FE3H
いつものようにフェリクスをからかっていたシルヴァンは、いつものようにフェリクスを怒らせてしまった。もっとも、ある年齢を超えてからのフェリクスはどちらかといえば機嫌がいいときより悪いときのほうが多いような男なので、それはよくあることだった。
ただ、いつもと違うこともあった。フェリクスは、初めて遣う言葉でシルヴァンを罵ったのだ。度を超えた女好きだとか、不真面目だとか、鍛錬が足りないだとか、いつもヘラヘラしているとか、そんなことは言われすぎていて最早どうということもない。今度フェリクスがシルヴァンを罵るのに遣ったのは、「色情魔」という言葉だった。
ああ、なんとかその場を取り繕うことはできた。フェリクスは怒っていたしそう機微に聡くないので、こちらの一瞬の緊張なんて気付きもしなかっただろう。だがシルヴァンはその後ひどい吐き気を覚え、部屋に戻ることしかできなかった。もともと、訓練ばかりのフェリクスと街に出て、気分転換させるつもりだったのに、だ。
フェリクスはあれを知っているのだろうか。いや、知っているはずもない。話したこともないし、そもそも知っていれば、フェリクスはシルヴァンに対して今のような接し方はしないだろう。あれを知られたら更に軽蔑され、対等な人間として扱ってもらえるのかも怪しい。
「この歳でここまでの色情魔になるとはねえ」
名前も知らない女の声が、頭の中に蘇る。シルヴァンは口許を抑え、うめき声が漏れないようにするのがやっとだった。
*
「あらシルヴァン、なんだか顔色が悪いわよ〜」
柔らかな声をかけられて、シルヴァンは頬杖をついていた顔を上げた。眉尻を下げたメルセデスがこちらを見ている。教室はついさっき休み時間になったところで、そこかしこでそれぞれ会話が交わされている。
「そんなことないぜ」と言うべきか「そうなんだよな」と言うべきか。シルヴァンは一瞬悩んだものの、相手がメルセデスであることを考えて、結局「ちょっと昨日寝付きが悪くて」と肩をすくめた。メルセデスを誤魔化したとして、きっと彼女はその場ではすぐに引き下がって、そのあとずっとこちらを気にするのだろう。それならば気楽に体調不良を告げておいたほうがよほどましだ。
メルセデスはあらあら、と少し首を傾げた。
「今日はよく眠れそう?」
「だといいんだけど」
「それなら、あとでよく眠れるようになるお茶、わけてあげるわ〜」
「ありがとう」
メルセデスのきめ細やかな心配りは、歳上だからできるものなのか、それとも彼女の元来の性格によるものなのか。おそらくは後者なのだろうな、とシルヴァンは思う。
「メルセデスも、人のことを気にし過ぎて疲れないようにな」
「シルヴァンには言われたくないわね〜」
シルヴァンは曖昧に笑うことしかできなかった。あの担任教師もだが、メルセデスもなかなかどうして人の図星をついてくることが多い。もっとも、彼女は気遣いの上にそれを乗せてくれるので、担任教師に比べるとずいぶんと優しいものだが。
「ねえメーチェ、ちょっといいー?」
「シルヴァン、そしたらまた放課後にね」
親友のアネットに呼ばれたメルセデスはそちらの方へ行ってしまう。シルヴァンはひらひらと手を振って、再び机の上に視線を落とした。開きっぱなしの本の内容は、メルセデスに声をかけられる前からさっぱり頭に入っていない。昨日見た夢が頭から離れない。いや、あれは本当に夢だったのだろうか。あれはただの過去の記憶だ。とっくに埋め立てたつもりだったのに。
授業が終わると、生徒たちは各々立ち上がった。食事当番に当たっている者は身支度をしに、座学で固まったからだを解したい鍛錬好きは訓練場に、教師の指示で厩舎当番になった者は厩舎に向かう。メルセデスはからだを思い切り伸ばしているシルヴァンのもとに近寄ると、「さっきの話だけれど、包んで持っていくから貴方の部屋でいいかしら?」と尋ねた。シルヴァンは思わず口もとを緩めてしまう。まさか士官学校の寮でしでかそうなどとは思っていないが、メルセデスはそれを見越しているのか、単純にシルヴァンを男として見ていないのか。
「ああ、もちろん。悪いな」
「気にしないで〜。すぐ行くわ〜」
メルセデスはそのままアネットと教室の外に出てしまう。シルヴァンはそれを見送ると、本を抱えておとなしく部屋に戻ることにした。
「メルセデスにまで粉をかけているとはな」
