海賊



 ――そこ、そう、いい、いい、ン、いつでも、出して。
 脳裏から離れない声で頭が重たい。見た目に美しい女だった。ばかりか、子どもの頃からキッドが好むのは気の強い女で、それにも正しくマッチしていた。
 年上の仲間たちは「意外と大したことなかった」だの、「まあこんなもんか、って感じ」だの言っていたが、キッドの感想はまるで違っていた。
 めちゃくちゃよかった。オナニーとは比べ物にならないくらいの、頭の中がびりびり痺れるような感覚。キッドは昨夜、生まれてはじめて女を抱いたのだった。


 ユースタス・キッドは世界政府非加盟の貧しい島のうまれである。島には四つの町があり、町同士では不良少年たちが抗争を繰り広げていた。キッドは中でも最も貧しい街で生まれ育った。
 お世辞にも治安がいいとは言えない世界で、キッドは幸いにして友人には恵まれていた。特に、幼馴染で四つ歳上のキラーは、キッドにとって親であり、兄であり、相棒でもあった。それから、もうひとりの幼馴染であるシルトン・ドルヤナイカは、一度告白してこっぴどく振られたあとでも親友として付き合いがある。
 彼らはときにキッドを叱咤し、ときに手を差し伸べてくれた。このクソみたいな町で、キッドが「いずれ海に出てひとつなぎの大秘宝ワンピースを手に入れ海賊王になる」という大きすぎる夢を捨てずにいられたのは、このふたりの存在があってこそである。彼らとであれば、いつかこの島の四つの町をひとつにまとめ上げ、仲間を募って海に出ることもできるだろう。キッドはそう信じていた。そうすると決めていた。
 ――のは、一年ほど前までの話だ。
 キッドとキラーは、手を切ることになった。
 きっかけはバイト帰りのキラーが、隣町で喧嘩をふっかけられたことだった。隣町の少年たちは、キッドが隣にいないキラーなど、簡単に倒せると思っていたのだろう。それは大いに見込み違いであったのだが。キラーは非常に血気盛んなキッドに比べれば幾分かは冷静なたちであったが、かといって売られた喧嘩を買わずにいられるほど慈悲深くもなかった。
 結果として、キラーはあっさりと隣町のトップまで倒してしまった。そこまでならまだ良かった。良くなかったのは、彼が言われるがままそいつに代わって隣町のトップに立ってしまったことである。
 それを聞いたキッド当然憤慨した。椅子に腰掛けて組んだ脚の長さすら、キッドには苛立ちを煽るものにしか見えない。生まれ育ったこの町の男として四つの町を統一し、頂点に立って海に出る。それがキッドの目下の目標であった。キラーはそれを裏切ったのである。
「これでおれとお前が組めばあとはヒートとワイヤーのとこだけじゃねェか」
 隣町の頭となったキラーは、その足でキッドの元に帰ってきてそう言った。そもそもキラーは端からそのつもりで隣町の頭になったのだ。ところが、キラーはキッドのプライドの高さを見誤っていた。トップを捕るなら喧嘩でだ。こんな、馴れ合いみたいな真似はしたくない。それに、隣町の奴らはすっかりキラーに心酔していて、手を組んだからといってすんなり自分の下につくとも思えなかった。
「お前はおれが倒す。今に見てやがれ」
 言われて、キラーは驚いて数度瞬きをした。それから口元を緩める。長い前髪で目元は見えないが、さぞかし腹の立つ表情をしていることだろう。
「お前がそう言うなら受けて立ってやる。やれるもんならやってみろ、キッド」
 名前を呼ばれて、キッドは口をつぐんだ。それからこちらも笑みで返す。キラーは歳上だし、今は彼のほうが背も高い。だが負ける気はしなかった。
 ドルヤナイカは少年たちの仲間割れにため息をついて、「アホじゃん」と呟いたのみだった。それでもキラーのもとにはいかず、キッドのそばにいてくれた。おれにはドルヤナイカがついている。根拠はたったそれひとつで、だけどキッドは強くそう信じていた。


