boueibu



 後れ毛の残る白い首筋が男を誘う。吸い寄せられるようにその柔らかな躰を背後から掻き抱いた。女があえやかに息を吐き出す。こちらを見返す目は確かに男を誘っているのに、女の熟れた唇は拒絶を告げた。
「いけません、私には夫が」
 それは,、とうに死んだ男だ。男の兄だ。男は女の言葉を無視して、更に腕に力を入れる。
「ああ……」
 女が嘆息する。男が乳房に両手をあてがうと、大きな手のひらから溢れるほどだった。男はすっかり興奮しきって、女の首筋の匂いを嗅ぐ。濃厚な雌の香りがした。三年前に夫を亡くした女は、その色香を今日までこの躰に封じ込めていたのだ。
「だめ……」
「貴女の躰は男を求めているでしょう」
 男が言うと、女は力なくかぶりを振った。そして僅かに重心を変え、男の躰に体重をかける。顎を掴んでこちらを向かせ、男は女の唇に吸い付いた。唾液さえも甘美に感じる。女の目には涙が浮かんでいた。
「久しぶり、なんです……」
「自慰はしなかったのですか」
「自慰、は、していました、あの人に抱かれることだけを、考えて……」
「いやらしいんですね」
 女の白い頬は、すっかり紅く色付いている。呼吸も乱れているし、脈も速い。男は女の下腹部に手を伸ばした。着衣越しにも、じっとりとした湿気を感じるようだった。
「どうか優しく、して下さい」
 男は返事をしなかった。女の目は暴かれるのを待つように、既にすっかり虚ろになっていた。






「あれ、錦史郎。珍しいね、コンビニなんて」
 高校へと向かう長い階段の途中、コンビニエンスストアからでてきたところでばったり出くわしてしまった有馬は、ぱちぱちと瞬きながらこちらを見た。折角誰とも遭遇しないように早めに家を出たのに、どうして有馬がこんなところにいるんだ。僕は先程コンビニのレジで受け取った封筒を出来るだけさり気なく見えるようにスクールバッグにしまいながら、「随分早いな」と会話の矛先を変えることにした。
「留学前に花壇をどうにかしなきゃなと思って、早く出てきたんだ」
 有馬が肩をすくめる。なるほど。僕は頷いた。なんとかごまかせたようだ。僕たちは並んで階段を登り始める。
「錦史郎も早いね」
「僕も、留学前に少し弓道場に行こうと思ったんだ」
「ふふ、留学楽しみだよね」
 耳に髪をかけながら微笑む有馬は、僕がコンビニから出てきたことをすっかり忘れてしまったようだ。ほっと息を吐き出す。朝の空気はもうずいぶんと肌寒くなっていて、冬の訪れも近くなっている実感がある。有馬があれこれとロンドンの名所の話をするのを聞きながら、僕はバッグの持ち手をきゅっと握った。



 生徒会の仕事に弓道部の活動、留学の準備、なにより日々の勉学。時間は有限で、なのにやらねばならないことが多すぎる。以前はこれに地球征服までしようとしていたのだから、まったく忙しいといったらなかった。
 僕は一通り明日の授業の予習を終え、椅子の上でからだを伸ばした。すでに進学先は推薦入試で決めているが、勉強する手を緩めるつもりはない。しかし、そろそろ息抜きもいいだろう。僕はバッグを引き寄せた。中から封筒を取り出す。今朝手に入れたばかりのものだ。封筒の上部を鋏で切り、中から文庫本を取り出す。ただちに表紙が見えないように、以前書店でもらったブックカバーを取り付ける。
 インターネットに依存する現代人のありようはどうかと思っていたが、結局僕もその恩恵を受けている。これはネット書店で購入し、コンビニエンスストア受け取りに指定した本だった。こうすれば、通販とはいえ本は家に届かないし、透けない封筒に入っているので、レジの店員にも僕がなにを買ったのかはわからない。まったく、現代は便利なものがある。
 息を一つ吐いて、僕はその表紙をめくった。



 昨日買った本はなかなか読み応えがあった。ネット書店のレビュー通りだ。おかげで僕は今日、少し寝不足気味で学校に向かった。とはいえ授業の時間もなんとか終わり、放課後になる。いつも通り生徒会室に向かった僕は、今日は早く帰りたい、と思っていた。眠たいし、何より、もう一度あの本を読みたい。留学前に片付けなければいけない書類はたくさんあるが、今日くらい早く帰ったって構わないだろう。