すれ違いざまに冷たい声をかけられて、シルヴァンは反射的に肩をすくめた。フェリクスはこちらに射抜くような視線を向けている。昨日フェリクスに言われたことを思い出さざるを得ず、シルヴァンはいつもの軽口を言い損ねてしまう。フェリクスはシルヴァンからの反論がないことに内心首を傾げ、しかしそれに構おうという気も起きないまま教室を出た。ひとり残ったシルヴァンの表情ひとつ確認しなかった。
シルヴァンはよろめく脚を叱咤し、なんとか教室を出る。夏の暑さは苦手だが、今日はやや過ごしやすい。こんな気分でなければさっそく街に繰り出していただろうに。頭の後ろで点滅する過去の記憶を振り払いたくて、かぶりを振って歩いていると、「あれ、シルヴァンくん」と女性の声がかかる。一瞬だけ肩が跳ねたが、声の方を見ると、隣の学級の女生徒、ヒルダだった。内心ほっとしてしまう。他の学級の平民、あるいは弱小貴族の娘だったら、今の自分がどのような態度を取ってしまったのか、想像もつかなかった。
「どうしたのー? すごい顔してるけど」
「あーいや、昨日食べたものが悪かったのか、ずっと腹が痛くてさ」
メルセデスと違い、ヒルダなら適当に躱しても構わないだろう。シルヴァンはそう判断してすらすらと嘘をつく。
「えー、ここの食堂? そんなに変なもの出るかなー」
「いや、俺も変なものを食べたつもりはないんだけど」
「じゃあお腹でも冷えてるんじゃない? ちゃんと上着の前、留めたら?」
いつだってヒルダとのやりとりは気楽だった。彼女自身が紋章持ち、その上シルヴァンと国は違えど有力貴族の娘で、彼女は万が一にも自分を――自分の精子を欲しがらないと言い切れるからだ。
「そうするよ、じゃあ俺は部屋で休むから」
「うん、お大事にー」
シルヴァンはほっと息を吐く。自分はそんなにひどい顔をしていたのだろうか。それとも、メルセデスといいヒルダといい、女の子ってやつはやっぱり他人の表情によく気がつくものなのだろうか。いやまあ――あいつに比べれば、誰だってそうなのかもしれないな。
シルヴァンはゆっくりと寮の階段を登った。自分の部屋はいちばん奥だ。フェリクスの部屋の扉をちらりと見て、それからふと息を吐く。
「『色情魔』、ね……」
自分で口に出しておきながら、自分で背筋をぞっとさせてしまう。
それは確かに、事実だった。だからこそフェリクスに言い当てられて、こんなにも狼狽えている。
「フェリクスのやつ、似合わない言葉覚えやがって」
シルヴァンは呟いて部屋の扉をあけると、机の上に教科書を置いた。他に誰もいない空間の気安さに、思い切りため息をつく。こんなの、誰にも聞かせられない。
*
賑やかな場所が好きなのは、人目のあるそこでなら兄に殴られる心配がないからだ。シルヴァンは様々な理由をつけて、屋敷で行われる夜会にたびたび顔を出していた。大人たちはシルヴァンのことをゴーティエのお坊ちゃん、などと呼び、優しく接してくれた。食べ物や飲み物を取ってくれたり、受け答えを褒めてくれたりもする。特に女の人は優しくて、シルヴァンは積極的に彼女たちに話しかけるようになった。この会場を出れば、夜会が行われている部屋に入ることすら許されない兄に腹を蹴り飛ばされることが分かっていても、その一瞬の安堵のために、シルヴァンは夜会への出入りをやめられなかった。
あれは十歳の頃だったか。その日声をかけてきたのは、ゴーティエ家に仕える騎士の一人娘だった。五歳以上離れているが、顔を合わせたことは何度もある。彼女は自分の親の主人の息子であるシルヴァンにも決して下手に出ないので、話をするのはいつだって楽しかった。シルヴァンと彼女は簡単な挨拶を交わし、シルヴァンは彼女の髪型や服を褒め、最近読んだ本の話をして、一緒に料理を食べた。姉がいたら、こんな感じなのかな。シルヴァンはそんなことを考える。例えばマイクランが姉だったら――あんなふうに、暴力は振るわなかったのだろうか。
「ねえシルヴァン、ちょっと外に出ない?」
そんなことを考えていると、彼女がシルヴァンの上着の袖を引いた。
「なんだか、お酒の匂いで気分が悪くなってきて……」
「大人を呼んだほうが、」
「いいのよ、ねえ、それより二人で外に出ましょう」
二人で、という言葉はひどく甘美に聞こえた。シルヴァンはすんなりと頷き、二人は一つずつ燭台を持ち、重たい扉を開け、自分が先に廊下に出た。彼女もあとに続いてくる。
