海賊
※童話パロですが結末的にはハッピーエンドです
※原作に登場する人魚とはまた別物だと考えてください
※ビジュアル的には新世界前を想定してください
※その他ローとカイドウとゾロがでてきますが、これは完全に書き手の趣味です
その日キラーはぼんやりと海に浮かびながら明るい月を見上げていた。凪いだ海は人魚であるキラーにとって心地よいベッドになる。月がもう少しだけ傾いたら海の下に戻ろうと思いつつ、だらだらとそのままでいた。元来あれこれと魚と会話をしたり、海藻を集めて調理するのが好きではあるが、キラーだって、たまにはひとりでのんびりしたい夜もあるものだ。
ところが、不意に頬に当たった風の冷たさに眉をしかめる。これは海が荒れる予兆だと、すぐにわかった。はやく海底に戻らなければ面倒なことになる。仕方がない、今日はここまでか。キラーは息を吐きだして、それから最後にぐるりと海原を見渡した。
ふと視界に入ったのは、中規模のガレオン船だった。そう遠くないところにある。船首に大きな獣のものと思われる頭骨があしらわれていた。海にはいない大きさの生き物なので、きっと作り物なのだろう、とキラーは思う。あの船も、このまま航行していけばきっと嵐に巻き込まれる。それがどうということもないはずだが、珍しい造りの船だからか、目が離せなかった。あれが嵐に遭って沈むとしたら、もったいない。それに――海に船は沈まないほうがいい。魚たちや人魚に当たったり、押し潰される可能性もあるのだから。
キラーは尾びれを翻し、海に潜ると船に近づいた。海水を蹴ると、ぐんぐんと船に近づいていく。眼前に船底が迫ったところで海面から顔を出すと、どうやら船では宴が開かれているらしい。大きな笑い声が弾け、時折歌まで聞こえてくる。これから嵐がやってくるのに、呑気なものだった。それにしても、どうやって知らせるべきか。船を見上げると、甲板はずいぶん高いところにあるように見えた。この尾びれでは登ることは難しいだろう。そして更にその上、その帆が目に入った。黒い布地に、白い骸骨の模様、赤い炎の柄。キラーは背を震わせる。海の中に炎はないが、それは夏の日差しより熱く、触れれば肌が爛れるのだと話に聞いている。――なるほどこれは海賊船か。そう思えば、確かにこの騒がしさにも納得がいく。人魚はあまり海賊をよく思っていない。特に女の人魚はしばしば彼らに狙われ、万が一にも捕まれば、乱暴された挙げ句に売り飛ばされるのだという。男だって乱暴……はともかく、見つかって捕まれば売られる可能性はあった。
やはり知らせずに帰ろうか、とまで思い始めたところで、次第に風が強くなる。これでは天気が変わるまでそう時間がないだろう。この船に乗っている誰も気が付かないのだろうか。人間はたとえ海で暮らすものであっても、人魚より海の変化に鈍感らしい。
キラーが逡巡していると、想像以上にはやく波が高くなってきた。それでも宴は続いているようだ。あいつら、自殺でもしたいのか。キラーは薄い眉を寄せた。
ごう、と耳元で音がする。キラーが振り返ると、昏い色をした雲が、すぐそこまで迫っていた。
嵐はあっという間にやってきた。船の上で大声を上げる男たちは、それでも機敏に動いている。キラーは激しい波に揺られながら、彼らが嵐に対して慣れていることに感心していた。叩きつける雨のせいで視界は悪いが、あれなら乗り切ることができるだろう。おれが知らせる必要もなかったかもしれない、と考え直す。ならば最後にあの珍しい船首を見て戻ろうか、とゆるりと尾びれを動かした。波の抵抗は強いが、人魚である自分が溺れることはない。ぐいぐいと海水をかき分け、船の前方へと移動する。なるほど、黄色く染められたそれは、キラーの頭蓋骨のゆうに数十倍はある大きさだった。生前はいかにも凶暴な獣だったのであろう鋭い牙が上下に生えている。こんなものに食いちぎられたらひとたまりもないだろう、とキラーは目をすがめる。
大きな頭蓋骨の奥には甲板が広がっていて、男たちが走り回っているのが見えた。中でもいっとう目立つ赤い髪の男がいる。鍛え抜かれた逞しい肉体をしていた。風や波の音でまるで聞こえないが、彼が男たちに指示を出しているようなので、どうやら彼がリーダー格のようだ。この嵐だというのに悠々とした態度で船首のほうへ向かってくる。まずい、見つかる。キラーは海に潜ろうとしたが、瞬間赤い髪の男がこちらを見た。
距離はあったはずなのに、お互いの視線がかち合ったという実感があった。男がこちらに何事かを叫ぶ。もしかしたら海に落ちた仲間だと思われたのかもしれない。違う、心配ない、首を横に振って言おうと思ったが、まるで伝わっていない。男がこちらに身を乗り出し手を伸ばす。
「やめ……」
キラーが叫ぼうとした瞬間突風が吹き、男のからだはもがくようにして真っ逆さまに海に落ちていった。
