短文置き場

ゾロとナミ アラバスタ前くらい

2022/07/20 10:29
海賊
偉大なる航路は、リヴァース・マウンテンを抜けて、その反対側へ到達するために、東へ東へと船を進めていく必要がある。気候の不安定さといったら東の海とはまるで同じ海とは思えないほどで、いまはこの海に入ってから三度目の降雪を迎えている。それも、つい三十分ほど前まではぽかぽかと暖かな春の陽気だったはずなのだ。
三度目の雪でも、ルフィやウソップ、それから最近仲間になったばかりチョッパーは飽きもせず雪だるまを作り、雪合戦をしようとサンジを誘っている。はじめは夜の仕込みを盾に断っていたサンジだが、形のよい後頭部に向けて船長からしこたま雪玉をぶつけられ、雪合戦はそのまま乱闘になろうとしていた。
温かいどころか、暑い国の出身であるビビはあまり寒さが得意ではなく、部屋に戻っている。自分の国が近づいて、緊張もしているのだろう。ナミもありったけの服を着込んでしばらくは男どもの大騒ぎを眺めていたが、この雪がいつまで続くのかが気になって、西の空を見るために船尾のほうに向かった。
メリー号はそう大きな船ではない。雪の降り積もった中をさくさくと歩むとすぐに船尾にたどり着き、ナミは目を見開いた。
「ゾロ」
思わずその男の名前を呼んだ。確かにゾロは、この場所でよく規格外の錘を振ってトレーニングを行っている。だが、目の前のゾロの手は自分自身のいつもの白いシャツの胸元を握り、からだを丸めて横になっている。昨日の夜も遅くまで起きて夜警をしていたようだから、昼寝かしら。普段は天下泰平とばかりに堂々と寝る姿ばかり見かけるので、こうして縮こまっているのは珍しかった。実際ゾロはいつもの格好なので、さすがに寒さに負けたと見える。まったく、ドラム王国でもらったコートくらい着ればいいのに。そう思いながら彼のもとに近づき――、ナミは彼の顔色の悪さに気付く。瞬間、自分の頭からざっと音を立てて血の気が引くのを感じていた。思わず、ゾロの傍らに膝をつく。
「ゾロ」
名前を呼ぶと、重たげに二重瞼が開いた。瞳が緩慢な動きでこちらを見上げる。気温は氷点下なのに、彼の額には脂汗が浮いていた。
「平気だ」
「どこがよ!」
ナミは声を上げた。ゾロはぱちぱちと瞬きをして、それからシャツを握る手の力を強めた。それでナミは気付く。ゾロの胸に大きく深く刻まれた傷。あれが痛んでいるのではないか。故郷の父代わり――ゲンゾウも、しばしば寒い日は古傷が痛むのだと嘆いていた。彼は過去、アーロンの部下によってひどく痛めつけられたのだった。
ナミは、ゾロがその傷を負った現場を見ていない。だがその経緯はルフィやウソップに聞いているし、全治二年の代物であることも、故郷の町医者に聞いていた。全治二年の傷を負いながら、彼はハチを倒しアーロンに挑んだのだ。
「痛むのね?」
言うと、ゾロは深いため息をついた。
「……、ルフィには言うな」
肯定は口から出なかった。こういうところが馬鹿みたい、とナミは思ったが、それを告げようとも思わなかった。
「チョッパーも?」
「だめだ」
「残念、チョッパーには言うわよ」
ナミの返事に、ゾロは押し黙った。反論のしようがなかったのだろう。
それにしても、とナミは考える。本当なら、手を引いてでも風呂に連れていきたいところではある。だが、風呂はこの真下にあるとはいえ、たどり着くには大騒ぎしている連中の横を通らなければならない。ナミは構わないが、この山のように高いプライドを持つ男がそれを許すとは思えなかった。おそらく、既に忸怩たる気分なのだろう。
「ラウンジに行きなさい、私もあとで行くわ」
それでナミは、そう指示を出した。
海賊というものを、あるいは人間というものを、ほとんど全員疑っていたあの頃。ナミの目に、ルフィとゾロは、海賊を名乗るくせにあまりにも眩しく映った。彼らはふたりそろって生活力は皆無だったが、その性根の真っ直ぐな苛烈さ、美しさは、ナミにとっての憧れであり、自慢だった。だからこそ、面倒だと思いながらも、彼の矜持を傷付けずにからだを温める方法を考えなくてはならなかったのだ。