廊下に出てから、シルヴァンはどこかに兄がいる可能性に思い当たった。暗い廊下で、蝋燭の明かりふたつでは心許ない。左右を見渡して、兄の姿の有無を確認するが、もし光が届く範囲のほんの少し奥に潜んでいたら、気がつくことはできないだろう。
「ねえシルヴァン、空いてる部屋で休みたいわ」
「突き当りの部屋が空いてるはずだけど……」
身を寄せるように並んで長い廊下を歩く。一歩ごとに夜会の喧騒が遠のいていく。シルヴァンはどんどん心細くなり、あの賑やかな場所に戻りたくなるが、まさか気分が悪いと言っている彼女を置いていくわけにもいかない。なんだか嫌な予感がする。突き当りのあの部屋、あそこに兄が待ち伏せているんじゃないか。
部屋の扉は彼女が開けた。心臓がやけに高鳴って、いつ暗がりから兄が飛び出してくるのではないかとシルヴァンは後ずさったが、彼女はさっさと部屋に入り、寝台の横の机に置いてあった蝋燭に火を移す。あたりがぼんやりと明るく照らされた。
「シルヴァン?」
声をかけられて、シルヴァンは恐る恐る部屋に入った。部屋の隅に兄が潜んでいないことを祈りながら、彼女に近づく。彼女は寝台に腰掛けた。促され、シルヴァンも燭台を並べて寝台に近付く。
「……君の父上に、君がここで休んでいることを伝えたほうがいいかな」
声が震えた。彼女は「必要ないわ」と答える。暗くて、その表情もよく見えない。
「ねえ、そんなことより、シルヴァンも隣に座って」
「う、うん」
「ねえシルヴァン」
彼女はそっとシルヴァンにすり寄った。ディミトリやフェリクス、イングリットらほどではないにせよ、幼い頃から見知った彼女の声に、聞いたことのない色が乗っていることに、シルヴァンはようやく気づく。こんなこと、知らない、と思った。本能が忌避感を覚えて、シーツの上でからだを引く。
「シルヴァンはもう、精通は迎えた?」
「……え?」
何を尋ねられたのかわからず、シルヴァンは目を見開いた。
「未だなのね。貴方は年齢の割に大人びているし……もしかしたらと思ったのだけれど」
「なんの、話……」
「でも、性行為ではじめて精通する人もいると言うし、してみましょうか。大丈夫よ、私お父様に言われて、ちゃんと別の方と『練習』してきたから」
彼女が言っていることがよく理解できなかった。知らない単語もあるし、知っている単語も別の意味を持っているように感じる。シルヴァンが思わずからだを反らすと、彼女はシルヴァンの手首を掴んだ。騎士の娘とはいえこんなに力が強いのか、とシルヴァンが思う前に彼女の顔が近付いてくる。
「なんで、」
シルヴァンを黙らせるように、唇と唇がくっついた。シルヴァンは歳上の少女に怯え、身動きひとつとることができなかった。
*
扉を叩く音に我に返った。シルヴァンは顔を上げ、寝台から立ち上がる。相手はわかっているので、なにも問わずに扉を開けると、やはりメルセデスが立っていた。
「こんにちは、シルヴァン。これ、約束のお茶よ」
メルセデスが小さな布袋を掲げた。シルヴァンはそれを受け取り、「ありがとう」と言った。それが自分が思った以上に低く弱った声だったので、思わず喉の辺りを抑えてしまう。当然、メルセデスもそれに気がついた。
「シルヴァン、さっきより顔色が悪く見えるわ〜。本当に大丈夫? マヌエラ先生を呼んできたほうがいいかしら?」
「ああいや、大丈夫。ついこのあいだこっぴどく振られた嫌な思い出を思い出しちゃっただけだから」
「そう? でも、本当に辛くなったら、誰かに言うのよ〜。私でもいいし、私じゃなくても構わないから」
メルセデスの優しい言葉に、曖昧に微笑む。
言えるものか。精通を迎える前に女に部屋に連れ込まれ、性行為を強要されたこと。いざ精通を迎えると、知らぬ間に領地じゅうにそれが伝わっていて、様々な女から手を引かれ体に触れられたこと。それは次第に激化していき、時に薬を飲まされ複数の女と半乱狂で性交させられたこと。それを兄に見られ、嘲笑われ、それから――。
「どうしても誰にも言えないのなら、授業も休んでゆっくりしたほうがいいと思うわ〜。お兄さんのこともあるし、きっと皆わかってくれるわ」
わかってくれないのなら、ちゃんと私が皆に言ってあげる。メルセデスは悪戯っぽく笑った。シルヴァンは頷いて、茶葉の入った小袋を軽く握る。
