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海賊



「――あの、」
ブルックが白い(比喩ではなく本当に白い、なぜなら彼は白骨だからだ)指が持ち上がる。示されたのはゾロで、酒瓶を咥えたままわずかに目を見開く。
「ゾロさんのその大きな傷はどうしてついたのですか」
彼が仲間に加わっておおよそ十日ほどが経過していた。なんとはなしにダイニングに残った面々で酒を飲み交わしている中での、ふとした疑問だった。夏島が近いらしい海は暖かく、今日のゾロはそこらの島で適当に買ったらしい派手な柄のシャツを一枚羽織っただけの格好だった。つまり鍛えぬいた剣士の肉体を顕にしていて、つまり隆々とした胸筋を斜めに横切る大きな傷は、誰からも丸見えだ。
「いえ、話したくないのなら構わないんですが」
「そういうワケじゃねェが、大した話でもねェぞ」
「そういやおれも聞いてねェな」
コーラ瓶を片手にしたフランキーも、興味津々といった様子でテーブルに身を乗り出した。ゾロは二度瞬き、それから指を折って何かを数え、しかし結局それをあきらめて、少し背を反らしてキッチンの方へ顔を向けた。
「……、オイコック! お前一味に入ったの何月だった!」
呼びかけられたのは、キッチンで新たに芋を揚げようとしていたサンジである。どうやらこの傷がいつ付いたのか教えようとでも思ったらしい。
「知るかアホマリモ! 自分で考えろ!」
ところがサンジもいつもの様子で言い返すので、結局それはわからずじまいだった。
「まあつまり、サンジが一味に入った頃と同じってことね」
ロビンが微笑む。ゾロはあァ、と妙に鷹揚に頷いた。なお現状、このなかでいちばん歳下なのはゾロである。
「本当に大した話じゃねェぞ」
「わかったわかった」
フランキーが頷くので、ゾロはまた一口酒を飲み、それから口を開いた。
「その時一味にいたのはルフィとおれとナミで、ウソップが仲間になって、一緒にメリー号が手に入った直後だな。ルフィが『次の仲間はコックがいい』って言うもんで、アイツ(と言いながらゾロは顎でサンジを示した)が働いてた海上レストランってやつに向かったんだよ」
ブルックはゾロの声を黙って聞いていた。スリラーバークで直接自らの影を救ったのが、このロロノア・ゾロだ。また、ブルックは一味が七武海バーソロミュー・くまに襲われた際、自分の身と引き換えにゾロがルフィを救ったことも知っている。何十も歳下であるはずなのに、この短い間に太刀筋だけでなく、その言動までも鮮烈な印象を残している男だ。
「そこでゴタゴタに巻き込まれてナミもどっか行っちまって……で、レストランに海賊が来ちまったんだよ、なんつったかな……」
しかし、ゾロはどうやらあまり記憶力はよろしくないらしい、とブルックは内心で微笑む。
「オイコック」
「クリークだろ! ドン・クリーク!」
サンジに敵の名を確認しようとしたゾロだったが、これはサンジのほうがうわ手だった。山盛りのフライドポテトが入ったバスケットをテーブルの上に乱雑に置きながら、噛み付くようにそう言った。それから椅子に座るとタバコを咥えて、何度もライターをカチカチ言わせている。サンジのやつ機嫌が悪そうだ、とフランキーは肩をすくめる。それでもフライドポテトは完璧な塩気に仕上がっていた。
「アァ、そう、そんなやつ。まァ小物だったけどよ、そいつらは東の海から偉大なる航路に入って、結局逃げ帰ってきたところで」
「まァ、よくある話とは聞くな」
「よくある話ですよ」
ブルックは頷く。脳裏には自分たちが乗っていた船が浮かんでいた。ゾロはそんなブルックの様子を気にも留めず、話を続ける。
「クリークは偉大なる航路で七武海のミホークにやられて逃げてきたところだった。で、ミホークもそれを追いかけてきたんだ」
「つまり、その傷は」
ここまで来れば答えはわかる。ミホークといえば、世界一の剣豪として名高い男だと聞いている。ブルックは答えを続けようとしたが、それは別の声に遮られた。
「世界一の大剣豪になるつもりで身の程知らずに七武海に食ってかかって、みっともなくやられたんだよなァ」
「サンジ」
ゾロが反応するより前に、ロビンはたしなめるようにサンジの名を呼んだ。あからさまにゾロを挑発したサンジは肩をすくめた。挑発されたほうであるゾロといえば、ロビンのおかげで怒るタイミングを逃し、ブルックとフランキーに「……そういうこった」と言うことしかできなかった。
