駅チカでバカンス(同人誌再録)









阿古哉たち、それから箱根兄弟が座ってきた俺たちの部屋のソファに、今日は錦史郎と鬼怒川が座っている。示し合わせたかのようにポロシャツを着ているふたりは、こちらも示し合わせたかのようにチノパンの膝の上で拳を握っている。緊張しているように見えるのは、俺たちのせいなのだろう。一緒に暮らしはじめてから二ヶ月ものあいだ、親友たちを家に上げなかった俺たちの、せいだ。
 とはいえひとりで暮らしていた頃には、この部屋に錦史郎を上げたことがある。鬼怒川は初めてかな。鬼怒川はぐるっと部屋を見回してから、ほうっと息を吐き出した。
「きれいにしてるね」
「まあな」
 由布院はそう返事をして、それから少し黙った。
「ものが増えたな」
 ところが錦史郎は鬼怒川とまるで正反対のことを言う。
「まあ、色々とふたり分だからね」
 言い訳にもならないようなことを言う。錦史郎はなにかを考えているようだったけど、結局は黙っていた。
 お互い親友と呼べる間柄なのに、なぜかことばがうまく繋げない。それから由布院はしばらく黙っていたけれど、ようやく口を開く。
「いいぜ、ふたりで暮らすの。いろいろ楽だし。お前らもすればいいのに」
 すると錦史郎と鬼怒川はぱっと顔を見合わせた。まあ、考えたことないわけじゃないと思うんだよな、このふたりも。同棲って言うのが恥ずかしいなら、いまはルームシェアなんて便利な言葉もあるわけだし。親や周りにはそう言えばいい。俺たちみたいに。いや、俺たちは正確な意味でルームシェアしてるんだけど。
「……それは僕が……、迷惑をかけることになるかもしれないから」
 錦史郎は神妙そうな声でそう言って、それから由布院のほうを見た。
「君こそ有馬になにか迷惑をかけているわけではないだろうな」
「そりゃかけてるよ」
 由布院はそうさらっと即答した。錦史郎と鬼怒川がはっと目を見開く。驚いたふたりを見て、由布院はニヤリと笑った。ちょっとたちの悪い笑い方だな、と思う。
「有馬が迷惑かけてもいいよって言うからな」
「由布院」
 俺は思わず由布院を咎めた。それは、確かにそう言ったけど、錦史郎のまえでそれを持ち出されるのはちょっと気恥ずかしい。すると鬼怒川は「ええと」とそろりと手を挙げた。
「その……煙ちゃんといぶちゃんは、付き合ってる、の?」
「は?」
「え?」
 思わず由布院と同時に声を上げてしまう。
「そうなのか?」
 錦史郎のほうと言えば、鬼怒川の発言に跳ね上がるように立ち上がろうとして、思いとどまってまたソファに体重を乗せた。この時には一応落ち着いたらしく、由布院ははあ、とため息をついた。
「付き合ってるわけねえだろ。なあ有馬」
「うん」
 これに関してはそうとしか言いようがない。由布院と付き合った覚えなんて、これまで一瞬たりとも、ない。
「ほんとに?」
 ところが鬼怒川はまるで信用していないような声を出す。由布院がわざとらしく「有馬ぁ、熱史が信じてくれねえ」と甘えるような声を出してきて、煽ってるつもりなのか冗談にしてしまいたいのか。どっちにせよ錦史郎には完全に逆効果だった。
「本当になにもないのか」
 錦史郎の声は低かった。こちらを睨めつける視線の鋭さときたら、ちょっとひやりとしてしまう。
「ていうかさ、万が一俺らができてたとしてさ、お前らには関係ないだろ」
 由布院は膝の上で頬杖をつくようにして錦史郎を見た。由布院にだって当然錦史郎に嫌われている自覚はあって、だからわざとらしく煽っているのだろう。錦史郎はそれにまんまと乗せられるみたいにして反応した。
「関係ある、有馬は私の」
「私の?」
「私の大事な友人だ、友人が妙な男に誑かされているのを見逃せるか」
「ちょっときんちゃん」
 それは言い過ぎ、と鬼怒川が止める。やっぱり由布院は鬼怒川にとって親友だ。由布院のあおい瞳はまるきり動揺せずに錦史郎をじっと見つめて、それから次にこちらを見た。にや、と笑われる。
「愛されてんねえ、有馬」