「ありがとう、メルセデス。今度お礼に、」
「シルヴァンが元気になってくれるのがいちばんのお礼よ」
「……メルセデス、ああ、本当にありがとう」
幼い頃、自分のそばに彼女のような女性がいたら、今よりずっとまともな人間に慣れていたかもしれない。だが、そんな「もしも」は考えるだけ無意味だった。
メルセデスが廊下の向こう、階段を降りていくところまで見送って、シルヴァンは部屋に戻るとまた寝台にからだを投げ出した。ぼんやりと天井を見上げる。
賊の討伐――ただしその賊の棟梁が実兄である――を課題として伝えられたときからどうにも色々と考えこんでいた自覚はあったが、フェリクスのたった一言で、ここまで調子を崩してしまうなんて、どうかしているとしか思えなかった。だが、フェリクスにそう言わせたのは自分の普段の行いのせいで、まったくもって自業自得だといえる。
(どうせ、)
どうせ「色情魔」ならば、それらしく本当にいろんな相手と寝てみようか。そうしていれば、フェリクスの指摘は現在の事実となって、傷つく謂れもなくなるのだ。だけど女と寝て、迂闊に子どもができてしまったりしたら、それこそ最悪だ。となると相手は男がいいか――。ああ、そうしたらまた、「お嬢様」に逆戻りか。あまりにも馬鹿馬鹿しい考えに、シルヴァンは思わず笑ってしまった。
*
その日の最後の授業は、明日に控えた課題出撃の説明だった。行き先はファーガス神聖王国・フラルダリウス領のコナン塔、騎士団のギルベルトが同行する。コナン塔を制圧している盗賊の討伐が目的である。その頭領の名はマイクラン。塔はもともと軍事的に異民族の流入を監視するために建てられたもので――いや、これは君たちのほうが詳しいか。担任教師は淡々と説明を続けていく。その盗賊の頭領の実弟がそこにいることはわかっているだろうに。
フェリクスはそっとシルヴァンのほうを伺った。普段は女と遊んでは時折トラブルを起こすなどして周囲に迷惑を掛けているような男――シルヴァンは、今節ひどくおとなしかった。妙だとは思わない。課題とはいえ級友と共に幼馴染の領地へ実兄を討伐しに行くなど、考えただけでぞっとしてしまう。
集合時間を告げた教師は、最後に教室を見回し、「今日はゆっくり休むこと」と告げた。返事をする声は小さい。シルヴァンを慮ってのことだろう。
「シルヴァン、明日の課題……本当に大丈夫なのか」
授業が終わるとすぐ、ディミトリが立ち上がり、座ったままのシルヴァンに声をかけた。シルヴァンは顔を上げた。学級中が自分の返答に注目していることに苦笑し、「大丈夫ですよ」と答える。
「むしろあいつをこの手で討伐しなきゃいけないんですよ。あれはゴーティエ家の恥ですから」
「だが……」
「シルヴァン」
ディミトリとシルヴァンの間に割って入ったのは、アッシュだった。彼もこの二節前、同じように課題で養父を屠ったばかりだった。
「無理はしないほうがいいと思います」
「アッシュに言われるとは思わなかったな」
「……僕だからこそ言うんです」
アッシュの声は真摯だった。歳上の同級生に自らと同じ傷はつけまいとするアッシュの優しさを振り払うように、シルヴァンはつとめて明るい声を出した。
「あれはロナート卿に及びもつかないただのコソドロ野郎だよ」
「……だから、殺されても仕方がないと?」
アッシュの問いに、シルヴァンは答えられなかった。兄が身をやつした理由が自分にあることを、むざむざ何も知らない級友の前で話そうとは思えなかった。アッシュは黙ったままのシルヴァンを見て我に返り、慌てて頭を下げた。
「……すみません、出過ぎたことを言いました」
「いや、気にすんなって」
「……シルヴァン、本当に無理はしなくていい。とにかく先生の言うとおり、今日はもう休もう」
級長が教室を見回す。それで全員が三々五々教室を出ていく。学級は不自然に静かだった。シルヴァンも立ち上がると、寮に戻るため歩き出す。フェリクスはシルヴァンの後ろから声をかけた。
「オイ、シルヴァン」
「フェリクス。……ほんとに悪かったな、お前んとこの領地でさ。お前の親父さんにも……」
「……余計なことは言うな」
「フェリクスが話しかけてきたんだろ」
我儘なフェリクスの言い分に、シルヴァンは笑ってしまう。節のはじめにフェリクスに色情魔と罵られてから、ずいぶんと久しぶりに会話をしたように思う。本当に今節は散々だった。精神的に擦り減るばかりで、周囲にも気を遣わせてしまった。もっとも、フェリクスが声をかけてきたのは初めてだったけれど。
