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背中をゆるりと撫でられて、草津はその手のひらの暖かさに頼り切りながら、こみあげてくるものを吐き出した。飲み込むことなんてできない。気道を押し広げて出てこようとしているもの。
「だいじょうぶ、吐いて」
声は優しく、草津を促す。口許を抑えていた手がどけられてしまう。もう、ここまできている。声を出してそれを拒むこともできなかった。
「う、ぇ……」
潰されたような声が出る。なんて醜いのだろう、と思う。まるで自分の気持ちのようだ。口から吐き出されたのは、唾液を纏ったマーガレットに似た花だった。
嘔吐中枢花被性疾患という病気がある。通称花吐き病と呼ばれるもので、草津にその症状が出るようになったのは、一年ほど前のことだった。
この病は医者には治せない。なぜなら起因となるものが、患者の片思いだからだ。片思いをこじらせると、口から花を吐き出すようになる。治すためにはその恋を成就させるか、その気持ちを諦めるか、あるいは死ぬしかないという。そして、患者が吐いた花に触れたものは、この病に罹患するのだ。
最初は認めたくなかった。そもそも人が吐いた花に触れた覚えはなかったし、自分は生徒会長であり、他の生徒の規範とならなければいけない立場だ。まさか色恋沙汰をこじらせているなんて、悟られてはいけない。それに、その片思いの相手が悪い。症状が出るより前から――罹患するより前からずっと、草津が求めていた相手は幼馴染の同級生、鬼怒川熱史だった。しかし彼とはここ数年すっかり疎遠だ。幼いころは家族ぐるみで仲が良かったはずなのに、些細なことで仲違いしてしまった。あれはほとんどこちらの八つ当たりだったはずなのに、未だに謝れないままでいる。それはますます草津の思いをこじらせる原因になっていた。
隠そうとはしたものの、花を吐く症状は不意に出てしまう。出来る限り他の生徒と関わらないようにし、生徒会室に常駐することにより周囲に発覚しないように努めた。
しかし、生徒会室にいる時間が長ければ、生徒会メンバーには自分の病気のことが知れてしまう。そしてはじめて草津が彼らの前で花を吐いた時、有馬は躊躇いもなくその花を拾って袋に入れた。
「有馬、それは」
触れてしまったら、有馬も花吐き病になってしまう。有馬はそれを知らなかったのだろうか。草津は慌てて有馬の手から花の入った紙袋を奪ったが、有馬は「知ってるよ、僕は大丈夫だから」と笑っただけだった。
結局有馬と、そして下呂の助けもあり、草津は花吐き病のことを他の生徒には悟られずに済んでいる。
今日は有馬が帰ってしまったのに吐いてしまって、下呂が片付けを手伝ってくれた。平気で素手でやってしまう有馬に対して、下呂はきちんと薄手のゴム手袋をつける。もっとも、そうしてくれるほうが、草津としてもありがたい。下呂にまで罹患されたら、罪悪感でどうにかなりそうだ。
「今日もきれいな花ですね」
美しいものが好きだと公言する下呂は、草津の吐いた花も、そちらに振り分けてくれるらしい。醜いと言われるよりマシかもしれないが、少し居心地が悪かった。
「いや……ありがとう」
ため息をついて、吐いた花をまとめた袋を受け取る。さっき廊下で鬼怒川と、その親友である由布院が、からかいあうような応酬をしていたのを目にしてしまった。草津は由布院が嫌いだ。面倒くさがりでだらしがなく、努力という言葉に誰より縁遠い男なのに、平気で草津よりいい点を取る。それに――鬼怒川と自分が不仲になってしまったのは、彼の鬼怒川が仲良くなってしまったからだ。
