FE3H
「おいシルヴァン、起きろ!」
寮の幼馴染の部屋の扉の前で声を上げる。担任教師が節に一度か二度、週末に自分たち生徒を実戦に向かわせることがある。今日もその予定だったが、約束の時間になってもシルヴァンは集合場所の市場前に来なかった。元来青獅子学級の生徒たちは真面目な質の者が多いため、遅刻したのはシルヴァンだけだ。呼んでくるよう教師に言われたフェリクスは、舌打ちを了承とし寮に戻った。以前にも同じことをした覚えがある。今後は週末に出撃するときは、朝起きたらまずシルヴァンを起こしに行ったほうがまだ手間が省けるかもしれない。だがなぜ俺がそんな真似を! 苛立ちながらフェリクスが二度目の名前を呼ぼうと息を吸った瞬間だった。
「悪い悪い、すぐ行く!」
声が返ってきて、本日何度目かもわからない舌打ちをさらに重ねた。その言葉通り槍と盾を抱えたシルヴァンがすぐに扉を開ける。フェリクスを認めたシルヴァンは小首を傾げてへらりと笑った。年上の癖によくもまあ甘えた態度が取れるものだ。フェリクスはすぐに踵を返した。
市場の前まで戻ると、級友たちがシルヴァンに呆れたような視線を向ける。シルヴァンが悪びれずに謝罪をしてから、「あれ、先生は……」とあたりを見回す。確かに、ベレスがいない。フェリクスも同じくぐるりと見回した瞬間だった。
「シルヴァン、食べなさい」
「うわ!」
シルヴァンの背後に、ベレスが立っていた。手には食堂のメニュー、フィッシュサンドの包みがある。シルヴァンは教師に向けて破顔した。フィッシュサンドは、シルヴァンの好物の一つでもある。
「ありがとうございます先生」
「腹に何も入れずに戦闘に出たら、戦えないだろう」
ベレスは淡々と言ってシルヴァンに包みを渡すと、さっさと生徒たちの前に向かってしまう。
「それじゃあ出発しよう。今日は麓の村に出た盗賊の討伐だ。この時間なら彼らもまだ油断しているはずだからね」
「は〜それでこんなに朝早くから集合だったんですねえ」
「シルヴァンあなたね……」
隣に立つイングリットがため息をついた。この予定が発表されたときも、教師は同じようなことを言っていたのだ。シルヴァンは口にいれたものを咀嚼しながら、聞いていないふりをした。
教師の言うとおり、盗賊討伐はそう難しくない戦闘だった。盗賊たちは皆、体格は大きくともろくな戦闘訓練も受けたこともないような有象無象ばかりで、青獅子学級の生徒たちはほとんど怪我もなかった。
ただしそれもシルヴァンを除いて、だ。盗賊の槍が彼の脇腹を掠り、結構な血が流れたせいで、なかなか立ち上がれない。その盗賊は結局アッシュの弓に下されてしまったので、シルヴァンも殺されずに済んだのだが。
「はい、もう大丈夫かしら?」
「ありがとうメルセデス、このお礼に今度食事でも……」
「あらあら嬉しいわね〜、そうしたら、来週末は皆でお茶会でもしましょうか〜」
「……おうさ、楽しみだな」
学級ではいつも回復役として戦場に出ているメルセデスが、横になっていたシルヴァンのそばから立ち上がり微笑んだ。
「治療が終わったって先生に行ってくるわ〜」
「メルセデス、本当にありがとう」
「いいのよ〜治療はしたけど、無理はしないで〜」
メルセデスが立ち去るのを眺める。あとでアッシュにも礼をしないと――、シルヴァンがそんなことを考えていると、また上から声が降ってきた。
「シルヴァン、立てるか?」
「殿下」
シルヴァンに手を差し出してきたのは、級友の――そして将来は自分の主君になることが決まっている――ディミトリだった。その後ろには、従者のドゥドゥーもいる。シルヴァンはディミトリの手を見つめる。彼は紋章の影響で人並外れた怪力の持ち主で、今の体調でこの手をとって引かれたら、ふっ飛ばされそうな予感があった。しかし、手を取らないのも彼の好意を無碍にするような気がする。ふたつを天秤にかけたシルヴァンは、結局ディミトリの手を取った。途端、強い力で腕を引かれる。
「おわっ!」
結局危惧していた通り、ディミトリの力に耐えきれなかったシルヴァンはよろめいて、ドゥドゥーの胸元に突っ込んでしまう。
「あ、わ、悪い」
「構わん」
「シルヴァン」
シルヴァンがドゥドゥーから離れると、ディミトリが眉を吊り上げてシルヴァンの名前を呼んだ。
「助けてくれたことには礼を言うが、それで自分が傷つくような真似はするな」
シルヴァンが怪我をしたのは、つまりディミトリの死角から迫る的に気付いたからだった。しかし距離があったため敵に攻撃をするには間に合わず、結果ディミトリを押しのけその槍を受けてしまったのだ。
「だって殿下を死なせるわけにはいかないでしょう、そばにいたのが俺じゃなくても同じことをしていたと思いますけどね。ドゥドゥーだってそう思うだろ」
「ああ」
「ドゥドゥーを味方につけるのはずるいだろう」
「ずるくはありませんよ、殿下」
