駅チカでバカンス(同人誌再録)









 由布院は結局まんが喫茶のアルバイトをやめてしまった。そもそも彼がそのバイト先を選んだのは家から近かったからで、引っ越ししてしまえばその利点は無くなってしまう。しかし彼はまんが喫茶の店員という職はそれなりに気に入っていたらしく、こちらでもそれを探そうとした。
「見つかんねえんだよなあ、全然」
「そうなの?」
 スマートフォン片手にソファの上で大きく伸びつつそう言った由布院の顔は憂鬱そうだ。そう興味のない僕にもまんが喫茶というものはたくさんあるように思えたから、これは意外だった。最近はバイト探しも専用のアプリがある。由布院は手っ取り早くそういうアプリを三つほどダウンロードしては、まんが喫茶、と文字を入れて検索していたが、そのたびにため息をついていた。。
「やー、多分辞める人が少ないんだよな、楽なわりに給料いいもん」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんでしょ」
 楽な仕事ってほかになにがあるんだろうなあ、と由布院はぼやく。まず楽な仕事っていう前提から入っているのが由布院らしいというか、由布院そのものというか。
 俺のほうはといえば、あの喫茶店を辞めたあと、大学の近くの裏路地に入ったところにある別の喫茶店でアルバイトを始めていた。こちらはおじいさんひとりで切り盛りしている店で、他に店員は三人、それなりに仲がよく、かといってべったりしていないので気が楽だった。この前のようなことにはならないだろう。
「花屋さんとか、どう?」
「なにそのチョイス」
「や、前に由布院が俺に勧めてきたでしょ」
 由布院が眉を寄せる。どうやら覚えていないらしい。由布院は結構こういうところがあって、かといってしょうもないことをを覚えていたりもするので困ったものだった。
「花屋ねえ……俺は別に、お前と違って花好きでも嫌いでもねえし」
「高校の頃生物選択してた?」
「や、化学と物理だったわ……」
 取るに足らないようなことを訊いていると、由布院はますます大きなため息をついた。
「じゃ、家庭教師は?」
 それで俺はもう一つ、あの時由布院に勧められたアルバイトを示してみる。由布院はこれにも首を横に振った。そこそこの偏差値を誇る俺たちの大学の名前を差し出せば、簡単に仕事が入ってきそうな気もするんだけど。
「人んち上がって気を遣わなきゃいけないの、無理」
「あっそう……」
 俺も大学生に向いているアルバイトなんてそんなにたくさん知らないから、結局これ以上の案を出す気もなく、由布院はまたぬるぬるとスマホをいじり始めた。
「別に無理にバイトなんてしなくてもいいんじゃないの」
「やだよ」
 由布院は部屋をぐるっと見回した。それでなんとなく言いたいことがわかる。俺たちはここ最近、お互いよくわかりあっているような気がする。
 それが少しだけ嬉しいのが、ちょっとだけくすぐったい。今だって、狭い由布院の部屋にいるわけじゃないのに、ソファに座ってからだをくっつけている。いくらでも、お互い離れた場所にいられるはずなのに。
「あ、そういえば今度」
 ふと俺は思い出して、由布院に声をかける。
「阿古哉がここに来たいって言ってるんだけどいい?」
「下呂?」
「下呂って呼ぶと怒るよ」
「いや、俺がいきなり下の名前で呼ぶ方がおかしいだろどう考えても」
 由布院は眉を寄せた。由布院と阿古哉は確かにろくな絡みもなかったから、ちょっと気まずいのだろう。由布院はふっと行きを吐いた。
「まあ、俺はその間適当に外で時間潰してるし好きにしてくれ」



――っていう話だったのに、結局俺は下呂……そしておまけに硫黄と立をマンションの最寄り駅の改札の前で出迎える羽目になっていた。
 俺がこの部屋に住むようになって数週間、相変わらずバイトは見つかっていないものの、ふたりの暮らしにはわりとすぐに慣れてしまっていた。そもそも部屋は変わっちまったけど、もともとふたりで暮らしてた、みたいなもんだったし。四月も終わりに近づいた、連休前。この三人もこちらの大学に進学してそれぞれ一人暮らしを始めて(高校時代から一人暮らしだった硫黄はともかくとして)、なんとなく落ち着いた頃合いだったのだろう。下呂が有馬にこの家に来たいと連絡を取り、そこで俺と同居していることを知らされ、ならばと硫黄や立たちを連れてきた、らしい。
