駅チカでバカンス(同人誌再録)









 一歩外に出た瞬間、自分の意思とは関係なしにぶるっとからだが震えた。肩をすくませため息をつくと、白い息が立ち上る。まだ五時を少し過ぎたくらいの時間なのに、空はもうだいぶ暗い。
「あー、さっみ」
 一足先に外に出ていた由布院が、とっくに俺もわかっていることを口に出す。同意するまでもないので聞き流して、俺はマフラーを引き上げて口許を覆う。そのまま口を開けたらこの冷たい空気がからだのなかに入ってくるのかと思うと、うんざりしてしまう。
「俺夏生まれだからさ、寒いの苦手なんだよ」
「……俺は秋生まれだけど寒いの苦手だな」
 とへいう由布院については、どうせ面倒がって肌着とかをちゃんと着ていないから寒いんじゃないかと思う。肩をすくめてからだを縮こまらせて、ショルダーバッグの肩紐がずり落ちてくるのを引き上げて、由布院はずっと鼻を啜った。
「だいたいこの大学、駅まで遠すぎんだよ」
「それには同意するよ」
 大学の最寄り駅から大学の正門までおおよそ徒歩十五分。大した距離じゃないように見えて、なかなか大した距離だ。高校の時は夏の暑い日も冬の寒い日もあの長い階段を毎日登っていたといえばそうなんだけど、それはそれ、これはこれだ。
「はあ」
 真っ白な息を吐き出した由布院の鼻先がすっかり赤くなっているのを見て、俺は自分もそうなっていたらいやだなと思い、マフラーをもっと上に引っ張った。カシミヤ製のそれは指先に当たってもなめらかで、薄手なのに温かい。由布院がしているマフラーは、たぶんアクリルかなにか、化繊のそれだろう。やっぱり由布院はそりゃ寒かろうという格好をしているというわけだ。それを指摘しようとは思わないけれど(どうせこれだから金持ちは、と返されるのは目に見えている)。
 その後も駅前まで由布院の寒さに対する愚痴は続き、俺は適当に相槌を打った。いや、由布院だけじゃなくて俺も十二分に寒いと思っているけれど、だからこそ真剣に会話する気力がない。なんかもう、冷気が髪の毛一本一本をかいくぐってやってきて、頭皮まで寒い。胸のあたり、からだのなかまでスカスカになってしまうくらい寒い。
 故郷から特急で二時間ぶん離れた大学に入学するにあたり、俺と由布院はお互いひとり暮らしを始めていた。私鉄一路線しか通っていない大学の最寄り駅のあっち側とこっち側にそれぞれの家がある。だからその日最後の授業が一緒になって帰ることになるときは、駅で別れることになっていた。今日だってそうだったはずだ。
 だけど俺はこのどうにも落ち着かないスカスカをどうにかしたくて、この寒いのにどこか人がいるところに行きたい気分だった。そんなあてもないのに、まったく、いっそこいびとのひとりやふたり、作っておくべきだったかもしれない。
 どうしようかなあ。ぼんやり考えを巡らせていると、気がついたら改札の前に立っていた。しまった、バッグのなかから定期券を出しておくのを忘れていた。
「なにぼっとしてんの」
 由布院が呆れたような目をしている。俺は慌ててメッセンジャーバッグを開けて中のポケットから定期入れを取り出す。どうせ逆方向の電車に乗るのに由布院は改札の向こうで待っていて、俺はようやくICカードをタッチして、中に入る。
「ごめん」
「や」
 ほんの少しの間とはいえ寒い中待たせたことを謝ると、由布院は短く返事をして、ホームへ向かう階段を登る。俺も後ろに続いた。短い丈のブーツを履いている由布院の脚が、階段を一段一段を踏みしめて登っていくのを見つめる。隣に並ぶ気が起きないのは、なんとなく今。由布院の顔を真正面で見たくなかったからだ。そうすると、何を言いたくなるか、わからなかった。
「さみい」
 ホームへ降り立った由布院はまた、寒いしか言わない壊れたおもちゃのようになってしまった。落ち着きなく足踏みをして、白い息を吐き出す。今思えば夏の暑い日も、由布院はこんなふうに愚痴っぽくなってたんだろうけど、どういうわけかそんな記憶はあんまりなかった。俺たちはたまたま同じ高校から同じ大学に進学したけど、だからなんとなくつるんでるだけで、会話のひとつひとつはとっくに頭の中をすり抜けて消えてしまっている。
