シルヴァンが10歳に戻る話

ディミトリが担任の部屋に駆け込んできたのは、もうだいぶ夜遅くのことだった。
「先生、大変だ!」
明日の授業の準備のために教本を読んでいたベレスは、彼のあまりの剣幕に思わず立ち上がる。そして、彼が小脇に子どもを抱えているのを見た。修道院では恵まれない子どもの保護活動もしているが、それにしては、見かけたことのない子どもだ。だというのに、なぜかよく見知っている気がした。特にこの跳ねた赤い髪、薄い茶色の瞳、今日も昼間、彼に槍の使い方を教えたばかりだ――。
「突然シルヴァンが小さくなったんだが……」
ディミトリの声は呆然としていた。そうだ、シルヴァン。シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。ベレスが担任を受け持っている学級の男子生徒、この子どもは彼にそっくりだった。そしてディミトリの言を信じるのなら、この子どもはシルヴァン本人なのだと言う。だが、そんなことがあり得るのだろうか。まさかシルヴァンの隠し子ーーは、さすがにないか。年齢的に無理がある。
ディミトリが焦ったような表情をしている一方で、子どもの方はといえば、あまり動揺はしていないようだ。そのうちディミトリは「すまない」と子どもに告げると、彼を下ろした。こうして見ると、身長もベレスの胸元程度しかない。彼が着ている白いシャツと黒いズボンは質が良さそうで、貴族の子弟らしさがあった。子どもはぐるりとあたりを見回した。本当に、妙に落ち着いている。
「君の名前は?」
「シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエです。えーと、十歳です」
ベレスの質問にそう答えた子どもは、それから大きなあくびをした。
「十歳?」
ベレスが尋ね返すと、シルヴァンは小首を傾げた。
「年齢、訊きたかったのかなと思ったんだけど……」
シルヴァンと名乗る子どもは少し不安げな声を出した。
「いや、確かに訊きたかった。ありがとう」
この察しのよさは、シルヴァン本人だろう。ベレスはそう確信せざるを得なかった。
「ディミトリ、こうなってしまったときのことを教えてくれる?」
「ああ。……俺はさっきまで門の前にいたんだが」
いわく、ディミトリは夜遊びの激しい歳上の幼馴染を咎めるために、その日も大修道院の玄関口たる正門のまえで彼を待っていた。そして機嫌がよさそうに帰ってきた彼を捕まえ、説教した。二人の間にはよくあることだった。シルヴァンは決まりが悪そうに頷いていたが、反省の色が見えなかった。いっそなにか罰を与えたほうがーーディミトリがそう思った瞬間、目の前にいたはずのシルヴァンの姿が消えた。逃げたのか、いや逃げる素振りもなかったはずだが。ディミトリが辺りをぐるりと見回しながらシルヴァンの名前をよぶと、すぐ足元から「ここです」と返事があった。
そうして、シルヴァンは子どもになってしまった。ディミトリを見て「どなたですか」と尋ねるものだから、なにかの魔法か、薬か、なんにせよとんでもないことになってしまったことを実感する。ディミトリはこれはひとりで解決できることではないと判断した。待って、なに、ここはどこ、と声を上げるシルヴァンを抱え、最低限の回答だけしながらベレスのもとに走ってきたのだ。
ディミトリが話しているあいだにシルヴァンがあくびをする。どうやら子どもは寝る時間のようだ。
「ひとまず、一晩自分が預かろう」
ベレスは目を擦っているシルヴァンの手を取り引き寄せる。シルヴァンはベレスの顔を見上げて、へらりと笑う。
「殿下は大人になってるけど、こんな美人と寝られるなんていい夢ですねえ」
ベレスはディミトリと思わず目を合わせてしまった。なるほど、シルヴァンは今の状況を夢だと思っているから妙に落ち着いているらしい。シルヴァンはベレスに引かれるまま寝台に登る。
「先生、もし朝になってシルヴァンが戻っていたらーー」
「そのときはそのときだ。とにかく、もう遅いからディミトリも寝たほうがいい」
「そうだな。……シルヴァンを頼んだ、先生」
ディミトリが出ていく頃には、シルヴァンはもう殆ど眠りに落ちているようだった。ちょうど半分の年齢になってしまった教え子の寝顔は、年相応にあどけない。それにしても、この年齢から女好きだったとは思わなかった。いや、意外とも思わないが。
シルヴァンの頬には綿紗が宛てがわれている。えてして子どもというものは怪我が多いものだが、シルヴァンもそういう子どもだったのだろうか。
とにかく、そろそろ自分も寝たほうがいいだろう。明日の授業に遅れては元も子もない。ベレスは自らも寝台に上がった。隣で眠るシルヴァンの体温は高い。ガルグ=マクは高所にあるとはいえ季節は夏だ。少し暑いなーー、と思ったのは最初のうちだけで、すぐに眠りに落ちてしまった。