「七武海か」
フランキーは腕を組みながら、ついこの前戦ったゲッコーモリアを思い出す。オーズのゾンビがいたとはいえ、一味総出でようやく倒したのだ。やつと同じ七武海にたった一人で勝負を仕掛けるとは、ゾロは年齢に比して見た目や態度が老成しているとは思っていたが、どうやら若者らしい無謀さも持っているらしい。
「随分とまァ無茶したモンだ」
「……コックの言うとおり身の程ってやつを知らなかったのかもな」
ゾロは言いながら、フライドポテトを摘んでみせた。
「ま、おかげで目も覚めた、見れば初心を思い出す、そう悪いモンじゃねェ」
ブルックは感嘆の息を吐く。これでまだ十代か。同じ剣士として、末恐ろしさすらある。フランキーも「ほー、」と声を出して顎を擦ると、「それにしてもなかなか豪快に傷つけられたもんだな」とまじまじと傷を見た。
「これでも手加減されたんだ」
ゾロはそう言ってまた酒を煽る。するとそれまで黙っていたサンジが、不意に立ち上がった。
「おれァ寝る、クソ剣士、キッチン片付けておけよ」
「ア? なんでおれだけ」
ゾロは片眉を揚げて不満げな顔をした。確かにここにはあと数人人間がいる。わざわざゾロだけを名指しにする必要もない。ロビンは息を吐いた。
「私がしておくわ。ゾロももう寝たほうがいいんじゃないかしら。大怪我したばかりでしょう」
「そうですね、私もお皿洗いのお手伝いをしますよ、ロビンさん」
ブルックが気軽な様子で声をかける。ゾロとサンジは呆気に取られたような顔をした。それから顔を見合わせようとして、結局やめる。各々舌打ちをして、先に口を開いたのはサンジのほうだった。
「……ありがとう、ロビンちゃん」
「いいのよ。こちらこそ今日も美味しいおつまみありがとう」
いくつもの組織を渡り歩いた過去を持つロビンは、人の心情を察するのがこの船で一番得意で、しかもフォローまでうまいときている。サンジはそれを重々わかっていた。恐らく――、今日のこの機嫌の悪さも全部理解されている。決まりが悪くなったサンジは、おとなしく引き下がることにした。
「オラ行くぞマリモ、お前もロビンちゃんの気遣いに応じて見せろってんだ」
「お前に言われねェでも!」
「ふたりともおやすみなさい」
ブルックが言うと、ゾロも口をつぐんだ。別にまだ飲める、眠くねえ、もう戦える、そう言うのは簡単だったが、本調子でないのも事実だ。ゾロとサンジはラウンジの扉を開けて「また明日」と言ったあと、何事かを言い争いながら出ていった。
「今度入れるだけで皿を洗う機械でも考えてみっかな」
フランキーが呟く。残ったのはロビン、フランキー、ブルックの三人だけになってしまった。とはいえまだ眠くなるような時間でもない。大人だけでもう少し、という雰囲気がダイニングを満たしている。
「にしても今日はサンジのが機嫌悪かったな」
「ふふ、私はその原因、少しわかるわよ」
ロビンはテーブルに肘をつくと、二人が出ていったドアを見る。この二人より少しだけはやく麦わらの一味と同行していたロビンは、サンジが仲間になったときのエピソードを、ウソップからもっと詳しく聞いている。
「おそらくね……」


「――二度と敗けねェから!」
サンジはあのときのゾロの声を、今でも鮮明に覚えている。命よりも野望を取る、その恐るべき――そして美しい生き様をほとんど初対面の男に突きつけられたあの瞬間、サンジの中にあった殻に、確かにひびが入ったのだ。
少し後ろを歩いているゾロの足音はいつもより重い。もちろん酒のせいではないだろう。スリラーバークでのあのダメージは、未だ彼に残っている。今日はチョッパーからようやく「二杯までなら」と許可が出て、あの日以来はじめての飲酒だった。喜ばしいことのはずなのに、あのゾロの話を聞いて無性に腹を立ててしまった。
ヴィンスモークの家から逃れ、死にかけたところをゼフに救われ、自分の夢よりゼフへの恩返しを優先して生きていた。今でもそれが間違っていたとは思わない。けれどルフィやゾロとの出会いは、サンジにとってあまりに鮮烈だった。これまでの生き方を何もかも覆し、恩人の店を離れ、彼らと同じ船に乗ろうと決心するくらいには。なのにゾロときたらあれを「大した話じゃない」と軽々しく言うのだ。サンジがあのとき、どれだけ心を揺さぶられたのか、まるで知らないかのように。――事実、知らないのかもしれない。