 見渡してみると、ホームにはそこそこの人がいた。俺たちと同じ大学の学生と思われる眼鏡にベージュのダッフルコートの女の子、これから予備校に行くていのミニスカートの女子高生、スーツ姿のサラリーマンもいる。上り電車も下り電車も来るまでにまだ五分ほどあることを電光掲示板で悟ると、由布院は「せめて下で待ってりゃよかった」と嘆いた。しかし、改めて階段を下るつもりはなさそうだ。
「今もさみいけど、部屋ついてもさみいんだよな」
「俺は最寄り駅着いたらスマホでエアコンいれちゃうけど」
「なんだっけそういうの。IoTだっけ」
「それ」
「最新技術だねえ金持ちは違いますねえ」
 ああ、結局金持ちどうこう言われてしまった。まあいいんだけど。ぼやきながら由布院は相変わらずからだを揺らしている。少しでも温まりたいんだろうけど、それはいっそ哀れだった。
 そうこうしているうちに、ようやく上り電車がやってきた。そっちに家がある由布院が乗り込む。つい続いてその電車に乗り込むと、そりゃあそうなんだけど、由布院がびっくりしたような顔をする。
「お前、逆だろ、いえ」
「あ、そうなんだけど」
 どうしただろう。自分でも理由すらわからないまま由布院の背中を追いかけてしまった。ほとんど反射だった。一瞬不可解そうな顔をした由布院は、なぜか次に少しだけ首を傾げる。
「なあ、……俺んちくる?」
 人肌恋しい、なんてありきたりな表現だけど、抱えているのはたぶんたぶんまさにそれだった。俺は誰かといたかった。腹の中まで、あんまりにも寒いからだ。俺が小さく頷くと、由布院はなぜか頬を緩めて見せた。



駅から俺の家まで歩いてほんの十分、その間に有馬は「コンタクトが、なんか、乾いた」などと言い出し始終目を瞬かせていて、俺の部屋につくなり「洗面所借りていい?」と言ってきた。断る理由もないので洗面所の場所を教えると、そそくさとそちらに行ってしまう。そこそこよく一緒にいたのに、有馬を部屋に上げるのは初めてだった。もっとも、その感慨もなにもないけれど。
 俺はとりあえず床にバッグを下ろしてコートを脱いでベッドの上に放ってエアコンをオンにして、それから自分も洗面所に向かった。
 大学からの距離と広めの湯船を優先して選んだこの部屋は、狭いけど独立洗面所がある。俺が近くに行くと、有馬はこちらを振り向いた。
「どうしよ、眼鏡持ってないのにコンタクト捨てちゃった」
「ワンデイ?」
「そう」
 それじゃそもそも一回外したのを入れるのはまずいんじゃないだろうか。
「お前視力いくつなの」
「わからない」
 わからないって言われてもな。だからといってゴミ箱に捨てたコンタクトを拾って付けさせるわけにもいかない。初めて上がる他人の家で視界がはっきりしないのが不安なのか、有馬は少し心許ないような顔をしている。
「どんくらい悪いの、俺の顔見えてんの?」
「目と鼻と口の位置くらいはわかる……」
「はあ……」
 とりあえず部屋の方に連れてくか、と思いながら「こっち」と言うと、大人しくついてくる。こんなに些細なことで弱ってしまったらしい有馬は。図体はでかいのになんだか小動物じみている。とりあえずベッドの上に座らせて、さて、どうしたもんか。
「思ったより綺麗にしてるね」
「よく言われる」
「よく」
 有馬は今度はからかうように笑った。だけどその言葉の意味を問うこともなかった。俺はローテーブルの上にあったテレビのリモコンを渡して、渡してからどうせこいつは画面が見えないんじゃないか、ということに気がついた。だけどまあいいか。
「まあ、適当にしてて」
「そうする」
 有馬は遠慮なくそう言ってきて、じゃあ俺も遠慮なんかしなくていいや、と思った。
 しかし、なんであのときこいつを早に連れ込もうなんて考えちまったのか。家が反対側の有馬がこっちの電車につられるように乗ってきて、深く考えずに家に誘っていた。そうしたかった。そうしなきゃと思った。何の理由もなく。だって、この部屋は基本的に人を呼ぶのに適してない。なにより狭いし。おぼっちゃまの有馬はたぶん、こんなワンルームに入るのすら初めてなんじゃないか。だけど有馬は俺の提案に平気で頷いて、平気でついてきた。
 だからたぶん、俺たちがいまこうしているのは、そうなるべきだったからなのだろう、と思うことにしておこう。
「なあ、夕飯ラーメンでいい」
「作ってくれるの」
「マルちゃんだけどな」