   *


シルヴァンは昨晩こそ妙に落ち着いているように見えたが、朝起きてすぐに声をかけると、「殿下が大きくなってたから夢だと思ったのに」と困惑を隠しきれていない様子だった。とにかく話をしたほうがいいと判断して、ベレスは彼を食堂につれていくことにした。
テーブルにシルヴァンを座らせ、ベレスはふたりぶんのサンドイッチを受け取りひとつを彼に渡す。朝早いこともあって、食堂内は閑散としていた。都合がいい。
「ここはガルグ=マクの食堂だ」
きょろきょろと辺りを見回しているシルヴァンに、ベレスは説明をする。そうだ、結局昨日は彼にろくに状況を伝えられないまま眠ってしまったのだ。
「大修道院ですか……」
「そう。それで、君はここに併設されている士官学校の生徒で二十歳だった」
「二十歳」
シルヴァンはそう呟いた。十歳の子どもが二十歳の自分を想像するのは難しいことだろう。ベレスも自分の年齢を知らないが、それくらいは想像がつく。サンドイッチを食べるように促すと、シルヴァンはおずおずとそれに手を伸ばした。
「自分はこの学校で教師をしていて、君の担任だ」
「あなたが? 先生?」
「そう」
シルヴァンは首を傾げて、サンドイッチを口に入れる。二十歳の彼もそう好き嫌いが多い人物ではなかったが、それは十歳でも変わらないらしい。ひとくち食べて咀嚼をして、少し目を見張っている。常日頃「修道院の料理はおいしい」と言っている彼なので、おそらく同じ感想を持っているに違いない。
「シルヴァンは昨日ディミトリに会ったね」
「はい」
シルヴァンが口元を抑えて返事をし、頷いた。声変わりをする前のシルヴァンの声など当然初めて聞いたので、こればかりはどうもなれない。
「今この学校にはフェリクスやイングリットもいる」
「ふたりも大人になってるんですか」
十七、八歳の生徒たちのことを大人だと思ったことはなかったが、この子どもにとって、それくらいの相手は「大人」になるのだろう。ベレスは頷いた。
「そうだよ。だが君たちは今でも仲がいい」
「そう……ですか」
少年の表情がわずかに綻ぶのがわかる。知っている名前が出て、安心したようだ。
二十歳のシルヴァンは面倒見がよく男女問わず相手に気を遣うことができる一方で、無類の女好きで軽薄な態度ばかり取る問題児でもあった。今おとなしいのは慣れない環境に緊張しているからだろうが、年齢が半分でもその気質は殆ど同じとみて間違いなさそうだ。
「大修道院の士官学校の話は聞いたことがあります」
シルヴァンが口を開く。
「フェリクスの兄ーーグレンが、今度通うことになるって。そこに俺たちが通ってる、ってことですよね」
グレンのことはベレスも知っている。フェリクスの兄で、イングリットの許嫁。とすれば、ディミトリやシルヴァンとも親しかったに違いない。だが、彼はとうに故人だと聞いている。
「そう。ああ、グレンはもう卒業しているよ」
ベレスは結局そう言って、グレンの死には触れないことにした。
「そうですよね、十年……経ったってことですもんね」
シルヴァンはサンドイッチをまたかじった。十歳にしては状況の飲み込みがはやい。こんなことになって泣くことも不安を口にすることもなく、淡々と事実を受け入れているように見える。もしかしたら二十歳の彼より落ち着いているんじゃないだろうか。そういえば、十歳のシルヴァンがこの時代に来ているということは、二十歳のシルヴァンは十年前に行ってしまっていたりしてーー。そうなってしまったシルヴァンはどうしているのだろう。
今はそんなことを考えても仕方がない。ベレスは気を取り直す。
「あとでフェリクスやイングリットにも会えるよ。なにか質問は?」
「……ええと、先生」
シルヴァンは少しだけ首を傾げた。
「士官学校は、理学とか、歴史の勉強はできるんですか」
「理学はできる。歴史は――書庫に本があるから自習ってことになるかな。興味があるの?」
「いえ、……訊いた、だけです。すみません」
シルヴァンは目を伏せてしまう。シルヴァンは自領で槍と馬術に力を入れて訓練してきたと訊いて、今はそれを伸ばす方向に指導していた。だがシルヴァンの希望は――、
「おはよう、先生」
不意に声を掛けられて、ベレスとシルヴァンは顔を上げた。ディミトリが同じくサンドイッチを片手に立っている。ちょうど食べ終わったベレスは、「おはよう」と返した。
「早いね、ディミトリ」
「ああ、早くに目が覚めてしまって。おはよう、シルヴァン」
「おはようございます、殿下」
シルヴァンも挨拶を返す。
「殿下は朝食、それで足りるんですか?」
「ああ、朝はあまり食欲がなくてな」
昨日食べ過ぎたかもしれん、とディミトリは肩をすくめた。ベレスからしてみればそれも事実か怪しいが、あえて触れるのは辞めておく。
「それにしても、殿下がこんなにいい男に育つとは感慨深いですね」
「十年も経てばこうなるさ。お前も……いい、男だぞ」
「そういうところで照れるところは変わってないんですね」
子どもだから遠慮がないのか、そもそも二十歳でもシルヴァンは同じようにからかっていたような気がするが、なんにせよ生意気な発言だ。ベレスはおかしく思うが、ディミトリは少し不本意そうな顔をしている。
そうこうしているうちに、ベレスとシルヴァンはサンドイッチをすっかり食べ終わってしまった。もう少しシルヴァンとディミトリに会話させておいてもいいが、今日の授業の準備がしたい。
「ディミトリ、自分は部屋に戻るけどーー、授業の前に皆にシルヴァンのことを話しておいてくれないか」
「わかった」
「頼んだよ、それじゃあまた教室で」
ベレスは頷いて椅子から立ち上がる。シルヴァンもそれに従って立ち上がり、ディミトリに会釈をするとベレスに続いた。ディミトリはシルヴァンの小さな背中を眺めながら、息を吐いた。
十年前。あの頃の自分はどうだっただろう。今より髪を伸ばし、女に間違えられることもしばしばだった。優しい父と継母、家臣たちに囲まれ、日々は穏やかだった。時折顔を合わせる幼なじみたちと兄弟のように遊び回り、鍛錬をし、それから菓子を食べて笑い合っていた。
今とは何もかもが違った。
味のしないサンドイッチを飲み込み、ディミトリはかぶりを振る。いや、今のシルヴァンに、彼にとっての未来の話をするわけにはいかない。あの穏やかな日々の延長に今があり、ディミトリとフェリクスとイングリット、それにシルヴァンはあの頃のまま仲がいい。そういう姿を見せたほうがいいに決まっている。
先生が来る前に、フェリクスやイングリットと話をしておかなければ。ディミトリは急いでサンドイッチを口に入れた。