キラーも人魚のなかでは小柄な方ではないと自負していたつもりだが、赤い髪の男はそれ以上に大柄だった。とはいえ水中では浮力もあるし、このような人間ひとりどうということもない。男が海に落ちた瞬間海水を蹴ったキラーは彼のからだを抱え込み、ひとまずここからいちばん近い島まで運ぶことにした。嵐のなかで船に近づき、彼を船まで引き上げるのは難しいと判断したのだ。
人間は水中では呼吸ひとつできないのだという。まったく不便な生き物だが、さすがに自分を助けようとして死んでしまったのでは後味が悪い。キラーは荒れる海をぐんぐんと進み、ようやくたどり着いた島は、ほとんど雨が止み、風も微風になっていた。
気を失った男を引きずるように砂浜に上げる。多少潮が満ちてもからだが波に攫われないよう、できる限り奥にやらなければならない。しかし、海の中ではなにごとも自在の人魚は、陸の上では不自由だった。尾びれを左右に振りながら、這いつくばって砂浜を進む。砂浜に擦れた鱗が剥がれていく自覚もあったが、致し方がない。
なんとか満足行くところまで男を引きずると、キラーは休憩とばかりに息を吐いた。改めて男を見やる。目は閉じているが、男が海賊に相応しい獰猛な顔つきであることはなんとなく想像がつく。赤い髪はすっかり濡れて額に張り付き、着ている臙脂色のコートは水を吸って、すっかりみすぼらしい。だが、キラーはこの男から目が離せなかった。この男の顔ならば、永遠にでも見ていられると思ったのだ。
屈強そうな男だ、放っておいても死にはしないだろう。これ以上彼のもとにいるとまずいことになりそうな気がして、キラーは自分の馬鹿馬鹿しい考えを振り払うためにかぶりを振った。まず第一に彼は人間であり自分は人魚である。第二に彼は残虐そうな海賊である。ここを離れれば二度と顔は合わすことはないだろう。それでいいはずなのに、離れがたい。こんな――、初めて聞く、しかし好みの音楽を耳にしてしまったかのような、ときめきがある。いや、それよりもっと強い。
彼は海賊だ。しかも凶暴な性質を持っている可能性が高い。彼が目を覚ましたら、地上の移動が苦手なキラーは捕まえられて金持ちに売り飛ばされる。そういう危険があることは、頭ではわかっている。だが、それでもキラーはこの男のそばにいたいと願ってしまう。捕まるのならそれはそれで構わないとさえ――、もっとも、その後売られるのは勘弁してほしいが。
キラーは彼から少しだけ後退る。理性と本能がせめぎ合っている。妥協案として、せめて男が目を覚ますところまでは見ていようと決めたのだ。砂浜には大きな岩があったので、キラーはそこまでずるずると移動した。そろそろ日が昇る。この男でない人間に見つかるのもまた、まずいだろう。気がつけば雨はすっかり止んでいた。名前も知らない海賊などに、どうしてこんなにも執心しているのか、自分でも理由がわからなかった。
それからそう時間が経たないうちに、例のガレオン船が砂浜にたどり着き、どやどやと男たちが船を降りてきた。ゆうに十人程度はいるだろう。なにやら叫びながら、男の方へ近づいてくる。
「キッドの頭!」
男たちのうち一人の声がキラーの耳に届く。あの男はキッドというのか。キラーはその名を知ることができただけで胸が熱くなっている自分に戸惑いながら、じっと彼とその仲間たちのほうを見つめていた。キッドはのろのろと上半身を持ち上げる。
「お前らよくここが……わかったな」
「いや、頭が落ちた途端ぐんぐん海の中を進んでいくのだけは見えましてね。あんたの髪赤いから海のなかでも目立つんスよ」
「それで嵐がやんでからその方向に船を進めてきたってわけです。頭こそどうやってここまで?」
キッドは「わからねェ」と呟いた。額を抑えながら、かぶりを振る。名前を知ることができたのに、キラーは次にキッドの目の色が知りたいと思った。しかし、この距離ではキッドの目まではよく見えない。
「まぁ無事ならよかった」
船員たちはキッドを取り囲み、あれやこれやと話している。そのうちキッドも立ち上がり、船のほうへ消えていった。キラーはそれを最後まで見届けて、それから海に戻った。
数日が経っても、海のなかを泳ぎながら、魚たちと戯れながら、友人の人魚と会話しながら、あの赤い髪の男のことを考えている。キラーはいよいよあの男にもう一度会う方法を真剣に考え始めた。だが、自分のこのからだのままでキッドに会いにいったとして、どのような反応をされるのか、想像するとどうにも落ち着かない。――会いに行くのなら、隣に立ちたいと思う。つまりおれは人間に、なりたい。キラーがその結論を出すのに、一晩考え込まなければならなかった。