「俺がお前の兄を殺してやる」
フェリクスは低い声で言った。
「お前は最後尾で目でもつぶっていろ」
「はは、子ども扱いかよ」
シルヴァンは言って、教室を出た。するとそのまま、後ろからフェリクスがついてくる。子どもの頃はこうしてよく自分が先導して、幼馴染たちと領地を散歩していた。あの頃は――あの時間だけが、心安らぐ瞬間だった。誰もシルヴァンの紋章が宿ったからだを求めず、こころの触れ合いを求めた。それが唯一の救いだった。
きっと彼ら三人は、そんなこと、気がついていやしないだろうけれど。
絶対にあれには俺が止めを入れる。フラルダリウスの次期当主として、大義名分は完璧だろう。フェリクスはそう決めていた。担任教師もフェリクスのいつにない闘志に気づいてか、最前線に出るよう指示をした。
塔の最上階にようやくたどり着く。ぞくぞくと増える援軍を仕留めながら、フェリクスや級友たちは確実に最奥にいるマイクランに近づいていく。
そして、最初の一太刀はフェリクスが決めた。彼はゴーティエ家の英雄の遺産――破滅の槍を持っていたが、それをめちゃくちゃに振り回すだけで動きは読みやすい。
「お前、フラルダリウスのとこのガキか?」
どうやらマイクランは自分のことを覚えていたらしい。ほとんど顔を合わせなかったのに――いや、だからこそなのかもしれない。マイクランは口もとを歪めた。弟とは似ても似つかない、醜い笑い方だと思う。
「は、――『お嬢様』は元気か?」
「黙っていろ」
よくもまあ口をきく余裕があるものだ。そも、お嬢様とは誰だ、イングリットのことか。フェリクスはもう一度斬りかかろうと剣の柄を握り直した。
「フェリクス、どいてー!」
声に振り向かずに、フェリクスは飛び退いた。アネットの炎魔法がフェリクスの目の前を通り過ぎ、マイクランの近くで弾けた。
「ぐぁ、あ……!」
マイクランがよろめく。フェリクスは彼に駆け寄り、そしてその喉笛を狙い――、
確かにフェリクスはマイクランを倒したのだ。彼は手にしていた槍に呪われるようにその姿を巨大な獣に変えた。理性のない獣は生徒たちに向けて吠え、暴れ回る。フェリクスとて何度も斬りかかるが、そう攻撃は通らない。剣が硬い殻に弾かれ、均衡を崩したところに、獣に覆いかぶさられようとした瞬間だった。
「フェリクス!」
名を呼ばれた。実兄がこんな姿になって、きっと呆然と後ろで見ているのだろうと思っていた幼馴染が、獣の背後から槍を掲げ突き刺した。獣が悲鳴を上げる。フェリクスはシルヴァンを見上げた。ここからでは、表情が見えない。シルヴァンは槍を抜き、同じところにもう一度突き刺す。獣は、さきほどより悲痛な声を上げた。
フェリクスは体勢を立て直し、もう一度剣を取った。今度こそだ。今度こそ殺してやる。思った瞬間、シルヴァンの三度目の攻撃で、マイクランだった怪物は倒れ伏した。
「シルヴァンやめろ、もういい!」
担任教師が珍しく声を上げて、シルヴァンを引き剥がす。駆けてきたディミトリが槍でとどめを刺し、その獣は姿を消した。残ったのは、赤髪の男の死体と、不気味な形の槍だけだった。
*
あれから三日が過ぎたが、シルヴァンが塞ぎ込んでいるのは傍目から見てもよくわかる。あの男はいつだってヘラヘラ笑っているものだと思い込んでいたことに、フェリクス気付かざるを得なかった。
あのときの、獣に向かったシルヴァンの姿が、どうにも忘れられない。訓練場ではついぞ見たことがないような美しい動作で、彼は槍を振り下ろした。
優しい級友たちはシルヴァンのことを気にして、しばしば声をかけている。フェリクスもそうすべきであることはわかっていた。何よりあのときシルヴァンが獣に向かわなければ、自分はあの巨体に押しかかられていた。礼を言わなければならない。だが、言葉を選ぶのが苦手な自分では、そのつもりがなくてもシルヴァンに追い打ちをかけてしまいそうだし、何より他の級友に向けるシルヴァンの力ない笑みが、どうにも気に入らない。
結局今日も声一つ掛けられなかった。フェリクスは放課後訓練場に向かい、剣を振るった。せめて次は、いや、今度こそ自分がシルヴァンを助けたい。フェリクスはマイクラン本人こそ倒せたが、あの獣には少なからず動揺してしまった。最初は、シルヴァンに手出しなどさせないつもりだったのに――。
