boueibu
俺は熱史と付き合ってる。有馬は草津と付き合ってる。お互い相手よりもからだはでかいのに、やることやるときはいわゆる女役をやっている。そんなぼんやりとした共通点はあるけれど、そんな共通点はさておいて、そもそも俺と有馬はなかなかに波長が合っていたらしい。ここ最近の短い付き合いのなかで、有馬とは、熱史といるときとはまた別のあり方でいられる気がしていた。
今日も俺たちはなんとなく図書室で落ち合って、一応形ばかりノートと参考書を机に拡げて、勉強会のようなものをしていた。有馬の生徒会の白い制服を避けてか周囲には人がいなくて、結果俺たちは小声とはいえ随分とプライベートな話をしてしまっていた。例えば、こんな感じで。
「俺が最初に好きになったの、中学のときの理科の先生でさ」
たまたま勉強していた教科が化学だったせいで、思い出してしまったことだった。あの先生は優しかった。俺がわからない、と言ったことを、俺の頭によく馴染む言い方で教えてくれる先生だった。
「初恋?」
「いやー……まあ、そんな感じかな」
「由布院の初恋かあ」
まったく、こんな話、親にも――熱史にもしたことないのに。
由布院のそういう話聞くの初めてだな、と有馬は笑う。こいつ自身は全然自分の話をしないくせに、話の聞き方がうまいからか、ついつい余計な自分語りをしちまう気がする。
「……熱史に告られたときも、実はまだ先生のことが好きだったけど、オッケーしちゃったんだよなあ」
「それ鬼怒川には?」
「言うなよ」
「どうしようかなあ」
にやにや笑ってこんなことを言ってはいるが、有馬が熱史に言うわけがないので、俺はその軽口に文句は言わなかった。言うだけめんどくさいし。
「まあ、結婚二十年目で未だ奥さんとラブラブな先生だったわけだけど」
「初恋、随分年上の人だったんだね」
「まーな」
俺は有馬の穏やかな笑顔をぼんやり見やる。こいつにも初恋があったのだろうか。いや、あったはずだとは思うけど。訊いたら答えてくれるのだろうか。どうだろうなあ。望み薄だよな。それで俺は肩をすくめた。
「ま、色々と初めては熱史だったし?それでよかったとは思ってるよ」
有馬は俺のちょっとヤケが入ったことばに、なぜか目を丸くした。ぱちぱち瞬きして、それからふうっと息を吐く。
「羨ましいな」
長身にしっかりと筋肉のついたからだ、優しげでキレーな顔、やらかい物腰、落ち着いた声、おまけにものすごい金持ちのおぼっちゃま。有馬燻は誰もが羨む男ってやつだと思う。
だけど有馬は俺に向かってそんなことを言う。なんだそれは、まさか嫌味か?俺は一瞬そう思ったけど、有馬の顔を見て言い返すのはやめた。有馬は唇にきちんと笑みを浮かべていて、そこにはまた随分と、自虐が含まれていたからだ。
「おれも錦史郎と、」
穏やかな声、穏やかな表情、だけどそれは自分の感情を隠す術に長けているからこその態度に過ぎないことを俺は知っている。知っているから、痛々しい、とすら思った。
「草津と?」
「……、」
有馬がずっと息を飲み込む。まずいことを言ってしまった、とでも言いたげだ。
有馬がほかから羨ましがられる男だということは、それだけ多くの人間に魅力的に映るということだ。有馬がここまで生きてきた十七、八年、それなりのなにかがあっても全くおかしくない。それに有馬の家のことはよく知らないけど、うちみたいな庶民のそれとはまるで違うはずだ。ことばの端々から、有馬が自分の家についてよくない気持ちを持っていることはうっすらわかるし。そういう過去を抱いて有馬は生きてきたわけだ。
「……忘れて」
たっぷりの沈黙の後に、有馬は顔を伏せてそう言った。わかった、と返すのは簡単だけど、正直に言って忘れられるわけがない。有馬の長い前髪は、簡単にやつの目元を隠してしまう。
「有馬」
声をかけると、ちょっとだけ顔がうえを向く。向かいの席まで、伸ばすだけじゃ腕はギリギリ届かない。俺は少しだけ机に身を乗り出して右手の指先だけで有馬の頬に触ってみる。
「なあ、お前の初恋、誰なの」
「……、なに、いきなり」
「それくらい言ってもらわねえと、忘れられねえな、さっきの」
顔を上げさせると、有馬の頬が随分と赤らんでいた。風呂に入ったときだって、こんなに赤くなったところは見たことがない。とっさに、かわいい、と思った。たぶん有馬のこんな顔、熱史はおろか草津だって見たことがない。
「由布院」
「なに」
「き、んしろうには言わないでね」
「どうしようかなあ」
さっきの意趣返しをしてやると、有馬が眉を寄せた。だけどいい加減に観念したらしい。
「おれのはつこい、は、……きんし、」
ろうだよ、まで言わせられなかった。なんでだろうな、理由もわかんねえ、けど、俺は有馬に口付けたくなった。俺は熱史と、こいつは草津と付き合ってんのに。そんなことはわかってるのに。
有馬の唇のぬるい体温。舌をいれたりはしなかった。図書室だしな。すぐに離れた。くっついてたのは、ほんの数秒、だったと思う。
「……由布院」
俺の名前を呼ぶ声が思ったよりも平坦だった。受け入れた声だ。俺たちは半分半分で丁度いい。初恋は熱史じゃないけど、初体験は熱史とだった俺。初恋は草津だけど、初体験はどこか別の誰かだった有馬。
「お互い内緒にしとこうな」
「そうだね」
俺たちはちょっとだけ笑った。泣きたい気分でもあった、けど。この小さな秘密を持ち合わせてしまった以上、俺たちはたぶんこれからもときどきふたりで色んなことを話してしまうのだろうという確信もある。もしかしたら――熱史と、あるいは草津とより、長い付き合いに、なってしまうのかもしれない。
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