 インスタントラーメンなら、一人分作るのも二人分作るのも手間はそんなに変わらない。とりあえずたまごを茹でて、それからどこかに置いたはずのラーメンの袋を探す。こういうとき、コンロがふたつあればよかったと思うんだけど、まあ、背に腹は変えられねえよな。
 ラーメンはすぐに戸棚から見つかった。冷蔵庫に辛うじて残っていたもやしを軽くすすぐ。賞味期限を二日過ぎてるけど、有馬には言わないでおこう。だけどそうしても、まだゆでたまごを上げるのには早すぎる。それで俺は有馬のほうに戻った。有馬は勝手にジャンプを出して読んでいた。
「お前そんなの読むの」
「全然話わからないけど」
「だよな」
 まあ、テレビが見えないんじゃ、この部屋じゃまんがを読むかスマホをいじるくらいしかすることないよな。俺はまたキッチンに戻って、スマホに来てた親からのラインに返事して、それからついでに時間を確認する。
 そろそろいいか。
 俺は鍋を火から上げて、お湯を捨てた。とりあえず卵はそこへ置いておいて、今度はラーメンを茹でるために水を適当に測って鍋に入れる。少し多くなっちまったような気もするけどまあいいや。とりあえず火にかけて、ついでにもやしも入れる。
 そんなこんなでラーメンを作り終えた俺は、ローテーブルに丼を置いた。具はもやしと半熟ゆで卵だけの醤油ラーメン。こんなもん、有馬は初めて食べるかもしんねえけど、まあ、人生経験にでもしてくれ。



 ちょっと伸びちまった貧乏ラーメンを食って、それでも有馬は帰ろうとしない。俺のほうも、帰れって言う気にはならなかった。ためしに「風呂入る」と訊くと頷かれたので、俺は風呂を洗って湯を貯める。面倒くさがりだと人は言うが、風呂だけはシャワーだけで済まさないのが、俺のポリシーなのだ。
 テレビも大して面白くない。コンタクトを外してしまった有馬に至っては画面すらよく見えない。
「泊まる?」
 それで俺はさっさと有馬にそう訊いた。有馬はちょっと目を見開いて、それから小さく首を傾げた。
「いいの?」
 そりゃ、いいから訊いたんだけど。だったらもうさっさと寝ちまおうという話になって、俺たちはコンビニに行って有馬のぶんの歯ブラシを買って、それから順番に風呂に入った。そうして歯を磨いて、ひとまず同じベッドのなかに潜り込んだ。ちなみに有馬には俺の部屋着とパンツを貸してある身長はさして変わらないし、まるで不自由はなかった。ただし、残念ながら新品は手元になかったので、パンツは俺の使い古しだけど。
 俺の部屋のベッドは所詮一人暮らし用のシングルベッドだ。平均よりでかい身長の男ふたりが横になると、少々余裕が足りない。おかげで背中合わせにべったりくっつく羽目になってしまった。
 だけど、妙に違和感がなかった。初めて一緒に寝るとは思えないくらいに。体温が近いのか、もともとからだの形がしっくりくるようにできているのか。それともただ部屋が寒いから気持ちよく感じているだけなのか。どれでもよかった。どうでもよかった。
「お前明日何限から?」
 背中側の有馬に聞いてみると、「んー、二限? たぶん」と曖昧な、眠たそうな声が返ってくる。そんなんでいいのか有馬燻。まあいいか。
 とくに話をすることもなかった。俺たちは結局なんの話もしないまま眠りについた。



そうこうしているうちに、初めて由布院の部屋に行ってから、一ヶ月くらいが経っていた。春休み直前のテスト期間、俺たちはどういうわけか広い俺の部屋ではなく、あえて由布院の部屋にノートパソコンを持ち込んでレポートをまとめていた。由布院の部屋は狭くて、座れるような場所はベッドの上かもしくは床、という有様で、僕は床にあぐらをかいて、その上にクッションを乗せて、さらにそこにノートパソコンを載せるというやや行儀の悪い格好だった。家主たる由布院は堂々ベッドにうつ伏せになってキーボードを叩いている。
 自分で差し入れがてら買ってきたマドレーヌをつまみ、安いティーバッグから入れた紅茶をちまちま飲みながら、なんとなく一段落ついたところで液晶画面から顔を上げる。丁度いいタイミングで由布院も集中力を切らしたらしく、なんとなく視線が噛み合った。それで俺は頭のなかで話題を軽く検索して口に出す。
「春休み、俺もバイトしてみたいなって思ってるんだけど」
「は? バイト?」
 由布院が思った以上に素っ頓狂な声を出すので、僕は笑ってしまう。どれだけ僕のことをお坊ちゃまだと思っているのかは知れないけれど、そんなに意外そうな顔をしなくたっていいのに。