途中訓練場にやってきたカトリーヌに勝負を挑んだが、いつも以上に簡単にいなされてしまった。カトリーヌはやれやれといった表情でため息をつく。
「休憩がてら顔を出したが、……騎士団はフレン探索で忙しくてね、あたしはそろそろ行くよ」
「あ、ああ……ありがとうございました」
シルヴァンはカトリーヌに頭を下げる。休憩中に鍛錬に突き合わせて、この体たらくではそうするしかない。
「集中力が足りてないよ、フェリクスらしくもない。前節もあんたの学級が大変だったって話は聞いてるが、剣を持ったらそんなことは忘れるくらいにしておきな」
「それは、……はい」
あんなこと、忘れられるはずもない。そう思いはしたが、反論できなかった。それとも、剣士とて極めれば、あんな出来事などすぐに切り替えられるようになるのだろうか。
フェリクスが訓練場を出たのは、もう暗くなってからだった。以前は剣を持っていればあっという間に夜になったものなのに、ここ最近は夏の終わりであることを差し引いても、夜までの時間を長く感じる。カトリーヌの言うとおり、集中できていないせいだろう。
訓練用剣を片手に寮の前までたどり着くと、向こうに赤い頭を見つける。シルヴァンだ。食堂に向かうのか、最近はずっと疲れ切った目をしているくせに、こんな時間に出掛けるのか。フェリクスは眉を寄せた。あの男は周囲にさんざ休めと言わせておいて、相変わらず人に迷惑をかける。
「シルヴァン」
フェリクスは大股でシルヴァンに近付き、その腕を掴んだ。シルヴァンが振り向いて、フェリクスを見る。
「なんだよフェリクス、」
「どこに行く気だ」
「ちょっと。眠れないから酒でも一杯引っ掛けようと思っただけだよ。フェリクスも行くか?」
酒。確かにシルヴァンは成人していて、酒を飲める年齢だ。だが、大修道院の士官学校の生徒がおおっぴらに酒を飲むのはあまり勧められたものではない。
――いや、そんな決まり事はどうでもいい。シルヴァンはひどい顔をしていた。まるで幽霊でも見たような、血の気を失った頬。疲れ切った瞳。声だけはいつものような明るさを保っているのが、不気味なほどだ。
「行かん」
「じゃあ離してくれよ、ほんとに一杯だけだから、な?」
逃げようとするものほど追いかけたくなるのは、狩猟好きの本能なのかもしれない。フェリクスは手を離さなかった。シルヴァンも無理に振り払う気力はないらしい。
「酒がだめならメシだけでもいいし、そうだ、最近可愛い女の子が働いてる酒場を見つけてさ、フェリクスも」
「こんなときに女の話か」
言うと、なぜかシルヴァンの肩が僅かに跳ねた。あからさまにフェリクスから目を逸らし、それから絞り出すような声で、「そうだよ」と呟いた。
「おれ、色情魔だからさ」
今度はフェリクスが狼狽える番だった。色情魔。聞き覚えのある、いや、言った覚えのある言葉だった。前節のはじめ、あまりにもシルヴァンがしつこく街へ誘ってくるので、つい常なら遣わないような言葉で罵ったことを唐突に思い出す。さっきまですっかり忘れていたはずなのに。
シルヴァンが手当たり次第女に声を掛けているのは事実だが――こう見えて貴族の立場を重んじている彼は、そうそう女と寝たりしない。わかっている。だからあれは、本心からの言葉ではなかったのだ。だが、もしかしなくても、シルヴァンはずっとあれを気にしていたのだろうか。
「あーいや、悪い、なんでもない」
先に取り繕ったのはシルヴァンのほうだった。フェリクスの手が緩んでいたのをいいことにそっと自分の腕を解放させる。
「じゃあ、俺は行くから」
「待てシルヴァン」
どうしてこうまでして外に出ようとするのだろう。幼い頃、彼は決してこうではなかった。例えば屋敷の外で遊ぶとき、フェリクスの前を歩くシルヴァンは何度も振り返ってくれた。フェリクスが遅れていれば笑って待っていてくれたのに。どいつもこいつも置いていく。変わったのは誰だ。俺か、それとも他の幼馴染たちなのか。
「フェリクス」
「……行くな」
「それなら、お前が俺を眠らせてくれるのか?」
フェリクスは息を呑んだ。シルヴァンの、どうせできやしないだろうという嘲笑のなかに、諦めと疲れが入り混じっているのがわかる。フェリクスは答えなかった。もう一度シルヴァンの腕を掴む。強く引くと、シルヴァンの脚がもつれた。たたらを踏んだシルヴァンは、はは、と乾いた笑い声を上げる。