「その通りです、殿下」
普段それほど仲がいいわけでもないくせにこんなときだけ息を合わせるふたりに、ディミトリはますます不服を募らせる。
「お前たち、楽しんでないか? まったく、心配した俺がばかだった」
「心配されるような怪我じゃないですしね」
「シルヴァン、お前は――」
「おい、先生が呼んでいる」
ディミトリがシルヴァンに小言をくれてやろうとしたその瞬間、やってきたのはフェリクスだった。先生の言いつけを出されると、ディミトリは引き下がらずを得ない。仕方なく、シルヴァンとドゥドゥーも連れて向こうにいる級友たちの方へ向かうほかなかった。
ディミトリのお小言から解放されたシルヴァンは片目をつぶってフェリクスに礼を言う。
「フェリクス、助かったよ」
「お前を助けるために声をかけたわけではない」
「いやー、それはそれで幸運だったな」
フェリクスの隣で、シルヴァンは相変わらずヘラヘラと笑っている。さっきそれなりに大きな怪我をしたとは思えない態度だった。
ここのところ、フェリクスが以前から感じていた胸のざわつきが、日々大きくなっていく。いつからだ、士官学校に入ってからだ。あいつらと――シルヴァンと、朝から晩まで過ごすようになってから。
いくら幼馴染とはいえ、住んでいたのはそれぞれの領地である。お互いの領地に数日宿泊することはあっても、彼らとここまで長期間一緒にいるのは初めてだった。共に食事を摂り、授業を受け、訓練を共にし、ときに実戦をし、同じ屋根の下で眠る毎日。この数節のほうがこれまでの十七年よりずっと密度があり、だからこそ、ようやく、覚えられた違和感がある。まだ、名前も付けられないような、些細なものだが。
級友たちのもとにたどり着く。ベレスが人数を数え、「皆、お疲れ様」と声をかけた。
「それじゃあ修道院に戻ろう」
各々がやや疲れた声で同意すると、ベレスはくるりと上着を翻し、前を向いた。その足元に疲れは見えない。
「フェリクス、顔に血がついてるよ。大丈夫?」
フェリクスがなんとなくシルヴァンから離れて歩いていると、アネットが小さな鞄から手巾を取り出し、こちらに差し出してくる。この学級は、戦場でもこういう気遣いができる面々ばかりだ。
「返り血だ」
言ってフェリクスは指先で乾いた血を払った。アネットは手巾をしまうと、「よかった」と笑う。
「私たち、けっこう強くなったよね。先生のおかげかな」
「……さあな、各々の努力もあるだろう」
「そうだね」
少し先で、結局シルヴァンはアッシュまで巻き込んでディミトリに小言を食らっている。シルヴァンが抱えた鋼の槍が血に染まっているのを見上げ、フェリクスはふと息を吐き出した。
*
フェリクスが食堂で好物の獣肉の鉄板焼きを食べていると、不意に向こうから聞き慣れた声が聞こえてきた。しっかりものの(だが少し口うるさい)イングリットがシルヴァンの素行を注意する――幼馴染ふたりのいつも通りのやりとりである。なんの興味も抱けず、食事を再開する。
「――馬鹿なの!?」
突然イングリットの声が強くなったので、フェリクスはふたたび手を止めた。シルヴァンは軽薄を絵に描いたような男で、くだらない軽口を言うのもいつものことのはずだ。それをわざわざああも強い口調で注意するものなのか。いったい何を言ったのか気になって、フェリクスは咀嚼しながら視線をそちらに向けた。しかし、その後のイングリットの声は小さく、よく聞こえない。グレン、という単語だけが聞こえた。イングリットの許嫁で、死んだフェリクスの兄の名だ。それを聞いたシルヴァンが謝るような素振りをしている。
しばらくの会話の後、ふたりが食堂を出ていく。フェリクスがいたことには気づいていないだろう。……いや、視野が広いふたりのことだ、もしかしたら気がついていたのかもしれない。もっとも、どちらでも構わないことであった。
その日フェリクスはイングリットとともに担任教師に頼まれて、街に買い物に向かっていた。本、武器、食べ物、インク、鉱物を少し。休日の街は賑やかで、人通りも多い。少しうんざりした気分で荷物を抱え直すと、イングリットが「そろそろ戻りましょう」と言う。どうやら彼女も早く帰ってしまいたいらしい。
「あの教師は人使いが荒い」
「でも私たち、ついでに剣や槍を打ち直せたじゃない、先生はたぶん武器が壊れかけている生徒を街に行かせているのよね」
「ふん」
そんなことは気が付かなかった。気に入らなくて、フェリクスは唇を結んだ、そのときだった。
「……シルヴァン」
イングリットが同行していないはずの幼馴染の名前を呼んだ。フェリクスはイングリットの視線の先を辿り、確かに人並みのなかにあの赤毛を見つける。隣には、フェリクスが知らない女が横にいる。またいつものように女の子に声をかけて食事でも共にしようというのか。
「声をかけるのか?」
