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海賊



命からがら逃げ出した、という言葉を使うのは癪だが、事実として今の自分たちのありさまときたら、そうとしか言い表せない。キッドは奥歯を噛み締めた。四皇カイドウの手下共に捕らえられ井戸に沈められたところで、もうひとりの四皇――ビッグ・マムが突如乱入し暴れだしたおかげでたまたま井戸から引き上げられたにすぎなかった。手錠の鍵もあのバカ猿の仲間の忍者が渡してきたし、今こうして採掘場を背に歩く自分たちに追手すらないのも、麦わらと一緒にいた侍たちの起こした騒ぎのおかげだ。自分たちは完全に偶然と麦わらのルフィに「助けられた」のだった。
負けを認めることができず奴に悪態をついてから採掘場を出てきたが、もしもキラーがこうでなければ、「礼くらい言ったらどうだ」とため息を吐かれていただろう。
そう、キラー。
アプー、ホーキンスらと同盟を組んだそばからカイドウに襲われた。抵抗むなしくこの国に連れ込まれ、それ以降をずっとあの採掘場に囚われていたキッドは、この国のことをろくにしらない。笑ってばかりか、そうでなければ変にからだに動物をくっつけたカイドウの手下どもと、それに逆らう気ひとつない卑屈な目をした住人たち。それだけがキッドの知るワノ国である。総じて、陰気な国だ、という印象だけがあった。
恐らくキラーはそうではない。あの野郎どもの話を総合するに、キラーはキッドと引き離されたあと、将軍・オロチの手下となって、都で人を斬っていたのだという。ならばキラーのほうが、この国の世情や地理の知識があるはずだ。
キッドは背後をうかがった。キラーは量の多い金髪を頭の天辺でひとつにまとめ、顔やからだのあちこちに包帯を巻き、毒々しい色の着物は肩に引っかかっているのがやっとという有様で、いつもの姿とはかけ離れている。まるで別人だと言ってもよかった。
いや、まるで別人なのは、姿だけではない。かつてのキラーなら、例え敵にいいように使われようと、解放されたならすぐに気を取り直し「恐らくみんなはナントカ町に捕まっている」とかなんとか言って、先導くらいしてくれたはずだ。それが、キラーはさっきからずっと後ろを歩いているが、一言も口をきこうとしなかった。
このまま宛もなく歩いたところで、仲間が見つかるとは思えない。キッドはため息をつくと、いよいよキラーに向き直った。
「おいキラー、お前はヒートたちがどこにいるか知ってンのか」
問うと、ようやくキラーが顔を上げた。再会してから上がったままの口角が、キッドを苛つかせる。キラーは屈強な男だ。肉体的にも、そして、精神的にも。そのキラーをここまで壊し尽くしてしまった敵にも、壊されてしまったキラーにも、そしてこの状態も知らずあのバカ猿と張り合ってはしゃいでいた自分にも、腹が立って仕方がない。
「おいキラー!」
足を止めたキラーに近づき、濡れた着物の首元を掴むと、キラーが「ファファ、」と笑い声を上げる。それからじっとこちらの目を見た。
「ファ……、……羅刹町、」
「ラセツ町」
繰り返し唱える。聞いたことのない町だ、と思ったが、そもキッドが知っているワノ国の地名といえば、兎丼と花の都くらいのものだ。あとはクリ、というのも採掘では何度か耳にしたような気がする。
「その町はどこにある」
「都の外れ――、」
キラーの声は小さかった。
「反逆者を捕らえる牢がある」
キッドはキラーをねめつけた。キラーの肩が時折震えるのは、水に濡れた寒さのせいでも、キッドに対する恐れゆえでもないだろう。
「……ここから西だ、」
言いかけたキラーは着物の袖口で口許を抑える。笑いを堪えようとしているのは明らかだった。キッドはキラーの着物から手を離した。十二分の情報だ。そうだ、キラーはこれくらいとうに手に入れているに決まっていた。キッド海賊団のなかで最も博識で、かつ頭が回る男なのだから。キッドは舌打ちをした。こうして弱りきっていても、キラーは確かに働くのだ。
「西だな」
引っかかるように義手の一部になっていた釘をつまみ、能力で磁力を纏わせる。指先に乗せると、簡素な方位磁針はそれでもゆらゆらと南北を示した。
「こっちか」
