鉄血
どこかで子どもが泣いている。あたたかなぬくもりが恋しくなったか、訓練がつらいのか、腹が減ったのか。もしかしたら全部が正解なのかもしれない。ユージンは目をこすりながら起き上がって、その泣き声の出処を探した。隣の部屋は静かだ。その隣の部屋にもいない。それから。
ユージンがようやく見つけたその子どもは、ユージンが肩に触れるとぐずぐずと鼻をすすり上げた。
「どうした」
「お兄ちゃんが死んじゃうかもしれないって思って」
そういえばこいつは兄弟そろってCGSに入隊したんだったか。ユージンは鼻の頭を真っ赤にしたその子どもの頭を撫でる。参番組の年長者は全員、昨日から戦場に出ている。一軍もごっそりいないおかげで残ったこちらはほんの少し気楽だったが、そこに身内がいるともなれば心配……なのだろう。たぶん。ここにいる多くの者のようにユージンも天涯孤独で、そういう気持ちはよくわからない。
「……、不安なんだな」
「……うん」
大丈夫だ、死なない、そう言ってしまうのは簡単だけど、それでこの子どもの兄が死んでしまう可能性がゼロになるわけではない。だからユージンは子どもの背中を撫でて、彼が寝静まるのを待つ。
睡眠不足は少年兵の大敵だ。だれかが泣けば、その分多くの者が眠れなくなる。翌日調子がでなくてちょっとしたミスで死んでしまう、なんてことだってあり得ない話ではない。
手のひらのしたの体温のあたたかさにユージンはほっと息を吐く。ようやく子どもは寝入ったようだった。はやく年長組に戻ってきてほしい。ユージンだって眠いのだ。
そして翌朝、ユージンたちは参番組の年長組が、作戦によって全滅したことを告げられたのだった。
「ユージン・セブンスターク、だったか」
一番組の隊長に呼び出されたユージンは、落ち着かない気持ちではい、と返事をした。上着の袖をいじっていると、ため息をつかれる。
「今日から参番組の隊長はお前だ」
「え?」
「残った奴のなかでお前がいちばん目立ってやがるからな」
ユージンは眉を寄せた。本当にそうだろうか。白兵戦ならノルバのほうがよほど強い。モビルワーカーの操縦だって最近ようやく覚えたばかりだ。だけどそう思われたなら、それは悪くない話のように思えた。隊長。はじめて自分に名前以外の呼び方がついた。それはユージンの自尊心を大いに刺激した。
「……やります」
「そうか」
話はそれだけだ、と彼は言った。拍子抜けしてしまう。もっと、がんばれよ、だとか、しっかりな、だとか、労いのことばのひとつやふたつあったっていいんじゃないか。
しかしまさかそんなことを要求するわけにもいかず、ユージンは黙って息をはく。隊長。参番組の隊長は自分だ。それはわくわくする響きであることに間違いはなく、ユージンは口元をゆるめた。
「いいから早くやれよ」
背後からのユージンの低い声に、ノルバは自分が言われたわけでもないのに肩をすくめた。参番組の年長組がまとめて死んでから三ヶ月、つまりユージンが参番組の隊長となってから三ヶ月が経っていた。
もともとユージンはやさしいやつだった。小さな子どもを慰め、周囲に目を配り、より効率の良い作業のしかたを提案できるやつだった。だけど参番組の隊長になってからというものの、いつも眉間にしわを寄せ、威張るような口調で人に命令ばかりする。たったの三ヶ月で仲間内のユージンの評価はあっという間に落ち込んでいった。偉そうに、生意気だ、一軍に媚びてるんじゃないのか。今だってそうだ。ユージンが叱っているのは最近入ったばかりのガキで、土のうひとつ抱えるのにも苦労するような、ひょろっとしたからだをしている。
「まあまあユージン、そろそろ休憩にしようぜ」
「……シノ」
そういうときに、ノルバは無理やり空気を和ませに行く。
「こんな空気じゃ進むもんも進まねえよ、な?」
「…………」