「まさか、巻き込まれたら厄介でしょう。私、ただでさえシルヴァンの幼馴染というだけで、シルヴァン目当ての女の子に色々言われてるのよ」
「ああ……」
フェリクスは取っ付きにくい表情ばかりしているし、さらにもう一人の幼馴染であるディミトリは次期国王だ。シルヴァンについて文句を言ったり相談したり嫉妬したりする対象に、イングリットが選ばれるのは必然というやつだろう。領地にいた頃には気が付かなかったが。
「シルヴァン、士官学校にきてから更に女遊びが派手になったわよね」
「地味だったころもなかったがな」
「そのとおりね、……まったく」
ふたりはシルヴァンに見付からないよう少しだけ道を迂回して、協会へと向かった。イングリットはため息をつく。
「この前だって、ああいう遊びは辞めなさいって注意したばかりなのに」
「食堂でか」
「やっぱり聞いてたのね」
イングリットが横目でこちらを見る。確かに盗み聞きのような真似をしてしまったのは事実で、少しばかり居心地が悪い。フェリクスは目をそらした。
「シルヴァンが『女に刺されたら刺されたで仕方ない』なんて言うから、つい強く言っちゃったのよね」
それでグレンの名前が出たのか、とフェリクスは得心した。あの死んだ兄も、よくそういう冗談を言う男だった。
「性格だけなら、フェリクスとグレンより、シルヴァンとグレンのほうが兄弟みたいだったわよね。シルヴァンにも……お兄様はいるのに」
「…………」
シルヴァンの兄――彼と顔を合わせる機会は少なかったので、フェリクスは彼の顔と名前を思い出すのに少しの苦労が必要だった。目元はシルヴァンによく似ていたが、見かけるといつも不機嫌そうな顔をしていた。歳が離れていたこともあり、幼い頃は彼、マイクランが恐ろしかったことを思い出す。もっとも、彼は三年前に廃嫡されていて、それ以降は顔を合わせていない。
「……本当に、辞めてほしいわ」
それがシルヴァンの女遊びのことなのか、ああいう冗談のことなのかは、フェリクスには図りかねた。
実際、シルヴァンが冗談を言うのは、いつものことなのだ。『女の子に恨まれて、刺されようが毒を盛られようが、それはそれ、俺の自業自得さ」「戦場で敵に惨たらしく殺されることもあるかもしれないけど、お互い地獄に落ちるだけだから、仕方がないよな」そんな言葉を何回聞いたことか。
イングリットはあのときが初めてだったのだろうか。それとも何度か聞かされていて、ついに堪忍袋の緒が切れたのか。どちらにせよ、フェリクスにはイングリットの怒りがもっともなことだと感じられた。いつだって死がすぐそこにある生活をしているからこそ、自分たちは日々を確実に生きなければならない。なのにシルヴァンは時折、簡単にそれを投げ捨てられるかのような発言をする。
――あの約束を、シルヴァンは忘れてしまったのだろうか。
フェリクスは不意にそう思った。
そうだ、あの、約束。
確かに子どもの戯れに交わした約束に過ぎないが、自分より年長で、記憶力も悪くないシルヴァンなら覚えているはずだ。
「フェリクス」
イングリットに声をかけられて、我に返る。先に立つ彼女に向かって、足を早めた。
あれは自分たちが何歳の頃だっただろう。父に連れられてゴーティエ領に行く日は、フェリクスにとっては「シルヴァンと会える」日だった。父たちが額を突き合わせて何やら会話をしているあいだ、シルヴァンと屋敷の庭を駆け回ったり、会話をしたり、あるいは勉強を教わったりするのは、フェリクスにとっての楽しみだ。シルヴァンは、友達であり、まるでもう一人の兄のようでもあった。
日付を告げられた二週間前から楽しみにしていたゴーティエ領の訪問の日、父は「どうやらシルヴァンはここのところ具合が悪いらしい。一緒に遊べないと思うから、今日はグレンやフェリクスは留守番だな」と言った。グレンは「シルヴァンは病気ですか」と尋ねたが、フェリクスは「関係ない、行く!」と言い張った。
「シルヴァンは雪山に出てひどい風邪をひいたらしい。高熱が続いているそうだ」
「なぜこんな季節に雪山なんかに」
グレンが首を傾げる。グレンの疑問はもっともだった。ゴーティエ領は寒冷なファーガスのなかでも北部にある。子どもが真冬に雪山に入るなんて正気の沙汰ではない。
「それは……わからないが、とにかく具合が悪いから、お前たちは」
「行きたい!」
フェリクスはそれでも自分の主張を曲げなかった。だってずっと楽しみにしていたのだ。せめて顔を見るくらいは許されるだろう。結局ロドリグは折れて、フェリクスだけをゴーティエに連れていくことにした。
そっと扉を開ける。白い掛け布団の中に横たわるシルヴァンの赤毛だけが目に入った。