   *


朝早くからイングリットを連れて訓練場に現れたディミトリに「話がある」と言われたフェリクスは、不承不承剣を振る手を止めた。後ろに唇を引き結んだイングリットがいるので、断るにはどうにも分が悪かったのだ。
「なんだ、話とは」
「昨日の夜のことなんだが」
ディミトリの言うことに、フェリクスはそんなことがあるか、と声を上げた。人間を十年前に戻してしまう魔法も薬も、聞いたことなどない。だが、イングリットの「殿下がそんな冗談を言うはずがないでしょう」という言葉には同意せざるを得ず、黙ることしかできなかった。
「ということはシルヴァンの中では私達は七、八歳ってことですよね」
イングリットはそう言って、眉を寄せた。同じくフェリクスも眉を寄せるので、ディミトリはなんだかんだと自分たちは幼馴染であることを実感してしまう。
「その頃の自分のことなぞろくに覚えていないぞ……」
ディミトリは「少なくともフェリクスはもう少し素直だっただろう」と言い、イングリットはそれに同調した。フェリクスは唇を歪めた。自覚はあるが、おいそれと認めたくはない。
「それで、だ。今のシルヴァンに、たとえばダスカーのことなどを伝えるわけにはいかないだろう。あらかじめ口裏くらいは合わせておこうと思ったんだが」
ディミトリの提案に、イングリットは頷いた。フェリクスは頷かなかったが、反論もしなかった。
「では、グレンは生きていて、騎士になっていると言いますか?」
イングリットの提案にフェリクスは舌打ちをしたくなったが、実際グレンは年少のうちに騎士になった。それが妥当な作り話と言えるだろう。
「陛下も生きていて、いま王国は平和に統治されているということか」
「……そうだな……シルヴァンが訊かなければ無理に話す必要はないと思うが」
考えれば考えるほど起こった出来事に対する傷を自覚せざるを得ず、三人はため息をつくことしかできなかった。
「その辺りは、メルセデスたちにも言っておいたほうがいいのでは?」
イングリットは気を取り直してできるだけ明るい声を出した。ディミトリも安堵したような表情になり、「そうだな、あとで教室で皆に話をしよう」と同意する。
「それから、十歳のシルヴァンに今のフェリクスの殿下への態度を見せるのは良くないと思うの」
フェリクスは一瞬ぽかんと口を開け、それから一気に不機嫌な顔になる。眉間に深い皺を寄せ、目尻は釣り上がる一方で、口角が下がった。確かに十年前は幼馴染四人、皆で野を駆け回っていたものだ。フェリクスはディミトリのことを「猪」などと呼んではいなかったし、なんならなんだってディミトリと同じにしたいと強請ったりもしていた。
「つまり俺に仲良しごっこでもしろというのか」
「そうよ」
「俺は構わないぞ」
イングリットが頷き、ディミトリが当然のように返事をした。ディミトリはフェリクスとは反対にむしろ微笑んでいるものだから、フェリクスはとうとう舌打ちを返す。
「殿下のこと、殿下って呼んでみなさいよ」
「ディミトリでもいいぞ」
「ほら、練習しましょう。シルヴァンの前でいきなり呼び方を変えるのは難しいわよ」
ふたりの声は弾んでいるようにすら思える。フェリクスは更に眉間の皺を深くし、かなりの長考のすえ、「ディミトリ」と蚊のなくような小さな声で名前を呼んだ。ふたりがとうとう面白そうに笑うので、誰に当たり散らせばいいのかすらわからなくなったフェリクスは、踵を返して彼らに背を向けた。


