海賊
その日は夕方から夜中まで長い間天候が安定せず、睡眠時間まで削って甲板に出ずっぱりだったナミは少々虫の居所が悪かった。なんとか翌朝たどり着いた島で二日停泊の必要があることを説明しながら、船員たちに小遣いを配り終えると、ため息をついた。
「私は船に残って休むわ」
「じゃあ、私も残ろうかしら。明日一緒に買い物に行きましょ」
ロビンはナミを宥めるように微笑んだ。ロビンが残るのなら船番としては十分か。納得した男連中はそれぞれ紙幣を財布に突っ込んで、さっさと船を降りてしまった。
「ねえゾロ」
ナミは最後に船を降りようとしていた剣士の広い背中に声をかけた。ゾロは振り向いて、ナミを見遣る。
「アンタ、お酒代くらいは自分で稼いできたら?」
ロビンはあら、と頬に手を当てた。どうやら今日のナミは、随分機嫌が良くないらしい。
「あ?」
ゾロは眉を釣り上げ、小さく顎を持ち上げた。まったく品のない仕草だったが、ナミは今更怯えもしない。むしろ憮然として言葉を継ぐ。
「ゲイバーなんかいいんじゃない?」
ゾロは、そしてナミの背後のロビンも、なにも言わずに軽く目を見開いた。もっとも、ナミとしては、本気で言ったつもりはなかった。確かにゾロ、そしてルフィは、自分たち女性陣について、仲間以上の興味がないように見える。たとえばナミの豊満な胸が腕に押し付けられたとしても、ゾロは顔色ひとつ変えないだろう。これがサンジはもちろんウソップなら、照れて「やめろよ」くらいは言ってくれるのだが、ルフィとゾロについては無反応とすら言ってもいい(チョッパーは男以前にトナカイなので、この際置いておこう)。このふたりは、きっとそういう情緒がすこんと抜け落ちているのだ。
だからといってナミはゾロが男に興味があるとは本気で思っていなかったし、いくら金のためとはいえこの男が他人に媚を売る様子など想像もできなかった。したくなかった、と言ってもいい。
「そういう店は、働いてる間に酒は飲めるのか』
ゾロの声はまったく「今日の夕メシはなんだ」と尋ねるときのものと変わらなかった。
「さ、さあ……」
ナミは予想の斜めからの質問に顔を強張らせた。
「行ったことがないからわからないわ」
「それもそうか」
なぜかゾロはにやりと笑った。それは敵を眼前にしたときの好戦的な笑い方とまるで同じで、どう考えても仲間に水商売を勧められた人間のものには見えない。
ロビンは「うまく接客できれば飲めるらしいわよ」と教えるべきか一瞬考えたが、結局口にはしなかった。
え、なに、本当に行くつもりなの。ナミは思い切り困惑したが、同時にこうなると止めても駄目だということもわかっていた。
ひらりと船を降りるゾロを見ながらナミはため息をついた。まあ、ゾロのことだ、まず店まで辿り着けるかもわからないし、首尾よく辿り着けても客相手に愛想を振りまけるかといえば否だ、さっさと出てくるに違いない。万が一店の人間や客が追ってきたとしても、それを打ち払うだけの力もある。心配するほうが馬鹿馬鹿しいだろう。
「ロビン、私寝るわね」
「ええ、お疲れ様」
ナミは大人しく部屋に戻ることにした。この船にいて、小さなことに悩んでいる方が疲れてしまう。ロビンはナミの背中を見送ると、ひとつ伸びをしてナミのかわりに船に植えたみかんの木の様子を見に行くことにした。
翌朝ゾロが帰ってきたとき、彼は両腕に酒樽を抱えていたので、ナミは瞠目した。まさか本当に金を稼いでくるとは思っていなかったのだ。なにをしてきたのか問い詰めるべきか迷っているうちに、ゾロはのしのしとキッチンの方へ行ってしまった。
「これ、俺のだ。しまっといてくれ」
ゾロはキッチンと食料庫の番人たるサンジにそう言った。ダイニングテーブルで買ってきた食料を小分けにしていたサンジはふたつの樽を見て、奇抜なかたちの眉をひそめる。