だが近付くと、シルヴァンの顔色の悪さが際立っていく。敷布に紛れるほどに白い顔が恐ろしかった。おまけに、掛け布団で首元まで覆われて、顔だけしか見えない。どうしようか、声をかけようか。寝ているのなら起こさないほうがいいのだろうか。そう思いながら顔を覗き込む。いつもの快活な笑みがないシルヴァンはまるで人形のようだった。つい、壊されて、首が取れてしまった人形を思い描いてしまう。それをかぶりを振って振り払う。シルヴァンのからだはこの顔の下にあるはずなのだから。寝心地の良さそうな掛け布団の膨らみを確認して、フェリクスはもう一度シルヴァンの顔を見る。
「シルヴァン」
自分の声が不安に塗れていることに気づき、フェリクスは息を呑んだ。シルヴァンに目を開けてほしい。このまま寝かせておくのは怖い。フェリクスはさっきまでの逡巡などすっかり忘れて、もう一度シルヴァンの名前を呼ぶ。三度目、そして四度目でようやくシルヴァンのまぶたが震えた。
「シルヴァン」
五回目の名前と、シルヴァンの目が開いたのは同時だった。シルヴァンは瞬きをして、やけにゆっくりとこちらを見た。褐色の瞳がフェリクスのほうを向き、それからまたゆっくりと細められた。笑っていると、いうには少し不格好だ。
「フェリクス……」
シルヴァンが呼ぶ声があまりにも小さく掠れていたので、フェリクスはごくりとのどを鳴らした。いつもの年上ぶったシルヴァンからは考えられない弱々しさに、頭の中が混乱してしまう。シルヴァンは本当にどこかが壊れてしまったのではないだろうか。
「ごめんな、今日、あそぶ約束……」
「そんなこと、いい……」
胸のあたりが熱くなるのがわかる。フェリクスはこれが自分が泣く予兆であることを知っている。だけど泣いたりしたらまた、こんなに弱っているシルヴァンを心配させてしまう。なんとかこらえようと眉間に力を入れた。
「シルヴァン、つぎ会うときは元気になってる、だろ」
「つぎ……? ん、そうだな、元気になってるよ」
「ぜったいだぞ、し、……死んだりするなよ」
シルヴァンは口元に笑みを浮かべ、黙っている。すぐに肯定が返ってくるものだと思っていたフェリクスは、胸のあたりに不安がこみ上げてきて、自分の服を握りしめた。
「シルヴァン、」
「大丈夫だよ、けがは魔法でどうとでもなるし、寝ていれば痛いのもそのうちなくなるし」
「けが、してるのか……?」
フェリクスは自分が聞かされていた話との違いに首を傾げた。シルヴァンは口をつぐむ。フェリクスももちろん怪我はしたことがあるので、魔法で治癒できることは知っている。だが、そのあとまで痛みが続くほどの怪我はしたことがなかった。
「ほんとに、大したことないから」
「ほんとか」
シルヴァンがそう言うのならそうなのだろう。フェリクスは自分を納得させる。そうは言っても、シルヴァンの顔色は悪い。怪我は大丈夫でも、熱でどうにかなるんじゃないか。フェリクスは思わず口を開く。
「シルヴァン、や、約束してくれ」
「なにを?」
とにかく、シルヴァンがこのまま弱っていくのはいやだった。死んでしまうなんて絶対にだめだ。つまり、シルヴァンと、ずっと一緒にいたい。ずっと生きていてほしい。フェリクスの口をついて出たのは、次の遊びの約束などではなかった。さっき我慢したはずの涙が溢れてしまう。
「俺たちは、死ぬときは――、」
*
その節の課題は、フェリクスの実家の領地に居着いた盗賊の討伐だった。盗賊の討伐自体は何度かこなしてきた課題だ。しかしいつもと違ったのは、その盗賊の頭領の出自だった。つまりそれは、シルヴァンの実兄、マイクランその人だったのである。
戦いは熾烈だったが、これまでの訓練のおかげで級友は全員が生き残った。そしてあの担任教師は、よりにもよってシルヴァンに、その兄を倒すように命じた。シルヴァンは一切の反論をせず兄に向かって黒魔法を唱え――、
それから先はまるで悪夢のような光景だった。倒れたマイクランは黒い魔獣にその姿を変貌させ、こちらに襲いかかってきたのだ。それでも担任教師は一瞬目を見張ったのち、再び生徒にその魔獣を攻撃させた。それはシルヴァンも例外ではなく、彼の魔法はマイクランだった獣の皮膚を焼いた。なんとかその魔獣さえ命を断ち、青獅子学級の面々はふらつく脚を叱咤し、なんとか修道院まで帰ったのだった。
槍にすがるように歩くシルヴァンの顔色は悪く、フェリクスはそれが直視できなかった。たとえば、自分がシルヴァンの立場ならどうしていただろう。
シルヴァンとマイクランは、自分とグレンのような兄弟関係ではないことだけは、以前から薄々わかっていた。しかしあのおしゃべりなシルヴァンが兄の話題に出すことはなかったので、シルヴァンが自身の兄のことをどう思っていたのかは、知らなかった。
だが、先程の戦いの中、マイクランがシルヴァンのことを「お嬢さん」と呼んでいたのは聞こえていた。弟に向ける揶揄にしては、異質な呼び名だ。確かにシルヴァンは彼の両親に大事にされているように見えたが、貴族の子弟は大概あのようなものだろう。今思えば、マイクランはそうでなかったのかもしれない。あの頃のフェリクスは幼くて、そんなことを考えたこともなかった。