そして人間になりたい、という欲望を自覚したキラーがまず最初に向かったのは、トラファルガー・ローという名の人魚が開いている病院だった。ローの病院はそれなりに繁盛していて、長らく待たされてから診察室に通された。ローとは初対面ではない。彼はバインダーに挟んだカルテを眺め、「どうした」と声をかけてきた。
「その」
キラーは自分が特に病を得ているわけではないことが、唐突に恥ずかしくなった。だが、ローは人魚には数少ない手術のできる医者だ。彼ならば、もしかしたらこの尾ひれを人間の脚に付け替えてくれるのではないか、キラーはそう考えてここに来たのだ。
「お前なら――、これを(言いながらキラーは自分の水色の尾ひれを指差した)その、脚、というやつに付け替えられるんじゃないかと」
ローは目を見開いた。キラーの顔をまじまじと見つめ、それから「お前がそんなことを言い出すようやなつだとは思わなかったが」とつぶやいた。
「つまりお前は人間になりたいのか」
ローははっきりとそう言った。なにひとつ否定できることはない。キラーが頷くと、ローは明らさまに顔をしかめる。
「悪ィが、医学で人魚を人間にすることはできねェ」
「……そうか」
僅かながら落胆していた。だがローの言い方に含みがあることに、キラーは気がついていた。
「医学以外の方法ならできるって口ぶりだな」
言うと、ローはデスクのうえにカルテを放った。肩をすくめて、それからキラーのほうを見る。
「カイドウって、知ってるか」
出された名前に目を見開く。もちろん知っている。この世界中の海中を統べる四人の王のうちのひとりだと聞いている。彼らは全員が恐ろしく強いが、中でもカイドウは「最強生物」として名高い。
「あいつなら、人魚を人間にする方法を持っているって話だ」
ローはそう言いながら目を伏せる。
「まァ、とんでもねェ条件を出されるって話だがな」
目の下の濃い隈が陰鬱な印象を与える男だが、ローはその実、それなりに親切だ。
「行くのは勧めねェが」
行くんだろうな、お前は。そう言ってローは息を吐いた。ローのことばに合わせて、彼の口許から泡が上に立ち上っていくのを、キラーは見上げる。丁重に礼を言うと、診察室を出た。ローはキラーにそれ以上の言葉をかけてこなかった。
病院を出たキラーは、そのままローが名前を出した男のもとに向かうことにした。場所ならば知っている。なにしろここからそう遠くはなかった。夕方にはたどり着いて、キラーはあ彼のねぐらである、海底火山にたどり着いた。カイドウは龍の姿で、丸まって目を閉じている。キラーはなんと声をかけるべきか迷ったが、その前にカイドウが目を開きこちらを見た。
「なにか用か」
金色の瞳を前に、キラーは息を吐いた。この大きな口に噛みつかれれば、そこらの人魚はひとたまりもないだろう。それに、あの硬そうな鱗ときたら。傷一つつける手段すら思いつかない。それでもキラーはカイドウの前で背筋を伸ばした。
「人間になりたいと考えている。カイドウ……さん、ならそれができるという噂を聞いた」
「『人間になりたい』?」
カイドウはそのまま繰り返すと、長いからだをするすると動かし、キラーの顔面にその龍の顔を突きつけた。太い牙がギラリと光り、しかしキラーは臆さない。カイドウはフン、と鼻を鳴らした。
「馬鹿げた願いだ。この海のなにが不満だ?」
「不満があって出ていきたいわけではないが……」
キラーはカイドウにキッドの話をすべきか迷ったが、カイドウに一笑に付されることを想像するのは容易だったので黙っていた。カイドウはなにも言わなかった。それからしばらくすると、「ウォロロロロロ」と笑ってみせた。長いからだを探ったかと思うと、キラーにずいと手を近づけた。
「ならばこれを食え。一口でいい」
カイドウが差し出したのは、不気味なうずまき模様が表面に入ったまるい果実だった。もっとも、海の下に果物はないため、キラーはそれがなにかもわからないまま受け取った。
「それを食えばお前は人間になれば二度と泳げなくなるし、本懐を遂げられなければ、海の泡になって死ぬ」
探るような目をしたカイドウを、キラーは顔を上げてまっすぐに見返した。カイドウはキラーの態度に納得したのか、ふたたび口を開いた。
「最後にもうひとつ条件だ。お前は一生笑うことしかできなくなる。それでも人間になりたいのか?」
それがどうしたというのだろう。キラーはなにも言わずに、その実に歯を立てた。カイドウはまた不気味な笑い声を上げた。
*
あの嵐の夜から一週間ほどが経っている。キッドは海に落ちた自分を助けた誰かを探していた。しかし、どうにもあのときは意識が朦朧としていて、覚えているのは強い力で引かれて水の中を突き進んでいく感覚だけだ。あれは人間の泳ぎではなかった。ならば海獣、海王類か。いや――。