 ぞわ、とする。愛されて、るわけないだろう。それとも由布院から見て本当にそう見えているのだろうか。いやいや、錦史郎は鬼怒川のことを愛している。そんなことはとっくに君もわかっているはずなのに。僕は由布院を牽制するように見返して、それからため息をついた。
「お茶淹れてくる」
 ここでまさかの由布院が逃げ出した。お茶を淹れるのはいつだって僕の仕事だったはずなのに。だけど俺は少しだけほっとしていた。
「あのね錦史郎」
「なんだ」
「由布院には確かに迷惑かけられてるけど、俺も由布院に迷惑かけてるんだよ」
 錦史郎が、そして鬼怒川がはっと息を飲む。そうだ。前からの知り合いにせよ大学での友達たちにせよ、俺たちのルームシェアのことを知るとみんな同じことを言う。有馬が由布院の面倒を見ているんだろう、有馬も大変だな。
 全然そんなことはない。由布院が俺に甘えているように、俺だって有馬に甘えている。
 錦史郎は俺になんと言い返すべきなのか考えているようだった。キッチンから水を流す音が聞こえてくる。
「まあまあ、それにしてもこの部屋本当に緑が多いよね。有馬の趣味?」
 鬼怒川がとりなすようにして話題を変える。観葉植物を置いているのは確かに俺の趣味だ。水やりも俺がやっている。……由布院もときどきやっている。



 熱史はこの前錦ちゃんとプラネタリウムへデートに行ったのだという話をしてくれた。こいつらの小学生時代の話なんて俺は知ったこっちゃないが、ふたりは随分と星空に思い入れがあるらしく、なにかとプラネタリウムに行っているらしい。
「東京はやはり星がよく見えないからな」
 草津は妙に深刻そうな声でそう言った。そんなこと今まで思いもしなかった俺は、「そう?」と返してしまう。俺はそんなに天体に興味があったわけじゃない。熱史ってそんなに星に興味あったんだな、と草津と和解してから知ったくらいだ。
「やっぱり眉難に帰ると星がよく見えるなって思うよ。煙ちゃんも今度見てみたら」
「んーまあ、気が向いたらやってみるわ」
 俺はとりあえず適当に答える。それから有馬のほうを見て、訊いてみる。
「なあ、お前はあっちよりこっちのほうが星少ないと思う?」
「うーん、まあ、そうなんじゃない?」
 相変わらずの適当な返答に肩をすくめる。絶対そんなこと思っちゃいないだろ、こいつ。草津もそう思ったのか、有馬の返答には不満げだ。
 熱史は間を取り持つように「煙ちゃんたちは二人でよく行くところとかあるの」と話題を変えてきた。俺と有馬は顔を見合わせる。
「よく行くところ、だってさ」
「大学?」
「確かに」
「あとスーパー」
「ドラッグストアと」
「ホームセンター」
 面白くもなんともない答えしかない。草津はため息をついて、「本当に一緒に暮らしているんだな……」と妙に感慨深げな声を出した。そんなに熱史と一緒に暮らしたいのか、草津のやつ。
 そうしたいならさっさとそうすりゃいいのに、余計なこと考えてねえで。俺はちょっとだけ冷えたことを考えて、だけど口に出す気にはならなかった。
「じゃあ、この辺でお前らのベストプラネタリウム教えろよ、そしたら二人で行くから」
 俺が言うと、今度は熱史と草津が顔を見合わせた。それからあそこがいいここがいい、とあれこれ会話を始める。高校のころに比べるとよっぽどお付き合いしているカップルらしい気安さがある。
 高校の頃はひどかったもんなあ。俺は自分で振った話題ながら、少しだけ失敗したなあ、と思った。熱史と草津の話し合いは結構な時間が続いている。どこでもいいからさっさと教えてくれ。
 俺に、そして誰より有馬にこれを突きつける時間は、たぶん、短いほうがいいだろう。



錦史郎たちが帰ってしまって、俺たちは二人きりに戻ってしまう。阿古哉たちや箱根兄弟が来たときはそうでもなかったのに、なんだか随分と部屋が広く感じられてしまう。
 今日はお茶の片付けを由布院がしてくれている。流しでカップを洗いながら、由布院はテーブルを拭いているこちらに声をかけてきた。
