海賊
今日の夕飯に向け海王類を捕獲しようとしたキッドが案の定海に落ち、ほとんど反射で飛び降りて彼を助けたキラーは、結果として全裸の腰にタオルをまきつけて船内を歩く羽目になっていた。なにがまずかったかって、その日着ていたもの以外、手持ちのTシャツもジーンズも下着もすべて洗濯して干している最中だったことだ。ここのところずっと天気の悪い海域にいたせいで、船員皆がその調子であるため、服を借りることもできない。そもそもこの船は妙なセンスの服を着ている人間が多く、借りること自体がやや気が進まないのだが。キラーは自分の仮面を全力で棚に上げ、そう考えている。
海に落ちたために同じくシャワーを浴びたキッドは、髪を乾かすのもそこそこに脱衣場を飛び出していった。キラーは髪が長い上に量も多い。ドライヤーを当てること30分以上、ようやく満足がいき、廊下に出た。いつもの仮面はひとまずつけたが、全裸・タオル・仮面姿の自分に船員たちは引きつった顔で挨拶してくる。さすがに落ち着かないので、せめて服が着たい、とキラーは切実に思った。だが、まだ乾かしている最中のTシャツを着るのも良くないだろう。
他の服の当てといえば、キッドの部屋だ。
この船では、船長であるキッドだけベッド付きの個室を持っている。キラーを含め、他の船員はハンモックで雑魚寝だ。とはいえ具合の悪い船員が出れば船長室は救護室にもなるので、基本的には開かれた部屋だった。
ただし、それもキッドがキラーを招いた夜だけは違う。余程でなければセックスまではしないものの、換えのシャツ一枚くらいはあの部屋に放ってある気がする。船員たちの奇異の目を躱しながら船長室までたどり着くと、キラーは念の為ドアをノックした。返事がないことを確認すると、ためらわずに船長室のドアを開けた。
中に入った途端くしゃみが出た。次の島は秋島か冬島かもしれない、と意識の端で思いながら、ドアを閉めて仮面越しの狭い視界で狭い部屋を見渡すと、ベッドの上にキッドがよく羽織っている赤いファーコートを発見した。ちょうどよかった、とばかりに手に取る。肩に引っ掛けると、自然と息が出た。空気を含んだ生地は暖かく、これならくしゃみも収まりそうだ。そのまま部屋に備え付けの三段棚に近付き、中を覗き込む。自分は船長室の備品に対してここまでしても許される人間であるという自覚はあった。
上の棚はキッドの替えの服が数枚ぐしゃぐしゃになって入っている。畳んでやろうかと引っ張り出し、二枚目を畳んだところで本来の目的を思い出した。次の真ん中の段も乱雑にキッドの私物が詰め込まれていた。最後にいちばん下の段を覗き込もうとして、キラーは思わず「げ」と声を出した。ここに来て、腰に巻いていたタオルがほどけて床に落ちたからだ。このままではいよいよ全裸仮面で他の人間の持ち物であるコートを羽織った状態になってしまう。ほかの船員に見られでもしたら、いよいよ引かれてしまうかもしれない、という危惧もあり、キラーはそれを拾うために屈もうとした。
キッドの身長でも足首まであるコートは、十センチ身長の低いキラーが羽織ると丁度床すれすれの長さになる。一歩下がったことでコートの裾を踏んでしまい、キラーはそのままバランスを崩した。常日頃超人的と評される身のこなしで戦うキラーは、バランス感覚だって自信があった。しかし、全裸タオル仮面コートという少々ひと目を憚る格好になってしまっていることで咄嗟に受け身を取ることに失敗して、キラーは思い切り船長室の床に背中を叩きつけてひっくり返る羽目になってしまった。弾みで仮面がずれて、口許までが露出してしまう。
キラーは呆然と天井を見上げていた。誰も見ていないとはいえこの失態にじわじわと恥ずかしくなってきて、キラーは自分の頬が紅潮するのがわかった。コートがはだけて再び腹が丸出しになってしまい、空気にふれることでくしゃみが出てしまう。思わず急いでコートの前をかき集めるようにしながら、上半身だけを起こしていちど膝立ちになり、ようやく拾ったタオルを腰に巻きつけると、仮面をかぶり直すために一度外した。ファーコートの襟元に顔を埋めるようにすると、仮面がなくとも顔の半分は隠れるので、少しばかり気が楽になる。顔が覆われているのがすっかり癖になってしまっている。ーーそしてどうやら、覆うものは案外なんでもいいのかもしれない。キラーは一度仮面を床に置いた。それから一度深呼吸をする。こうして顔を埋めることで今更気がついたが、このコートはキッドのにおいがする。潮と鉄と汗と機械油といくらかの香油が混じったにおいだ。
キッドがこのコートを手に入れてきたときには、そんな洗いにくいモンどうすんだ、と突っかかったこともあったが、こうして羽織ると悪くない、と少々身勝手なことを考えながらキラーはますます深くキッドのコートに顔をうずめた。より強くからだに巻きつけて、膝立ちのまま棚に近づく。そうだ、そもそもおれはこの部屋に着替えを探しにきたんだ。思い直して、キラーはそこを覗き込んだ。
結果として、棚のなかにキラーが期待したTシャツやジーンズは収まっていなかった。なんだ、よかった。キラーはそう考えてから我に返る。ーーなにがよかったっていうんだ。
この部屋に着替えがなければ、いよいよ服が乾くまでの半日近く、キラーは全裸・タオル・仮面で過ごさなければならないのだ。安心している場合ではない。そもそも、なにを安心なんかしていたんだ。キラーは不可解な感情にコートを握りしめて、それから自分のからだを見下ろして、すぐにその理由に思い当たった。