他の船員たちは気がついていなかったが、あのとき砂浜には水色の鱗が落ちていた。まるで誰かがキラーを引き上げようとしたかのように、海から一直線にキッドの横まで。それから近くの岩場まで這って行ったかのように、朝日に照らされて、落ちたうろこが線のようにきらきらと光っていた。だが魚などにそんなことができるのだろうか。あるいは――、キッドは思いついた答えをかぶりを振って振り払った。
幸い船員たちも確かに不思議な話だと首を傾げて、しばらくは付き合うと言ってくれたので、キッドは助かった島の周囲を歩き回り、聞き込み、脅し、情報を探したがどうにもヒントが見つからない。
さすがにそろそろ、明日あさってには船を出しましょう、と古参のメンバーに言われていた。キッドも仕方なしに頷いたので、この調査も打ち切りが近い。生き馬の目を抜くワンピース争奪戦のため、あまりひとところに留まっているわけにもいかないことはいやというほど理解している。
今日もキッドは数枚拾った鱗をズボンのポケットにいれて、指先で弄びながら自分が助かった砂浜をひとり歩いていた。黄色っぽい砂を踏みながら、前方を眺めると、砂に紛れて、向こうに人間が倒れているのが見えた。人助けは趣味ではないが、彼、もしくは彼女がいるのがちょうど自分が倒れていた場所と同じに見えて、キッドは足を早めた。
近づくと、それは腰まである長い金髪を持っていることが視認できた。女だろうか、とさらに近づき、砂の上で丸まっている人間の肩を掴むと、ひやりとした体温が手のひらに伝わった。仰向けにさせると、髪の長さで予想していたのと性別が違っていることがわかった。細身ではあるが、男だ――全裸の。
朝からなんというものを拾ってしまったんだ、とキッドは少々面倒な気分になったが、さすがに放っておくわけにもいかなかった。
「おい!」
男のからだを揺さぶる。何度か声をかけると、程なくして、彼はまぶたを震わせた。長い前髪越しにもわかるほど、睫毛が長い。キッドはあとひと押しだと考え、もう一度声を上げた。
「テメェ、起きろ!」
すると、男は今度こそ薄く目を開けた。それから、自分を揺さぶっている相手に視線を向けようとしたらしい。少しだけ顔が上がったと思った次の瞬間、キッドは思い切り男に頭突きされていた。
「……ッ!」
目の前に火花が散る。男が勢いよく起き上がった結果らしかった。あまりの痛みにふたりして額を抑えるが、先に立ち直ったのはキッドだった。男を心配する気持ちなど吹き飛んで、声を荒げる。
「なんなんだテメェはよ!」
悪意がないことくらいはわかるが、そういう問題でもない。涙が出るほどではないが、痛いものは痛い。相手の男は、一瞬の間のあと、口を開いた。
「すまない、フ、フフフ、ファファファ、ファ、」
キッドは突然笑い出した男に虚をつかれ、ぽかんと口を開く。しかもまあ、随分と特徴的な笑い方だ。
「何だお前、変なやつだな、全裸だし」
「ファ、……」
男は自分のからだを見下ろして、ようやく状況を理解したらしい。だが、彼は恥ずかしがるでもなく、また大笑いしはじめたので、キッドは面食らってしまった。ちらと視界に入った男のそこは、確かにまぁ十分な大きさをしているようだが、人に見られて大爆笑という感情がまったくわからない。いたたまれなくなって、キッドは羽織っていたコートを男の肩に引っ掛けてやる。男はコートの首元を寄せてからだを隠すようにした。
「着てろ」
「ありがとう、……すごく……、」
男はそこまで言ってからまたフフフ、と笑い出す。顔立ちも体つきも悪くなく見える。そればかりか、初めて会った気がしない。妙な感覚だった。どう考えても怪しい男であるのに、放っておくことができない気にさせる。
「お前、この辺のやつか?」
「そうだな、そのようなものだ」
ならばここ数日でどこかですれ違ったのだろうか。キッドはその場所がはっきりと思い出せないことに苛立ったが、ため息をついてそれを口に出すのはやめた。
「なんでお前、裸でンなトコ倒れてたんだ」
「さあ、……酔っ払ったかな」
曖昧な返事に、キッドは唇を曲げた。さっぱり意味がわからない。立ち去ってしまえばいいのに、どうもそうできない。
「なァお前、名前は」
「キラーだ」
「キラー」
オウム返しをして、キッドはそのままその名前を呼んだ。するとキラーはまたファファファ、と笑う。なにをしても笑う。箸が転んでもおかしいどころか、箸が存在するだけでおかしいとでも言いたげだ。
「てめェ、服は」
「服、そうだな、服を着なくちゃいけないんだった。ファッ、ファッ、」
「本当に大丈夫なのかよ」
妙なことを言い出す男に眉をよせ、キッドはもう一度ため息をついて、それからキラーの方に手を差し出した。
「おれの船に来い、余ってる服くらいあンだろ」
「お前は……」
キッドに従って立ち上がったキラーがこちらを見る。