「結局さあ、お前草津のこと、好きだった、んだよな」
「まあ、そうだね」
 今更それを隠し立てすることもないので、俺は素直に頷いた。由布院だってそうだろう、鬼怒川のことが好きだった。こんなこと、訊くまでもない。
「……悪かったな」
 すると唐突に由布院がトーンを落とした。
「なんのこと?」
 まったく謝られる筋合いもなく、俺は謝罪に質問を返した。台拭きを片手に由布院がいるキッチンのほうへ向かう。
「だってあのとき……高三の秋、俺が熱史の背中を押したんだよ。俺が熱史と草津をくっつけたんだよ」
 近づいてくる俺に顔を見られたくないとでも言いたげに、由布院は早口でそう言い放った。
 ――高三の秋。背中を押した。鬼怒川と錦史郎をくっつけた。
「だから俺は」
 由布院の唇がほんのすこし、震える。ためらうように唇を引き結び、それから目を伏せ、だけど由布院はすっと息を吸って俺のほうを見た。
「俺は、お前にちゃんと、し、幸せになってもらわねえと、困るんだよ」
 まるで清水の舞台から飛び降りる、みたいな顔で、こんなこと言われて。俺は一瞬びっくりした。びっくりしてから次にやってきたのは、腹の底からこみ上げてくる笑いだった。
「……く、」
 だって、そんなこと。プロポーズとはちょっと違うけど、あんまりにも恥ずかしいこと。それから、……俺も、由布院に対して思っていたこと。言われるなんて思わないじゃないか。
「おい、なんで笑ってんだよ」
 由布院が非難するような声を上げる。そりゃそうだろうな、由布院としては真剣な告白だったろうに、俺は笑ってしまっているんだから。笑っている理由を、ちゃんと言わないといけない。
「いや、だって」
 俺は顔を上げる。由布院の眉間のしわがすごいことになっている。カップを洗い終えた由布院の手はびしょびしょで、その生活感のせいで、怒っているのにどうにも締まらない格好になっているんだけど、たぶん由布院は気がついていない。
「同じだと思って、由布院、俺と」
「……は?」
 ようやく笑いが落ち着いてきたところで、俺はふうっと息を吐き出した。それにしても、一緒に暮らしてるっていうのにこんなに不機嫌な由布院もなかなか珍しいような気がする。怒るほうがめんどくせえ、って言うタイプだからな、由布院は。
「俺も自分で錦史郎に『鬼怒川に告白したら』って言ったんだ。だから由布院がひとりになったのは俺のせい、だって思ってる」
「は……」
 由布院があっけにとられたような顔をしている。ぽかんと開いた口がちょっと間抜けだけど、それは言わないでおこう。
「だってあのときの錦史郎、鬼怒川のことが好きなの、丸出しだったのに、うだうだしていつまでも告白しようとしないからさ」
 由布院はこのへんでようやく腑に落ちたのか、はっ、と息を吐き出すように笑う。
「俺たちもしかしなくても、思ってるよりずっと似た者同士なのか?」
「そうでもないよ」
 俺は首を横に振る。すると由布院がまたちょっとムッとした。
「そこは『そうだね』って言っとくところだろ」
 流れ的にはそうだったのかもしれないけど、これは譲れない。俺と由布院は決定的に違うところがある。
「……俺は由布院みたいにちゃんと、言いづらいこと言えないよ」
「馬鹿にしてんのか」
「まさか」
 むしろ褒めているつもりなんだけど、由布院はまるきり信じてやいないみたいだ。
「由布院はすごいよ」
「どこが」
「そうやってはっきり言えるとこ」
「はっきり、」
 由布院はどういうわけか、その言葉だけをもう一度呟いた。
「俺の、どこが」






 珍しく部室に後輩たちが誰もいない放課後だった。俺は散々提出を渋っていた英語の課題にようやく手を付け、熱史はなにやらスマホをいじっている。推薦で大学を決めちまった優等生はまったく気楽なもんだ。だから俺はからかうつもりで熱史に声をかけた。
「お前って、ほんと草津のこと好きだよな」
 ところが熱史は、俺の軽口に大げさなくらい勢い良く顔を上げてこちらを見た。その頬があんまりにも赤かったので、俺のほうが狼狽えたくなってしまう。