ユージンはむっつりと唇を曲げて、踵を返してしまう。ノルバはユージンを追って肩に手をかける。ユージンはやさしいやつだ。周りが言うようなやつじゃない。だからちゃんと話をすればいいのだ。そうおもったけれど、ユージンはノルバの手を振り払う。その緑の瞳が潤んでいるように見えたので、ノルバはもう深追いすることができなくなってしまった。
不用意に休憩したことによって参番組は今日のぶんのノルマが達成できず、隊長のユージンがあとで一軍に殴られたと知ったのは、夜になってノルバが部屋に戻ってからだった。ユージンはそれでもノルバにも例のガキにもひとことも文句を言わなかった。
「わるい、俺てきとうなことした」
「べつに」
そう言ってユージンはこちらに背を向ける。ユージンがどんどん頑なになっていく。ノルバはガキをかばうので、少しずつガキに慕われていくのに、そのかわりに三ヶ月まえのやさしいユージンはもうどこにもいないのだった。ノルバはユージンの肩に触れようとしたが、ユージンはそれを突っぱねた。その手の甲にはおそらく煙草の火を押し付けられたような火傷の痕があって、ノルバは思わず目を背けた。
*
オルガがいつになく大仰にため息をつくので、ノルバは瞬きをした。
「どうかした?」
尋ねると、オルガは顔を上げた。だらだらとシャワーを浴びていたら食堂にはオルガと自分しか残っていなかったのだ。
「ああ……シノ」
ほんの数日前、オルガはクーデターをやってのけた。クリュセ・ガード・セキュリティをぶっ潰して、自分たちの会社を立ち上げたのだ。こちらを理不尽な目に合わせてきたおとなたちはほとんどがいなくなった。オルガは新しい会社――鉄華団の団長、つまり社長になったのだった。
しばらくオルガはノルバのほうを伺っていたが、どうやらノルバに相談することに決めたらしい。
「手続きのために、副社長つーのを決めなきゃいけないらしい」
「副社長」
ノルバはそれをそのまま呟いた。ついこの前まで非正規雇用だった上に理不尽に大人に殴られていた自分たちがそんな地位につくなんて、どうにも落ち着かない。
「誰にしようかと思ってさ」
「そんなの」
ノルバはとっさにそこまで発音してから、自分たちのなかで「副社長」になり得そうな人物の顔が同時にふたり浮かんで、結局そこで止まってしまった。オルガが苦笑する。つまり。
「ビスケットにするかユージンにするかって話か?」
「まあ、要するにそういうことだな」
鉄華団、それ以前のCGS参番組で、オルガの次にリーダーシップを取っていたのが、ビスケット・グリフォンとユージン・セブンスタークだ。
ビスケットは頭がいい。ちゃんと学校に行かせてもらったらしいから、読み書き計算は自分たちのなかでいちばんだ。それに少し臆病だがその体型が醸す雰囲気通り温和で、リーダーとは言えずとも、周囲に頼りにされている。
ユージンは……、ノルバは少し考えた。ユージンは、オルガがここに来る以前、一年か二年ほど、ここのリーダーをやっていた。ビスケットやオルガとは比べ物にはならないが、頭はそこそこ回るしモビルワーカーの操縦ならこの中でもいちばんうまい。だけど何でもかんでもオルガに突っかかろうとするし、ガキどもには懐かれていない。
「……うーん、難しいなあ」
「シノはユージンと仲いいだろ」
「まあ昔っからここにいるからな」
「だからユージン推すかと思った」
「お前が頼めばどっちも断らないんじゃねーの?」
「そうか?」
「そうだよ」
ノルバはユージンが参番組隊長をやっていた数年前のことを思い出した。いつもピリピリして、疲れて、頑なだったユージン。オルガが隊長を変わった頃は文句ばかり言っていたけれど、あの頃にくらべれば、今はよっぽどマシなやつになっている。
「ユージンが副社長、か」
「なんかあるのか?」
「や、でもあいつが『やだ』って言ったらそれはだいたい『やりてえ』ってことだと思うぜ」
「ああ」
ユージンのひねくれた(しかしわかりやすい)言動にも、オルガもノルバも慣れっこだ。
「どっちにも断られたら俺がやってやるよ」
「はは」