「おれは海賊王になる男だ」
キラーは瞬きをした。キッドは彼の瞳が朝方の海のような色であることに初めて気がつく。あれだけの笑い上戸なのだから、きっと大笑いされるだろうと思っていたのに、キラーは今度こそ笑わなかった。
「海賊王」
キラーはまるで大事なものを発音するかのように慎重にそう言った。
「キッドなら、なれそうだな」
立ち上がったキラーはキッドのほうを見る。キッドはキラーの手首を掴むと、「こっちだ」と低く言った。おれはこいつに名前を教えただろうか、と違和感を覚えながら。
キラーを船に連れ帰り、倉庫にある略奪品のなかから「好きな服を選べ」と告げると、彼は黒地に水玉柄のシャツとジーンズ、それからなんとフルフェイスのマスクをつけて倉庫から出てきた。そしてそのままなりゆきで、彼は船員の一員となり、もうひとつきほどが経っていた。
「まあ、お頭の命の恩人は見つかりませんでしたけど、キラーさんを拾えたのはラッキーでしたね」
そう言ったのは古参メンバーのひとりだった。船に乗るのは初めてだと言うくせに、キラーは妙に海の天候に聡く、もうすぐ強い風になるとか、午後はひどく暑くなるとか、まるで未来を見てきたかのように言い当てた。おかげで航海は今まで以上に文字通りの順風満帆で、キッド海賊団はグランドラインをぐんぐんと進んでいく。
その日もキラーが「向こうから嵐が来る」というので、大きく舵を切ったヴィクトリア・パンク号は、遠目に雨雲を眺めながら悠々と進んでいた。キッドが海を眺めていると、キラーがなにやら手を振っている。どうやらニュース・クーを呼び寄せているらしい。カモメの鞄に小銭を入れてやると、さっそく一部受け取ると、カモメが飛び去るのを見届けるのもそこそこに、一面を読み始めている。
「お前、新聞なんか読むのか?」
どうもキラーは浮世離れしている印象が強く、普段から新聞など読んでいるようには見えなかった。キラーは顔を上げて、小首を傾げる。
「お前こそ読まないのか、新聞」
「まあな」
「まあ、おれも読むのは初めてなんだ。おれはこの世界のことがもっと知りたいからな」
キラーはそう言った。あのフルフェイスマスクの狭い視界で、新聞なんかどうやって読むのか。キッドはふたたび新聞に視線を落としたキラーを見て、ぼんやりとそう考えた。
キッドは強くなりたいと思うことはあれど、知りたいと思ったことはない。海賊王になるために情報を得ることは大事だと頭ではわかっているが、あまり気が進むものではなかった。
「有用な情報でもあれば教えてくれ」
言うとキラーはファッファッ、とまたあの妙な笑い方をしてから「わかった」と頷いた。彼を拾ってからというものの、キラーはなにがあろうと泣いたり怒ったりすることもなく、常に笑い続けている。だが、気のいいやつだと評すには違和感があった。そもそも、こうして顔を隠しているのもどうなんだ。キッドはキラーの顔(どころか生まれたままの姿)を見ているので、今更隠されたところでどうということもないが、理由がわからなかった。
「キッド」
不意に名前を呼ばれて、キッドは我に返る。
「あまりこちらを見ないで欲しいんだが」
言いながらやはりキラーは笑っていた。そこは照れたりするところじゃねェのか。キッドはつまらない気分になり、どうにかこの新入り――というには船にすぐに馴染んだこの男の、笑っている以外の顔が見たいと考えた。キラーが多少のことでは動揺しないことはわかっていたが、ならばどのような話題をふれば、彼は戸惑ったり、怒ったりするのだろうか。
「なァキラー」
「なんだ」
「お前、……初恋……いつだった」
「ファッ!? ファ、ファファファ、なんだキッド、唐突に」
「うるせェ!」
まさかキラーを動揺させようとして口から飛び出したのが「初恋」になるとは思わなかったのだ。おまけにキラーは、最初の一瞬こそ驚いたような声を出したが、すぐに笑い始めてしまった。キラーは随分と長く笑ったあと、長く息を吐いた。
「初恋か。ファファ、……お前かな」
「そういうのはいいんだよ!」
おまけにとんでもなく適当な躱され方をしてしまい、キッドは噛み付くように叫んだ。キラーはまた笑って、「キッドはどうなんだ」と尋ねてくる。初恋。キッドにも明確にその相手がいるが、もう彼女とは随分と疎遠になっていた。なにしろ、数年前に海賊として海に出てから、なんの便りもない。名前は覚えているが、顔はもう曖昧だった。その程度の相手である。
「故郷に置いてきた女でもいるのか?」
黙っていると、キラーがからかうようにそう言った。頭に血が登っていたキッドは、チ、と舌打ちをする。なのでこれはほとんど強がりのようなものだった。
「あァ、おれはあいつのために海賊王になりてェんだ」