幼馴染の四人、お互いになにもかもを知り尽くした間柄だと思っていた。どうしてそんなに愚かな確信をしていたのだろう。
なんとか修道院までたどり着き、ベレスの号令で解散となった。女子たちがシルヴァンの肩をたたき、「ゆっくり休んで」と言いながら寮に戻っていく。シルヴァンは「ありがとう」と笑ってみせる。それはあまりに不格好だったが、さすがにそれを指摘する人間はいなかった。
一階に部屋があるアッシュとドゥドゥーもそれぞれ声を掛け合って去り、ディミトリとフェリクスとシルヴァンが残る。三人は部屋が近いので、なんとなく連れ立って階段を登る。三人は重苦しく沈黙していた。シルヴァンの部屋はいちばん奥だ。長い廊下をゆっくりと歩く。すれ違ったヒューベルトのこちらを窺うような視線を気に留める余力もない。
ディミトリがシルヴァンを部屋まで送り届けているのを視界の端に捉えながら、フェリクスは自室の扉を開けた。
「心配しすぎですよ」
「しかし」
「本当に俺は平気ですって。殿下もゆっくり休んでくださいね」
「……ああ」
ふたりの会話を聞きながら、フェリクスは自室に入り扉を閉めた。そのまま剣を机に立てかけ、髪をほどき、辛うじて長靴だけは脱いで寝台に倒れ込んだ。頭が痛む。明日も授業があるのだから、休まなければならない。そう思って目を瞑るが、神経が昂ぶっているのか、眠くならない。これなら服を着替えてから横になればよかったとも思ったが、かといって立ち上がる気力は出ない。なにもかもがままならない。
自領にそびえる黒い塔、こちらを本気で殺そうと迫ってくる盗賊たち、実の兄に向けて魔法を放つシルヴァンの瞳、黒い獣の唸り声。すべてを忘れてしまいたいのに、まぶたの裏に蘇ってくる。おそらく、いま部屋にいる青獅子学級の全員がこの調子だろう。それだけのものを見てしまった。
その後も半刻ほど横になっていたが、それでもなかなか寝付けない。そればかりか、ますます目が冴えていくような気がして、フェリクスは寝返りを打った、そのときだった。ふと、耳が廊下の床の軋みを拾う。部屋割り上、フェリクスの部屋の前を通るのは、シルヴァンかディミトリのどちらかだ。これはどちらだろう。普段ならば聞き分けられるが、聞いたこともないほど足取りが重くて判然としない。シルヴァンにせよディミトリにせよ、その目的は違えど夜遅くに部屋から出ていくことはままあるが、さすがにこんな夜に出掛けるのはどうかしている。フェリクスはゆっくりとからだを起こした。そして足音を忍ばせ、音を立てないよう気をつけながら、扉を開ける。足音が去ったほうを見ると、暗い廊下の向こうに赤毛が揺れているのが見えた。背中に走ったざわつきに従って、そのまま部屋を出て、シルヴァンを追う。
ある程度距離を取りながら、しかし月明かりのしたで見失わないようにシルヴァンを追う。覚束ない足取りのシルヴァンは、中庭を横切り、大広間を抜け、そのまま大聖堂の方へ向かっていく。らしくはないが、祈りでも捧げに行くのだろうか。それなら一人にしておくのもいいかもしれない、とフェリクスが思った瞬間だった。大広間と大聖堂をつなぐ煉瓦でできた橋で、ふとシルヴァンが進路を変えた。橋の縁まで歩くと、欄干に手をかけ、空を見上げた。フェリクスの距離からは表情が見えない。何事かと思った次の瞬間、シルヴァンは今度は下を見た。欄干から身を乗り出す。
橋の下は深い谷になっている。あのまま均衡を崩したらどうなるのか、想像するより先にフェリクスは駆け出した。シルヴァンに突進し、彼がこちらを見たと同時に、上着の背中の布地を掴み、橋の上に引き倒した。
「お前は……、死にたいのか!?」
フェリクスの長い髪が風に吹かれて舞い上がるのを、からだを起こしながら、シルヴァンは見上げた。その視線の意味をフェリクスが問いただす前に、シルヴァンはすぐに唇だけを笑みの形にした。
「まさか」
フェリクスはシルヴァンのその言葉が、意味に反して肯定であることに気付かざるを得なかった。いや、もしかしたら最初からわかっていたのかもしれない。
死にたいのだ。シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエは、きっとずっと死にたかった。それがわかっていたからこそ、幼いフェリクスはシルヴァンにあの約束を結ばせたのだ。
「ならば何故こんなことをした!」
「別に、……どうも眠れなくてさ、散歩してただけだよ。今だってちょっと下を覗いただけだ」
「…………」
フェリクスだってずっと眠れなかった。だが、こんな夜中にこの橋から下を覗き込むなんて自殺行為だとしか言いようがない。誰かに軽く背を押されれば、あっという間に谷底へ真っ逆さまだ。
「なあ、本当に大丈夫だって。元々あいつは廃嫡されてて、うちじゃ死んだも同然だったんだからさ」