有馬も下呂も、草津の片思いの相手を訊いてこない。おそらく、わかりきっているからだろう。いたたまれないが、そういう心遣いのできるふたりだった。
「……、特効薬でも、できればいいんですけどね」
「そうだな」
花を拾い終えて、下呂は手袋も外してしまう。ほっそりとした、だけどしっかりとした骨格の浮き出る手があらわになる。
「これも捨てておいてください、一緒に」
「ああ」
草津は花の入った袋に手袋を落とす。
「……有馬さんはよく素手で片付けますよね」
「そうだな」
つまり有馬もこの病をからだに抱えているはずなのだ。それでもまるで平気な顔をしているし、当然花を吐いているところも見たことがない。
「絶対に片思いをしないって自信があるのか、花を吐くことをなんとも思ってないか、もう完全に両想いの相手がいるのか、どれですかね」
「有馬にそんな相手がいるのか?」
「いや、それはあくまで可能性で」
下呂がかぶりを振る。それもそうだ。草津はため息をついた。自分が苦しんでいる隣で飄々と花を片付ける有馬に、わずかばかりの妬ましさを感じる。そして、妬ましいと思うこと自体に自分の矮小さを思い知らされて、ため息がでる。
「会長、書類片付けちゃいましょうよ」
「……そうしよう」
草津は頷いて、袋の口を結んだ。
✽
鬼怒川との和解が済んだあとも、草津の花吐きは収まらなかった。片思いが成就したわけではないからだ。鬼怒川と過ごす時間が増えたことは嬉しかったけれど、病気のことを気付かれないようにするのはなかなか苦労している。
「だけど、最近は花吐く頻度減ってる気がするよね」
有馬の手には季節に不似合いなチューリップがある。当然草津が吐いたものだ。一緒に帰りたいな、と思ったら、ぽろっと口の中から溢れてしまった。
確かに有馬の言うとおりで、近頃は随分と吐く花が減ったし、吐くときに苦しさを感じることも少なくなった。この病気の患者が花を吐くのは、感情が大きく揺さぶられたときだけだ。鬼怒川への想いが消えたわけではないけれど、和解のおかげで最近は穏やかになってきたのかもしれない。
「今日は鬼怒川と帰らないの?」
草津が吐いた花を片付けた有馬は、草津にそう問う。まったく、心を読まれているみたいだ。
できれば由布院なしで帰りたいとは思っているものの、今日は鬼怒川のことは誘っていない。
「誘ってみれば?」
「簡単に言うな」
有馬が肩をすくめる。草津はスマートフォンを取り出して、メッセージアプリを立ち上げた。鬼怒川は存外気楽に連絡をくれるが、草津は未だにうまくメッセージを送れない。鬼怒川とのトーク画面を開いて、さてなんと書き出すべきか、と考えていると、有馬が苦笑しながらこちらに緑茶を差し出してきた。いったんスマートフォンを机に置くと、それを飲む。吐いたあとの気持ち悪さを押し流し、ほっと息を吐く。
「文章にするのが大変なら、直接誘っちゃえばいいんじゃない?」
有馬は生徒会室の倉庫――防衛部の部室に繋がるドアに視線を向ける。草津もつられてそちらを見た。確かに、そのほうが手っ取り早いような気がする。
「そうするか」
草津はもう一口緑茶を啜って、それから立ち上がった。有馬は茶葉を片付けている。ドアの前に立って、それから緩く拳を握った。
二回、ノックをする。返事はない。誰もいないのなら、また出直すべきだろうかと思いつつ、念のためにドアノブを回した。そして、ドアを開ける。やはり誰もいない……?