「なんだこれァ」
「酒だ」
「買ったのか?」
「ひとつは買った。ひとつは貰った」
「テメェ、ナミさんから金をちょろまかしたのか」
「ンなことできるかよ、稼いだんだ」
ゾロは自慢げに胸を張った。豊かな胸筋が張り出されるのを見たサンジは一瞬たじろぎ、それを悟られないよう煙草を咥えたが、自分がしている作業を思い出し、結局火をつけることはできなかった。
「は、テメェみたいな無愛想な藻類がなにをして稼いだってんだ」
「さァな」
ゾロはニヤリと笑った。ほんの少しの違和感はあったが、まァ、力仕事かなにかだろう、とサンジは当たりをつけた。引っ越しを手伝ったとか、材木を運んだとか。それならば、なんとかこの男にもできそうだ。
「というか、自分で適当にしまっておけよ」
サンジが言うと、ゾロはなにも答えずキッチンを出て行った。一応は船の職域を考えてこちらに声をかけたのだろう。そういうところは妙に律儀な男だった。ふと、その広い背中、それから腰に巻かれた緑の腹巻き――こんなものをつける感性が信じられないとは常々思っているが――に、紙が一枚挟まっているのが目に入った。そしてそれが、この世界で流通している紙幣であることも、すぐに理解できた。
なにをしてきた、と声をかけるべきだったのかもしれない。いや、きっとたまたま、なにかの弾みでそうなっただけに違いない。サンジはかぶりを振って、切り分けた肉をパッキングする作業に戻った。
それからというものの、島に停泊するとほとんど毎回ゾロが酒樽をキッチンに持ってくるようになった。ついにサンジは「わざわざ声を掛けなくていい」と話をして、ゾロも「そりゃ楽でいい」と肩をすくめたのだった。
とはいえ、なんだかんだ、サンジも酒樽のラベルを都度確認している。最初の樽はシャンパンだった。バラティエでも出していた、庶民的な価格の飲みやすい酒だ。その後、酒の種類はくるくると変わった。ラム、ワイン、純米酒、ブランデーにウイスキー。節操のなさには呆れたが、それ以上に問題なのは、そのひと樽の値段が徐々に上がっていることだった。
毎度酒代はナミにもらうでもなく、自分で稼いでいるという。そんなに割のいい仕事があるのなら、俺も……いや、あの野郎と並んで働くなんて冗談じゃねェな。サンジはため息をついた。大量に買ってきた小麦粉の袋を積み上げて、これでパンやピザを焼くのだ。具は何にしようか……などと考えていると、不意に倉庫に入ってきたのはゾロだった。案の定、両脇に樽を抱えている。
「ンだ、お前いたのか」
「悪ィかよ」
ゾロは返事をしなかった。倉庫の隅に樽を降ろして、ふうと息を吐く。サンジはなんとはなしにゾロの後ろから樽のラベルを確認する。銘柄は知らないものだったが、ロゼワインらしい。
「よくひとりで飲みきれるよなァ」
呆れ半分で呟くと、ゾロが振り向く。
「飲みてェならいいぞ」
なんとゾロはそう答えた。あの酒と刀にしか興味のない男が自分の稼いだ金で得た酒を譲るのか、と驚いたが、これはゾロの好みではないのかもしれない。酒ならなんでもガブガブ飲む男だが、いっとう好いているのが米で作った酒であることは周知の事実だ。
「や、ロゼならナミさんやロビンちゃんが好きだからな。カクテルでも作ろうかと思ったんだが」
「好きにしろ」
そう言われれば当然好きにする。あとで文句を言っても戻しやしねェぞ。サンジは倉庫を出ていくゾロを見送りながら、さてロゼワインに合わせるにはなにがいいかと今回買った食料を思い浮かべながら口元を緩めた。