シルヴァンはいつもよりひっそりとした笑みを浮かべて、ひらひらと手を振った。たったこれだけで、本当に「大丈夫」に見えてしまうのが恐ろしかった。これまではずっと、このシルヴァンのことばを信じていたのだ。彼が「大丈夫」と言えば「大丈夫」だと、「寒くない」と言えば「寒くない」のだと思っていた。
そうではなかったはずなのに、だ。
「シルヴァン」
「なんだよ、今日はやけに絡んでくるなぁ、もしかしてフェリクス、心配してくれてるのか?」
「そうだ」
「……お前、冗談がうまくなったな」
「冗談ではない」
フェリクスはシルヴァンをねめつけた。シルヴァンは眉を寄せる。同情してほしくないとでもいいたいのかもしれないが、残念ながら今のシルヴァンは同情に値するだけの境遇なのだ。
「お前はもう少し、」
「心配してくれたことはありがたいけど、俺は本当に大丈夫だよ。大聖堂にでも行こうかと思ってたけど、フェリクスも来ちまったし、やっぱり部屋に戻って寝ることにするか」
シルヴァンはフェリクスの言うことを遮ると、寮の方に向かって歩き出す。フェリクスは慌ててシルヴァンの後を追った。黒い制服が夜闇に消えてしまわないように、シルヴァンの横に立つ。なにを言えば躱されずに、シルヴァンのことばを聞き出せるのだろう。それは口のへたな自分には、とてつもなく難しいことに思えた。
「なんだかやけに甲斐甲斐しいなぁ、フェリクス」
「べつに、」
いつものように「心配などしていない」と言いかけて、口をつぐむ。危ないところだった。こんなことを口にしたら最後、シルヴァンはさっと遠ざかってしまうだろう。
「『べつに、』どうしたんだよ」
いつかの日のことを思い出す。白い敷布と布団に埋もれたシルヴァンの弱々しい声、それでも笑おうとする気丈さ、そして自分が持ち出した約束。あのときと同じ、胸の奥が熱くなる予感がした。フェリクスはなんとか堪え、息を吐き出すと、シルヴァンのほうを見る。
「あんなことがあって、……そうも平気そうにするなど、逆に取り繕っているようにしか思えん」
「そうか?」
「イングリットだって……猪だって、いや、学級皆がそう思うだろう。勿論先生もだ」
「……ええ……じゃあなんだ、俺はもっと悲しそうに振る舞えばいいっていうのか?」
「……はあ?」
フェリクスは眉を釣り上げ、シルヴァンの顔を見る。シルヴァンは眉尻を下げて、ため息をついた。
「いやまあ、確かに……あまり兄上と仲はよくなかったさ。だけどやっぱり、自分の手で兄上のからだを貫くのは……、堪えるよな……」
芸達者な俳優が台詞を諳んじるように、シルヴァンはすらすらと言ってのける。フェリクスはぞっとした。あの猪――ディミトリが惨たらしい復讐を望む本性に蓋をして、よい級長、ひいてはよい王子を演じていることは、とっくに気付いている。だがシルヴァンもここまで言動を偽ることができるのか。ならばシルヴァンの本音は、いったいどこにあるのだろう。
「シルヴァン」
「なんだよ」
「さっきのことだが、……お前は本当に死にたくなかったのか」
シルヴァンは微笑み、返事を返さなかった。いよいよ不審だ。フェリクスはシルヴァンの手首を掴むと、無理やり寮の階段を登った。シルヴァンが「痛いって!」と声を上げるが、そんなことはどうでもよかった。そういう情けない声は出せるくせに、こいつは。
フェリクスはシルヴァンを彼の自室に押し込み、自分も中に入った。シルヴァンが落ち着きなくあたりを見回す。それから、フェリクスのほうを見た。
「あの、フェリクスさん? なんで怒って……」
「なんでもかんでもあるか阿呆、そうしてヘラヘラしていれば、昔のように俺が誤魔化されるとでも思ったのか」
「誤魔化そうなんて思っちゃいないけど」
「思っているだろう」
フェリクスはシルヴァンの肩を押して、無理やり寝台に座らせる。こうすれば、身長差は完全に逆転する。せめて見下ろせば、シルヴァンのやり口に乗らないで済むのではないか、という計算の上だ。案の定シルヴァンはこちらを上目遣いで見る。
「全部吐け」
「全部って」
「全部だ。今までお前がそのヘラヘラした面の下に隠していたものを全部見せろ。あの兄をどう思っていた。殺してどう思った」
フェリクスは息を吐いた。
「……死にたいなどと、思っているんじゃないのか」
シルヴァンは何度も瞬きをする。目立つ目尻のまつ毛が上下した。フェリクスは黙ってシルヴァンをねめつける。腕を組み、脚を広げ、シルヴァンが逃げようものならすぐ捕らえられるように集中する。
「それを言わせてどうしたいんだよ」
「どうもこうもせん、しかし今のお前が笑うのを見ると腹が立つ。どうにかしろ」
「横暴だなあ」
シルヴァンはそう言って、長く息を吐き出す。観念しましたとでも言いたげにかぶりを振って、肩をすくめた。