 果たして、幼馴染のキラーは優しかったが、敵対相手としてのキラーは容赦がなかった。徹底している、と言ってもいい。腕っぷしだけなら張り合えるとキッドは考えているが――、キラーはキッドよりも冷静で、頭が回った。両者の抗争は、今のところキッドの負け越しである。
 もともと住んでいたキッドの町のことは当然熟知しているキラーは、仲間の力を借りて新たな領地となった町の地図もすっかり頭の中に入れてしまった。キッドは何度か隣町に攻め込んだが、こちらより高い建物が多い町で、相手の地の利で負けてしまうこと数度、逆にこちらが攻撃を受けるときはキラーとは互角状態で、明確な勝ちを得られていなかった。ずっと焦っていたのだ。このままでは、キラーに負けてしまう。
「あんた、隣町のキッドでしょ」
 キラーの町から自分の町に戻るためにくさくさした気分で歩いていると、女に声をかけられた。赤っぽい茶髪に青い瞳の、美しい女だった。だがキッドより、いやキラーよりもずっと歳上だろう。キッドは立ち止まって女を見た。そういう商売の女だ、と警戒をあらわにする。彼女はキャミソールワンピースのうえにジャケットを羽織り、ショートブーツを履いていた。赤く塗られた唇は、笑みのかたちになっている。
「……、だからなんだってんだ」
「そんなに殺気立たないでよ、いい男だと思って声掛けたんだ」
 キッドは一般にまだ子どもと言える年齢だったが、生まれながらに目つきが悪く、大概の女には怖がられてきた。ところが、この女はまるで臆しない。
「は、アンタからしたらおれはガキだろ、」
 いい男、と言われたくらいでなびくような男じゃない、そう主張したくて、キッドは女をねめつけた。キラーと戦うようになって、自分の思慮の足りなさを自覚するようにもなっていた。要するに自分はまだ“ガキ”でしかないのだ。すると女はおかしそうに笑う。
「じゃあアンタ、もしかして童貞?」
「な――」
 想定外の質問に、咄嗟に「違う」と言い損ねてしまった。女のほうは、「図星?」とからかうように言う。キッドは忸怩たる気分で女をねめつける。言い訳をするのも嘘を吐くのも好まないので、唇を引き結ぶことしかできなかった。そう、ユースタス・キッドは未だ童貞であった。仲間の同い年の少年たちもちらほらと経験済みの人間が現れるころで、そちらも焦っていなかったといえば嘘になる。
「どう、私で捨ててみない?」
 だからキッドはその問いかけに生唾を飲み込んだ。こうして女に迫られるのは初めてだった。喧嘩は強いし、仲間には女も大勢いる。だが、振られているとはいえ初恋の相手がそばにいるのに新しい女を作るのはなんだか気が引けたし、仲間に手を出すわけにもいかないので、キッドはその機会に恵まれていなかったのだ。とはいえもちろん興味はあった。自分の鼻息が荒くなるのがわかる。
 そうしてキッドは、女の部屋で生まれて初めてのセックスをしたのだった。
 終わったあと、女は「初めての割には上手だったよ」と頭を撫でてくれた。「またどこかで会ったらしようよ」とさえ言ってくれた。それもまたキッドを心地よくさせた。
 まだ、頭の中がぼんやりとしている。またやりたいか、と聞かれれば、何度でも頷くだろう。なにより、人間の肌にああして触れるのは、キラーと同じ布団で寝ていたとき以来だった。人肌は暖かく、キッドのなかを満たした。少しだけ、キラーが離れていく前を懐かしく思い出してしまいさえした。
 キッドは昨晩の幸福を思い出して、何度目かのため息をついた。その時だった。
「キッド!」
 聞き慣れた声が上から振ってくる。キッドは反射的に上を向く。キッドの住む街にはない二階建ての屋根のうえに、金髪を靡かせる細身の男がいる。
「いい女だったろ!」
 逆光で顔は見えないが、笑っているのだろう、と声の調子でわかった。かっと顔に血が登る。キッドはろくな教育こそ受けていないものの、頭の回転は早い方である。すべてが氷解していくような感覚すらあった。
 ――おれは、キラーにあてがわれた女で童貞を捨てさせられた・・・・・・・のだ!
「てめェ、キラー! 降りてこい!」
 思わずキッドは叫んだ。自分の頬が熱くなっている自覚はあった。おれはいま相当に赤くなっているだろう。なにが「初めての割には上手」だ、「またしようよ」だ! あの女はそんな気などなかったのだ!
 顔を真っ赤にするキッドを見て、キラーは至極楽しそうに高笑いをした。キッドの仲間たちは皆、キラーのこの笑い方を「恐ろしい」と言う。聞き慣れたキッドにはなんのこともない笑い方であるのだが。
「女の胸はもう少し丁寧に揉んでやったほうがいいぞ! なんなら擽るくらいでもいい」
「見てたのかよ!」
「さすがに知り合いのセックスを眺めるような悪趣味はねェ」
 歳下の幼馴染の童貞を自分の手の女に奪わせている時点で十二分に悪趣味だろうとキッドは思う。いや、そんなことより。キッドは奥歯を食いしばる。誰が知り合いだ、とますます感情が熱くなっていく。おれたちは知り合い・・・・などという関係性ではなかったはずだ!
 だがそれを口に出すとまたガキ扱いされそうで、キッドはぐっと言葉を飲み込んだ。キラーは「せいぜい今後はハニートラップに気をつけるんだな」と言って、そのまま隣の建物の屋根に飛び移って、立ち去ってしまった。取り残されたキッドはキラーが立っていた建物の壁を殴る。あいつ、絶対に許さねェ!