 さて、生徒会室に入ると、既に阿古哉がいて何やらパソコンのキーボードを叩いている。有馬は担任に呼ばれていたので、まだ来ていない。
「お疲れ様です、会長」
「ああ、お疲れ様」
 有馬が来ないとお茶が入らない。早く来ないだろうか、と思いながら引き出しにしまっていた紙の束を机の上に出す。近いうちに次期生徒会へ職務の引き継ぎをしなければならないので、そのために申し送り事項を見ておかなければ。僕はあくびをしたくなるのをなんとか抑え、一枚目に目を通した。
 そうしているうちに、生徒会室のドアがノックも無しに開かれる。こんなことができるのは、当然彼しかいない。
「お疲れさま」
 言いながら、有馬がいつものように気楽な様子で中に入ってくる。
「有馬さん、今日はアールグレイがいいです」
「いきなりだねえ」
「だって、待ってたんですよ」
 有馬は座る間もなくバッグだけ応接セットのソファの上に置いて、阿古哉の言う通り紅茶の準備をし始めた。少しのんびりした手際なのは、阿古哉へのちょっとした当てつけなのかもしれない。
 程なくして、生徒会室に華やかな香りが漂い始める。有馬は淹れた紅茶をカップに注ぎ入れ、先に阿古哉の前に出し、それから僕の前に持ってきた。
「錦史郎、なんだか今日、少しぼうっとしているように見えたけど、大丈夫?」
 有馬に言われて、思わず顔を上げる。見抜かれていたことに驚きはない。有馬なら、仕方がないとすら思った。
「読んでいた本が面白くて、寝不足なんだ」
「へえ、錦史郎にしては珍しいね。なんの本?」
 当然のことを問われて、僕は一瞬言葉に詰まった。まさかあの本のタイトルを言うわけにはいかない。なんとか捻り出したのは、前にあっちゃんが面白かったと言っていた時代小説のタイトルだった。あっちゃんに教えられてあらすじは知っているし、読んでみたいとは思っている。思ってはいるが、まだ読んでいない本なのに。
「ああ、あの作家、鬼怒川が好きだもんね。今度映画化もするらしいし」
 しかし、有馬はそれで納得したようだった。いや、納得してくれた、だけかもしれない。とはいえ、カップを置いた有馬は応接セットのほうに戻り、阿古哉の正面に腰掛け、自分も紅茶を飲み始めた。阿古哉となにやら会話しているが、僕はそれに加わらず、書類の処理を再開した。
 なにしろ、単調な作業だ。眠くならないように集中していると、有馬と阿古哉も静かになっていた。阿古哉は電卓を叩いていて、一方、有馬は本を読んでいる。生徒副会長、という曖昧な立場のせいか、有馬はときどき暇そうにしている。だからこそ茶を給仕したり、草花に水をやるなどという雑用を有馬が引き受けることになってしまったのだが。
 なにか仕事を与えなければ、と思いながら立ち上がろうとして、有馬の大きな手の中にある文庫本が目に入る。僕が昨日買った本と同じブックカバーが巻いてある。どきりとした。いや。冷静にならなくては。あれはこの辺りでいちばん大きな書店で文庫本を買えばもらえるものだ。それに僕は、あの本を学校に持ってきていない。あれは自室の勉強机の鍵がかかる引き出しの中だ。有馬があれを手にするわけがない。一瞬緊張してしまったが、完全に杞憂だ。
 僕は深呼吸をすると、有馬に声をかけた。
「有馬、暇ならこの書類の整理をしてくれ」
「ああ、うん、わかった」
 声をかけると、有馬は本を閉じて机に置き立ち上がる。こちらをまっすぐに見る瞳に、かすかに罪悪感が芽生えた。いけないことをしているわけではないけれど。
 有馬は少し訝しげな顔をしていたけれど、あえて黙っていることにしたらしい。こういうところが常々好ましいのだと思っていたが、今は本当にありがたい。あっちゃんが勧めてくれた例の本も、ボロが出ないうちに読んでおいたほうがいいだろう。
 かといって、例の本を今更あっちゃんに借りるのはまずい。今や一緒に温泉に通うほど仲がよくなっている以上、発言と矛盾した行動を取れば、僕が嘘をついたことが露呈してしまうだろう。挙句、僕が読んでいたものまで明らかになってしまったら――。想像するだに恐ろしい。はしたないことをしている自覚はあるし、僕にだって自尊心があるのだ。
 そういうわけで、僕は帰りにあっちゃんが教えてくれた本を買うために、書店に寄ることに決めた。今日は早く帰って昨日買った本の気に入ったシーンを読み返し、分析したかったのに。