   *


昼休みになった。教室の通路を挟んだ向こう側でメルセデスやアネットと会話しているシルヴァンは、やはり現在の女好きの片鱗をのぞかせている。授業中は書庫から借りてきた異国についての本を大人しく読んでいたのに、随分な変わりようだ。
朝の短い時間ではあまり話をする機会もなかったが、十歳のシルヴァンは自分の記憶よりずっと小さい。自分だって小さくて、いつもシルヴァンのことを見上げていたのだから当たり前ではあるのだが。
「メルセデスさんに会えただけで、十年後にきちゃった甲斐がありました」
「あらあら~、嬉しいことを言ってくれるのねえ」
メルセデスはシルヴァンの赤毛を撫でる。嬉しそうに笑うシルヴァンの屈託の無さは、今にはないものに見えた。どうしてあんな男に育ってしまったのかしら……いや、むしろ順当に育った結果なのかもしれないけれど。
「ねえシルヴァン、その腕の怪我はどうしたのかしら〜?」
メルセデスがシルヴァンに尋ねた。そうなのだ、シルヴァンの頬には綿紗があてがってある。思えばシルヴァンは怪我の多いこどもだった。というより、顔を合わせると怪我をしていたという印象があったような。もうよく覚えていないけれど――。
「ええと」
イングリットは思わず耳をそばだてる。見ればそこにいたフェリクスも腕を組んでシルヴァンのほうに視線を向けていた。シルヴァンはそれに気がついたのか、ちらりとこちらを見て、それからメルセデスに向き直る。
「遊んでたら井戸に落ちちゃったんです」
えへへ、と笑うシルヴァンに、メルセデスが大変だったのねえ、と返している。無事で本当に良かったわ、シルヴァンに出会えたもの。メルセデスの言葉に嬉しそうに笑っているシルヴァンを見て、イングリットはようやく腑に落ちた気がした。確かにあの頃、そんな話があって、それなりに騒ぎになったことがあったような。もうなにもかもがあやふやで、まったく自分の記憶は当てにならない。
「彼奴が井戸に落ちたと騒ぎになったこと……確かにあったな」
フェリクスが言うので、イングリットは彼の方を見た。「あなたのことだから、きっと泣いたのでしょうね」と言うと、フェリクスの頬が赤らむが、彼は朝の言いつけを守って不平を言ってくることはなかった。
「白魔法はかけてもらった?」
メルセデスの横にいたアネットが、シルヴァンの顔を覗き込むようにして彼に尋ねる。
「はい、家の修道士に」
「それでも治りきらなかったのね〜」
メルセデスはそう言いながら、シルヴァンの目をじっと見た。シルヴァンが少したじろいで、目をそらす。
「あらごめんなさい、怖がらせてしまったわね~」
「いえ……」
学級でも年長のメルセデスには、皆どうにも逆らえない雰囲気がある。十歳のシルヴァンもそれを感じ取ったのだろうか。
「シルヴァン、そろそろ大丈夫そうだ、昼食に行こう」
そこでディミトリが教室に戻ってきて、声をかけた。シルヴァンは女子を中心にーー存外男子を含めて生徒の間で顔が広い。混み合った食堂であれこれ噂をされたりするのも面倒だと判断したディミトリは、わざわざ食堂がすくのを確認してきたのだ。
「イングリットとフェリクスも、行くぞ」
「はい殿下」
「ああ」
フェリクスが妙に神妙な顔をしてうなずくので、メルセデスとアネットが顔を見合わせてクスクスと笑う。シルヴァンは不思議そうに彼女らを見た。