ノルバは半分冗談、半分本気でそう言った。オルガはそれで笑って、立ち上がる。
「ありがとな、シノ。ちょっとふたりに話聞いてみるわ」
「おー、そうしろそうしろ」
ノルバはテーブルに頬杖をついて、オルガが食堂を出るのを促した。
「ビスケット」
オルガがビスケットに声をかけると、ビスケットはのっそりとからだを起こした。
「わりい、もう寝るところだったか?」
「ううん、どうかした、オルガ」
「ちょっと」
そう、部屋を出るよう促す。同じ部屋にたくさんの子どもがいるというのは、なかなかやりづらい。廊下を並んで歩き、人気のないところで立ち止まると、オルガはビスケットと向き合った。ビスケットは柔らかな視線をこちらに向けている。
「副社長を、お前かユージンにやってもらいたいと思ってるんだけどよ、」
「うん」
「お前らの気持ちなしに決めるのもどうかと思ってな」
「……ユージンはなんて?」
「いや、ユージンはこれからだ」
「そっか」
ビスケットが頷く。これなら先にユージンに話をきいてくればよかったか。オルガはそう思いながら、ビスケットを見下ろした。いつもの帽子をかぶっていないビスケットは、少し首をかしげてなにかを考えている。
「オルガが言うなら、もちろん喜んでなんでもやるけど」
ノルバが言った通りの返答に、オルガは少し口元を緩める。ビスケットは続けてこう言った。「ユージンは副社長、やりたがるんじゃない?」
「そうか?」
オルガは首を傾げる。
「うん。俺はそう思う」
そういえばさっき、シノはユージンがすすんでやりたがるだろう――とは言わなかったな。オルガは瞬きをした。まあ、オルガが代わってリーダーになったとき、さんざん噛み付いてきたユージンだ。そういう名前をもらうのは好きなのかもしれない。
「ユージン、俺が副社長になったら嫌がらないかな」
「もしあいつがそんなこと言うようだったら、俺がぶん殴ってやるよ」
「はは、喧嘩は勘弁して。ユージンの話も聞いてみて、それから決めて。オルガのとなりに立てるなら、俺はすごく嬉しいけどね」
温和なビスケットらしい発言だった。ビスケットはこれまでも自分のブレーキ役だったし、これからもそうであってほしいと思う。オルガは深く頷いて、次にユージンがいる部屋に向かうことにした。
「副社長」
ユージンが反復する。オルガはビスケットのときと同じ容量でユージンを廊下に連れ出した。
「お前かビスケットにやってもらいたいと思ってる」
「……」
オルガの見立てでは、ユージンはこの話に飛びついてくるはずだったが、ユージンはそれを聞くと黙ってしまった。目を伏せて、考え込んでいる。
ユージンの頭の中には、自分がリーダーをしていたときのことがぐるぐると渦巻いている。空回りしまくって、おとなから殴られ、シノ以外のこどもから嫌悪の目を向けられていたあの頃。
「お前がどーしても、俺にやってほしいって頭下げて言うならやってやるよ」
「は」
オルガはユージンのユージンらしい言い分に、思わず笑ってしまう。ユージンはそれでむっつりと眉を寄せた。
自分はリーダーには向いていない。自分でも重々わかっている。オルガがこちらにやってきて、さんざっぱら文句を言ったが、あの時少しだけほっとした自分の器の小ささに愕然として、それがまだ忘れられない。
「ビスケットはなんて?」
「お前とおんなじようなこと言ってたよ」
「ふうん」
ユージンはなにかを蹴飛ばすように足を跳ね上げ、それからオルガのほうを見上げた。
「あのな」
「ああ」
「ビスケットのほうが向いてるだろ、どう考えても。俺じゃガキどもが納得しねえよ」
意外な答えに、オルガは目を見開いた。ユージンはひっそりと笑う。自分を卑下する笑い方だ。オルガはそれが少し気に食わなくて、眉を寄せる。
「あいつのほうが頭もいいし、周りから信用されてるだろ」
「……」
「あー、でもな」
ユージンは頭の後ろをがりがりと掻きむしった。それからため息をつく。