どうやら右手側が西らしい。どのみち東西南北どちらも荒野だ。方向転換しても、景色はまるでかわらない。
「オイキラー、行くぞ!」
できる限りいつもの調子になるように、キラーに声をかける。しかし、キラーからの返事はなかった。



前方を歩くキッドのコートを眺めながら、キラーは目を細めた。濡れたコートは乾いたのだろうか。長いこと歩いているが、キッドの歩みは確かなもので、ついさっきまで海楼石の錠に捕らえられ、水に浸けられていた男とは思えなかった。
採掘場へ護送されるさなか、名前を呼んでこちらに向かってきたキッドを見て、大笑いが抑えられなくなった。来るな、逃げろ、そう叫びたかったが、なにもかもが自分自身の笑いにかき消される。最悪の気分だった。吐き気がした。自分の声が一段と高くなるのを、まるでひとごとのように聞いていた。ならば笑い続けて、キッドと自分が無関係だと訴えるべきか。そうしたところでこのカイドウの手下どもがキッドを離すとは思えなかった。不甲斐なさに涙が出たが、それでも笑いは止まらない。キッドの呼びかけに応じることもできない、したくない。海楼石の弾で撃たれたキッドが引きずって連れてこられるのを、呆然と見ていることしかできなかった。いま、キラーには、キッドがなにを考えているのかもわからない。失望させただろうか。気味が悪いとでも思っているのか。狂った相棒など、もう必要ないだろうか。
いや、キッドはそんなことを考えるようなやつじゃない、キッドがひとり首を横に振ると、不意にすっかり朽ちた小さな小屋が見えた。
「行ってみるか」
キッドのその言葉は独り言のようだったが、キラーは頷いた。もう日が傾きはじめている。日が沈んだら、進むことはできなくなることを考えると、そろそろ今日のねぐらを探さなくてはならない時間帯だ。
近づくにつれ、そこがかつては村と呼べる程度には人が住んでいた場所であることがわかった。だが、いざたどり着いてからしばらく経っても、村には誰一人人間を見かけなかった。いや、鼠一匹いない。ワノ国はオロチの長年の圧政により庶民は困窮し、そこここに打ち捨てられた村がある。この村もそのひとつだろう。将軍お抱えの暗殺者として、キラーはそういう場所を何度か見てきた。住民はどこへ消えたのだろう。仕事を探しに都へ行ったか、あるいは――、
一通り村を見て回って食料を探したが、結局なにひとつ見つからなかった。井戸はいくつかあったが、この様子では万が一水を汲めても汚染されているだろう。
「……ここで休むか」
だが、キッドはぽつりとそう呟いた。そしてキラーは「ああ」と応じた。キッドは元来一歩でも前に進みたがるたちだ。それを抑えることこそが、キラーの役目だった。だが今回は、さすがに疲れたのだろう。疲れと自覚すると、また喉の奥から笑いがこみ上げる。キッドは黙ってそれを見つめていた。
村のなかはどの小屋も似たりよったりのありさまだったが、それでも村はずれのいちばん大きな小屋にたどり着いた。珍しく引き戸には鍵がかかっていたので、キッドが義手で壊して中に入る。もしかしたらここはこの村いちばんの金持ちの家だったのかもしれない。やはり家の中に食料はなかったが、他に比べれば幾分か清潔そうだ。
タタミ、と呼ばれる草で編んだマットの上、砂埃まみれのままどさりと横になったキッドは、能力で作っていた義手を解放してからながく息を吐いた。
キラーはその傍らに膝をつくと、キッドを見下ろした。
「お前も――」
キッドが言おうとするそばから、キラーはそこに膝をついた。それから、両手を頭に伸ばす。なにを、と問う前に、キラーの傷んだ金髪がばさりと落ちてきた。キラーがまとめ上げていた髪を解いたのだと気付き、それからふと思いついた。
「待て」
せっかく横になっていたキッドは、のそりと起き上がった。キラーが無言のままこちらを見る。キッドは生身の右手だけを、包帯まみれのキラーの顔に寄せた。
「怪我を、」
最後まで問う前にキラーが首を横に振った。そうだろうと思っていた。お前は他に知る人間もいないこの国でも、そうまでして顔を隠したかったのか、そうまでして……。
「なら、これをおれに取らせろ」
包帯を指さし言うと、キラーがファファファ、と軽い笑い声を上げた。それはどういう笑いなんだ、とキッドは眉間にしわを寄せたが、キラーは笑いが落ち着くと、「ああ」と俯いた。