「え、なに、その反応」
「ど、うして煙ちゃんはそんなこと言うわけ」
 問い詰めるように言われて、俺は後ずさりたくなる。椅子に座ってるから無理なんだけど。
「いや、だってお前、」
 そんなこと、今更訊くものなのか。
 「地球滅亡できるかな2」――通称「めつかな2」の終了に伴って数年ぶりに和解した熱史と草津は長い疎遠期間も相まって、とんでもなく初々しい態度を取りあっていた。付き合いたてのカップルだってもっとマシなやりとりをするだろって感じの。実際部室で立や硫黄が「なんなんですかねあのふたり」「いやーいくらなんでもそわそわしすぎだよな」「一緒に帰るだけであれですからね」「とっくに一緒に風呂に入る仲なのにな、まー俺たちもそうだけど」みたいな会話をしていたのを聞いたことがある。そのとき俺は寝たふりをしていた。熱史は草津が好きで、草津が熱史のことが好き。誰から見てもそういうふうに見えているってことだ。
「ええ……そんなにあからさまかな……」
「えっなに、普通に会話してるつもりだったの、あれで」
「…………」
 言うと黙りこくられてしまった。いやいや。まさかまさか。そんなわけないない。俺は頭の中で必死に否定しながら、熱史に問う。シャープペンを置いて、もう課題のことなんかそっちのけになってしまった。
「お前、草津のこと、ほんとに好きなの?」
 そう切り込むと、熱史はまず最初にますます顔を赤くして、それから顔を伏せて、ぐっと歯を食いしばって、それから一秒ミリ単位のゆっくりした動きで頷いた。
 マジかよ。
 鬼怒川熱史は草津錦史郎のことが、本当に好きなのだという。
「え、まじで?」
 からかっているつもりだった俺は、熱史の本気を突きつけられて、それは心のどこかで予期していたことなんだけど、ちょっと動揺してしまう。
「……マジだよ」
 熱史のほうは熱史のほうでどうやら次の瞬間には吹っ切れたらしい。熱史にはこういうところがある。まったく切り替えが早い。なんでそんなにクールなんだってな。俺の方はまだ困惑しているっていうのに。
「ねえ煙ちゃん、錦ちゃんに告白してもいいかな」
 おまけに即こんなことを相談してくるんだから、熱史は大したもんだ。
「なんでんなこと俺に聞くんだよ」
「……錦ちゃんも常識人、だろ。男同士なんて、嫌がるんじゃないかって思うんだよね」
「いや、常識人は緑のハリネズミに唆されたくらいで『地球征服だ〜!』 なんて言い出さねえと思うけど」
 だいたいこいつ、自分のことも常識人だと思ってるみたいな言い方してやがるけど、そうでもないだろ、どう考えても。バトラヴァ・エピナールなんてやってる時点で。地球防衛部なんて部活やってる時点で。俺の親友なんてやってる時点で。
 熱史は草津が悪く言われたと思ったのか少し不満げな顔をしたが、反論は出来ないらしく口をつぐんで、それからため息をついた。
「少なくともあいつはお前を俺に取られたー! つって地球制服することにしたんだから、お前のこと大好き、だろ」
「そう、思う?」
 まあ、草津の熱史への大好きが熱史の草津への大好きだと同じかどうかは俺にはわからない。なぜかというと、俺は草津ではないからである。だけど。
「言ってみればいいだろ」
「適当なこと言わないでよ」
「適当じゃねえよ」
 俺は今までずっと、草津のほうが熱史のことが大好きなんだと思っていた。だけどそうじゃなかった。それだけじゃなかった。熱史も草津のことが好きなんだとはっきり名言されたいま、その告白の成功率は格段に上がってしまったと言えるだろう。そう、上がってしまったのだ。熱史と草津はふたりとももう受験は終わっている。お付き合いの障害があるとしたら。
「あいつらもうすぐ留学すんだっけ?」
「留学……」
「言わなくてもいいのか、ほんとに」
 俺はシャープペンをもう一度手に取った。熱史のほうを見ないように、せめて参考書に視線を落とす。内容なんか一文字も頭に入ってこねえけど。