まったくの嘘だった。キラーは今度こそ大声で笑い、「そりゃあその娘は幸せものだ!」と言ってのけた。キッドはますますつまらない気分になり、キラーに背を向けた。子どもっぽいという自覚はあったので、せめて船長の威厳を見せるために「新聞、読んだら要約しろ」と命令をする。
「……あァ」
キラーの同意を聞くと、キッドは船室のほうへ向かった。キラーの初恋。そんなものがこんなに気になるなんて、思っても見なかったのだ。
思えば、キラーとはじめて会ったときから、妙に気になった。コックが出す料理をなんでも初めて食べるかのように喜び、その癖あのマスクを外そうとしない。好みの音楽がよく似通っている。それまで知らなかった船の操り方もどんどん覚えて、キラーはあっという間に船の一員に馴染んでみせた。気がつけばキッドの隣にはキラーがいた。まるで最初からそうであったかのように、だ。
船長室に入ったキッドは、ベッドに横になる。あいつは、特別だ。ポケットの中の鱗を取り出すと、天井に向けて掲げ、ぼんやりと眺めた。すでに失い難い存在だとすら思っている。キラーは、そうではないのだろうか。
*
キッドには故郷に残してきた初恋の娘がいて、その娘のために海賊王という大望を抱いたのだという。なんとまあ愛情深い話だ、とキラーは思う。カイドウに言われたとおり、キラーは人間になってからというもの、本当に笑うことしかできなくなっていた。だから、キッドのこんな話すら笑って聞くことができてしまった。
だが、本心はどうだ。キラーは息を吐いた。自ら人間になる道を選んでおきながら、改めて、自分のキッドへの執心が恐ろしくなる。キラーは内心呆然としながら今日一日を過ごしてしまった。生まれてはじめて買った新聞も、ほとんど頭に入らない。これではキッドの命令を遂行できやしなかった。
笑うことしかできないから、顔を隠すためにフルフェイスマスクをかぶった。キラーはその仮面の上から自分の唇をなぞった。あの龍は、本懐を遂げろと言っていた。そうしなければ、自分は海の泡となって消えてしまうとも。だが、おれの本懐とはなんだ。キッドの隣に立つことであれば、それは叶った。問題はないはずだ。なのにキッドの話を聞いてから、妙に心がざわつく。このままではいけないと、急かされているような気分だ。
「おい、お前キラーだろ」
不意に下から声が聞こえて、キラーはあたりを見回した。だが、この時間、甲板には誰も出ていない。
「こっちだこっち」
海の方を見れば、そこにはかつて同じ海底で暮らしていたロロノア・ゾロが水面から肩まで出してこちらを見上げていた。月明かりを反射して、ゾロの左耳のピアスがきらきらと光った。懐かしい顔にキラーはファ、と声を上げる。
「どうしたんだ、お前」
「カイドウからの伝言だ」
ゾロはすっと船に近付くと、こちらに手を差し出した。気が付かなかったが、彼は大きな鎌を手にしている。まるで死神の鎌のようだ――、と、キラーは船の中で読んだ本の挿絵を思い出した。ゾロはそれをキラーに向けて放り投げる。危ねえ、とキラーは一笑し、だが柄の方をつかんで受け取った。ゾロはこちらを睨めつけるようにして見上げている。
「これであの男――、あの赤い髪の男の頸を斬って、返り血を浴びろ。そうしたらお前は人魚に戻れる」
鎌は想像以上に軽い。これを振るえば、簡単にキッドを殺すことができるだろう。キラーは自分の手の内にあるそれを見つめた。つまりこれは、カイドウの温情なのだろう。同時に、このままでは『本懐』を遂げられない自分への警告でもある。なるほど、とキラーは呟いた。
「さっさとやっちまえよ」
キラーとゾロはさほど仲が良かったわけではない。というより、ゾロは人魚の中でもいっとう協調性がない男で、誰にも懐かずひたすらからだを鍛え、たまに鮫に戦いに挑むような、稀に見る凶暴な人魚だった。しかし同族のよしみか、声には僅かながらの同情が乗っている。
「おれにはわからねェよ、そこまでしてお前があんな奴についていく理由が」
「ファ、」
キラーはゾロに笑いかけた。こればかりは本心からの笑みだった。
「お前もそういう相手に出逢えばわかる」
ゾロは眉を寄せた。まるで意味がわからない、といった様子だ。そんな人間がいることなど、想像もつかないのだろう。
「とにかく、おれは渡したからな。さっさと殺して戻ってこい」
言って、ゾロは身を翻した。彼の尾ひれの緑色の鱗が見えなくなるまで、キラーは海を見つめていた。何年か先、あの男にもきっと運命としか言いようのない出遭いがある、キラーはそう予感していた。彼もカイドウに頼むのだろうか。そして彼はなにを失うのだろうか。自分のように、感情表現なのか、手足か、或いは目や耳なのかもしれなかった。