島を出た直後はバタついていた船内も、今は落ち着いている。サンジは昨日のうちに凍らせておいたロゼワインを砕き、いくつかの果汁と混ぜて冷たいカクテルを作った。飲み口にはナミからいくつか受け取ってあるみかんをスライスしてあしらってある。サンジはゾロ、そしてナミほどは酒を嗜まないが、味見をした限り例のワインは確かに豊かな香りとすっきりした飲みやすい味で、なるほど高級品は違うと思ったものだ。そのまま出してもよかったが、少し手心を加えたくなるのがコックの性だ。グラスをトレイに乗せると、甲板でお喋りに興じているふたりのほうに近づいた。
「ナミさん、ロビンちゃん、よかったらどうぞ」
「おいしそうね、ありがとうサンジくん」
「あら、ありがとう」
ふたりは優雅にワイングラスを受け取って、早速口に含んだ。ふたりの顔が綻ぶのを見て、サンジの顔もゆるゆるに緩む。
「これ、ロゼワインを凍らせたの?」
「そう、ほら、ゾロが昨日樽にふたつも持って帰ってきちまって」
言うとナミが大きな目をさらに見開き、ワイングラスから唇を離した。ゾロの酒は飲みたくないということか、とサンジは思ったが、その理由はわからない。
「アイツ、最近無駄にいい酒を持って帰って来やがるんですよ、ナミさん、アイツに小遣いを多めに渡してるわけ……ではないですよね」
ナミの表情を見て、サンジは結局途中で言葉を収めた。よほどゾロは仕事を探すのがうまいのだろうかと思ったが、そんなやつなら海賊狩りなんて物騒な肩書を持つ羽目にはなっていないだろう。
ロビンはふと陽のあたる甲板に目をやる。いつも通り、そこには緑の髪の男が刀を三振り抱えて眠っている。まるで呑気な光景だった。
「ナミさん、なにか気になることでも?」
サンジが問いかけると、ナミは水滴がびっしりとついたワイングラスから視線を上げる。上目遣いが可愛い。サンジは素直にそう思った。
「……ルフィには内緒にしてくれる?」
「それは、」
内容による、とサンジは思う。船長がルフィである以上、自分は、いやゾロやナミも、船員全員が彼をリーダーとして仰がなければならない。いくらナミの頼みでも、そこは曲げるべきでないだろう。口ごもったサンジに、黙っていたロビンが肩をすくめる。
「少なくとも私も知ってるわ。船長さんは……そうね、」
ロビンは甲板の反対側でウソップと釣りに興じているルフィのほうに視線を向けた。
「もしかしたら気がついているのかも。いないのかもしれないけれど」
「うーん、でも……」
ナミはため息をついた。それからぐるりと周囲を見回す。平和な光景だった。実際、あのことでなにか問題が起きているわけではない。ナミが後悔しているだけで、当の本人も、あっけらかんと昼寝をしているくらいだ。
「わかった、言うわ」
決意したような瞳に、サンジは姿勢を正した。ナミはワイングラスに口をつけて、一気に飲み干す。カクテルの冷たさに顔をしかめて、それから息を吐いた。
「前にね、本当に――本気じゃなかったんだけど。ゾロに『酒代くらい自分で稼いできなさいよ』って言ったの」
サンジは「その程度のこと、」と言おうとしたが、ナミが小さくかぶりを振ってそれを遮る。
「それで、言っちゃったの。『ゲイバーなんてどう?』って」
「げ、」
サンジは思わず三度も瞬いてしまった。そういう嗜好が世にあることは理解している。だが、純然たる女好き、ヘテロのサンジには嗜好自体は理解できていない。
だが、ゾロが――とんでもなく悔しいし、本人の前では死んでも言うまいが――男として、いや雄として優れた生き物であることは事実だった。そしてそういう男こそが、そういう嗜好を持つ男に求められるであろうことは理解できる。思えばゾロに出会ったときにも、舎弟のようなやつらを引き連れていたっけ。
「アイツ、……それでマジで行きやがったんですか」