「大丈夫だよ、きっと」
 僕はぜんぶを断ち切るためにそう言った。大丈夫だ。熱史は大丈夫。
「……うん」
 そっと熱史の顔を見ると、妙にすっきりした笑顔を浮かべていて、それはたぶん俺にはさせられない顔だった。大丈夫。熱史なら大丈夫。きっと草津も熱史のことをきちんと受け入れてくれるだろう。
 熱史はなぜかスマホ片手に立ち上がった。気合を入れているらしい。俺はもう一度参考書に視線を落とす。ああ、これからもっと、受験勉強頑張らねえとな。――熱史に頼らなくて済む、ように。参考書の内容、全然頭に入ってきてねえけど。
 俺も大丈夫だよ。ひとりでだって生きていけるよ、余裕だよ。



 三月のはじめ、生徒会の奴らも短期留学から戻ってきて、別府兄弟との戦いも終わった俺たちは、まあまあまっとうに眉難高校を卒業することができた。
 卒業式で答辞を読む草津を見上げながら、俺は結局コイツ、熱史と付き合ってるんだよなあ、というようなことを考えていた。熱史はどんな顔で草津を見ているんだろう、と思ったが、名前順で決められた出席番号順に並んでいる俺たちは随分と席が離れていて、熱史の顔なんか見えたもんじゃなかった。
 まあ、そんなことどうでもいいか。
 合唱曲を歌って、校歌を歌って、卒業式はそれで終わりだ。
 卒業について、感慨がないわけではない。帰宅部同然の部活だったとはいえ、仲のいい後輩だってできた。おまけにこっそり地球まで防衛していた。いろんなことがあった。……楽しかった。
「煙ちゃん」
 卒業証書が入った筒を持った熱史が隣にやってくる。来月からお互い東京に出るとはいえ、こいつと通学するのももう最後だ。
「ねえ、ネクタイ交換しない?」
 そういうの、草津としなくていいのか、と訊くのも億劫だったので、俺は式典のために珍しくちゃんと着けていたネクタイを外した。
「煙ちゃんはネクタイしてないほうがしっくりくるなあ」
「そりゃそうだ」
 熱史もネクタイを外す。俺たちはお互いの手のひらに自分のネクタイを押し付けるようにして渡す。熱史のネクタイ。三年間熱史の首に巻かれていたネクタイだ。思わず握りしめて、それからしわになる可能性を危惧してすぐに離した。
「ね、あっちで錦ちゃんたちと写真撮らない?」
「ああ」
 黒い制服の群れの中で、生徒会役員共の白い学ランはとんでもなく目立つ。俺たちはふたりで並んで草津と有馬のほうへ向かった。草津がこちら――熱史のほうを見て表情を綻ばせる。なるほど可愛い顔をしていると思った。そもそもこいつは眉難高校美男コンテンストの優勝常連だったのだ。
 とりあえずその辺の後輩を捕まえて四人で写真を撮って礼を言って、なんとなく雑談モードになる。熱史が草津に答辞の感想を述べ始めたので、手持ちぶさたになった俺は有馬に話しかける。
「そういやお前はどこの大学行くんだっけ」
 草津が行く大学は知っている。なぜなら熱史に散々言われたからだ。だけど有馬は知らない。有馬はぱちぱちとまばたきをしてこちらを見た。
「え? えーとね」
 そして有馬はとんでもなく聞き覚えのある大学の名前を挙げた。マジかよ。
「……学部は?」
 とりあえず俺はもう一つ質問を重ねる。
「工学部建築学科」
 なんで今の今まで知らなかったのだろう。いや、受験勉強でバタバタしてたし、その後だって一人暮らしの準備のために結構忙しくしていた。自由登校で三学期は学校自体ろくに来てなかったし、こいつとそんな会話する機会もなかったから、だけど。
「俺もそこ……機械工だけど……」
「え、……そうなの?」
 そして俺は自分と有馬が同じ大学の同じ学部に進学することをこのとき初めて知ったのだった。草津と熱史はあんまり驚いてないから、こいつらは知っていたらしい。ていうか、俺たちがお互いそれを知らなかったことのほうに驚いていた。
「僕はずっと由布院が有馬に迷惑をかけないか心配していたんだが、いっそ知らないままのほうがよかったかもしれないな」