ゾロが完全に見えなくなると、キラーは鎌の柄を握りしめ、その刃先を見つめた。静かな夜で、凪いだ波の音しか聞こえない。この鋭利な鎌ならば、人間の頸を刈ることもできるだろう。あるいはこの先端で刺し殺すことも可能だ。これからキッドを殺しにいかなければならないというのに、キラーの心は、波と同様に不自然なほど凪いでいた。
「キラー」
今度は背後から名前を呼ばれる。まさかお前からくるとは思わなかった。キラーは海に背を向けキッドの顔を見る。また先程の話が頭をよぎる。キッドの初恋の相手、夢。
「キラー、なんだそのでけェの」
鎌を見たキッドは、開口一番そう言った。
「この前の島で買ったんだ。おれも戦えるようにならないとな」
「鎌、か」
キッドは大きな刃先を見て、顎をさすった。まるでこちらを疑わないキッドに、キラーはいたたまれなくなり、それはまた笑いに変換されて、口から出た。
「お前には似合いかもしれねェな」
「ファ、そうか?」
お前の名前はキラーだろ、とキッドは答える。キラー。人殺し。なるほど、そう言われてみれば確かにこの死神が持つような鎌はキラーにふさわしい武器なのかもしれなかった。もっとも、ゾロがこれを渡してきたときには、使いやすいナイフなどにしてほしいと思ったものだが。
「だが大きくて邪魔じゃねェか、ソレ」
「そうだな、大きいほうが強いとでも思ったのかもしれない」
言ってから、まるでひとごとのようだとキラーは思った。キッドはじっとこちらを見つめている。浜辺でキッドを助けたとき、彼の目の色が知りたいと思った。いまは、それが時折金色に煌めく褐色であることを知っている。なのに、それでも足りないというのだ。まだおれは、『本懐』を遂げていない。そして、それを遂げられる可能性は消えてなくなってしまった。それこそ、海の泡のように、だ。
キラーは鎌の柄を握りしめた。
「なあ、それでおれをやる気なのか、キラー」
しばらく黙っていたキッドは、今日の天気を確かめるかのように、そう尋ねた。心臓が跳ねて、キラーは「ファファ、」と笑い声を上げた。キッドにはなんでもお見通しだ、とキラーは肩をすくめる。
「まさか、そんなわけがないだろう」
キラーは言って、鎌を持ち上げた。キッドが目を見開いている。刃を自分の首にかけた。あと少し引けば太い血管を断ち切ることができる。
おれに、キッドを殺せるわけがない。
「待てテメェ、なんのつもりだ」
「未来の海賊王を殺すくらいなら、おれが死んだほうがましだ」
「ッ、死ぬなら死ぬで少しは説明をしろ! なにがなんだかわからねェだろうが!」
キッドの主張はまったくもって正しかった。確かにキッドからすればキラーの行動は理不尽極まりなく、おまけにこのままではキラーの血で甲板中が汚れるだろう。迷惑千万だった。
だが、自分が元人魚で、お前が探していたという「命の恩人」で、その癖お前にめちゃくちゃな執着を抱いて感情表現を捨ててまで人間になったが、このまま人間として生きるためには本懐とやらを遂げなければいけない――などという話を、キッドが信じるだろうか。不気味に思われて終わりではないか。キラーは思案した。
「あのなキッド」
「待て、いったん鎌をおろせ」
言われてキラーは仕方なく鎌の刃を床に向けた。キッドがあからさまに安堵する。いつもは柄の悪い表情ばかりしているが、こんな顔もできたのか、とキラーは新鮮な気分になった。
「こう言ったらなんだが、おれはお前に会うためにここに来た」
「……
「お前に会えて、お前の隣でひとつき一緒に船に乗れた。満足したんだ」
「だから死ぬって言うのか」
「まァ、そんなところだ」
キッドが目に見えて混乱しているのは、キラーにもわかっていた。だが、これ以上なにを言えばいいのだろう。キラーはファファ、と笑って、それから肩越しに暗い海を見た。
「抽象的すぎる」
キッドは不満げに言った。
「そうだな、だがそうとしか言えないんだ」
人魚であった頃は自在に泳げたが、いまはそれもできなくなっている。また、キッドも「能力」と引き換えに泳げないと言う。
「まあ確かに、鎌で死ぬというのも物騒だな」
死ぬのなら、他にもたくさんの方法があるだろう。キラーはふたたび鎌を掲げ、それを海に捨てようとした。元来、キッドを殺すために渡されたものだ。別に自分が死ぬのに使う必要もない。
「待てキラー、それは……勿体ねェだろ、お前が鎌を気に入ったっていうなら、もっと小さくして……、使いやすい武器にすりゃあいい」
「キッドはそんなこともできるのか」
「あァ、そうだ、だから……、ッ、お前は満足したかもしれねェが、おれは満足してねェんだよ!」
「ファッ」
思ってもみなかったことを言われ、思わず笑ってしまう。キッドは舌打ちをすると、ぐいぐいと近づいてくる。シャツの喉元を掴まれ、引き寄せられる。キラーは鎌を取り落し、先端が甲板に突き刺さる。だがそれを拾う間もなく顔と顔が近づいて、キラーは仮面の下でキッドから目を逸らした。噛み殺せない笑い声が漏れてしまうのを、抑えきれない。カイドウの与えた罰を、はじめて恨めしいと思った。