 駅から迎えに行ってやって、道案内とロックの解除をして、部屋に上げて、リビングのソファに座らせて、俺なりに歓迎してやってたっていうのに、奴らの第一声はこれだった。
「さっすが有馬先輩、綺麗にしてるっすねえ」
「おい」
 立のやつ。俺だってひとりのときからまあまあきれいにしてたわ。家具や家電を譲ったときに俺の部屋に来て知ってるくせに、立は相変わらず俺のことを舐めている。いい加減慣れちゃいるけど抗議のひとつやふたつもしたくなるというものだ。
 有馬がひとりで住んでいたときにこの部屋に来たことがあるという下呂は、ぐるりと部屋を見渡した。
「でも、有馬さんひとりのときよりものが増えてますよね。有馬さんって、こんなまんが雑誌買いませんし」
 下呂の視線の先には俺が買ったジャンプがあった。立がへえ、と声を上げる。このふたり、高校時代はここまで仲良くなかった気もするんだけど、性格的にはまあ似てるところもあるもんな。ナルシスト同士、通じるものがあるんだろう。
 そして静かに有馬が淹れた紅茶を啜っていた硫黄がカップをテーブルに置き、それからこちらを見た。
「由布院先輩、ここの家賃、支払えているのですか?」
「ここに住む以上金は出してるよ」
 どいつもこいつもこれだからいけない。いや、そりゃ、完全な折半じゃねえけど。「確かに俺には分不相応な部屋だけどさ」
「なあんだ、わかってるじゃないですか」
 下呂も早々に硫黄や立の俺への態度から接し方を学び、さっさと馬鹿にしてくる。もともと庶民とみれば見下してくるやつだけど、どうも釈然としない。そのとき、紅茶を淹れていた有馬がお盆の上にマグカップをふたつ載せてやってくる。客に先に茶を出したので、あれは俺たちの分だ。
「お邪魔してます」
 有馬を見るやいなや、三人は綺麗に頭を下げた。
「ゆっくりしていって」
 そして有馬はいつも通りの柔和な笑みを浮かべた。人当たりがいい、いかにもな綺麗な笑い方だ。最高に「有馬燻」っぽい。
「有馬先輩、由布院先輩の度を越したぐうたらは、放っておいて構わないですからね」
「そーそー、放っときゃなんだかんだ自分でやるもんな、由布院先輩」
「お前らなあ」
 硫黄と立は早速有馬にそう言った。なんで俺一人こんなに当たりが強いんだよ。ムッとしたまま有馬のほうを見ると、有馬は目を瞬かせて、それから苦笑した。
「それなら大丈夫だよ。俺が由布院に頼んだんだ、一緒に暮らそうって」
「そうなんですか?」
 下呂があからさまに驚いて、裏返った声を上げた。硫黄も立もすっかり目を丸くしている。なんだ、なんなんだその反応は。お前ら、俺が有馬に世話を焼いてくれと頼んだもんだと思ってたのか。
「私はてっきり由布院先輩が家賃を支払えなくなって有馬先輩のところに転がり込んだものだと……」
「大丈夫すか有馬先輩、由布院先輩に弱みでも握られてるんすか」
 なお、有馬によるフォローのあとですら、俺の扱いはこの通りである。おまけに有馬は微笑むばかりで否定ひとつしてくれやしない。俺はすっかりつまんない気分になって、さっさと紅茶を飲んでしまうことにした。客三人に三脚ティーカップを出してしまったので、俺と有馬はマグカップで紅茶を飲む羽目になっているのだ。
「……有馬」
「なに?」
 俺は有馬のほうを見ないで、三人をねめつけた。そんなことしたところで誰もダメージ受けてねえけど。
「俺がどれだけ役に立つか話してやれよ」
「え、なにそれ」
 有馬が眉間にしわを作る。それからちょっと考えるような素振りをして、ようやく口を開く。
「うーん、まあ、みんなが思ってるよりはずっと由布院も家事はしてくれるよ」
「……なんか、もっとあるだろ」
「由布院といると、落ち着く、とか?」
 有馬がちょっと困ったような顔をしてこっちを見る。これはまあ、実際のところ、前々からよく言われていることだった。有馬が俺と暮らすのを申し出た理由のひとつでもあるはず。だから俺はなんとも思わなかったんだけど、後輩たちはそうでもなかったらしい。
「有馬さん、それでいいんですか」
「落ち着く、とは……?」
「あっでも俺ちょっとわかるかも」