顔というより頭部全体を不格好に覆う包帯の巻き始めや終わりを探すのすら面倒で、キッドはいちばん緩んでいそうな、唇を斜めに横切る包帯をつまみあげた。それからそこに、自らの唇を寄せた。キラーのからだが嫌がるように僅か後退るのも構わず、包帯に口づけ、それから歯を立てる。
「ファ、」
キラーが声を上げるが構わず、噛み切った包帯を引っ張り、解いていく。キラーが笑いを抑えようと口許を手で抑えようとするのをやめさせつつ、それでも包帯が絡むものだから、結局その後三回ほど包帯を噛み切るはめになってしまった。
包帯に抑えつけられていた前髪はすっかり癖がついて跳ね上がってしまい、いつものように顔を覆う役目を果たせていない。
「ふは、」
キッドは思わず笑ってしまう。
「ザマァねェな、キラー、」
語尾が震えたのには、気付かれているだろう。なにしろ長い付き合いだし、こんな虫すらいない枯れた土地では、他に物音ひとつない。キラーの腕が伸びてくるので、キッドはそのまま大人しく抱き寄せられてやった。
「……すまない」
キラーの声も震えているが、これが笑いによるものであることは、キッドも気づいていた。
――もう長いこと、キラーは笑わない男だった。キッドの船では、時折船員たち総出でこの笑わないナンバーツーをいかに笑わせるか競う日があったほどで、それも殆ど決着がつかないで終わっていた。それほどまでに、キラーは笑うのを避けていた。なのに。
自分もキラーの背に手を伸ばし、着物を掴む。キラーの肩口に額を擦りつけながら、キッドはもう一度、採掘場での質問を口にした。
「なあ、お前は誰に何をされた、何をした、……」
こんなことになって、今更男がマスクを常用しはじめた数年前のことを思い出す。
未だにその理由を彼の口からは明確に聞けないまま、きっとあれだろうと当たりをつけて曖昧にしてきたことに、深い理由はない。だが、そんなことをしているうちに、キラーは捕らえられ、マスクを剥ぎ取られてしまった。
あの頃はあれほど煩わしかったあのマスクを、この手でつけてやりたいと思う日が来るなどとは思わなかった。絶叫に近い大笑いは、泣き声と変わらないのだということもはじめて知った。知りたくもなかった。
「……、キッド、」
キラーの背中が呼吸のたびに上下するのを、右手だけでさすってやる。
「……おれが」
キラーの声は静かだった。どうやら、いまは少し落ち着いているらしい。
「おれが……カイドウを倒せるくらい強ければ、……お前を、ファ、あそこから出せたのに」
「馬鹿言え」
キッドはキラーの言い分に、思わず顔を上げて笑ってしまった。
「お前がそこまで強くなってる頃には、おれはもっと強くなってる……カイドウになんざ捕まるわけねェだろ」
「……、ちがいない……」
ひどくからだが重い。腹は減っているし、のどは乾いた。からだは冷え切っているし、今すぐにでもまぶたが落ちそうだった。だが、まだワノ国の情報どころか、キラーがどうしてこうなったのかすら、訊きだしていない。眠りたいのはやまやまだったが、キッドはまだ会話を続けなくてはと思ったが、不意にキラーがからだを離した。
「明日にしよう」
キラーは言った。キッドの視界に、包帯すら外した自分の不気味な笑顔を晒し続けることが耐え難かった。
「……わかった」
キッドは大人しく同意し、もう一度タタミの上に横になった。今度はキラーもキッドのそばにからだを横たえる。どちらからともなく手を伸ばし、冷えたからだをできるだけ近付けた。お互い、少しばかり痩せたように思えた。それでも、自分たちは体温を分け合うことに慣れている。ガキの頃からそうしてきた。
近くにあるキラーの顔を見ようとすると、キラーが眉を寄せてキッドの目元を手のひらで覆った。以前ならやめろお前の顔を見せろと喚いただろうが、キッドはそれをしなかった。かわりに目をつぶったまま、首を伸ばしてキラーに口付ける。――見えていないので目標距離を見誤り、結局キッドの唇はキラーの顎髭に埋もれる羽目になってしまった。


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