「ええと、由布院はまんが喫茶でバイトしてるんだよね、どう?」
 言いながら僕自身はまんが喫茶に行ったことがないことに気が付く。由布院がバイトしてる時間に行ってみようかな、と密かな計画を立てていると、由布院は少しだけ眉を寄せた。
「まあ基本楽だけど汚い仕事もあるし、おぼっちゃまには勧めねえわ」
「そうなんだ」
 由布院は頷く。とうとうレポートのことは放棄するのか、ごろんとベッドに寝転がった。
「うちは客少ねえからわりと大体暇だけど、酔っぱらいが来ることもあるし、もっと悪いと個室で抜いたりしてんだよ」
「へえ……」
 やっぱりまんが喫茶に行くのはやめておこうかな。由布院はベッドの上で片肘をついてからだを横向きにする。
「お前は花屋とかでいいじゃん。好きだろ、花」
「安直だなあ」
 確かに僕は高校時代からガーデニングが好きだった。でもあれは、あそこでハーブティを淹れるために始めたもので、花屋で見るような色とりどりの花を育てていたわけではない。花が好き、というには少々語弊があるような気がする。
 由布院はううん、と何故か本気で悩むような声を出した。
「じゃカテキョ……はやめといたほうが良さそうだな、なんかお前、カテキョっぽすぎて逆にカテキョ向いてなさそう」
「なんだそれ」
 この言い分はよくわからない。そもそも、由布院にバイト先を提案されるまでもないのだった。
「実はもうお店は決めてあるんだ」
「なんだよ、さっさと言えよ」
 考えるだけ損した、とでも言いたげに、由布院はとうとう立てていた肘を外して横向きに完全にベッドにからだを預けてしまう。
「どこでやる気なの」
「ええと、この近くの喫茶店、なんだけど」
 由布院がこちらを見て目を見張る。それから眉を寄せた。
「どこの店?」
 訊かれるままに、店の場所を答える。由布院はしばらく考えていたけれど、結局店は思い当たらなかったらしい。まあ、由布院はあんまり興味がでないタイプの店かもしれないけど。
「そもそも、お前の家と逆じゃん、こっち」
「そうなんだけど」
 そうなんだけど。由布院がバイトに行っていて部屋に入れないときに時間を潰すために入ったその喫茶店は、店主とその息子ふたりが切り盛りしている小さな店だった。そこで適当に頼んだコーヒーの味が、俺はすっかり気に入ってしまったのだ。トイレに貼ってあった「アルバイト募集」の張り紙に、心惹かれてしまったのもやむを得ないだろう。
 それに、いつまでも親からの仕送りを使い込む生活をしているのもなんだかつまらないし。
「まあなんでもいいや」
 由布院は納得したのかしていないのか、そのまま目を閉じる。
「十五分経ったら起こして」
「え、レポートどうするの……」
 僕のことばなんてたぶんもう由布院は聞いていない。この睡眠に落ちるスピードの速さは、いつだってちょっとだけ羨ましい。



この近くの喫茶店でバイトをはじめてからというものの、有馬が俺の部屋に来る頻度はますます増えていった。それが全然不快でないことに気が付いた俺は、一週間くらい悩んで、結局有馬に部屋の合鍵を渡した。とはいえさすがに大学の教室や食堂やなんかで渡すのは気が引けたので、渡したのはこの部屋にいたときだ。いつも通り有馬がやってきて、狭い部屋でふたりでベッドに腰掛けて身を寄せ合って小さなテレビで大げさなくらいこの国を褒め称えるような番組を見ながら、だった。初めてこの部屋に有馬が来てから、随分と暖かくなっていた。
 なんでだろうな。なんで合鍵なんか。なんで有馬に。だけど有馬なら俺がいないときに俺の部屋にいてくれてもいいと思えたのは事実で、有馬も俺が差し出した鍵を素直に受け取った。
「いいの」
「おう」
「俺の部屋のも渡そうか」
「……や、それはへーき」
 俺と有馬はこうしてよくふたりで会ってはいるけれど、俺はあんまり有馬の部屋に行ったことはなかった。あのいかにもな高級マンションは正直得意じゃない。ゴロゴロ横になっていると、高そうな家具に責められるような気分になるからだ。
「そう?」
「なんでちょっと残念そうなの」
「別に残念でもなんでもないけどさ」
 有馬はそんなことを言いながら視線をテレビのほうに戻してしまう。照れてるんだろうなと思う。最近では、有馬のこういうちょっとした態度の変化でなんとなく考えていることがわかるようになってしまっていた。