なるほど、おれが安心したのはまだこのコートを羽織っていられる、からか……、キラーはため息をついた。いやいや、さすがにそうは言っていられないだろう。いい加減コートは脱がなければ。だが。
それはほんの僅かなあいだの逡巡だった。はずだった。
- [ ] コートを脱ぐために肩に手のひらを宛てがった瞬間、ばあんと大きな音を立てて、唐突に船長室のドアが開く。どん、と仁王立ちをしているのは、言わずもがなこの部屋の本来の住人たる船長・キッドだった。キッドはさっきシャワールームを飛び出たときと同じ、上半身は裸で下半身は下着姿だった。そう広い部屋ではない。キッドは当然のようにキラーのほうに視線を向けた。そしてキラーも、ゆっくりとキッドのほうを見上げた。
「違うんだキッド、おれは」
キラーはひとまず弁明せねばと口を開く。だが、なにを弁明すればいいのだ。キッドの気に入りのコートを勝手に着たこと、あまつさえコートのなかはほとんど裸であること、説明すれば理解はされるだろうが……。こんなことなら仮面をつけておけばよかった。そうすればせめて顔だけは隠せたはずなのに。
「なにが違うんだ?」
キッドが口を開く。こちらに大股で近づいてくるが、膝立ちのままのキラーでは逃れることもできず、コートで顔を隠すことしかできなかった。
「……、着替えを探しに来ただけなんだ」
キラーがなんとかそう口にしたときには、キッドはもうすぐ目の前だった。
「あァ、見つかったのか?」
言いながら、キッドはしゃがみ込む。視線が同じ高さになり、キラーは目を逸しながら、「いや」とだけ答えた。
「で、なんでこれ着てるんだ」
キッドが右手でコートの袖を軽く引っ張る。キラーは「寒かったから、つい」と答えた。
そうだ、寒かった。シャワーを浴びてからほとんど裸で三十分も髪を乾かして、その後も服を着られなかったものだから、からだが冷えてしまっていた。おまけに気温もそれまでより下がっていたし、なにより自分は(キッドもそうだが)、寒いのが苦手な南の海出身なのである。
キッドはしばらくそのまま黙っていた。キラーの顔をまじまじと見て、それからコートを脱ごうとしたために、合わせ目から唯一出ている左腕を見つめた。それから床に落ちたままの仮面に視線を向ける。
「さっきお前、着替え見つからなかったって言ったよな」
「言ったな」
「じゃあ、お前その下、なに着てんだ」
「……腰にタオルを巻いている」
隠し立てをしたところで意味がないことはわかっていたので、キラーは正直に答えた。
「…………」
キッドはしばらくなにも言わなかった。やはり全裸にコートを着るのはまずかっただろうか、とキラーは思う。だが、普段のキッドだって、全裸ではないが肩も腹も丸出しみたいな格好でこのコートを羽織っているではないか。そう変わんねえだろ、という反論までを考えて、それでもキッドがなにも言わないので、キラーはいよいよ訝しくキッドを見た。
「どうした、キッド」
「いや…………その、なんだ、前だけ開いてくれねェか」
言われたキラーは思わず噴き出しかけたが、辛うじて自分の笑い方が嫌いであることのほうが勝ち、それを抑え込むと、「お前な」とキッドに言う。
「そういうのが好きなんだな」
「……悪ィか」
「いや、まあ……わからんでもない」
言いながらキラーはコートの前だけをくつろげた。キッドは「なるほどな」と呟く。
「彼シャツだっけか? あれよりいいな、彼コート」
「いいのか」
「そりゃまァ」
キッドが頷く。キラーは今度こそ僅かに笑ってしまう。まったくキッドは自分の感情に素直な男だった。そういうあけっぴろげなところがキッドの愛すべきところである。
「お前がいいならしばらく借りておくか」
着替えもないし、キッド自身が気に入ったのなら問題ないだろう。これならいくらか人前に出られる格好と言ってもいい。キラーができる限り顔を隠すように襟元をかき合わせると、キッドはいきなり能力でキラーのマスクを引き寄せ片手に収め、それをそのまま被せてきた。
「わ、なんだキッド」
外されることはそれなりの頻度であるが、被されるのはそうそうない。見ればキッドは長く息を吐いて、こっちをまっすぐに見ていた。
「お前その格好のときは絶対それ被ってろ」
「構わないが……」
キラーはマスクの位置を直しながら頷いた。正直ほとんど全裸にコートで仮面というのもなかなか妙な格好のような気がするが、キッドが言うなら別段文句はなかった。キッドは満足げにキラーのコートを羽織り直させると、不意にくしゃみをひとつした。
「さみい」
「そりゃそんな格好してればそうだろうな」
キラーは先程キッド手づから直されたコートを脱いでしまう。キッドが抗議をする前にキラーは踵を浮かせてそれをキッドの肩に引っ掛けた。キッドは機嫌悪く唇を尖らせる。「着てろつっただろうが」
しかし、キラーがその程度の抗議で引くわけもなく、肩をすくめる。
「おれは誰かに上着を借りるよ」
「上着なんざ持ってる奴いんのかよ」
「さあな」
言ってキラーはキッドの頬を指先で撫でた。キッドはキラーの指先の暖かさに思わず目を細める。
「……やはりこれはお前のほうが似合う」
キラーはそう言って、キッドの肩を叩いた。そのまま部屋を出ていこうとするので、ドアノブにかかったその手を掴んで引き止める。
「服が乾くまでここにいりゃいいだろ、くっついてりゃ寒くねェ」
「……やらねェぞ」
「……次の島では彼コートしろよ」
キッドが出してきた条件に、キラーは思わず笑ってしまった。