「きんちゃん」
いや、中にはきちんと鬼怒川がいた。そして隣には由布院もいた。草津は、ふたりがノックに答えてくれなかったことを咎めようとしてひとまず口を開き、そして彼らの状況を見た。
「……、……あ、」
「えっと、」
「すまない!」
反射的にドアを閉めた。耳元に心臓があるみたいに、脈動が大きく聞こえる。口元を抑えた。上ってくるものがある。
――由布院と鬼怒川が口付けていた。
草津は踵を返して、足早に生徒会室を出る。だめだ、吐く、吐く、このままでは吐いてしまう。
「錦史郎!」
有馬の声が追いかけてくる。しまった、生徒会室で吐いてしまえばよかった。それなら他の生徒に見られる心配はなかったのに。
草津はなんとかトイレの個室に駆け込んで、床に膝をついた。普段なら絶対にしないことだが、もう仕方がなかった。ドアを閉める余裕もなく、追いかけてきた有馬も中に入って、鍵を締める。拒絶する間はなかった。
「ぉ、え……、」
あえなく便器の中に吐き出そうとしたが、有馬が無理やり肩をつかんで便器の外に花が溢れた。どうして、と問おうと思ったが、理由は明白だった。大量の花をトイレに流したら、詰まってしまう。それで草津はトイレの個室の床に延々と花を吐いた。
「錦史郎、大丈夫だから」
有馬が背中をさすってくれる。花と一緒に涙を床に零しながら、草津はえづいた。息がうまくできない。花に喉を詰まらせて、死んでしまうんじゃないか。そんな予感が頭をよぎって、ますます花を吐いた。
あっちゃん、と、由布院が、キスをしていた。
「あ、はぁ、ああ、」
長い時間吐き続けて、かすみ草を最後に花を吐き終えた草津は、床を埋め尽くす花を見ながらふらりと立ち上がった。有馬は草津を便器に座らせ、汗で貼り付いた前髪を剥がすように額に触れた。
「袋持ってくるから、ここで待ってて。鍵はしめてね。ノック五回したら出て」
返事も出来ずに頷くと、有馬は微笑んで個室を出ていった。草津は手を伸ばしてふたたび鍵をしめた。狭い個室は色とりどりの花々に埋め尽くされていて、思わずゾッとする。最近吐く頻度は減っていたけれど、自分はこれだけのものを溜め込んでいたのだ。
なのに想い人たる鬼怒川は、別の人間に口付けていた。
思わずまた口から小さな花を吐く。はやく有馬に戻ってきてほしい、と思った瞬間、ドアがノックされた。五回。
「おまたせ」
ドアを細く開けて滑り込むように個室に入ってきた有馬は、ポケットから折り畳んだポリ袋を取り出した。
「片付けちゃうから座ってて」
言って有馬は草津が吐いた花をどんどん袋につめていく。
「ほんとにたくさん吐いたね」
「……ああ」
「袋、二枚持ってきてよかったかも」
有馬は自分が何を見てこんなことになってしまったのか訊きもしない。自分が誰に片想いしているのかは悟られているだろうが、こうまったく触れられないのも違和感があった。……いや。
「有馬きみは……」
「え?」
二枚目の袋を広げようとしていた有馬が顔を上げる。
「あっちゃん、とゆふいん、が、その、交際していたことは、……知っていたのか」
「知ってた、っていうか……ええと、それはあのふたりに直接そう言われたことはないけど」
有馬は小さく首を傾げる。
「見てれば、わからない?」
「わか、……、」
草津は唇を震わせた。そんな話があるものか。わからなかった、そんなこと。たったいま、決定打を見せつけられるまで。思わずかぶりを振ってしまう。有馬が驚いた顔をしているのが嫌で仕方がない。唇から小さな花びらを数枚落として、草津はため息をついた。
「……錦史郎、まさかあのふたりがセッ……」
「してない!してなかった、が」
そういうことも、しているのだろうか、彼らは。想像もしたくない。背筋が冷えて、どうにかなりそうだ。有馬が宥めるように背を撫でる。ひとりになりたい。しかし、有馬の手の温度は離れがたい。草津は有馬を見上げ、それから眉を寄せた。
「……有馬?」