「そう。でも、ゾロなら気に食わなければ我慢なんかしないで出てくるだろうし、心配はしてなかったの。なんならすぐに帰ってくると思ってたわ」
「まァ、そうですよねェ」
ロビンも横でうなずく。ゲイバーという場所がそういう嗜好の男が酒を飲みに集まる店だとして、ゾロがそんなところで長く働けるとはとても思えない。愛想のない男だし、不躾な視線を向けられれば苛立って、刀を抜くことすら想像ができた。だが、実際にはそうはならなかったのだろう。
「初回から随分とチップを荒稼ぎしたみたいよ」
ロビンは微笑んだ。サンジは、いつかゾロの腹巻きに挟まっていた紙幣を思い出した。もしかしてあのときか。確かに紙幣を挟むのにはお誂え向きの場所かもしれないが、サンジとしてはどうせ挟むのならお姉さまの谷間に挟みたい。
「それでも最初は店員以上のことはしてなかったみたいだけど……最近はどうなのかしらね」
続くロビンの言葉に、サンジは狼狽えた。
「どう、って……いや、まさか、ロビンちゃんはアイツがンなことすると思う、のか?」
「私もゾロがゲイバーで働くとは思ってなかったのよ」
ナミがそう応じて、反論できなかった。だいたいあの男は、妙なところでこちらの予想を超える言動をしでかすのだ。
「あれはほぼ確実にやってるわよ」
ナミが不満げに言う。なにを、とは問わなかった。サンジだって薄々妙だとは思っていた。その予感を否定したかったから、知らないふりをした。そう言い切れるのはなにかを見たのだろうか。
ほんとうに、最初は冗談のつもりだったのよ、とナミは柵に頬杖をつく。自らを彼女のしもべと言って憚らない料理人は、彼女から空になったグラスを受け取り、でしょうね、と肯いた。
「でも、私が悪かったのかもしれないわね」
ナミはそう呟いた。そんなことありませんよ、アイツが、あのクソマリモがなにもかも悪いんです。サンジはそう言ってナミを慰めるべきか、それとも別の言葉をかけるべきか悩み、結局後者を取った。おそらくナミは、否定してほしくていまの言葉を口にしたわけではないことを、辛うじて察することはできたからだ。
「でもまァ、俺たちに今のところ実害はないし、放っておきゃァいいんですよ」
「……いつか実害が出なきゃいいけど……」
ロビンがたおやかにそう言って、サンジはついに口をつぐんだ。あのマリモ野郎、麗しきナミさんやロビンちゃんの心労になってくれやがって。
「……実害が出たら、おれがあいつをオロシてやります」
「そうしてくれると助かるわ」
サンジはこう言ってくれるけれど、それでも、私が迂闊なことを言ったせいでこうなってしまったのは事実なのよね。ナミは視線をゾロに移す。ゾロの横にチョッパーがやってきて、ころんと横になった。それだけなら十二分に微笑ましい光景に見える。さっきまでいた島で、ゾロがなにをしてきたのかさえ考えなければ。
「おーい、サンジ! デカいのが釣れたぞー!」
向こうでルフィが身長ほどもある大きな魚を掲げている。サンジは顔を上げて、頭をかいた。
「いま行くから待ってろ!」
こちらの気も知らないで、呑気な船長だ。サンジはロビンからもグラスを受け取りトレイに戻すと、包丁を取りにキッチンへと戻った。
「おいゾロ、昼メシだってよ」
ウソップは昼を迎えて気温も上がりきった甲板でぐっすり眠っているゾロに一応声を掛けた。船に乗り込んだ当初こそ食事の時間には無理矢理にでもゾロを起こしていた我らが料理人も、最近は何度か声をかけてもだめなら諦めて他のメンバーだけで食べ始めることにしてしまっている。まったく合理的な判断だと思う。ウソップが声をかけたのもさっき新しく作った武器を皆が集まるラウンジで見せびらかすために取りに来たついでだ。正直この程度でゾロが目覚めるとは思わなかったが、予想に反してゾロのまぶたがそろりと開いた。