 下呂と硫黄が顔をしかめる中、立だけがそう言って笑った。高校時代からこいつとは比較的馬が合うと思っていたから、少し嬉しい。家具家電を格安で譲ったかいがあったというものだ。
「なんていうか、由布院先輩自体がだらだらしてるから、こっちもシャキッとしてなくていい気になるんすよね」
「ああ、なるほど」
「理屈はわかるかも」
 ところが立の言い分ときたらまったくどうしようもないもので、他のふたりもまたなんとも言えない反応である。俺はなんだかなあ、という気分になって、ぼんやりと天井を見上げる。有馬は何がおかしいのかクスクス笑っている。
 俺はわざと大きくため息をついた。



後輩たちは入学したばかりの大学のことはもちろん、鳴子くんは最近の経済の動向、蔵王くんは服屋さんで始めたバイト、阿古哉は最近使い始めた化粧品について、いろんなことを話すだけ話して帰っていった。俺と由布院だけではそうそう出てこない話題ばかりだったので、新鮮だったな。三人とも久しぶりに会ったけど、あの頃とまるで変わらない調子だったのが楽しかった。もっとも、三人がかりでチクチクものを言われた由布院はなんだかぐったりとしているけれど。
「お前が『下呂呼んでもいい?』なんて言うからあいつらまで来ちゃったんだろ」
 ついに由布院は俺にも八つ当たりをしてきた。すっかりすねたような声に僕は思わず笑ってしまう。
「阿古哉を呼んだら他二人も来ちゃったのは、君があのふたりを部活の後輩にしたからだろ」
「屁理屈」
 そう言いながら由布院はごろりとソファに寝転がった。仕方がないのでローテーブルの上の食器類の片付けは僕がやることにする。由布院は俺がカップを運んでいるのをぼんやり眺めていたけれど、起き上がろうとはしなかった。別に気にはしないけど。
「ねえ由布院」
「なに」
「俺は由布院と一緒に暮らし始めて後悔したことはないよ」
「……お前、かっこいいこと言うね」
 でもまあ、それあいつらの前で言ってくれよ。由布院はそう言いながらようやくこちらを見てくれた。
 そりゃあ由布院は朝は起きないし洗濯物はかなりの確率で裏返ってるし風呂は長いけど、多分他のみんなが思っているより料理は上手だし気が向けば掃除だってしてくれるし、口では文句を言うけれど、頼めばだいたいのことはやってくれる。それに……、たぶん蔵王くんの言ったことはぴたりと当たっていて、由布院の前では格好つけるのが馬鹿みたいに思えてくるから、とても気安いんだと、思う。
「それなら俺もまともにバイトしねえとなあ」
 由布院がそうぼやく。由布院は俺のほうが仕送りがあるからといってそれに頼り切らない。だから阿古哉たちの心配はまったくの杞憂なのだった。
 ずっと俺は由布院は甘え上手だと思っていたけど、たぶん、甘えさせ上手でもあるんだろう。今更そんなことに気がついてしまう。そういうふうに、あいつにも接していたんだろう。
 俺はどうだろう。俺は彼にそういうふうにできていただろうか。そうでないから今こうなっているのか。
「ところでさあ」
 由布院はまだソファでごろごろしながらこちらに声をかけてくる。
「こんど有基もここ呼んでい?」
 由布院が不意にそんなことを言って、何故か僕は唐突に一年ちょっと前のことを思い出していた。
 阿古哉も、そして鳴子くんや蔵王くんも、決して彼らの話題を出さなかった。だからこそ彼らのことに思い当たってしまう。三人でそういうふうに決めてきたのだろうか。ありがたいような、それは余計な気遣いだと言いたくなるような、変な感じだ。
 僕はふうっと息を吐き出す。
 俺たちだって別に、錦史郎と鬼怒川と仲違いしたわけじゃない。






生徒会室は静かだった。いちばんよく喋る阿古哉がピアノのレッスンがあると言ってそうそうに帰ってしまい、僕と錦史郎が残っているだけになっていたからだ。仕事もすっかり一段落して、あとは帰るだけ。
 ただし、これまでみたいに、錦史郎は僕と一緒には帰らない。
「錦史郎は今日鬼怒川と帰るんだよね」
「そう……だが、君にそれを言っただろうか」
「いや、言われてはないけど」
 そんなことくらい、見ていればわかるよ。
「……ほんとに錦史郎は鬼怒川のことが好きだよねえ」
 一緒に帰る約束をするだけで半日、いやその日一日はふわふわしているんだからよっぽどだ。もっとも錦史郎自身はそれを周囲に気づかれているとは思っていないだろうから、これはもしかしたらちょっとした意趣返しなのかもしれなかった。