 週末、僕は有馬を家に呼んだ。留学について話したいというのは方便で、この前読んだ本で学んだことについて、実践しなければならないと思ったからだった。そろそろ寒くなってきた気温に合わせて薄手のコートを羽織ってきた有馬は、僕の部屋につくなり、それを脱いだ。
「歩いて来たら、暑くなってきちゃって」
 僕が差し出したハンガーにコートをかける有馬の頬は、確かに少し紅潮している。じっと見つめていると有馬は照れたように笑って、こちらに近づいてくる。僕が絨毯の上に腰を下ろすと、有馬も斜め前にしゃがみこんだ。
「それで、話したいことってなに?」
 有馬は座るなり、さっそく今日の用件を尋ねてくる。もう少しこう、挨拶とか、ないのか、と思わないでもない。僕が口を開こうとしたところでドアがノックされ、使用人が湯呑みをふたつ持ってきた。それを受け取って有馬の前に出すと、有馬はさっそく飲み始める。僕もひとくち飲んでみる。悪くない玉露だが、有馬が淹れたもののほうが美味しい。
 どうやらひとごこちついたらしい有馬は、湯呑をテーブルの上の茶托に置いて、ふう、と息を吐いた。気だるげに髪に触れ、それから僕のほうを見た。
「ええと、なんの話、してたんだっけ」
「留学の……」
 言いながら、僕も湯呑を茶托に置く。留学の話なんて、学校で阿古哉を交えてすればいい。あるいは、メッセージアプリ越しだっていいのだ。なのに、わざわざふたりで、部屋にいる意味。有馬はとっくにわかっていただろう。だから、さっさと用件を済ませられるように、すぐに留学の話題を振ってくれた。僕の本心に気が付かないふりまでしてくれて。
 僕は立ち上がって、有馬の後ろに回った。そのまま有馬の背中側に腰を下ろし、有馬がこちらを向く前に、後ろから腕を回す。目の前に、有馬の首筋がある。どうしたの、きんしろう、という戸惑いの声を飲み込ませるために、こちらを向いた有馬の唇を身を乗り出すようにして奪う。
 心臓がどきどきと音を立てている。僕は思わず喉を鳴らした。これは、もしかしなくても、あの本と似たシチュエーションになっているのではないか。これからの予感に、服の下でじわりと汗ばむようだった。
「ん……」
 自分で想像してしまったことにぐらりと煮沸するような興奮を覚えて、思わず唇を離す。有馬の目には微かに涙が浮かんでいた。自分自身が有馬にこんな顔をさせている。その事実が僕を急かす。もっと、有馬を乱したいと思ってしまう。
「久しぶり、だよね……」
 有馬が、おずおずとそう言った。確かに最近は、和解した防衛部といる時間が長くなっていたし、おまけに生徒会の仕事や留学の準備でバタついて、前回の性交渉から少し期間が空いてしまった。
「そうだな」
 僕は短く肯定し、有馬の胸に手を置きながら、そっと耳元で囁いた。
「久しぶりだが、有馬は、今日まで自慰を……、しなかったのか」
「な、」
 有馬がぽかんと口を開ける。いやらしい質問をしてしまった。でも、あの本でも、男は未亡人にこういう質問をしていた。だから僕は引き下がらなかった。じっと有馬を見つめていると、さっと視線を逸らされる。
「そりゃ、してた、けどさ」
「なにを考えながらしていたんだ」
「きんしろうの、こと……」
 有馬の頬は今やもう真っ赤だった。いつも穏やかで、表情の変化も少なく、余裕がある有馬が。どことなく息も荒いし、胸に触れた掌の下、鼓動も速い気がする。
「いやらしいんだな」
 本当に、あの小説そのままのやりとりだ。僕はいっそ感激していた。このままもう一度有馬の唇を奪い、後ろから着衣を乱し、このからだを抱く。そう決意して、僕は有馬の顔をこちらに寄せようとした、その瞬間だった。
「ふ……ふふ」
 有馬が突然笑い始めたのだ。こちらとしてはかなり真剣に次へ行こうとしていたので、まさか笑われるとは思わず、呆気に取られてしまう。
「な、なんだ、有馬」
「や、錦史郎って……なんていうか、僕もあんまり読んだことないけど、ちょっと官能小説みたいな言い方するよね、ときどき」
 言われた瞬間、一気に顔が熱くなる。くちびるが震えた。
 ――なにしろそれは、図星だったからだ。