「んあ、夜か」
「ちげえよ! 明るいだろ! おれはもう行くぞ」
「おー」
大口を開いてあくびをするゾロは、剣豪というよりは大型の動物に似ている。ばりばりと頭をかき、のそりとからだを持ち上げる。傍らに置いた刀を腰に差すと、ウソップの後ろについて歩いてくる。
ウソップにとって、ゾロは僅か年上、そしてクルーとしても先輩に当たるが、戦闘以外、普段の生活においては面倒を見る側になれると思っている。戦いの上では何度も守られてはいるが、衣食住に頓着しないこの男は、時折こちらが手を引かなければ、すべてを疎かにするところがある。
「今日のメシはさっきルフィが釣った魚なんだけどな、とんでもねェ高級魚らしいんだよ。新鮮なのを買ったらいくらになるかってサンジがはしゃいでたぜ」
「へェ、そりゃ楽しみだ」
ゾロはてらいなく笑った。珍しい表情に、ウソップは目を見開く。
「嬉しそうだな」
「そりゃうめェモン食うのは楽しみだろ」
「そうだけどよ、」
お前は食べられればなんでもいいタイプだと思ってたよ、とウソップはからかって、ラウンジの扉を開けた。すでに食事を始めていたクルーがこちらを見る。ゾロが来たのが意外だったのだろう、チョッパーが目を見開いた。
「ンだ、来たのか」
サンジが不機嫌そうに言って小鍋を火にかけソースを温め直しはじめる。ウソップとゾロは扉にいちばん近い椅子に腰掛けると、皿を前に手を合わせた。
「おー、本当にうまそうだな、いただきまーす」
目の前に皿がないゾロは待ちぼうけすることになり、テーブルに頬杖をついた。誰もゾロに行儀の悪さを注意せず、ゾロはけだるげに目の前のウソップを見つめている。
「ゾロがちゃんと起きるなんて珍しいな! いつもは過眠症かってくらいよく寝るのにな」
チョッパーに言われて、ゾロは顔をしかめる。彼が船医として船に乗ってきたころ、昼間からあまりによく寝るので睡眠障害を疑われ、あれこれ質問されたことを思い出したのだ。結局夜の睡眠時間が短過ぎるのだという結論になり、釈放されたのだが。
「別にいつも寝てるわけじゃねェ」
「そうだけどさ。あ、もしかして昨日の夜はちゃんと寝たのか?」
「あー、島で宿取ったからな。いつもより寝たかもしれねェ」
ゾロがにやりと笑う。チョッパーは明るく「よかったな!」と応じた。ウソップは魚を咀嚼しながら、ちらりとゾロを見る。ゾロらしくもない、思わせぶりな言い方のように思えた。
「オラ、メシだ」
サンジが遮るように皿を置く。白身魚の上に香草で作ったと思わしき鮮やかな緑色のソースがかかっている。つけあわせの野菜とコンソメのスープ、それから丸いパンが五個。ゾロは早速手を合わせて「いただきます」と言った。
「今日のゾロは機嫌がいいなァ」
チョッパーはまた屈託なく笑う。ウソップも、さっきからそう思っていたところだった。いつもより雰囲気がやや柔らかい気がする。女性陣やチョッパーがいなければ、「島で女と寝たのか」と尋ねていたところだった。もっとも、それも怪しいが。
勿体ねェよなァ、と思う。愛想のなさを差っ引いても、ゾロは十二分に情に篤い。くっきりとした二重に切れ長の目、真っ直ぐな背筋と日に灼けた肌の下にみっちりと詰まった筋肉、けだるげな低い声。やや抜けているところだって、女からすれば母性本能を擽る魅力になり得る。そういう男がまるで女に興味を抱かないのは、本当に勿体ない。いつかゾロはサンジが大量に持ち込んだエロ本を片目で見遣って馬鹿にしたように笑い、それでまたサンジと喧嘩になったのも記憶に新しい。
女に興味がないのなら、男なのか。ウソップはその質問をずっと腹の中に抱えている。もしかしたら、出会った頃からそれを予感していたように思う。そう――本当に問うべきは、「島で男と寝たのか」なのかもしらなかった。