「まず一つ。確かに俺は兄上とは折り合いが悪かった。お前は気付いてたかどうか知らないけど、兄上は随分とうちじゃ冷遇されててね。まあでも、可哀想だよな、たまたま紋章を持たずに生まれただけなのに勝手に冷遇されて。そりゃ弟には嫉妬するし素行も悪くなるよなー、ってところかな」
「それで全部か」
「そうだな」
「…………」
フェリクスは信用できない、といった素振りを見せるが、シルヴァンは無視をした。まさか繰り返し兄に殺されかけるような虐待を受けていただなんて、フェリクスには知られたくもなかった。フェリクスに、ほんの少しでも「可哀想だ」なんて思われるのは耐えられない。シルヴァンは、これまでも、そして今後もずっと、彼ら幼馴染の気楽な兄貴分でいたいのだ。
「二つ目。そりゃさすがに堪えてるよ。でも、さっきも言ったとおり疎遠になって久しいしな。……や、まだ実感が湧いてないのかもしれないけど。向こうは最期まで俺さえいなけりゃよかったって思ってたみたいだけど……まあ、そりゃあそうだろうな」
あの男に「お嬢様」と呼ばれていたことについて訊いてみようか、とフェリクスは思ったが、話が逸れてしまいそうだ。一旦飲み込んでおく。シルヴァンは淀みなく話を続ける。
「最後のだけど、それはない。ゴーティエ家に生まれた紋章持ちとして、英雄の遺産を持ってスレンの侵攻から国を守らなきゃいけないし、跡継ぎも作らないといけない。それにまだまだ殿下やお前の子守だってしないとな。死ぬわけにはいかないだろ」
「義務の話ばかりだな」
「いやぁ、そりゃあまだフォドラ中の女を口説ききってないし、士官学校に入って気づいたけど、フォドラの外にもいい女はいるんだよな……でもこういうこと言うとお前怒るじゃん」
あまりに完璧な返答だ、とフェリクスは思った。シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエとして、この上なく「それらしい」返答だ。ほんの少し前の自分なら、納得してシルヴァンを解放していただろう。だが今回ばかりはそうはいかない。事実、シルヴァンはさりげなく自分の命を軽視するような言動を繰り返し、あまつさえ橋の欄干から身を乗り出していたではないか。
「シルヴァン、俺はお前に」
言わなければならない。フェリクスには、シルヴァンに望むたったひとつのことがある。彼は察しがいい男で、もしかしたらすべてわかっているのかもしれないが、フェリクスが口に出さなければ望んでいるだけで終わってしまうだろう。
「お前に生きていてほしい。俺の兄のように――、お前の兄のように、失われてほしくない」
「グレンと兄上じゃ全然違うだろ」
ふと、シルヴァンの声が低くなる。意図を図りかねて、フェリクスは唇を引き結んだ。シルヴァンは左手で口もとを覆いながら、今日初めて不機嫌を顕にしているように見えた。取り繕っていない表情だ。
「俺の兄とお前の兄、どう違った」
「どうもこうも、グレンは立派なもんだったろ、あんなに若くして騎士になって。うちの兄上は盗賊団の頭領だぞ」
シルヴァンの声が硬い。本心を隠す殻のようだった。だが、殻というものは、たとえば剣の柄で叩けば割れるものだ。フェリクスは喉を鳴らす。
「『お嬢様』と呼ばれていたな」
「あー……聞こえてたか」
シルヴァンはため息をついた。それにしても、今日のフェリクスは本当にらしくない。いつもはこうも絡んできたりしないだろう。お互い疲れ切っているのに、消耗するやりとりを続けようとするのは、おそらく本当にこちらを心配しているからだ。そんなことはシルヴァンだって当然わかっている。いつか、マイクランに雪山に置いていかれ、なんとか助けられたものの高熱を出して寝込んでしまったときのことを思い出す。あのとき、見舞いにやってきたフェリクスが、ひどく泣いたのを見て、もう二度と彼を自分などのために泣かせるものかと思ったのに。
結局、自分は二十歳にもなってフェリクスに心配をかけているらしい。シルヴァンは自嘲した。
「なあフェリクス、もういいだろ。俺もお前も、早く寝たほうがいい。続きはまた今度にしよう」
「お前が触れられたくないのはここか」
「…………、フェリクス」
咎める声だったが、フェリクスは止まらなかった。
「お前はやはりあの兄と禍根があるんだろう。紋章を持っていることを嫉妬された、仲が悪い、以上に、なにかあるんじゃないか」
「だから、ないって、」
「あの頃は俺も子どもだった、だが今は――」
「やめろ」
いつの間にか、シルヴァンは俯いていた。
「頼むからもうやめてくれ」
声が震えている。
フェリクスが暴こうとしているのは、もう十年以上隠し通した秘密だった。兄に暴言を、あるいは暴力を振るわれた、井戸に落とされた、雪山に置いていかれた。当時のマイクランに思いつく限りの嫌がらせをされていたのは事実だ。そのたびに「お前さえいなければ」と言われていた。自分の存在が他の人間の幸福を奪い続けていることに気づいたのはもう随分と幼い頃だったと思う。