   *


放課後、ディミトリはシルヴァンを訓練場へ連れて行くことにした。普段のシルヴァンは放課後ともなれば女の子とお茶だの街での買い物だのとさっさと教室を出ていってしまうのだが、今のシルヴァンにそういうことをさせるわけにはいかないし、そもそもできるはずもない。フェリクスもイングリットも訓練場に行くことにはすんなりと賛成した。もともと鍛錬好きのふたりである。
訓練場でイングリットに槍の手ほどきを受けているシルヴァンを見つめる。もともと彼の実家ではその英雄の遺産、破裂の槍を扱うために、シルヴァンに槍の訓練をつけていたので、使い慣れている武器ではある。そのうち打ち込みを終えたフェリクスがさりげなく距離をとってディミトリの隣にやってきた。ここへ来る道すがら、「大きくなったフェリクスはグレンそっくりだな~」などとシルヴァンが言い出したものだからなんと答えるのかと肝を冷やしたが、なんとか取り繕うことができていた。
「十歳の子どもとはあんなに小さいものだったかな」
ディミトリが言うと、フェリクスが数拍遅れて口を開く。
「……あんなものだろう」
実際のところ、二歳年上で今も長身のシルヴァンに、ディミトリもフェリクスも身長を並べたことは一度もない。シルヴァンを見下ろすというのは、随分と新鮮な体験だった。
イングリットがシルヴァンの槍の構え方を直している。そのうち暑くなってきたのか、シルヴァンはシャツの袖口のボタンを外し、袖をめくった。子供らしい華奢な腕が顕になり、その右側には包帯が巻かれていた。
「怪我は頬だけではなかったか」
フェリクスは瞬きをする。
「あれは……」
「遊んでいて井戸に落ちて怪我をしたのだと、さっきシルヴァンが言っていた」
「ああ、あったな、そんなことも」
ディミトリが頷く。井戸に落ちたのなら、確かに怪我は頬だけではすまないだろう。今は服で覆われている脚も、怪我は残っているのではないだろうか。
「……怪我をしているのに、あまり槍を振るわせるものではないかな」
ディミトリは眉を寄せた。シルヴァンは嫌がる素振りを見せていなかったが、もしも悪化などしたら困る。ましてや今のシルヴァンは子どもなのだし。思うが早いが、ディミトリはシルヴァンとイングリットのほうへ駆けた。
「シルヴァン、怪我をしているが大丈夫なのか」
「えっと、はい、大丈夫です、大げさなんですよ、この包帯」
シルヴァンはそう言って笑ってみせる。だが、ディミトリは心配げな表情を変えなかった。
「だが、そろそろやめたほうがいいんじゃないのか」
「そうですね、この辺にしておきましょうか。ごめんなさいシルヴァン、気が付かなくて」
「夕餉まで時間があるし、書庫にでも行こう。ああ、温室もいいかもしれないな」
「いや、俺は平気ですって」
二十歳のシルヴァンは大の鍛錬嫌いだが、十歳のシルヴァンはまた随分と殊勝なことを言う。イングリットは新鮮な気分になり、しかし彼の声が疲れ切っていることに気付かないわけにはいかなかった。
「やはり終わりにしましょう」
言うとディミトリが頷く。
「温室にはファーガスにはない花もあるからな、行こう」
「フェリクスも行くわよ」
イングリットがフェリクスに声をかけると、フェリクスは案の定不満げな顔をして近づいてくる。
「四人も揃ってぞろぞろと行くこともあるまい」
そもそも、フェリクスには十歳のシルヴァンにどう接するべきなのかも判断がついていない。もともと子どもなどとは滅多に接しないし、扱い方もわからない。ましてやそれが年上の幼馴染なのだ。よくもまあディミトリやイングリットはまともに会話しているものだ。
「もうフェリクスは置いていかれても泣かないんだなあ」 
シルヴァンはこうして十年前の印象で自分を語る。フェリクスはとっさに頬が赤くなるのを自覚していた。ディミトリとイングリットが噴き出すのも忌々しい。わざと乱暴に彼らのもとに足を運び、「行けばいいんだろう行けば!」と声を上げた。