 俺たちの関係って、なんなんだろう。
 俺にとって、最初にできた親友はたぶん熱史だ。熱史。鬼怒川熱史。もちろん今もそれは同じで、有馬に比べれば会う頻度は下がっちまうけど、面倒くさがりな俺がわざわざ二回も乗り換えが必要な熱史の家にはそこそこ行ったりしている。大学とかバイトとかであったことも、気が向けばラインで報告している。そういう間柄だった。
 中学のときに仲良くなった熱史は、随分と世話焼きだった。いや、俺が世話を焼かせるタイプだったのか。熱史が世話焼きだったから俺がぐうたらになったのか、俺が熱史がぐうたらだったから熱史が世話焼きになったのか、今となってはもうわかんねえけど。とにかく俺たちは毎日をずっと、べったり、一緒に過ごしていた。熱史にだったらなんでも話せると思っていたし、熱史だったら俺になんでも話してくれるだろうって信じていた。
 まあ実際、すべてがそうなるわけではなかったんだけど、俺にとって「親友」ってやつの定義はそういうもんだ。
 それを考えると、有馬とはまだ親友にはなっていない気がする。でも、大学で挨拶を交わすようなやつだと同じ「知人」「友達」と一緒にするにはちょっと、いや全然、違うような気がする。
 じゃあ、「付き合ってる」なんてな。そんなの、カッコ笑いがついちまう。いや全然付き合ってなんかない。お互いのこと好きだよ嫌いだよ愛してるよなんて当然言ったことがない。今もこうしてふたりでベッドに並んで座っているけど、ちゅーだってしたことがない。
 だけど有馬のそばにいるのはなんとなく気が楽だった。それから、こいつには楽をさせてやりたいという妙な気持ちもあった。熱史との関係に似ていて、たぶんまるっきり違う。だから俺たちはお互いをどう呼んでいいものか考えあぐねて、他人には「高校の時からの腐れ縁みたいな」などという曖昧な言い方をしてしまうのであった。



アルバイトは悪くなかった。もともととても気に入っていた店だったし、働いているのはオーナー兼店長の老人とその息子だけだ。ふたりとも優しく接してくれるし、常連のお客さんと話をするのも勉強になる。余ったケーキをもらって、帰りに由布院の家に寄って、一緒に食べたりもした。大学の春休みは長くて、ゆるく進んでいく日々は悪くない。課題だって切羽詰まったものはないから、俺はしばらくこののんびりした日々を楽しもうと決めていた。
 そういえば昨日は由布院が「明日お前のバイト先行ってみていい」などといつもの人を食ったような顔をして言ってきたのだけれど、まだ来店していない。あと一時間すればシフトも終わっちゃうのに、さては今日も寝坊だろうか。春休みに入って、由布院は更にぐうたらになっていた。そんなことを考えていると、ちりん、とドアに取り付けたベルがなった。
「いらっしゃいませ」
 反射的に声を上げると、噂をすれば影というかなんというか、由布院が少々ためらうような目をして立っていた。こういう喫茶店はあんまり来たことがないようなことを言っていたから、たぶんちょっと緊張しているのだろう。
「おひとりですか」
 それで俺は他のお客様にするのと同じように由布院にたずねてみる。由布院はちょっと文句ありげな目でこちらを見て、それから「はい」となぜか敬語で返してきた。
「こちらにどうぞ」
 窓際の外に案内する。先週春一番が吹いて、外は次第に暖かさを取り戻している。日当たりのいいここは、たぶん店内でいちばん暖かだ。由布院は案内されるがまま、椅子を引いて腰掛けた。僕は緑色の合皮の表紙が重たいメニューを由布院の前に広げた。
「ご注文がお決まりのころお伺いいたします」
「はあ」
 模範的な店員と客のやりとりを経て、一度奥に引っ込むと、店長の息子――副店長と僕は呼んでいる――が声をかけてきた。
「有馬くん」
「はい」
「もしかしてあれが例の彼?」
 こんなこと声を潜めて尋ねてくるものでもないだろうに、副店長は口許に手のひらを添えて近距離でそう言った。僕は諾々と頷く。
「そうです。高校からの腐れ縁で」
 これまで客が来ないときは大概副店長と適当な雑談をして過ごしてきた。当然由布院の話題も出したことがあって、副店長は一方的に由布院のことを知っているのだ。