有馬は草津の背に触れていないほうの手で、自分の口もとを抑えていた。それがどういうことなのか、草津は知っている。だけど、それを見るのははじめてだった。
「ゥ、ア……!」
有馬が声を上げてうずくまる。彼の唇から溢れる花たちを、草津はぼんやりと眺めていることしかできなかった。
*
草津、それに有馬の嘔吐と後片付けが終わって生徒会室に戻ると、スマートフォンには鬼怒川から「さっきは本当にごめん、今度ちゃんと話すから」というメッセージが届いていた。吐き終わって憔悴しきっていた草津は、ため息をつく。もう、出すものもなにもない。由布院と鬼怒川が口づけていたことも、有馬が花を吐いたことも、草津のこころを振り回すだけ振り回す。
「有馬」
「……うん、錦史郎はもう大丈夫?」
「……納得はしていない」
それは事実だ。由布院と鬼怒川がそういった意味で交際していたなんて、聞いていない。信じられない。――いや、そうじゃない、信じたくない。
だけど本当は、どこかでわかっていたのだ。あのふたりの掛け合い、態度、見つめ合うときの瞳の温度。わかっていたからこそ、あんなに躍起になって、あのふたりを引き剥がすことを願ってしまった。地球を征服したいとまで、考えてしまったのだから。
「僕は、しつれん、したんだな」
「そうだね」
口に出してしまうと、認められてしまうと、涙が出る。有馬が背中をさすってくれて、その手のひらの暖かさに安堵してしまう。鼻を啜って、それから有馬を見上げた。彼もまた、花を吐く。片思いをしているのだ。
「君は、どうなんだ」
有馬が目を見開く。そして彼は首を横に振った。
有馬燻がその病に罹患したのは、まだ小学生にもなっていないころだ。嘔吐中枢花被性疾患に侵されていた家の使用人の女がよりにもよって、有馬の当主――つまり有馬の父に恋をした。当然それは片思いだった。そして、何も知らない燻は彼女が吐いた花に触れてしまった。使用人はすぐに解雇され、燻は周囲から言い聞かせられる。人前で花を吐くな、つまりお前は恋をするな、どうやらこの病気は恋心のゆらぎが花になるらしい、出来る限りこころを落ち着かせるようにしろ。
燻はきちんとその言いつけを守った。歳不相応に落ち着いていると言われ続けてきた。しかし、最初に花を吐いたのはそれから数年後のことだった。
少しの間、日本有数の温泉街である眉難市で暮らすことになった。気のおけない友人ができたころ、また町を離れることになった。よくあることだったので、有馬だって最初はなんとも思っていなかった。しかし、引っ越しも終えて、新しい学校に通学するようになってから、唐突に一輪花を吐いた。
転校したばかりで、寂しい、また前の友だちと遊びたい、と考えた瞬間だった。
そんなはずがない。彼は男だし、友だちだ。何度も自分が吐いた事実を否定して、否定するたびに花を吐いた。しばらくすると、受け入れざるを得なくなる。
好都合だったのは本人がもうそばにはいないことで、気持ちを落ち着けるのは楽だった。不意にどうしようもなく寂しくなる夜以外に花を吐くこともなくなり、しかしそれは収まることもなく、彼は高校生になってしまったのだった。
高校ではまた眉難に戻ることになった。そうして十年ぶりに生徒会会長と副会長として想い人と再会した燻は、彼がどこか変質してしまったことを知り、その夜に花を吐いた。
幼い頃からの言いつけはもはや洗脳じみていて、有馬は恋をすっかり心の中の箱に収めてしまうことに成功していた。目の前の草津には一歩引いた立場で接して、むしろこちらには興味を持たせないようにする。幸い草津はかつての親友である鬼怒川にご執心で、あまりこちらを向かないのだ。
有馬は生徒会室にいくつかの鉢植えを置いていた。万が一花を吐いてもこれで誤魔化せる――とはさすがに思っていないけれど、気休めにはなっていた。