     ※


 その日船を停めた島は気候も穏やかな秋島で、巨大な漁場が近くにあるらしく、魚料理がうまいと評判であった。たまにはひとりで飲みに行きたくなったキッドは、珍しく軽装で船を降りた。見つけた酒場に入り、カウンター席につくと、カルパッチョだの白ワインだのを注文する。店内は昨今流行りの音貝トーンダイヤルで、ソウルキングの曲を流していて、それはキッドの好みにも合っていた。
 そう長い時間待たずに、料理が運ばれてくる。キッドがそれを口に運んでいると、不意に隣の席に新たな客がやってきた。他にも空いている席はあるのに、わざわざおれの隣を選ぶとは、とキッドは隣の席に視線を向ける。そこにはウェーブのかかった金髪の女が座っていた。なかなかの美人である。
「はじめまして」
 目が合うと、女はキッドに向けて微笑んだ。誰しもが好感を得られるような笑い方を心得ているようだ、とキッドは頭の隅で考える。
「もしよければ一緒に飲みませんか」
「構わねェが、奢りはねェぞ」
「あら、残念」
「ハ、うちの経理に財布の紐を握られてんだよ」
 金があればあるだけ武器を買ってくるキッドにため息をついたキラーが、小遣い制を導入したのは出航してすぐのことであった。どういうわけかそれから数年を経ても、船長だというのにまだキッドは自由に金を使えない。女はつまらなさそうに唇を尖らせた。
「奥さんがいるの?」
「ア? いねェよ」
 なんの話だ、と片目をすがめる。なんだかこの女、妙だ。たまたま酒場に好みの男がいたから近寄った、というにはあまりに打算的だ。妙に露出度の高い格好も相まって、キッドは彼女に警戒心を芽生えさせた。戦って負けるような相手ではないだろうが、少しばかり気を引き締めたほうがよさそうだ。
 ところが酒を重ねると、会話は思いの外弾んだ。いや、この女は会話が得意なたちなのだろう。キッドは店の上階が宿になっていることにも気がついていた。なるほどうまくやれば、女はそのへんの男からなら金を巻き上げられるかもしれない。もっとも、ユースタス・“キャプテン”キッドたるもの、そんなことはさせないが。
 女の手がキッドの肩に触れる。ごく自然なボディタッチに、キッドは確信を深めた。酒と魚は存分に楽しんだし、船に戻って炒飯でも食べたい気分になってきたので、グラスを置いてカウンターの中の主人に声をかけた。
「おい、勘定」
「え?」
 すっかりいい雰囲気になっていたはずのカモが突然逃げようとするので、女のほうが驚きに長いまつ毛を上下させて瞬きをする。主人のほうは黙って伝票を差し出してきて、キッドは財布がわりの布袋からきっかり自分の分だけを支払って、さっさと店を出た。