問えば恐らくゾロは包み隠さず答えるだろう。だが、それはこの船の均衡を崩さないとも言えない質問だった。だからウソップは黙ることしかできなかった。目の前で唇を汚したソースを舐めとるゾロの舌は赤く、妙に目についた。
五日ぶりに島に上陸することになった。ログが溜まるのには、二日と半かかるらしい。ナミは三日分の小遣いや経費を各クルーに手渡した。一日目の船番はルフィが、二日目はゾロが担当することになり、各々地上に降りていく。
ひとりになったルフィはサンジが作り置いた食事を今すぐ食べるべきかもう少し我慢するべきか悩んでいるうちに眠くなってしまい、結局甲板で昼寝をすることにした。
春島の気候も相まって、のんびりとした一日だった。午後に一度食料の買い出しに出ていたサンジが荷物を置きに戻り、また町へ出ていった。夕方にはチョッパーが、夜にはナミとロビンが帰ってきた。三人は小遣いを宿代ではなく薬や服や本に費やすことにしたらしく、ここで寝るのだと言う。海軍だの他の海賊だのと戦ってバタバタすることも多いが、ルフィはこういう一日だって気に入っている。
帰ってこないゾロやサンジやウソップは、島の宿に泊まるのだろう。ことサンジは女を買いに出ることも多い。
ルフィには、あまり女をどうこうしたいという気持ちはなかった。ナミやロビンのことは守るべき大事な仲間だと思っているが、それはサンジやウソップやチョッパーも同じだ。ゾロは……元来その強さと信念を買って仲間に入れた。一緒に仲間を守ってくれるものだと思っている。
翌日の始まりもごく平和なものだった。朝食はロビンが簡単にパンをあたため卵料理を作ってくれた。ルフィからしてみれば量が足りなかったが、今日は船番を降りて町に出られる日だ。小遣いを使って買い食いをするつもりなので問題ない。サンジの話では、ここいらでしか採れない海王類の肉がおいしいらしい。
「わたしたちは船にいるわ、買ってきた本も読みたいし」
ロビンはそう言って水を一口飲んだ。ナミは頷いて、「新しい服も着てみたいしね」と微笑んだ。特にナミは、おしゃれな服を探すのが好きだ。きっと今回も色々と買い込んでいるのだろう。
「ファッションショーだな!」
チョッパーがそう言って、ロビンが「そうね」と微笑む。
「チョッパーは今日どうするんだ?」
「ええっと……昨日食べた果物が美味しかったからもう一回町に行こうかな」
「へェ、俺もゾロが帰ってきたら町に出るからよ、一緒に行こうぜ」
「おう!」
こうなったら、あとはゾロを待つばかりだ。また道に迷っていなければいいが、とルフィは甲板から島の方を見遣った。彼も町に出たところでやることと言えば刀を研ぐか酒場に行くかであろうから、すぐに戻ってくるはずなのだ。ただ、ゾロはどうにも方向音痴だった。誰が道順を教えても、まるで逆の方向に突き進んでいくのが常だった。
ナミやロビンは女部屋に引っ込み、チョッパーもゾロを待つ間読書をすると言うので、ルフィは一人だった。甲板に座り、柵の間から脚を出してぶらぶらさせながら、暖かな日の光を浴びていると、よく寝たはずなのに眠くなってくる。ゾロが帰ってくるまで起きていないと、と思うが、どうにもまぶたが重い。ゾロのやつ、はやく帰ってこねェかな、緩慢に考えながら、ルフィは睡魔に逆らうのを辞めようとした、瞬間だった。
「ン……」
感じ慣れた、戦闘の空気がそろりと腕を這う。だがその殺意はこちらを向いていない。ぴょんと跳ねながら立ち上がって見ると、船の下にゾロと――見知らぬ男がひとり。男はゾロの腕を掴み、なにごとかを喚いているようだった。あいつ、ゾロの殺意に気付いていないのか。なんにせよその程度の人間、ゾロの敵じゃねェな。ルフィはそれを見守ることにした。
