短文置き場

サンゾロ(未満)

2022/07/20 10:40
海賊
太い首筋にあてがうと、血の通う血管の存在が、手のひらで主張する。調理や後片付けですっかり冷えた指先すら温められるかのような熱さだ。サンジは息を吐き出した。ゾロはまったく意に介さず、食後の惰眠を貪っている。まったく不遜な男だった。だからといって、この状態で目を覚まされると困る。男相手に自ら肌と肌の接触をしようとするなんて、サンジのパブリックイメージに関わる事態なのだ。だが――その、日に焼け血の気の通った項を顕にラウンジのテーブルに突っ伏して眠ってしまったゾロを見て、抗えず触れてしまったのだ。
二年間でとことん鍛え抜かれた彼を見たとき、悔しいと思ったのは何故か。サンジは当然、自らの感情に対する理由を理解していた。そもそもこの男、そしてあの船長の強すぎる信念を見せつけられて人生を捻じ曲げられてからというものの、サンジは幾度もこの男に苛立ちをぶつけていた。ルフィは船長だからまだいい。彼に膝をつき、料理を作り、そして戦いともなれば死力を尽くすのがサンジの役割だ。――せめてゾロが、副船長と名乗れば話は別だったのかもしれないが――彼は実情はどうあれ自分と同じ序列につく「ひら」の戦闘員であり、同い年の男だった。だからこそ、歯向かいたくもなるというものだ。だから、悔しい。麦わらの一味の二年間の休暇のあいだに、ゾロは身長をわずかながら増やし、そしてその体躯を鍛えぬいた。片目に走る傷も相まって、ますます雄々しく、頼りありげになった。なにせこちらはピンクのドレスから逃げ惑う日々だったのだ。とにかく、男として悔しい。
――いや、そうじゃねェだろ。サンジはそっとゾロの首筋から手を離した。
悔しいと思うのは、それだけが理由じゃねェだろうが。

   *

「飯だつってんだろうが!」
ゴーイング・メリー号に乗ったばかりのサンジは、仲間のうちふたりにとにかく手を焼いていた。食欲が旺盛で、何度蹴り飛ばしてもつまみ食いばかりするルフィ、そして朝昼晩の食事の時間をまるで無視してネてばかりいるゾロのふたりである。
作りたて、いちばんの食べごろに食べさせたい。それは料理人として当然の要求である。だからつまみ食いも食事の時間をすっぽかされるのも、サンジは許せなかった。だからルフィにはつどつど怒ったし、ゾロはつどつど起こそうとしたのだ。どちらもあまり効果がなかったが。
「ほっときなさいよサンジくん、そんなやつ、冷めた料理を食べて後悔させればいいの」
ナミが言いながらラウンジへ向かう。ナミの言うことは九割九分九厘もろ手を上げて賛成するサンジも、正直これには納得がいかなかったが、致し方がなかった。ゾロを起こすのに時間をかけて、他のメンバーの食事が冷めてしまっては本末転倒だ。
「そうだねナミさん♡ そうするよ♡」
ほんとうは渋々――サンジはナミの声に従い、ラウンジへ向かった。


ゾロが起き出したのは、皿洗い当番のウソップすら去ったキッチンで、サンジが翌朝の仕込みのため、玉ねぎをスライスしているときだった。大欠伸をしながら入ってきて、「なんか食うもんねェか」と呑気に言うものだから、少々カチンときた。いくら“東の海の魔獣”などというあだ名がついていても、人間の生態に合わせるべきではないのか。それでサンジは嘘をついた。
「おめェの分のメシはルフィが食っちまった」
「……そうか」
それきりくるりとこちらに背を向け出ていこうとするので、サンジは声を上げる羽目になった。
「待て待て待て待て、てめェの分も残してる!」
「あ? なんだよ」
常日頃サンジが突っかかるものだから、つられたゾロもサンジに対しては喧嘩腰になる。機嫌悪げに吊り上げられた形の良い眉(これもムカつく!)に、サンジは「マリモには人間のジョークも通じねェか?」と肩をすくめることで応対した。あからさまな舌打ちが返ってくる。
「そら、焼き鳥のフルコースだ」
もも、むね、ぼんじりにささみ、砂肝、かわ。ゾロ好みの酒に似合う塩味の串打ちされた鶏肉たち。二日前に停泊した島で手に入れた鶏肉を大放出した結果だ。焼きたてであれば完璧だっただろう。それらはすっかり冷めきっていて、しかし温め直せば硬くなってしまうであろうことは明白だった。あとは白米と、これは温め直した根菜たっぷりの味噌汁をつける。
ゾロは出されるがまま、それをどんどん口に運んだ。まずいと思っているわけではなさそうだが、サンジはやはり不服だった。
だいたいさっきだって、飯がないと言われて「そうか」で済ますなんざどうかしてるとしか思えない。本当に全部ルフィに食われてしまったとして、ならばお前は明日の朝まで腹をすかせたままでいるのか。料理人の俺がいるのに。
「お前さぁ」
サンジはため息をつきながら、ゾロのほうを見る。
「おれが乗る前――や、ルフィに会う前は何食って生きてたんだよ」
「べつに」
「酒場で酒だけ飲んでたわけじゃねェだろ」
ゾロはぼんじりを咀嚼し飲み込むと、なにかを考えるように視線を巡らせた。それからサンジの方を見ると、「その辺の魚焼いて食ったり、金が入れば酒とつまみとか定食とか、そんなモンだろ」
ゾロは新しい串を手にしながら眉を寄せた。
「腹が減ったら食えばいい」
言外に食事のたびにいちいち起こしに来るなと言われているようで、サンジはケ、と声を出してやった。
「おめェはただ刀振り回してたらいつか強くなるとでも思ってんのか」
「アァ? ンなモン当たり前だろうが」
「違ェよ」
サンジは煙草を咥えて、ふたたび朝食の仕込みに戻る。背中がわにいるゾロが小さく首を傾げているのを気味がいいと思った。強靭なからだを手に入れるために必要なのは、鍛錬だけではないだろう。休息、それになにより栄養摂取。ゾロはよく寝ているから休息は達成しているとして、栄養摂取に関してはまるで落第点だった。
ならば、とサンジは決めたのだ。この同い年のいけすかねえ男のからだを作るのはこの食事だ。いつかゾロが世界一の大剣豪とやらになったときにはこの回答を用意して、お前はおれの作ったもので出来ているのだと思い切り嘲ってやる。悔しがるゾロの顔が目に浮かぶようだ。

