなったとしても。キッドからしてみれば、これまでキラーがしてくれたことに変わりはなく、また、これからキラーがすることに変わりがないように思えた。
「疑ってるわけじゃねェよ」
キラーは言った。本当に育て方を間違えた、と思う。ここまでにすることはなかったんじゃないか。ここまで、おれを……、二十年近くそばにいて、それでもなお日々熱くさせられるようになるなんて思いもしなかった。
一度ため息をついて動揺を吐き出すと、キラーは少しだけ目線を上に向けた。
「で、結局血は残ってたのか?」
「いや、今のところ見つかってねェ」
キッドは髪をいじる手を止めて、そう返事をした。
「なら、そろそろ満足しただろ」
キラーに言われて、キッドはふん、と鼻を鳴らす。
「お前こそ満足したのか?」
「ナマ言いやがる」
まあ、まだ格好つけたがる年頃だよな、とキラーは思い直した。きっとお互い、今後も変わらないものも変わってしまうものもあるが、それがなんだというのだろう。キラーが振り返ると、キッドは素直にキラーの頭から手を離した。
「ありがとう、キッド」
言いながらキラーはキッドの頭に手を伸ばした。赤い髪に指を埋めると、キッドの顔のほうまでほんのりと血色がよくなるから面白かった。
「キラー、やめろ」
「好きなんだろ? さっき言ってたもんな」
ご褒美だ、と囁くと、キッドは「あとで覚えてろ」と悪態をついたが、その声はいつもに比べると小さい上に、案の定キラーの手を払いのけることもしなかった。キラーは声を出して笑うと、可愛い船長に口づけをする。