「まあ、他でもないフェリクスの頼みだし、今日は出かけないでおくとするか」
「……そうしろ」
フェリクスはシルヴァンの部屋の扉を開けた。先にシルヴァンを中に入れ、フェリクスも続く。シルヴァンが炎魔法で洋灯に火を入れ、部屋が薄明るくなる。机の上には本が散らばっているが、部屋全体としては整えられている。フェリクスはシルヴァンを寝台に座らせ、自分は椅子に座り腕を組んだ。
「なあ、俺を眠らせてくれるって、何してくれんの? 酒でも持ってきてくれるのか?」
食堂に忍び入れば手に入るかもなあ、とシルヴァンは言う。寒冷なファーガスの人間は、フォドラの他二国と比してからだを温めるためにも酒をよく飲む傾向にあるのは事実で、フェリクスとて実家では口にしたことくらいはある。しかしシルヴァンのそれは、酒に逃げようとしているようにしか見えない。
「それとも、子守唄でも歌ってくれるっていうのか? あ、昔俺がお前に歌ってやったの、覚えてる?」
「うるさい、少し黙れ。座っていないで横になれ」
フェリクスが言うと、シルヴァンは肩をすくめて靴を脱ぎ、それから寝台の上に仰向けになった。赤い髪が敷布の上に散らばる。ごろりと横になりこちらに向いたシルヴァンは、掛け布団を自分のからだに引き寄せる。シルヴァンの疲れ切った瞳を見て、フェリクスは眉を寄せた。
「本当に眠れていないんだな」
「そんなことないんだけどな……。ああ、メルセデスによく眠れるようになるって茶葉をもらったんだけど、無くなっちゃったんだよな」
言われてみれば、ここ最近シルヴァンとメルセデスがよく話しているのを見かけていた。メルセデスはシルヴァンの変化を、きっと自分よりずっと前に気付いていた。そして、きちんと力になっていたのだ。
フェリクスは息を吐く。珍しくシルヴァンと真面目に会話できる機会だ。言いたかったことを、言うべきことを伝えなければならないだろう。
「この前の課題だが、……お前の兄を殺すのは俺だと言っておきながら、お前に助けられた上に、止めを刺すことができなかった」
「ああ……」
「すまなかった、……、ありがとう」
「素直なフェリクスなんて何年ぶりだろうな」
昔はシルヴァンをもう一人の兄と慕っていた。ディミトリとてらいなく喧嘩し、シルヴァンに仲裁され、イングリットにまとめて叱られていた。いつからこうやって素直に礼を言うことすらためらうようになってしまったのだろう。ダスカーの悲劇でグレンが死に、父に反発心を抱き、イングリットが引きこもり、初陣でディミトリの残忍な一面を見てしまった。それでもシルヴァンは皆に変わらずに接して、兄のように笑い、女を口説きまわっていた。だからこそ、フェリクスはシルヴァンに悪態をつきながらも、その場に立っていられたのだ。
「おれが素直なほうが好ましいか」
問うと、シルヴァンは「どっちでも可愛いけどな」と言う。
フェリクスは立ち上がった。こうなっても兄貴分振ろうとするシルヴァンに焦れてしまった。弱音を吐いたり、助けを乞うてほしいわけではない。だが、それに足る相手ではないと思われていることは確実だった。
「確かに昔はお前の子守唄を聞いて寝たこともあったな、隣で手を繋いで」
「フェリクス?」
「あれはよく眠れた」
シルヴァンが緩慢に瞬きをして、こちらを見上げた。フェリクスは自分の靴を脱ぐと、シルヴァンが寝る寝台に近づいた。シルヴァンがからだを起こそうとするのを手首を寝台に押さえつけて、フェリクスは寝台に乗り上げた。
「いや、いやいやいや、お前、そんなこと、いいって、なあ、」
「お前が寝かせてほしいと言ったんだろう」
フェリクスはシルヴァンがそれでも逃げを打とうと身をよじるのを押さえ込みながら、自分も寝台に潜り込んだ。
適当に煽っておけば、呆れて部屋を出ていくだろうと思っていたのに。フェリクスはよりによって自分の横で眠ると言い始めた。疲れ切って力の入らないからだではフェリクスにろくな抵抗もできずに、同じ布団の中にいる。
他の人間に、不躾にからだに触れられるのは苦手だった。あの女たちを、男たちを思い出すからだ。ましてや、こんな、士官学校の寮で、向き合うように横になり、両手を握り込まれるなんて。
「手が冷えているな」
「フェリクス、やめろよ、な?」