その日は珍しく生徒会室でひとりだった。穏やかな気分で花に水をやりながら、ふと窓の外を見る。草津もよくここで外を見ている。そしてどういうわけかタイミングよくいつも、この下を鬼怒川と、それから由布院が通るのだ。今日は誰も歩いていない。
草津が鬼怒川に抱いているのは、本当に友情の未練なのだろうか、と有馬は思う。あの目は、違うんじゃないのか。草津は鬼怒川のことが好きなんじゃないか、恋愛感情と、して(そう、自分が、草津に長らく恋をしているように)。
思った瞬間、しまった、と思った。ほんのわずかな胸のきしみがそのまま吐き気になってこみ上げてくる。口元を抑えようとして、間に合わなかった。跪いて、床に顔を向ける。ひどいうめき声が上がった。
有馬は久々に吐き出してしまった花を見下ろして、ため息をついた。さっさと片付けてしまおう、錦史郎や阿古哉がくるまえに。思い直して立ち上がり、ポリ袋を拡げる。
*
心臓がやけにうるさい。有馬は隣にいるはずなのに、なんだかひどく遠くにいるような気がした。
「あのとき」
有馬が目を伏せる。
「たぶんあのとき、片付けそこねた花びらがあったんじゃないかなって、思ってる。錦史郎が、花吐き病になったのは、俺のせいだって」
草津はぽかんとすることしかできなかった。有馬が平気で素手で花を触るのは、自分自身がとっくにあの病気に罹患していたからだったのだ。そんなこと、考えもしなかった。だって有馬は今日まで一度も自分の前では花を吐かなかった。全部を隠しきって、自分の背を撫で、花を片付けていた。
「ごめん、言えばよかったんだ、俺のせいだって」
「有馬……」
しかし草津は生徒会室で花びらにだって触れた記憶はない。必ずしも有馬が吐いた花で罹患したとは言い切れない。それもこれも、今となっては確かめようもないことだ。
「錦史郎に嫌われるのが怖くて、言えなかった」
病気になったことは最初こそ腹がたった。恥だと思った。認めたくもなかった。しかし、ようやくこの病気を飼い慣らしたという実感があった。鬼怒川への恋慕はたぶん、以前よりずっと落ち着いてきた。
「そんな、今更……」
草津の零したことばに、有馬が「そうだよね」と笑う。自嘲しているのだろう。草津は今度は自分が有馬の背を撫でる番なのではないかと思ったが、それがなぜか躊躇われた。広い背中は、自分の手じゃ足りないかもしれないと思わせるには十分だ。
「……有馬、君はいったい誰を想って花を吐いてるんだ」
自分ばかりが有馬に胸のうちを知られている気がして、草津は尋ねる。有馬はようやく顔を上げ、それからあかい瞳でこちらを真っ直ぐに見た。
「君だよ、錦史郎」
「そんな……、」
頭の中が真っ白になり、反射的に立ち上がる。そんな、ことが、あるのか。いや――、これだってわかっていたんじゃないのか。有馬の献身は、とっくに生徒会副会長、クラスメイトの度を越していた。嘘をつくはずもない。
「ごめん」
有馬の謝罪がなにに対してなのか、草津にはわからなかった。
「すこし、考えさせてくれ」
ふるえる唇でようやくそれだけ言うと、草津はかばんを手にして生徒会室を出た。
愛は地球を救うのかもしれないけれど、必ずしも個人を救うものではない。草津はその日の夜、家でも花を吐いた。気道を無理して通る花を吐くのは、食べたものを吐くときよりずっと苦しい。
有馬もこうして、ひとりで吐いていたのだろうか。十年も、ずっと。
考えただけでぞっとして、草津は床に落ちた花を見つめた。有馬に背中をさすってほしい、と思う。自分は有馬にしなかったのに、あまりに傲慢な願いだ。草津はため息をついた。
あっちゃんは由布院と付き合っていて、たぶん自分にはそれを引き離す権利はない。正直に言えば引き離したいとは思うけれど、それは少なくともあっちゃんを苦しめるだろう。
なにもかもうまくいかない。胸元を抑える。どうしてこんなことになってしまったのだろう。いや、そもそもこうなることはずっと前から決まっていたのだろうか。本当に彼が言うとおり、有馬のせいで自分が花を吐くことになってしまったのなら、彼を恨むべきなのだろうか。