 船には何人かの船員が残っていた。キッドはジーンズのポケットに右手を突っ込んで廊下を歩く。既に能力で作った重たい義手は解除していて、気軽な格好だった。お目当てのキッチンにたどり着くと、今日は皆外で食べるつもりなのか、無人であった。使われた形跡もない。炊いた飯くらいは残っているだろうからそれで炒飯を作ろう、と頭のなかで算段していたキッドはつまらない気分になって、冷蔵庫の中を覗き込んだ。野菜も肉も殆ど入っておらず、落胆してしまう。それでもなにか食べられるものはないかと奥を覗き込むためにかがみ込んだときだった。
「こらキッド、つまみ食いか?」
 振り返ると、入り口のドアの前にはキラーが立っていた。珍しく仮面をつけておらず、かわりに口元を覆うようにストールを巻いている。分厚い前髪は健在で、おかげでいつも通り表情はまるで見えない。
「酒飲んできたから締めが食いてェんだよ、炒飯」
「炒飯は今日残ってる食料じゃ作れないと思うぞ」
 言いながらキラーは近づいてきて、キッドの肩に手を置いて同じく冷蔵庫を覗き込む。さっきの女に触られたところだ、とキッドは思った。だが、あのときのような嫌悪感はまるでない。
「卵すらねェな」
「あァ」
 キッドは冷蔵庫の扉を締めようとしたが、キラーが手を伸ばして、二本だけ残っているウィンナーを取り出した。それから、すっかり古くなった人参のかけらやキャベツ数枚も掴み取る。
「少し待ってろ、おれがなにか作ってやる」
 キラーは料理を趣味としている。キッドも、子どもの頃からキラーの料理を食べて育ってきた。その提案に頷かないはずはなかった。
「なにを食べてきたんだ」
 小鍋に水を入れてクズ野菜を放り込んだキラーは、キッドにそう尋ねた。
「魚料理ばっかり食ってきた。カルパッチョと、カマ焼いたやつと、煮付けと」
「うまかったか」
「あァ」
 キラーは鍋を放置して、戸棚のなかを漁りだす。これまた固くなったフランスパンを取り出し、包丁で無理やり切っていく。古い食材ばかりを集めて、いったいなにを作る気なのか。
「女の隣で飲んで、なかなか楽しんでいたようだが?」
「楽しんでねェ!」
「女と飲んだのは否定しねェのか」
「あいつが勝手に隣に座ってきたんだよ」
 キッドが言うと、キラーは振り返ってこちらを見た。包丁を持ったままでそういうのはやめろ。
「まァ、事実なんだろうな」
 キラーはすんなりとキッドの言うことを信じた。そして、ふたたび調理に戻る。キッドはキラーの背中をねめつける。
「……見てたのか」
「あの店に入ろうとしたが、おれが行ったときには満席でな。カウンターにお前がいたのは見えていたんだが」
 今度は振り向かずに答える。鍋の中が沸騰したのか、ぐつぐついう音がキッドの耳にも届く。キラーはなにやら調味料を入れるなどしているようだが、キッドからはよく見えなかった。
「お前は昔からああいう女には引っかからないよな」
 キラーがどういうわけか楽しげに言って、キッドは「ア?」と声を上げた。
「まァ、最初以外は、だが」
「最初?」
 なんの話だ、おれは海に出てからハニートラップだの美人局だの、そういうものに巻き込まれたことはないはずだ。キッドはそこまで考えてからはっと目を見開く。最初。海賊になる前の出来事だって、この男にはよくよく知られている。思い出すと同時に、あのとき感じた羞恥が蘇り、キッドは自分の頬が一気に熱くなるのを感じた。
「キラー!」
「ファ、思い出したか?」
「余計なこと思い出させンじゃねェよ!」
 思わず立ち上がる。キラーがやはり振り向かないので、キッドはつかつかとそちらに近づいた。キラーはを茶碗にスライスしたフランスパンを二枚ずつ入れると、鍋のなかで沸騰しているウィンナー入りのスープを器に注ぐ。最後に粉チーズをこれでもかとかけて、一杯をキッドに差し出した。
「……なんだこれ」
 一瞬怒りが冷めて、問うてしまう。キラーはようやくこちらを見て微笑む。
「オニオングラタンスープもどき、だな。本来はこの後オーブンで焼くんだが、今はこれで十分だろ」
「いや、じゃねェよ! なにが『ああいう女には引っかからない』だ、てめェで引っ掛けさせたくせに」
「あのときお前十三か四くらいだったか? 悪かったな」
 まるで悪びれていない言い方にキッドは噛みつこうとしたが、スープが入った茶碗を受け取ってしまう。丸め込まれようとしている、とは思うが、クズ野菜とウィンナーで取ったスープのふわりとした香りに文句を飲み込んでしまった。
 キラーは自分のぶんのスープと二人分のスプーンを持ち、テーブルにつく。キッドもキラーの向かいに座った。
「ほらキッド」
 キラーにスプーンを差し出されて、しぶしぶ受け取る。スープが染み込んで柔らかくなったフランスパンをスプーンで半分にしてすくうと、口に運んだ。味が濃いものばかり食べた帰りだ、元来薄味は好まないが、今日ばかりは染み入るものがある。
「うめェ……」
「ファッファ、そりゃ良かった」
 長い髪を耳にかけたキラーもスープにスプーンを浸す。
「お前が妙な女に引っかからなくなったなら、おれの教育の成果もあったな」
 聞いて、キッドはスプーンを置くと、キラーのほうを見た。
「お前、イカレてんな」
「知らなかったのか?」
 言いながら、キラーはキッドのほうも見ずにスプーンを口に運ぶ。よくもまぁ平然としてやがる、とキッドは思いつつ自分もスープを口に運ぶ。結局のところ、こいつがおれのことばかり考えているのは昔からで、それをなんとも思わない自分だって大概であることくらいはとうにわかっている。
「キラー」
「なんだ」
「お前、おれのこと相当好きだな」
「……知らなかったのか」
 今度は少し間があった。キッドがキラーのほうを見ると、――顔こそ見えなかったものの、耳の丈夫がかすかに赤くなっている。それでなんだかすっかり気分がよくなって、キッドはにんまり笑ってみせた。


          おわり(キドキラ再登場しますように!!!!!)
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