至近距離にフェリクスがいるのが耐え難かった。これでは、なにひとつ誤魔化せない。これだけ弱ってしまったところを見せていることだって、本当は失敗だと思っているのに。フェリクスは真正面からシルヴァンを見ている。成長しても、視線の真っ直ぐなところは変わっていない。
おそらく訓練直後だったのだろう、汗の匂いがする。不快ではなかった。だが、不快でないことが怖い。腹の奥に眠っていたはずの「色情魔」たる自分が目を覚ますのが怖いのだ。女にも男にも組み敷かれ、からだを求められたことが頭をよぎる。ひどく痛く、醜く、恐ろしく、空虚で、なのに確かに、別の人間の肉体の温かさと柔らかさに微かに安堵していたのだ。フェリクスはそのつもりがないことは彼の性格から明白だ。純粋に自分を心配してくれている彼の心すら蔑ろにしている罪悪感で、目を合わせることができない。
「寝るんだろう、目を閉じろ」
フェリクスは言いながら、今度はなぜか脚を絡めてきた。シルヴァンが逃れようとすると、より強く絡んでくる。心臓が大きく脈打つのがわかる。こんな状態にしておいて、眠れるものか。シルヴァンは自棄になって目をつぶる。
「ふ、」
すると、フェリクスが笑う気配がした。前節からずっと、目を閉じて思い浮かぶのは手を伸ばしてくる女や、兄の顔だった。兄が討伐されてからは、化物になった兄の姿が頭から離れなかった。それが今は、フェリクスが正面で笑った顔を想像している。ここのところのフェリクスは、昔に比べて随分と笑顔が減っていたのに。
「悪いが、歌は歌えん」
フェリクスはそう言って、さらにからだを近づけてくる。確かに暖かかった。指摘されたとおり、冷えていた指先に血が通い、暖まっていくのを感じる。フェリクスの手が離れ、そのままそれが背中に回される。何時の間にか消えていた恐怖が、そのまま安堵に変わるような感覚があった。シルヴァンはいつしか抵抗をやめて、胸板から脚までからだをくっつける。意識の中にとろとろと、温かな茶を注ぎ込まれているような微睡みに、そのまま身を委ねる。
ねむい、と思ったのは久しぶりだった。
「シルヴァン、眠ったか?」
フェリクスの問いかけは聞こえていた。だがどうにも返事ができない。シルヴァンはそのまま深くに落ちていくのに身を任せた。フェリクスの腕の力が強くなるのがわかる。せめて自分も抱き返したほうがよかったのか。シルヴァンは薄れゆく思考の中で、最後にそう考えながら、意識を失った。
すぐそばにあるシルヴァンの頬に指を這わせて、本当に眠っているのかを確認する。もとのシルヴァンの体型など知らないが、もしかしたら痩せたのかもしれない。それとも、今の弱っているシルヴァンだから、腕を回した腰に頼りなさを感じてしまうのか。
眉尻が下がり、長いまつげが伏せられている。思えば、シルヴァンの寝顔をじっと見るのは、産まれてから初めてかもしれない。
結局、シルヴァンの真意もなにも、聞き出すことができなかった。しきじょうま、という単語を発したときの呆然とした表情の理由も、マイクランの言う「お嬢様」が誰のことなのかも、共に寝ることを拒絶した理由も。
いつかこれらが、シルヴァンの口から語らせるときが来るのだろうか。それとも、一生語られないままなのか。だとしたら、ひどく口惜しいと思う。
フェリクスはシルヴァンの背中を撫でる。それからそうと、彼の唇に唇を寄せた。シルヴァンの唇はひどくかさついていて、薄皮が剥がれかけている場所すらあった。いつかこの口ですべてを明らかにされることを祈りながら。
*
夢の中の兄の断末魔で目を覚ます。目を開けると、目の前にフェリクスが眠っていた。どきりとしたが、すぐに昨日はいよいよ限界だったのを悟られて、そして一緒に眠ってしまったことを思い出す。
しかし、眠ったときには絡んでいた脚も腕も解かれてしまっている。シルヴァンはほっと息を吐いた。
歳下の幼馴染にここまでさせてしまった後悔はあるが、途中で目を覚ましたとはいえ、確かにここ数日の中でいちばんよく眠れたのも事実だった。
もう、無理にでも元気を出して、安心させてやらないといけないな。
シルヴァンはそう決めて、フェリクスが起きないように注意しながら、そっとからだを持ち上げる。規則正しい寝息を立てるフェリクスの唇にそっと親指で触れた。自分に彼に口付ける資格はない。窓の外はもう明るくなりかけていた。