ゾロがのろのろとラウンジに向かったのを見届け、ナミは女部屋に戻った。ブランケットを肩にかけ、ベッドに腰掛けて考えごとをしていたビビは、それでもナミに「にぎやかね」と声をかけてきた。ルフィたちが騒ぐ声は、女部屋まで届いているのである。
「ほんと、寒いのに元気よね」
言いながら戸棚から引っ張り出したのは、ブリキ製の湯たんぽと、古くなったコートだった。ドラムにつく直前にも使っていたそれを手に取ると、ビビは珍しそうにナミの腕の中を覗き込んだ。砂漠の王国の王女には、馴染みが薄いのだろう。
「聞いたことはあるけど、初めて見たわ」
「寒い日はこれがいちばんなのよね。ごめんね、ひとつしかないの」
「いいのよ、ナミさんが使って」
「まあ、使うのは私じゃないんだけど」
言うと、ビビはきょとんと目を見開いた。ナミは声を潜めて、「ビビには言うなって言われてないから言うけど、ゾロに使わせようかなって」と笑った。
「ミスターブシドー、風邪でもひいたの?」
そういえば彼の声だけ聞こえなかった、とビビが甲板の方角に顔を向ける。ナミはそんなとこ、と肩をすくめた。
「古傷が痛んでるみたいだから」
「そう……」
優しい王女が顔を伏せるので、ナミはしまった、と思いながら明るい声を出す。
「まあ、この海域を抜けて気温が上がればまた無駄に元気になるわよ」
「そうね」
「じゃあ私、ゾロに渡してくるから」
今にも戦争が起ころうとしている祖国へ、それを止めるために向かう王女を不安にさせてしまっただろうか。確かにこの海賊団はビビとカルーをいれたとしてもたったの八人で、ゾロは中でも大きな戦力だ。それが使い物にならなくなれば、自分たちがますます非力になってしまう。
だからさっさと元気になってもらわないと。ナミは決意して、ふたたび甲板に戻る。


「サンジくん、キッチン貸して」
ナミの腕の中にある湯たんぽを見た雪まみれのサンジは、「おれがお湯を沸かすよナミさん」とでれでれといつもの優しさを見せてきたが、ナミは「いいから」と制した。ゾロのためだと知ったら、サンジはたいそう嘆くだろう。きっぱりと断られたサンジは、ナミさんがそう言うなら……と引き下がり、次の瞬間またルフィに雪玉をぶつけられた。
「サンジお前雪合戦弱ェーな!」
「ンだとオラァ!」
またいっそう騒がしくなった甲板にため息を付き、ナミはラウンジへのドアを開けた。暗い中で、ゾロがテーブルに突っ伏している。本当に具合が悪いらしい。ナミはコートをゾロの背中にぞんざいに引っ掛け、そのままコンロのほうに向かった。やかんの中に真水を注ぐと、すぐに火にかける。
「前からそんなに痛んでたの?」
「いや……」
元来言葉足らずの傾向があるゾロは、ますます声を口に出さなくなっている。相当に弱っている、とナミはやかんを見つめた。他の船員から見えない場所で、自分のからだを庇うように丸まる姿は、まるで野生動物のようだった。猫は死ぬ前に飼い主のもとを離れてしまう――そんな逸話を思い出す。猫と言うには、ゾロはあまりにも凶暴すぎるし、そもそも東の海では魔獣とも呼ばれていた男だ。
それがこんなにも弱っている。
「ほら、これ」
沸騰するより前にやかんを火から下ろし、湯たんぽに注いだものをひとまず布巾にくるみ、ゾロに渡した。腹に抱えて、ゾロがハァと息を吐く。緑色の頭を見下ろして、ナミは腰に手を当てた。
「それが冷めるころにはこの海域も抜けるわ」
「……ああ」
「私はそろそろ様子を見に行くけど。あとでチョッパーにも声をかけるから、ちゃんと診察を受けるのよ」
ゾロがそろりと顔を上げる。はがねいろの瞳が、ナミを見据える。弱っているのは明白なのに、そこには彼の強い意思が宿っている。
「ナミ」
「なに」
「ありがとう」
「あとで百万ベリーね」
「ふざけんな……」
ナミは踵を返した。本当は――故郷の、そして私自身の恩人のひとりになら、この程度のこと献身のうちにも入らないと、ナミは思っている。だが、それはゾロに告げることができなかった。ゾロの呼吸が穏やかになるのを聞きながら、ラウンジのドアを閉め、暗い空を見上げた。


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