「あいつには家族がいるだろ。で、学校もちゃんと行った」
「……」
なんの話をしている、とオルガは思った。それとこれとは関係があるのか。
「だからお前の弾除けなら俺のが向いてると思うぜ」
オルガはとうとうユージンをねめつけた。もう参番組を弾除けにしていた一軍はいない。そんな一軍と一緒にされたようで不満だった。ユージンはしかし、そんなオルガの不興には気がついていないようだった。いや、無視しているのかもしれない。
「あいつは別のところでも生きていけるやつだけど、お前も俺ももうここでしか死ねねえ、俺はそう思ってるよ」
「……そうか」
そういう考え方もあるのか。オルガは目を伏せた。そうだ。きたねえおとなを排除し鉄華団と名前は変えたが、クーデリアの護衛をはじめとして、この仕事が命がけであることは、今までもこれからも同じだ。そりゃあ死ぬ確率は絶対に下げるつもりだけど、必ず、誰も死なないなんて言い切れない。降りると言われて、自分がそれを拒絶する権利はないのだ。ビスケットには家族がいる。ここにいる多くがそんなものいないから、オルガはときどき「家族」という概念を忘れてしまうけれど。
「別に、副社長になりたくてこんなこと言ってるわけじゃねーからな」
「わかってるよ」
「ま、お前が頭下げるなら副社長でもなんでもやってやるって、このユージン様がな!」
オルガは息を吐く。
「明日までには結論を出す」
「ああ」
ユージンは素直に頷いた。
「待ってる」
ノルバはあのときから少しだけ後悔していたのだ。リーダーを任せられたユージンが、どんどん孤立していったこと、それをうまく止められなかったこと。具体的にどうすればよかったとは言えないが、今度こそ少しはもっと周りを見てやろうと思っている。
「えー、ユージンが副社長かよ」
「ビスケットさんじゃないんだね」
人事が発表された。昼食の席でそんなことを言っているライドとヤマギの頭をぱしんとはたいて、ノルバは口を開く。
「そりゃユージンのほうがモビルワーカー乗るのうまいからな!」
「それって副社長なるのに関係ない気がする」
タカキが笑いながらそう言って、ノルバは「まあ関係あるだろ」と言った。適当だった。でも、実際、オルガはいつも自分が乗るモビルワーカーの操縦をユージンに任せている。ユージンは文句ばかり言うけれど、つまりあのふたりはそれなりに息が合うということなのだ。だからたぶん、これは悪くない判断のはず。
年少組はまだあれこれ言っていたが、丁度オルガとビスケット、それにユージンが入ってきたので、三人は口を閉じて、そちらを伺う。三人はそれなりににこやかで、シノは軽やかにそちらに近づいた。
「副社長就任おめでとさん」
ユージンに声をかけると、ユージンは顔をそむけた。
「うるせえな、別になりたくてなったわけじゃねえよ」
言葉の割にはユージンの口許は緩んでいる。
「ユージンにはこれからたっぷり頑張ってもらわないとね」
ビスケットはユージンを煽るようにそう言って、ユージンはわざとらしくそっぽを向いた。オルガはなにがおかしいのか、それを見てけらけらと笑っている。
「どうかしたの」
後から入ってきた三日月が、食堂の喧騒に首をかしげる。オルガに副社長をユージンに任せることにしたのだと言われて、三日月はユージンに目線を向けた。値踏みするようにユージンを見るので、ユージンは一歩後ずさった。やっぱりこの目は未だに少しだけ苦手だ。
「……ユージンならいいんじゃない」
「は……」
三日月に認められ、ノルバはすっかりアホづらになっているユージンの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。それを振り払おうとするユージンの手の甲にはあの日一軍につけられた煙草の火のあとがまだうっすら残っていて、だけどノルバは満足だった。
オルガの隣にユージンがいる。その後ろには俺がいる。ノルバは勝手にそう決めたのだ。