 僕は由布院のほうを見る。目を細めるようにしてメニューを見ている由布院の薄い茶色の髪に太陽の光が透けてきれいだ。ああしていれば、それなりに絵になる人間なんだなあ、と今更のような発見をしてしまう。
「なるほどねえ」
「気安くていい奴なんです」
 などと言っていると、向こうで「すみませーん」と不遜な声がする。ああしまった、ちゃんと由布院がメニューを選び終えたタイミングを見計らってテーブルに近づこうと思っていたのに。僕は副店長に小さく会釈して、由布院がいるテーブルに向かった。
 いつも家に行っている仲なのに、ここでは客と店員の振りをする。それがちょっとごっこ遊びのようで楽しかった。
 もっとも、俺たちの関係も友達ごっこのようなものなのかもしれないけど。



ピンポン、とベルが鳴って、俺はテレビからドアの方に視線を移す。なんとなく誰が来たのかは察していて、おれはインターフォンの受話器も取らずに玄関へ向かった。
 果たしてそこには有馬が立っていた。そして有馬は挨拶もなしに部屋に上がり込んでくる。なんだ、らしくもない。
「どーしたの」
「……なんでもない」
「もしかしてバイトでなんかあった」
 どうして俺がこいつのバイトのシフトなんか把握してんだ、って話だけど、まあそれだけこいつはよく部屋に来るってことだ。それで、有馬は今日の夕方バイトのシフトだったはず。ずかずかと部屋へ向かった有馬は、俺のベッドに突っ伏した。
「なに、ほんとにどしたの」
「……副店長に嫌われた」
 顔面を布団に埋めた有馬くんはくぐもった声で短くそういった。俺はそれを見下ろしてため息をつく。有馬がこんなになるのも珍しい。だけどたぶん、たぶんだけど、有馬は嘘をついている気がする。嫌われたっていうのはたぶん嘘。その逆だ。
 あの喫茶店には一度行ったきりだが(何しろあの店はコーヒー一杯千円近くするのだ)、あのときやけに副店長とやけに距離が近いなと思っていたのだ。ときどき有馬の肩に触れたり腰に手を回しているのも、こちらからは見えていた。有馬がそういう意図に気が付かないわけがないのに放置していたということは、ある程度はその副店長を信頼してたのかもしれねーけど。
「副店長が俺のこと嫌い、だから、やめろ、って店長に言われて……」
「副店長は店長の息子なんだっけ」
「そう」
「そりゃ学生バイトと自分の息子なら自分の息子を取るわな」
 へんじがない。ただのしかばねのようだ。
「それでバイトやめるの」
 有馬はまた声を出さずに、今度は頷く。そうするしかないだろう。
 俺は有馬の背中を叩いて、とりあえずそのままにしておくことにした。たぶん有馬だって俺の慰めの言葉は求めていない。テレビをぼんやりと眺めながら、俺は有馬の横、ベッドの上に座った。有馬の量の多い髪を少し摘んで落とす。思ったよりもぱさついていて、俺はなんとなくしんみりした気分になってくる。
「まあ、バイト先なら山ほどあるだろ」
「あの店好きだったんだよ」
「他にも似たような店はあるって」
「適当だなあ……」
 有馬はまだ布団に突っ伏している。俺はもう一度有馬の頭に手のひらを載せる。もう少し指通りがいい髪だったらいいのになあ、と思いながら、有馬の髪をいじくり回す。



 ……なんだかみっともないところを由布院に晒してしまったような気がする。テレビから聞こえてくるお笑い芸人のはしゃぐ声が、耳についてやかましい。しかも由布院の手が頭の上をうろうろしていて、完全に頭を上げる機会を失ってしまった。
 たぶん後頭部がぐしゃぐしゃになっちゃってるんだろうなあと思いながらも、どうしても手が振り払えなかった。由布院の手は、あの人の手、副店長の手とまるで違う。
 ところが、そうしているうちに由布院の手の動きはだんだん緩慢になっていった。もしかして、由布院は眠くなってきちゃったのかな。起き上がるチャンスだ。由布院の様子を伺うために少しだけ顔を傾けて、右目だけで由布院の方を見る。と、由布院としっかり目があってしまった。なんだよ、眠かったわけじゃないのか。
「……起きねえの」
「……」
 由布院の手のひらが頭の上から離れていく。そう言われてしまうともう仕方がないので、俺はベッドに両手をついて起き上がった。恥ずかしいったらない。だけど由布院はあんまり気にした様子もなく、テレビを眺めている。
「そういやもうすぐこの部屋に住み始めて一年経つんだよな、去年の今頃は誰かさんがこんなに居つくとは思わなかったけど」