考えるべきことが多すぎる。草津はかたく目を閉じた。
*
「言わなきゃって、ずっと思ってたんだ」
翌日は、鬼怒川とふたりで帰ることになった。途中で喫茶店に入り、向き合ったところで、鬼怒川は重々しく口を開く。そういえばこの喫茶店は、有馬が以前勧めてくれたところだ、と草津は少しだけ現実逃避気味に考える。店内は女性が多かったけれど、おしゃべりに興じる彼女たちは、男ふたりの自分たちに注意を払うこともない。
「煙ちゃんと、付き合って、ます」
「……ああ」
深呼吸をする。ここでこころを乱してしまったら、きっとここで花を吐いてしまう。わかっていたことだ。昨日きちんと、理解したはずだ。
けれど、胸が苦しくなってくる。草津は立ち上がった。さすがに、こんなところで吐くわけにはいかない。なにより、誰かを罹患させかねない。
突然立ち上がった草津に、鬼怒川が戸惑うように顔を上げる。だが草津は口許を抑えてなにも言えず、そのままトイレに駆け込んだ。鬼怒川が唖然としているのが視界の端に見えていたけれど、なにかを言う余裕もなかった。
なんとか間に合って、便器の前でうずくまる。昨日とまるで同じだ。いや、昨日は有馬がいた。有馬がいて、宥めてくれた。
ぼろぼろと泣きながら、色とりどりの花を吐く。喉を抑えても、胸を抑えても、花は止まらない。あっちゃんは、あっちゃんは、もうきっと二度と、僕のものにはならない。
「錦ちゃん、大丈夫?」
個室の向こうで、鬼怒川がいぶかしげに尋ねてくる。鬼怒川は優しかった。だけど、今は声をかけてほしくなかった。
「席に戻っていて、くれ」
なんとか絞り出すと、「そんなことできないよ」と答えてくれる。その声を聞いて、草津はもう一輪花を吐いた。
なんとか落ち着いて、花を片付ける。個室の外で待っていた鬼怒川の心配そうな顔に「大丈夫」とだけ言って、手を洗うと足早に席に戻った。
「具合悪かったのに、誘っちゃってごめんね」
「いや……、もう大丈夫だから」
すっかり冷めてしまった紅茶を啜ると、草津はため息をついた。有馬が淹れたもののほうがよほど美味しい。
「風邪でも、ひいてる?」
「風邪ではないんだ」
鬼怒川は、自分が花吐き病だからといって、付き合い方を変えるような人間ではない。それは草津もわかっていて、しかしどうしてもはっきりと言うのは憚られた。例え不格好でも、片思いは隠しておきたい。
「由布院は、君を傷つけないのか」
それは問いかけというよりも、つぶやきに近かった。しかし鬼怒川はきちんと返事をする。
「うーん、煙ちゃんになら、傷つけられてもわからないかもしれない、かな」
「……そう」
きっと鬼怒川の言うとおりだろう。由布院は基本的にゆるい性格をしているし、そういう柔らかいところが、自分とは正反対だった。そして、草津はすでに鬼怒川を傷つけている。
「……それなら仕方ないな」
勝てるはずがないのだ、あの男には、もう。草津は伝票を持って立ち上がる。鬼怒川も慌てて立ち上がり、鞄から財布を出す。その鞄についているパスケースだって、由布院と色違いのお揃いなのだ。
鬼怒川と別れて歩きはじめてから、草津はスマートフォンを取り出す。自分が傷つけていたのは、たぶん鬼怒川だけではない。
会いたい、と思った。有馬に会って、話がしたい。彼の前ではどれだけ花を吐いても許されるのだ。もっとも――、彼が本当に自分を好きなのだとしたら、それが同時に彼を傷つけることになることは、わかっている。それでも彼は自分の背を撫でてくれるだろうし、素手で花を片付けるだろう。
ひとつ咳き込んで、また小さな花を吐く。それを手のひらで握り潰した。呼んだら、来てくれるだろうか。君は僕に甘えきっていると、笑ってくれても構わないから。草津はスマートフォンの通話アプリを祈るようにタップした。
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