サンジは咥えていたたばこを指で挟み長く息を吐き出した。黙って後ろをついてきていたゾロは、「オイ」と低い声を出した。サンジは応じなかった。口を開けば、みっともない八つ当たりをしてしまいそうだったからだ。
「てめェ、まだ根に持ってンのか」
ところがゾロはサンジの返事がなくとも言葉をつなげ、しかもこれが妙に不十分なのであった。
「なんの話だ」
結局サンジは答えてしまう。振り返ると、相変わらず妙に偉そうな態度の男が腕を組んでいた。
「この前の。あの七武海の前でてめェを失神させたことだ」
ゾロの言葉はいつも飾り気がない。それもまた、サンジを苛立たせる。バーソロミュー・くまの前で二人揃って命を捨てようとして、結局サンジはゾロに救われたのだった。もしかしたら感謝すべきことなのかもしれなかったが、到底そんな気にはなれなかった。
だが、頷くのも癪だ。サンジは短く「いや」と返事をすることしかできなかった。
「……そうか」
わずか間の開いた返事は、恐らく納得していないからだろう。
せめてコイツがひとつでも歳上ならよかったのに。船に乗ってすぐ自己紹介をして、同い年であることを知ったときの衝撃ときたら、なかなかのものだった。同じだけの期間を生きてきて、この男は誰よりも強固な信念を作り上げた。それがたまらなく羨ましく、悔しかった。無残にも胸を袈裟がけに斬られ血まみれの男に、「敗けた」と思って、それからすぐに打ち消した。そのつもりだった。だが結局あの一瞬を、サンジはずっと抱えて生きている。あのゾロのあの傷跡を見るたびにじわじわと心臓を締め上げるような感覚に陥って、それを振り払うために悪態をついてしまうのだ。ゾロはじっとサンジを見つめた。目を逸らしたらまた負けてしまう気がして、サンジもゾロを見つめ返す。ゾロはハァと息を吐き、サンジから視線を外した。勝った、とサンジは小さく思う。同時にゾロは負けたとも思ってないことを知っている。
「……お前の決心をないがしろにしたのは悪かった、とは、思ってる」
ゾロは静かにそう言った。酒のせいか海風のせいか、ゾロの声は時折掠れる。いつになくしおらしい言葉に、サンジは目を見張った。らしくもねェ、てめェにも謝罪ってやつが出来ンだな、と煽る言葉が頭によぎり、しかしそれを煙草を咥えて飲み込んだ。そうして茶化して有耶無耶にして、この敗北感を誤魔化すのは簡単だ。これまで何度もしてきたことだ。だが、そんなことばかりしているから、こうやっていつも苛立ってしまう。
「あァ、」
だからサンジはなんとかそれを踏みとどまった。このままじゃこの船に乗っている限りずっと、負けっぱなしだ。だからせめて、今はゾロを認めなくてはいけなかった。
「二度とあんな真似すンじゃねェぞ」
サンジは言ってからかぶりを振った。違う。確かにこれも本心だが、もっと。本当に言いたいことがあったはずだ。サンジはふたたび煙を吐いた。たっぷりの間を取る。
「――てめェが生きてて、よかったよ」
ゾロが虚をつかれたように目を見開く。サンジはきびすを返して男部屋のほうへ向かう。ゾロが後を追ってくる。そして彼の足音の重さにひどく痛むシャツの胸元を掴んだ。


「まァ、サンジの気持ちもわからんでもねェけどなァ」
フランキーは空になったビール瓶をテーブルに置いた。傍から見ればふたりの喧嘩はいつだってどっちもどっちと言えるような可愛らしいものだ。かつての仲間たちにもああいう仲の悪い二匹がいて、皆でその喧嘩をやんややんやと見守ったものだった。
「こちらから見ればお互い対等に言い争いしているようにしか見えませんけど、」
ブルックは言いながら、しかしサンジの気持ちも理解できていた。例えば自分がゾロと同い年だとしたら、きっとサンジのように少しばかりのコンプレックスを持ち得たような気がする。同じ剣士として、男として、いや人間として――ロロノア・ゾロはやはり鮮烈がすぎる。
「ゾロがなにもかもサンジを上回ってるわけじゃないのにね」
ロビンが微笑む。この一味に入って、この女は思った以上によく笑うのだとフランキーは驚いたものだった。ブルックは長く息を吐く。あの二人はもう寝床に入っただろうか。部屋に戻るまでに、どんな会話を交わしたのだろうか。せめて二人とも、夢の中では仲良くしてほしいと思う。
ブルックはジョッキのなかの酒をすべて飲み干して、ふたりに「私たちもそろそろお開きにしましょう」と告げた。



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