「キラー」
キッドはキラーの背をを柵に押し付けるようにして、囲い込む。キラーはキッドを押し戻そうとしたが、叶わなかった。
「お前がなんでそう笑ってばっかりなのか、なんにも知らねェのか、ンな仮面被ってるのか、全裸で砂浜に落ちてたのか、おれは訊かなかった……、全部どうでもよかったからだ、お前がいれば、それでよかった」
「待てキッド、落ちる、ファッ、ファファ、」
「だがお前がいなくなるってんなら全部話せ、そうじゃなけりゃ、ここにいやがれ」
ぶち撒けられたことばに、キラーは喉を鳴らした。とんでもないことを言われているのではないか、という自覚すると、みるみるうちに顔が熱くなり、そしてまた笑ってしまう。思わず顔を背けてしまうと、キッドがぐいと正面を向かせてくる。弾みで仮面がずれて、笑みの形になった唇が露わになる。
キッドはそれを見た瞬間、唐突に「正解」をひらめいた気分になって、そのままそこに自分の唇を合わせていた。
「……ッ、……、!」
まるで最初からそうしておくべきであったかのように、キッドとキラーの唇はぴったりとくっついた。抵抗がないことをいいことに、キッドはキラーの唇をべろりと舐める。キラーのからだが小さく跳ねるのすら封じるように、強く抱きしめる。
「……、キッド」
解放されたキラーは、呆然とキッドの名前を呼んだ。胸いっぱいのこの想いはなんだ。これが、――、キラーは口許を抑えて、その場に崩折れた。マスクが落ちて、甲板に転がる。全身が熱く、からだの中に嵐が吹き荒れているかのようだった。
「嫌だったか」
こちらを見下ろすキッドが、そう尋ねてくる。キラーは首を横に振ると、なんとかキッドを見上げた。
「ぎゃく、だ……」
「ハ!」
キッドは高らかに一笑すると、キラーの前にしゃがみ込む。手を伸ばして長い前髪をかきあげてやると、すっかり赤くなったキラーの顔がある。今度こそキラーは笑っておらず、泣きそうに目を見開いていた。
「そういう顔もっと見せろよ、これからずっと」
*
シャボンディ諸島を経由して、キッド海賊団はついにグランドライン後半の新世界まで到達していた。キラーを船に乗せてから、およそ2年が経っている。新世界でもキラーの天候を読み取る力は衰えず、そればかりかからだを鍛え抜き、読み漁った新聞や本のおかげでいまや船の中でいちばん博識だった。また、料理にも目覚めたらしく、しばしば船のコックを手伝いに行くなどしている。キラーは、キッドが思うよりずっと勤勉であった。
物資補給に立ち寄った島に船を留め、キッド海賊団は各々好き勝手に街に降りていた。キッドも船員に見張りを任せキラーと共に街に出ようとしたが、船内にキラーが見当たらない。先に行っちまったのか、と思いながらひとまず部屋にコートを取りに戻ると、なんと探していた人間がそこにいた。
「お前、そのコート本当に気に入ってるよなぁ」
キッドが声をかけると、臙脂色の古びたコートに埋まっている金髪が蠢く。キラーがこうして妙ちきりんな行動に出ることは実は少なくはないが、今日はまた随分と甘えている。
「別に……気に入っているわけじゃない」
くぐもった声が聞こえる。キラーはそう言うが、彼が執着している理由がわからないでもない。その古いコートはあの日、キラーを拾ったときに着せてやったものだ。
キラーはのろのろと起き上がり、肩からコートが落ちないように襟元を握った。
「そのコート、お前にやろうか」
「いらん、おれにもきついし、そもそもこれはキッドのものだから意味があるんだ」
確かめるように二の腕あたりを擦りながら、キラーは言った。
「はー、元人魚ってやつは皆そういうことを真顔で言うものなのか」
「さあな」
キラーは言って、立ち上がった。キッドがキラーの出自を聞いたのも、随分と前の話だった。妙に天候を読み取れるのも、ものを知らなかったのも、全裸で倒れていたのもおかげですっかり納得ができたが、何よりキッドを喜ばせたのは、彼が探していた命の恩人だった、という事実だった。その話を聞いた夜は、キッドはキラーを離さなかったほどだ。
ベッドの上からマスクを拾って装着すると、コートのせいか、なかなかに威厳があるように見える。キッドは面白い気分になって、「今日はお前がそれ着て街行けよ」とからかった。キラーは、「それは船長命令か」と首を傾げる。
「いや、キッドとして命令してるな」
「……それはきかざるを得ないな」
キラーはため息をつくと、コートを羽織り直した。キッドはキラーのマスクの頬に当たる部分に頬ずりしてやった。
「行くぞ、相棒」
「ああ」
キラーがうなずくのを見ると、キッドはさっそく部屋のドアをあけた。