「――行かないでくれ、頼む」
「しつけェ、何度も言ったがおれは」
「海賊なんだろう、それでも構わない、海軍が来ようとお前を守ってみせる、頼むから」
「だから……斬られてェのかテメェは!」
なんだ、ゾロのやつ、知らない男に縋られてやがる。ルフィは見たことのない光景に、柵から身を乗り出した。ゾロは正体を隠すために緑の髪をキャップで覆い、刀もひと振りしか差していない。あの男はあれが賞金首の「海賊狩りのゾロ」だと気付いているのだろうか。
とうとうゾロは刀の柄に手を掛けようとした、瞬間だった。男はゾロのシャツの襟元を掴んだ。そして背を伸ばし、ゾロの顔に顔を近づける。ルフィはいよいよ目を丸くする。しかしゾロはすぐに男を突き飛ばした。男は尻餅をつき、それでも諦めないようだ。
「なんでだよ! 昨日はあんなに」
「黙れ!」
ゾロが吠える。今度こそ刀を抜く。ようやく男はゾロの強い殺気に気が付いたのか、かぶりを振った。
「今すぐ帰れ、俺の本当の名を教えてやろうか」
ゾロの低い声に、男はぶるぶると震えている。可哀想に、あれでは立ち上がるのも難しいだろう。ゾロも本気で斬ろうとは思っていないのだろうが、相手が動けないものだから、刀を抜いたままねめつけていることしかできていない。ルフィは船から飛び降りた。ゾロの元に駆け寄り、途中でまだるっこしくなり腕を伸ばす。両手でゾロの上腕を掴み、そのままゴムの力でゾロの背中に飛びついた。ルフィが加減したのもあって、鍛え抜かれた体幹で、ゾロは微動だにせずルフィを受け止める。そのままルフィはゾロの肩に腕を置き、腰に脚を絡ませた。
「……ルフィ」
ゾロがこちらを見る。男は悲鳴を上げた。ゾロはわかっていたはずだ。ルフィがずっと自分を見ていたこと、そして船を降りて駆けてきたこと。だから驚かないし、当然のように払い除けもせず、こうしてルフィを背負ったままでいる。
「なーおっさん、お前ゾロと何したんだ?」
「あ……ああ……」
ルフィの声に屈託はない。男には、無邪気な少年のものにしか聞こえないだろう。だからこそ恐ろしい。男はろくに質問に答えられない様子だった。ルフィ、とゾロがたしなめるような声を出す。僅か、焦っている。ルフィはそれを正確に感じ取った。どうやらゾロはそれを訊いてほしくないらしい。
「まァいいや」
だからルフィはさっぱりとそう言った。
「ゾロはさァ、今日船番なんだよ、勝手にお前のところに行かせられねェの」
「は、……はい」
「だからさ、わかったらさっさと帰れよ」
男はがくがくと頷き、ほとんど四つん這いで去っていった。もがく姿は虫にも似ていて、いっそ哀れだった。ゾロはため息をつき、ルフィを背負ったままきびすを返す。
「ゾロ」
「なんだ」
「おれはお前が島で何してても構わねェけどよ」
ルフィはゾロの左耳のピアスを、頭の後ろから見る。出会った頃からみっつ、いつもここで揺れているものだ。洒落っ気などひとかけらもないゾロがこれをいつ、どうして、なんのためにつけるようになったのか、ルフィは知らない。
「…………わかってるよな?」
ゾロが喉を鳴らす。一度ゆっくりと呼吸をして、それから返事した。
「あァ、わかってるよ」
ルフィは満足げに笑ってゾロにしがみつく脚に力を込める。宿で風呂に入ったのだろう、ゾロの短い髪からは石鹸の匂いがした。知らない匂いだった。だが、離すものかと思う。離されるものかとも思う。
ナミとロビンが甲板に出てきてこちらを見ている。ルフィは呆れたような顔のナミと微笑むロビンに大きく手を振った。
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