   *


「そうか、今日の温室当番はドゥドゥーだったか」
ディミトリが温室に入るなりそう言うので、しゃがんで花の様子を見ていたドゥドゥーはぱっと顔を上げた。
「殿下、どうされたのですか」
「いや、シルヴァンに温室を見せてやろうと思ってな。シルヴァン、俺の従者のドゥドゥーだ」
「よろしくお願い……します」
「ああ、よろしく……頼む」
背が高く肌の色濃いドゥドゥーに、シルヴァンはほんのわずか緊張したようだった。そうか、このシルヴァンにとってダスカーはまだファーガスの友好国でしかない。ディミトリとシルヴァンの後ろに立つイングリットは、彼らの後ろで眉をひそめた。イングリットは未だ婚約者を殺したダスカー人のことをなんのてらいもなく受け入れることはできないし、フェリクスも彼を嫌っていたはずだ。だがシルヴァンの前では友好的に会話するべきなのだろう。フェリクスの様子を窺うが、やはり眉間にしわができている。
「ドゥドゥー、ファーガスにはない花を教えてくれないか」
「はい、殿下」
ドゥドゥーは頷き、四人を温室の奥に促した。
「ドゥドゥーは強そうだから、殿下も頼りにしてるんじゃないですか」
「そんなことはないが……」
「いや、その通りだ」
三人があれこれと会話しているのを、イングリットは見ていることしか出来ない。思えばシルヴァンは以前からドゥドゥーと普通に会話をしているようだった。食堂でふたりで会話しているのを見たときには軽薄なのは女性相手のときだけではないのかとため息をついたものだったが、こんなことになるのなら少しは歩み寄っておくべきだったのかもしれない。
「この辺りは、日当たりがいいから南国の花がよく育つ」
ドゥドゥーが指したあたりにシルヴァンが視線を向ける。イングリットは意を決して口を開いた。
「ファーガスの花より大きくて色が鮮やかな花が多いんですね」
三人に振り返られてイングリットはたじろいだが、ドゥドゥーはすぐに応じてくれた。
「そうだな、この花はダグザ産だと聞いている」
本当はわかっているのだ、ドゥドゥー本人はまっとうな人物で、ダスカー人だからといって白い目で見るべきではないことくらい。自分の態度は八つ当たりのようなもので、たまたまドゥドゥーが許してくれているだけだということも。
「ダグザ……帝国の南の」
シルヴァンは原色の花を見回す。もともと華やかなものが好きなシルヴァンなので、花を見るのも好きなのだろうか。連れてきてよかった、とディミトリは笑う。ドゥドゥーは言葉少なに花の説明をして、シルヴァンも律儀に質問をする。
「ドゥドゥー……さん」
「ドゥドゥーでいい」
「ドゥドゥー、ここにスレンの花はある?」
「スレンの花か。あるとは聞いているが、今は暖かい季節だから咲いてないな」
「そうかあ」
スレン。ゴーティエ領に隣接する異民族の住む地。シルヴァンにしてみれば、自分の祖先がずっと戦争をしていた相手だ。そんな土地の花を見たいという。もしかしたらシルヴァンは、自分が思っているよりもずっと、思慮深い性格をしているのかもしれない。イングリットも彼らの近くにしゃがみ込み、花を見た。もともと、馬に乗って駆けたり槍の訓練をするほうが好きで、花にはあまり興味のない子どもだった。それは今も変わっていないつもりだったが、こうして咲く花を見ていると、穏やかな気持ちになるのも理解ができた。



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