「そうだよ」
シルヴァンは両の手で顔を覆った。
「おれはずっと、兄上に殺されたかった……、」
フェリクスは、シルヴァンの外側が、一度にどっと溶けてしまったかのように感じた。そこにいるのは疲れ切った、小さな少年だった。フェリクスは組んでいた腕を解き、シルヴァンを見つめた。幼い頃にした約束を思い返す。
――死ぬときは一緒だ。
あれはシルヴァンにとって、むごい約束だっただろう。シルヴァンの自由意志などまるで無視した約束だ。いや、シルヴァンからしてみれば、呪いも同然だったのかもしれない。シルヴァンはずっと死にたかったのに、この約束がシルヴァンを縛り付け続けたのだ。
「やっと言ったな」
「……気が付いてたのかよ」
「さあな」
シルヴァンが大きなため息をついた。
「殿下たちも気付いてんのかな」
「それこそわからん」
フェリクスにその表情を見せないまま、二度目のため息が吐き出された。重苦しいため息だった。
「もうそれも、叶わないけどな。兄上は死んじまったわけだし……、俺が、……殺した、わけだし」
シルヴァンの低く潜めた声はしかし、フェリクスの耳にはきちんと届いた。この男はこんな声も出せるのか、と思う。
「俺を殺す最後の機会だったってのに、弱いんだよなあ、兄上」
妙なことにシルヴァンの声は、まるで幼い子共を甘やかすような柔らかさを持っていた。士官学校ではシルヴァンは不真面目な生徒で通っているし、ベレスに集中的に教え込まれている槍はディミトリに、黒魔法はアネットに劣る。だが、マイクランはシルヴァンの攻撃に抵抗もできずに死んでいった。その程度の男だった。
シルヴァンはようやく顔を上げる。飴色の瞳がフェリクスを見上げた。口もとはやはり笑みの形になっている。途方に暮れて、なにもかもを諦めた笑みだ。フェリクスはシルヴァンに目線を合わせたまま、一歩近付いた。泣けと言えば彼は泣くのかもしれないが、「フェリクスがそう言ったから」という理由で泣かせるのは不本意なので言わないでおく。
「シルヴァン、……悪かった」
「は、――ほんとだよ、こんな無理やり脱がせるような真似、女の子には嫌がられるぞ」
フェリクスは答えなかった。それでも頭を掻きながらなおいつものようなことを言おうとするシルヴァンに、触れてみたいと思った。しかし、頭を撫でるのも抱きしめるのも、弱みにつけ込んでいるようで、どうにも躊躇われる。それでフェリクスはシルヴァンの目の前に立ち、ふと目についたその右手首を取る。持ち上げてみると、自分の手より大きい。触れてみれば、槍を握り続けたせいだろう、豆が潰れ、手のひらが硬くなっている。新しい火傷は炎魔法に失敗したときのものだろうか。自分のものと同じくらいには傷付いた、しかしこれまできちんと生き残ってきた、これからを掴み取ることができる、確かな男の手だった。
「フェリクス?」
「お前は、これからは生きるしかないな」
いぶかしげな顔をしていたシルヴァンが目を見開く。それから、取られたままの右手を握った。
「そうだよ。――これまでだって、お前、たちの、ために……」
ああ、シルヴァンはあの約束をやはり覚えているのだろう。例え彼にとっては自身の望みを深くに抑え込む、呪いのようなものだったとしても。フェリクスは、だからこそ、あれは誤った約束ではない、という確信があった。フェリクスはシルヴァンの右手を解放する。
「はあ、話したら……眠くなってきたな」
シルヴァンが小さな欠伸をする。そこに演技はなさそうだった。眠いのなら眠らせるべきだ、とフェリクスだってわかっている。こうして疲れていることにつけ込んで彼の内面を暴いたが、彼はいま誰より休むべき人間なのは変わっていない。
「そう、か」
さすがにここまでか、とフェリクスも頷く。シルヴァンはそれでも「そういやフェリクスは? 眠れないから俺のことなんか追いかけてきたんだよな」とこちらに気を回そうとする。
「まあ……それはそうだが、お前の欠伸のせいで俺まで眠くなってきた」
「ああ、あるよなそういうの。どうする? 一緒に寝る?」
からかうように言いながらシルヴァンは掛け布団を引っ張り、そしてまた欠伸をする。
「なにを馬鹿なことを」
フェリクスはそう返してから、自分の内心ではその提案に心が揺らいでいるのを自覚する。
――シルヴァンと、寝たい。
それは唐突な衝動だった。理由がわからない。ただ、そうしたい、と思った。フェリクスは自分の口もとを覆う。
妙なことを考えてしまうのはきっと疲れているからだ。フェリクスは頭を振ると、「……明日も休めよ」とだけ言ってシルヴァンの部屋の扉を開ける。
「おやすみ、フェリクス」
後ろからシルヴァンの声が追いかけてくる。フェリクスは振り向かずに、「ああ、おやすみ」と答えた。
部屋に戻って、すぐに眠れるだろうか。もしかしたらまだ難しいかもしれない。フェリクスは深く息を吐いた。