 草津のいつもの当たりの強い言い回しに、俺は肩をすくめる。俺だって別に有馬に迷惑かけたいなんて思っちゃいない。それに俺は熱史にだって、世話は焼かせても迷惑をかけた覚えはない。
「煙ちゃん、俺がいなくても寝坊しないようにね……」
 追い打ちをかけるような熱史の言葉に俺は眉を寄せる。
「お前は俺の母親か」
「こんな息子はちょっと」
 言い返そうと思ったけれど、熱史に言い返すと草津が突っ込んできそうで面倒くさい。俺はため息をついて、さっきからずっと黙っている有馬のほうを見る。有馬はこちらの視線に気がついたのか瞬きをして、それから草津に声をかけた。
「錦史郎、鬼怒川とふたりで写真撮ろうか」
 あ、こいつも熱史と草津が付き合ってんの知ってるのか。そりゃそうだろうな、こいつはこいつでなんだかんだ草津とべったりだったみたいだったし。草津は有馬の提案に頷いて、熱史の肩を叩いてふたりで並ぶ。コンデジを構えた有馬は、「はいチーズ、で撮るからね」とか言って、ふたりがポーズを取るのを促した。卒業証書を胸の前で掲げるようなポーズを撮った熱史と草津を見やって、もう一回有馬のほうを見る。構えているのはその辺のどこにでもあるコンデジなのに、なんだかそれでも様になっている。こいつ、写真が趣味だったりするのかな、などとぼんやりと考える。
「はい、チーズ」
 有馬が声をかけて、シャッターボタンを押す。それからカメラの後ろの液晶画面で撮った写真を確認する。なんとなく俺もそれを覗き込んだ。ふたりとも随分ときれいに笑っている。顔を上げると、有馬の横顔が目に入って、俺はそのとき気がついたのだった。
 熱史に草津と付き合うよう促して、俺がひとりになったのは完全に自業自得だ。だけどそのせいで、こいつもひとりになってしまったんじゃないか。
 俺は自分のやらかしたことに小さく息を飲んだ。いや。いや、さすがにそんなところまで頭が回るかよ。俺はともかく有馬まであんな気分を味わう羽目になっちまったなんて。
「有馬」
「なに?」
 熱史にカメラを返した有馬が振り向く。いつも通りの、いっそ胡散臭いと言いたくなるような、柔らかすぎるくらいの笑顔。……に、わずかにのぞく、こいつの人間らしさ。
「よろしくな、これからいろいろ」
「卒業なのに『よろしく』か」
 有馬は風で乱れた髪を抑えつけるようにしてから、俺のほうを見た。
「うん、こちらこそよろしく、由布院」
 スマートな所作でこちらに差し出された手を、反射的に握ってしまう。俺と有馬の手のひらの大きさはちょうど同じくらいで、だけど指は有馬のほうがちょっと太くて、妙にしっくりくる。
 俺は目の前の男を改めて見て、やっぱりきれいな男だと思った。草津が美男コンテスト優勝常連なら、こっちは準優勝常連だ。そりゃそうなんだけど。
 手が離れていくのが少しだけ惜しい。だけど俺と有馬は握手を解除して、熱史と草津のほうへ向かう。まだ桜は咲いていない。満開になるのはきっと、この街を出る頃だろう。






もう、夏が始まる。
 最近コンビニでアルバイトを始めた上にすっかり気温が上がったせいで、由布院は部屋ではこれまで以上にだらだらしがちになっている。僕は窓際に置いているパキラに水をやってから、ソファでまんがを読んでいる由布院の頭を叩く。今日の夕食当番は由布院だ。そろそろ準備を始めなくてはいけない時間だろう。
「なに」
 由布院が鬱陶しそうに顔を上げる。
「夕ご飯どうするの」
「そうめんじゃだめ?」
「昨日の昼もそうだったろ」
 由布院は面倒くさそうにからだを起こす。のっそりとした動きは少しばかり大型動物じみている。はあっと大きくあからさまなため息をつかれたけれど、だからといって僕も代わりに夕食を作りますなんて言い出すつもりはなかった。由布院はのそのそと大きな熊みたいにソファから立ち上がる。
「あのさあ、今熱史からライン来てて」
「うん?」
 夕飯を作りたくないあまりに話を変えたいのか、由布院はそんなことを言い出した。しかしゆっくりとした動きでキッチンのほうへ移動はしているので、どうやらやる気はないけど作る気はあるらしい。