 この国に生まれこの国に育つからには、この国の法律を守らねばならない。当然のことだ。だから諸々の問題を超えて有馬を抱くことになったとき、その方法を学ぶために僕が手にとったのは官能小説だった。僕はまだ高校生で、成人向けの雑誌やアダルトビデオの購入は禁じられている年齢なのだ、当然だろう。インターネットで検索をかけることも考えたが、誤った情報も多いと聞く。だからこそ、僕は官能小説を読むことに決めたのだ。
 最初はいつも行くのとは違う街の違う書店で、中身を吟味するのすら恥ずかしかった。ろくに表紙もタイトルも見ず、一か八かで手に取ったものをレジに持っていったものだ。一人になってからその本を見ると、所謂未亡人ものだった。それは夫を亡くした妻が、若い男に絆されリードしながら性行為に至る話で、僕は気がつけば男に存分に感情移入して読んでいたのだった。……僕たちの最初も、そういうふうに行われた。有馬が全て僕を導いてくれたのだ。
 その後僕はネット書店の存在を知り、羞恥なく官能小説を買うことができるようになった。買うのは決まって未亡人ものだ。もちろん有馬は未亡人などではない。同い年の歴とした男子高校生だ。むしろ僕より背が高く、しっかりしたからだ付きをしている。顔立ちにせよ声にせよ、女性とは程遠い。それに、当然ながら結婚したこともない。しかし、最初に読んだジャンルゆえか、どうしてもこればかり選んでしまう。他にはない安心感があった。
 そうして僕はこれまで数冊の官能小説を読み、性交渉へ至るプロセスや、行為中のやりとりの仕方を学んだ。例え性的なことであろうとも、勉強し、努力して身につけるべきなのだ。向上心のない人間になどなりたくない。そして今週も、新しく一冊の官能小説を買ったばかりだった。
 けれど、それは誰にも知られたくない秘密でもあった。官能小説なんてはしたないものを僕が読んでいることは、家族や有馬はもちろん、後輩の阿古哉だって親友のあっちゃんにだって絶対に知られたくない。だからこそ僕は最初を除いて書店でそれを買わなかったし、学校に持っていくなんて言語道断、その本自体も机の中の鍵のかかる引き出しに入れていた。
 だ、というのに。
「どうして、わかっ……」
 言ってしまってから、しまった、と思った。誤魔化してしまえばよかったのだ。有馬なら僕が言いたくないと察してそれ以上は訊いてはこなかっただろう。有馬は「いや、なんとなくだけど」と言いながら、口もとが緩んでいる。有馬が人をからかう体勢に入ると、これはもう厄介で、僕は太刀打ちできなくなってしまう。だからこそ、こういう場でのやりとりを勉強を、していたつもりだったのに。
「本当に読んでたんだ?」
「……、ッ」
 ついさっきまで、あの小説通りのいい雰囲気だったはずなのだ。僕は有馬を後ろから抱きしめたままなのに、すっかりその空気は霧散してしまっている。
「でも、錦史郎も興味、あったんだね、こういうこと」
 興味がまったくなければそもそも有馬とだって寝ていないのだが、有馬はからかうように笑う。
「……君とするために、学ばなければと思ったんだ」
 言い訳じみたことを言うと、有馬がからだをひねろうとする。こちらを向かせるために、腕を緩める。正面から抱き合うと、有馬は僕の肩に腕を伸ばしてくる。
「官能小説で勉強かあ、錦史郎らしいな」
「うるさい」
 おかしそうに至近距離で笑っている有馬は、歳相応に見えた。……どうして彼を官能小説に出てくる未亡人に重ねていたのか、いよいよわからなくなってきてしまう。
「というか、そういう勉強するにしたって、普通AVとか、見るんじゃない?」
「……アダルトビデオを、見たことあるのか、有馬」
「え? えーと、」
「条例違反だぞ」
「あれって、罰せられるのは見せた側になるんじゃなかったっけ……」
 有馬は屁理屈を言っているが、見せた側が罪に問われるなら、やはり僕たちはまだアダルトビデオは見るべきではないのだ。まったく、嘆かわしい。
「アダルトビデオは見てはいけないし、インターネット上の情報は信憑性に欠けるだろう。しかし小説ならある程度は現実的だ」
「いや、そうでもないと思うけど」
 恥ずかしさをごまかすために、僕は有馬に官能小説を読む正当性を説くはめになっていた。しかし、有馬は首を傾げてみせる。
「……なんだと」
 有馬の言い分に眉をひそめると、また苦笑されてしまう。
「AVにせよえっちなまんがや小説にせよ、ああいうフィクションは、だいたいファンタジーだと思うよ。歴史小説だって、脚色くらいするだろ」