 そして由布院はぼんやりとそうつぶやいた。たぶん話題を替えてくれようとしたんだろう。それならちゃんとその意図に乗っかろう。
「……そりゃ俺もこんなに由布院の部屋に通う羽目になるとは思わなかったけど」
「羽目ってなんだよ、……いや、まあいいや。この部屋一年更新なんだよなと思って」
「へえ、一年」
「お前んとこは?」
「二年だけど」
「だよなあ、普通そうだよな」
 由布院ははあ、と大げさなため息をついた。これは更新手続きが面倒だって言いたいんだろうな。
 少し考える。こんなに由布院の部屋に入り浸っておいてなんだけど、別に今の家に不満はない。この長期休暇になるまでバイトひとつもしないで、親には大学生の一人暮らしには贅沢すぎるくらいの物件に住ませてもらってるって自覚もある。部屋の広さも環境もパーフェクトだ。
「ねえ由布院」
 あとから思えば、このときの俺はたぶんなにも考えずにこの提案をしていた。いや、だからこそ、たぶん本当にそうしたいって思ってたってことなんだろうけど。
「俺の部屋に来ない?」
 そう、俺は随分と素っ頓狂なことを口にしていた。いつも眠たそうな由布院の目が見開かれて、薄い水色の瞳が随分とまあきらきらして見えた。どちらかといえば俺のほうが由布院のペースに乗せられることが多いので、由布院の感情を揺さぶることができたのは、実を言うと少しばかり気分がいい。
「え、お前なにいってんの」
「更新めんどくさいでしょ。ここ引き払ってさ、一緒に住もうよ」
「いや確かに更新は面倒くせえ、けど……、どう考えても引っ越しのほうが面倒くさいだろ」
 そりゃそうだ。由布院の言い分は全くその通りで、俺は頷く。頷いていると由布院は今度は妙に神妙な顔になった。
「どーしたのお前、そんなに副店長に嫌われたのショックだったわけ」
「…………」
 返事をしないでいると、由布院はため息をついた。呆れたような音だった。やっぱり由布院はそれなりにお人よしだ。
 君といるのがいちばん安心する……、なんて、さすがに照れがあるから言わないけどさ。実際のところ、そんな気がしていた。少なくとも由布院だって、そうなんじゃないか。そうであれというのは僕の希望的観測なのだろうか。
「……家賃」
 俺が黙っていると、結局由布院のほうがまた口を開いた。
「え?」
「だから、家賃いくらなんだよ、お前の部屋」
「あ、別に由布院から家賃貰おうとは思ってないから心配しないで」
「そーゆーのじゃなくて」
 由布院の言い分はわかる。俺の部屋に住むことになって、由布院が家賃を払わない……っていうのは、確かにぜんぜん立場がイーブンじゃない。確かに僕が由布院の立場だったら嫌だなあと思う。
「お金の話は追々しようよ」
「なに、まだ俺お前んち行くなんて言ってないんだけど」
「来てくれる、でしょ、由布院なら」
 言いながら心臓の辺りがきゅっと痛む。どうやら由布院の返答が気になって、少し緊張しているらしい。由布院は大きくため息をついた。髪の毛をかき回すような仕草は見慣れたものだ。
「ここよりお風呂も広いし」
「…………」
「駅から徒歩三分」
 由布院は結構な時間考え込んでいた。何度かため息をついて、それからやっと俺のほうを見る。一度きゅっと唇を引き結んで、俺は無意識のうちに喉を鳴らす。
「お前、ひでえ顔してるよ」
 由布院はそう呟いて、それから自分の頭の上から俺の頭の上に手を移動させた。
「…………引っ越し手伝えよ」
 それは確実に僕の提案に乗っかった返事で、俺は由布院の顔を見上げて、それから次に胸のなかがじわっと暖まるのを感じた。
「……いいの」
「お前が言い出したんだろうが」
「うん……」
 本当にその通りだ。由布院の気が変わらないように、俺は余計なことを言うのはやめよう、と思った。
「ていうかさあ、お前こそいいの」
 ところが由布院はこんなことを言い始める。なんの話だ、と思っていると、由布院はにやりと笑ってみせた。
「俺、たぶんお前にすげー世話焼かせるぜ」
「……織り込み済みで誘ってるよ」
 そう答えると、由布院が笑った。そうだ、そんなこととっくに織り込み済みだ。由布院が高校の頃、どれだけあいつに世話を焼かせていたのか、僕は遠目から見ていただけだったけど。ちゃんとわかってて、言ってるよ。