「夏休みに四人で旅行しないかって」
「旅行?」
 思わず聞き返すと、由布院が「どこだかも決まってねえみたいだけどな」とぼやいた。もう夏休みまでそんなに時間がない。時間の融通がきく大学生の夏休みとはいえ、それならさっさと旅行会社にでも行かないと希望のところには行けないんじゃなかろうか。
「どこ行くつもりなんだろ、パリとか?」
「パリ」
 僕が言ったことを鸚鵡返しをして、由布院がこちらを振り向く。思い切り引いた顔をしていて、僕は由布院のなかで旅行といえば国内旅行らしい、ということを今更理解した。
「……熱史とか草津もそういうとこ行きたがるってことか?」
「さあ、そりゃそうかも、しれないけど、そうでもないかもしれないし」
 由布院はすっかり黙ってしまった。もしかしたら自分のアルバイトの時給と勤務時間に思いを馳せているのかもしれない。黙ったまま冷蔵庫を開けた。今の由布院に夕食のためにわざわざ買い物に行くという選択肢はないだろうし、残り物でなんとかするつもりなのだろう。
「時期を考えれば少しは安く住むかもよ? 八月中じゃなくて九月とかさ」
「ちょっと熱史にどの辺行きたいのか訊いてみるわ」
 冷蔵庫の扉を閉めながら、由布院はもう片方の手でスマートフォンをいじり始める。僕は鬼怒川がせめて沖縄とか北海道だとかを挙げてくれないだろうかと考えながら、錦史郎にも訊いてみようとスマートフォンを取り出した。返信はすぐに来た。
「私はカナダに行きたいのだが、あっちゃんはオーストラリアに行きたがっている」
 どうやら似た内容のメールが返ってきたらしく、由布院が盛大なため息をついている。確かに、カナダにせよオーストラリアにせよ、海外旅行のなかでも旅費が高価になりがちな国だ。
「せめてアジア圏にしとけよ」
「錦史郎はヨーロッパのほうが好きだから」
「知らねえよそんなこと……てかどうせホテルとかも高いところ泊まる気だろこいつら」
 由布院のぼやきが止まらない。
「いくら貯めりゃいいんだよ……」
「ちなみに僕はニューカレドニアに行きたいかな」
「ふざけんなよ……どこだよそこ……俺は別府に行きてえよ……世界一温泉出てんだってよあそこ……」
 由布院の絶望したような声はいっそ同情を誘って、僕は思わず「じゃあ別府は二人で行く?」などと声をかける。由布院は冷蔵庫から取り出した半分だけの人参を片手にこちらを振り返った。
「余計金かかんだろうが」
 全くその通りで、僕は笑ってしまう。まだ由布院は不機嫌だけど、料理をする気はあるらしいし。
「今日はチャーハンだからな」
「はいはい」
 チャーハンはたぶん由布院のなかでいちばんの手抜き料理で、でも結構美味しいので僕は構わない。ふてくされた顔でまな板と向き合う由布院を眺めながら、僕はそれなりに幸せだった。たぶんそれは由布院も同じだろうと思う。思いたい。
「時給いいバイトねえかなあ、治験のバイト探すかな……」
「治験って……」
 しかしながら今現在の由布院はちょっと機嫌が悪い。僕はせめて由布院の機嫌を取るために、彼が最近気に入っているコンビニのまんじゅうでも買いに行くことにした。一緒に温泉街に行ったら、本当の温泉まんじゅうのひとつやふたつ、おごってもいい。
 その程度には、俺は由布院との生活を、気に入っている。愛しているといってもいい。
「コンビニ行くけど買ってくるものある?」
「ビール!」
 きみ、二十歳の誕生日まであと一ヶ月くらいあるだろ。なんて野暮なことを言うつもりはない。僕は「わかった」とだけ答えて外に出た。
 外は部屋のなか以上にじわりと暑い。いつかふたりで身を寄せ合ったときのようなすかすかした場所は、だいぶ小さくなっていた。このまま放っておいたとして、消えてしまうことはないのだろうけれど、せめて気にならなくなってしまえばいい。











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