「ファンタジー……」
 有馬に言われて、僕は今まで信じていたものが瓦解するのを感じていた。そんな。夫の親友に仏壇の前で抱かれた未亡人も、夫の弟に法事の日に抱かれた未亡人も、出張先で年下の部下に抱かれた未亡人も、すべてがファンタジーだというのか。いや、もちろんこれらが創作であることは確かだ。だが、あれらは現実的なやり取りの上でも行われるやり取りだと信じていた。
「錦史郎……?」
 僕は思わず俯いてしまう。すると有馬の腕が僕の背中に回ってきて、まるで幼い子どもにするように、軽く背中を叩かれる。馬鹿にするなと言うことすらできず、僕はされるがままになるしかない。
 有馬はふうっと息を吐くと、「勉強、しようと思ってくれてありがとう」と言う。感謝されるような筋合いもない。僕が学んだのは虚構の性交渉に過ぎないのだ。僕が黙っていると、またとんとんと背中を叩かれた。そうされると、有馬に抱きしめられるがままでいたくなってしまう。ほっと息を吐き出すと、密着していた有馬のからだが離れて、それから次に、頬に手のひらをあてがわれ、有馬の顔が近付いてきた。キス、されている、と気が付くのには、少し時間がかかった。
 口のなかに、有馬の舌が入ってくる。ゆっくりと何度も上顎を撫でられて、ぞくぞくしてしまう。ようやくそれが終わったかと思うと、次は有馬の舌が僕の舌に触れた。おかげでどぷどぷと唾液が分泌されてしまう。すぐに飲み込みきれなくなって、ぼた、と僕と有馬の間の床に落ちてしまった。
 濡れた音が部屋を満たす。だらしなく、鼻息が荒くなってしまう。頭の中がぼうっとしてきて、僕は有馬にすがりつくように抱きついてしまう。有馬は、キス、がうまい。
 ようやく有馬が離れる。有馬の瞳もいつもより熱っぽくて、頬が赤い。興奮しているのが見て取れた。さっきまでの空気が嘘のように、一気に色を帯びていく。僕が考えていたのとはまるで違うプロセスになってしまったけれど。
「ねえ錦史郎、もう一回、キスしていい?」
「ん、」
 頷くと、また有馬が唇を寄せてくる。さっきよりからだが熱いような気がする。いつか僕も、有馬が僕にそうしてくれるように、キスだけで彼のからだを昂ぶらせることができるようになるのだろうか。こればかりはきっと、小説からは学べないのだろう。
 有馬の舌がまた口のなかに入ってくる。僕も舌を伸ばして、有馬の舌の裏側にそっと触れた。すると、腕の中の有馬のからだがびく、と震える。有馬の弱いところを見つけられて、僕は胸のうちで喜んだ。その後すぐに有馬が負けじと再び上顎を舐めてきて、同じようにびくついて、しまったが。
 唇を離すと、お互いしばらく黙っていた。次にどうするべきだろう。もう、有馬の服を脱がせてもよいものなのだろうか。そんなことを考えていると、有馬が濡れた口もとを指先で拭いながら口を開いた。
「ね、錦史郎、どんな小説読んでたの?」
「それは……」
 まさか今更そんな質問をされるとは思わず、口ごもる。しかしもはや、隠しておくことでもないような気もした。すでに理性が溶けかけているのかもしれない。
「未亡人、ものだ」
「未亡人?」
 有馬が目を丸くする。
「錦史郎、そういうのが好きなんだね……」
 未亡人かあ、と何度も繰り返されて、やはり恥ずかしくなってくる。僕は唇を引き結んだ。未亡人が相手をリードしたり、一旦は拒否しようとするが、結局なし崩しにされてしまうのが少しだけ僕らの関係に近しいと思った……とはさすがに言えない。
 有馬はふうっと息を吐いて、僕の胸に手のひらをぺたりとくっつけた。有馬の手のひらの熱さが、しっかりとシャツ越しに伝わってくる。
「ねえ錦史郎、こういうことを教えてほしいなら、僕がいくらでも教えるよ」
 耳元から、とろりとした声を流し込まれて、僕はぞわっとした。このまま流されるのはまずいのではないか。思わず有馬の顔を見ると、有馬は慈愛に満ちているような、しかしいやらしい笑みを浮かべている。僕は有馬の手が頭を撫でてくれるのにされるがままになりながら、次は教師ものを読んでみてもいいかもしれない、と理性が溶けかかった中で考えていた。

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