 一応俺のいまの家と有馬の家は同じ区内だから届け出もそう面倒ではないし、向こうに持っていく私物もまあ、多くはない。現状いちばん面倒なのは家具家電の処分だ。有馬の家には当然俺が持っている冷蔵庫やら炊飯器やらよりもずっと高級なものが揃っている。家具だってそうだ。「枕だけ持ってきてくれればいいよ」なんて言われているレベルだ。持っていかないほうが楽だろうっていう有馬の配慮なのかもしれねえけど、どっちみち処分するのは面倒だし金もかかる。
 どうしたもんかと授業中にも考えていたところで、防衛部のグループトークに立の大学合格報告がやってきた。どうやらやつも(そしてすでに指定校推薦で進路を決めていた硫黄も)都内の大学に進学するらしい。俺は家具家電の処分方法をひらめいて、授業中にも関わらず、スマホを取り上げた。どうせこの大学でいちばんでかい教室で行われている一般教養みたいな授業だ。出席さえしていれば、誰でも単位が取れるやつ。
 俺はさっそく立との個別トーク画面を開いた。
「合格おめでと」
 打ち込むと、すぐに返事が来る。
「なんで個チャなんすか」
「や」
「今度ルームシェアすることになったから、家具とか家電の処分に困ってんだよ お前炊飯器とか電子レンジとかベッドいらねえ?」
 そして立からの返事はまたすぐやってきた。
「いります!!!!!」
 過剰なエクスクラメーションマークに笑ってしまう。それからすぐにまた立からメッセが届く。
「つか本当にルームシェアなんすか、彼女さんと同棲とかじゃないんすか」
「や、相手有馬だから」
 別に隠し立てするものでもなんでもないだろうとそのまま送ると、しばらく返事は来なかった。俺はスマホを机の上に戻して、教授のほうを見る。結局その授業が終わるまで、立からの返事は来なかった。いやまああいつにもやることがあるんだろう(たぶん……合格祝いに女子とデートとか)と思って放置して、そのまま次の授業を受けて部屋に戻って深夜シフトのバイトの支度をしているところで、ようやく立からの返事が来る。
「なんか、意外なようで意外じゃない組み合わせっすね」
 最近女子の間で流行ってるとか流行ってないとかのうさぎのキャラクターが笑っているイラストのスタンプが押してある。
 意外そうで意外じゃない。俺も俺が当人でなければそう思ったのだろうか。由布院煙と有馬燻のルームシェア。
 俺はそんなことをぼんやりと考える。



 由布院の荷物は洋服と本と、あとごちゃごちゃしたものたちって感じで大した量もなかった。聞けば家具や家電の大半は後輩に格安で譲ってしまったのだと言う。それらを業者に頼んで運んでもらって、由布院はバッグひとつと枕が入った紙袋を持って電車で俺の部屋にやってきてた。玄関のドアを開けると、いつも通りの顔をした由布院が立っていた。
「ほんとに枕だけ持ってきたんだね」
「そうだよ」
 ちょっとドヤ顔なのが、むしろ面白くて笑ってしまう。すると由布院もなにが面白いのか耐えきれないといった様子で笑い始めてしまう。
「そば食おっか、引っ越しそば」
「俺は引っ越ししてないんだけど」
「俺に引っ越しさせたのはお前だろ」
 それもそうだ。ここからいちばん近い蕎麦屋はチェーンの安いそれだけど、でもまあ、由布院とならそこでもいいか。僕らは財布だけを持って部屋を出る。
「それで結局家賃はどうすりゃいいんだ?」
「あ、あれ結局なあなあになったんだっけ」
「そう」
 別に、由布院がこの部屋に住むからと行ってここの家賃が増えるわけではない。俺は家賃に足るだけの仕送りを貰っていて、だから別に由布院から家賃をもらわなくてもやっていけるはずなのだ。
「じゃあ由布院に光熱費は全額出してもらうとか?」
「それじゃ足りなくね?」
「足りるよ」
 それでも由布院はなんだか釈然としない顔をしている。この問題はまだ話し合いの余地がありそうだ。
 冬から始まった馴れ合いだったけれど、気温はすっかり春のものになっている。これから始まるふたりの暮らしはたぶん穏やかなものになるだろう。そうでなければいけない。同じ部屋で目を覚まして、朝ごはんを食べて、大学に行って、バイトして、同じベッドで眠る。
 俺たちはふたりで、たったふたりで、この部屋で、これから一緒に生きていくのだ。


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