   *

などということを考えていたのがニ年前、実際その後のゾロは大怪我ばかりを重ねつつも、サンジが作る食事やチョッパーによる体調管理のおかげもあってみるみるうちに強くなった。見るからにからだが厚くなり、刀を振るう腕にはいつだって力がみなぎっていた。サンジは密かにその事実を誇りに思っていたのだ。あの時――仲間たちがバラバラになるまでは。
サンジはゾロのもとを数歩離れ、煙草をくわえた。
なにもゾロだけではない。二年間で仲間たちは皆すっかり強くなった。サンジだってそうだ。だが、ゾロについてだけは、また別の話だ。
ゾロはサンジになにも言わなかったが、きっとこのニ年いい師に就いたのだろう。鍛錬のみならず、休息も栄養も必要なだけ与えてくれるような。だから彼は二年でここまで健やかに育っていた。それが、どうしようもなく悔しい。
「おいクソマリモ、起きろ」
そしてサンジはそこから声を掛けた。ゾロがのそりとからだを持ち上げる。自由気ままに眠りたいときに眠り、食いたいときに食う。そういう本能ばかりに偏った生態から、起こされれば起き、三食をきちんと決まった時間に摂るように躾直したのはサンジや、この船の仲間たちだった。
「お前今日夜は船番だろうが」
「うるせェ、今起きようとしてたトコだ」
「どーだか」
言いながらサンジは口許に手をやる。煙草を指に挟もうとしたのか、表情を隠そうとしたのか、自分でも定かではない。そんなことなど意にも介さず、ゾロは大きく欠伸をした。
「お前さぁ」
サンジはため息をつきながら、ゾロのほうを見る。
「このニ年、何食って生きてたんだよ」
「あんまり米は出なかったから、パンとか、育てた野菜とか、採れた卵とか……海王類の肉を焼いたやつとか」
ゾロは脳裏にミホークがサクサクと海王類を斬り捨てる情景を思い浮かべた。シッケアールの食事は、ミホークとペローナ、そして自分の当番制だった。のだが、ゾロの料理はミホークやペローナの舌にはあわず(ついでに自分でもさほど気に入らなかった)、すぐに簡単な朝食しか任されなくなったのだった。
ゾロからすらすらと回答が出てきたので、サンジは苦笑した。思ったとおり、随分と大事にされていたらしい、この男は。
「前にも似たようなこと訊いたけど、覚えてるか?」
「知らん」
「その時お前は『別に』って答えたよ」
サンジが言うと、ゾロは瞬きをして「アァ」と唸った。どうやら思い出したらしい。今思うと、少々若さが先走った回答のように思えて、ゾロは気恥ずかしさを感じた。だがこのコックにそれを見せるわけにもいかず、「あんときゃその日暮らしみたいなモンだったからな」と付け加える。
「ま、ちゃんとしたモン食ってたようで安心したぜ」
サンジは会話を打切ろうとひらひらと手を振った。だが、ゾロは椅子から立ち上がりながら口を開く。
「刀を振り回すだけじゃ強くなれねェ」
「え?」
「あンときてめェが言ってたろ」
「……、意外と記憶力あるんだな、藻類の癖に」
「黙れクソコック。――ありゃァちゃんと寝てちゃんと食えってこったろ」
それも二年間で学んだのだろう。サンジは煙を吐き出すと、「せーかい」と低く答えた。
「どこに飛ばされたか知らねェが、まァ随分といいお師匠に就けたみたいじゃねェか」
「別にこんなことあいつにゃ教わっちゃいねェ、前からわかってた」
ゾロは自らの首の後ろを擦るようにした。さっきサンジが触れたところだ。
「お前……、らが、おれにわからせたんだろうが」
ぞわ、と胸のあたりに拡がるものがある。サンジは再び口許に手を伸ばした。ゾロはそれきり何も言わず、サンジの横をすり抜けラウンジから出ていってしまった。だがサンジはそこで動けないままでいた。あんな、顔で、あんな、ことを、ゾロが。そんなことがあり得るのだろうか。いや、あり得たからこそいまおれはここに立ちすくんでいるわけで――。
サンジは唇から煙草を離すと、思い切りため息をついた。これだから、あの野郎、ほんとうに。
ムカつくぜ、と呟きたいはずなのに、その言葉を忘れてしまったかのようだった。本当にあるべき言葉を探して、サンジは頭の中の引き出しを開け閉めしている。確かに感じているのが幸福感であることが、サンジをひたすら戸惑わせていた。


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