「な、にを言っている!」
 案の定錦史郎は目を見開いて立ち上がった。頬が少し赤らんでいる。あまりにもわかりやすい反応に、つい笑ってしまう。すると錦史郎はますます腹が立ったらしい。「そんなはずがないだろう!」とますます大きな声を上げた。
「鬼怒川のこと、そんなに好きなんだ」
 僕がそう言うと、錦史郎はとうとう顔を真っ赤にした。しかし、大声を上げたことについてはまずいとでも思ったのか、一旦口をつぐんで、それから深呼吸をした。
「…………どうしてそう思う」
「どうしてって」
 本当に自覚がないんだなあ、と思った。阿古哉だってとっくに気がついてるはずだし、それは防衛部側――由布院たちもわかっているだろう。
「見てるとそう思えてくるっていうか」
「見ているだけで?」
「そう、見ているだけで」
 言うと草津は今度はわなわなと震え始めた。生真面目で厳格な彼は自分の感情が露わになることを厭うけれど、その割にそれは表に出がちだった。たぶん無自覚に。だからたぶん、今彼はとてつもなく恥ずかしがっているのだろう、と、思う。
「……そんなにあからさまか」
「うん」
 同意以外にどうすればいいんだろう。錦史郎はとうとう頭を抱えてしまった。ここまでされるとなんだかいい加減にかわいそうになってきて、そろそろ俺も錦史郎に余計なことを言うのはやめておこう、という気になってくる。
 それで俺は、改めて訊いて見ることにした。
「言わないの? 鬼怒川に」
「なにをだ」
「錦史郎の気持ち」
「言うわけないだろう」
 案の定、鋭い口調で奥ゆかしいセリフが返ってきた。これもまた、実に錦史郎らしい、とは思う。
「でも、もうすぐ俺たち留学するだろ」
 そう、僕たち生徒会はもうすぐイギリスに留学することになっている。それはそう長い期間ではないとはいえ、錦史郎と鬼怒川は、和解したばかりで離れ離れになってしまうということだ。
「言わないで行って、後悔はしない?」
「…………、」
 錦史郎は眉間に深い皺を作って黙りこくってしまった。僕は立ち上がって錦史郎の机の上のティーカップを回収してしまう。それから錦史郎はたっぷり五分ほど悩んでいた。僕はのんびりと錦史郎が答えを出すのを待っていた。
 ティーカップを洗いながら僕はそこまで錦史郎を悩まさせる彼のことをぼんやりと考えていた。
 僕が錦史郎と、彼と出会ったのはもう十年前になる。あの頃錦史郎と彼はとても仲が良くて、ただしく「親友」という関係だった。それを諸々あってこじらせて、疎遠になった、んだけど。俺はその頃のことを直接は知らないけれど、あの戦いのなか、錦史郎自身が語ってくれたので、そのいきさつは頭に入っていた。それはほんの些細なことだったはずだ。僕を含めた他の人間からすれば、どうしてそんなことであんなに苛烈な感情を抱くようになってしまったのか、と思えてしまうほどの。
 こじらせて、こじらせて、こじらせて、錦史郎の彼への気持ちはどんどん捻れて、強くなって、とうとう破裂して、こうして友情とは言えないものに変わっていってしまった。
 俺はもしかしたら、本当なら、錦史郎のこの感情を友情へ戻すべきだったのかもしれない。だけど、錦史郎が求めているのはそうじゃない、という妙な確信があった。錦史郎はたぶん今でも彼の特別になりたいのだ。現在その親友たる由布院を越えて、鬼怒川熱史の「特別」になりたい。
「……言う」
 そして、錦史郎の結論はたったの二文字だった。なんとなく、予感できていた答えだった。僕は目を閉じて三秒待って、それから口を開く。自分の心臓の音が耳元で聞こえるような気がした。
「うん」
 僕はティーカップをしまい終えて、錦史郎のほうを見た。
「大丈夫だよ、きっと」
 ぜんぶを断ち切るためにそう言った。大丈夫だ。錦史郎は大丈夫。
「……ああ」
 錦史郎の顔を見ると晴れ晴れとしたきれいな笑顔を浮かべていて、それはきっと、俺にはさせられない顔だった。大丈夫。錦史郎なら大丈夫。そして恐らく、鬼怒川も錦史郎のことをきちんと受け入れてくれるだろう。
 だから俺も、大丈夫だ。



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