boueibu
眩しいくらいにびっしりと赤い表紙の本が並んでいるのを見て、俺はそっと息を吐く。駅前の本屋は眉難高校の生徒が多く利用することもあって、参考書の類が豊富に置かれている。この時期は毎年大学入試の過去問が平置きにされるのだった。近くの国立大学の名前が書かれたもの、東京の私立大学の名前が書かれたもの、もっと遠くにある大学の名前が書かれたもの。俺は、指定校推薦というありがたい制度のおかげで、そのなかのひとつに進学が決まっている。幼馴染の錦ちゃんと同じ大学だ。学部がまるっきり違うから、同じ授業に出たりはそうできないだろうけど、少なくともひとり、同じ大学に知り合いがいるというのは心強いことだった。
そのなかの一冊を手にとってめくる。目を引いたのは、煙ちゃんが今日受けに行っている大学の名前だったからだろう。センター試験の成績も相変わらずの要領の良さで上々で、それだけでいくつかの私立大学に受かったみたいだけど、煙ちゃんが受けに行ったのはそれらより少し偏差値の高い大学だった。
煙ちゃんは受かるだろうか。受かるんだろうな。そんなことを考えながら、去年の英語の問題文を目で追う。俺だってこの大学は受ければ受かるだろう。自惚れじゃなくて、そう思える。俺はため息をついた。傍から見たら、志望校の問題が難しくて憂鬱になった受験生、って感じだったかも。でもそれらは全部大間違いで、正しいのは問題を見て憂鬱な気持ちになったことだけだった。
べつに。赤本を閉じて、さっきまでの場所に戻す。べつに、違う大学に進学したからといって、煙ちゃんが俺の親友であることは変わらないだろう。だけど、いちばんの親友、というポジションは、変わらずにいられるだろうか。
俺のことを空気みたいなもん、と言ったのは煙ちゃんの方だった。あの時俺はどうでもいい返答をしてしまったけれど、そんなの、俺だって同じだったのに。気が付いたのが今更なんて、遅すぎて笑ってしまう。
いつでもそこにあって、存在を意識すらしないのに、そこにいなければ生きていけないもの。
俺は本屋でお目当てだった本も見つけられず、落ち込んだ気分だけを抱えて外に出た。
「第一志望受かった」
八文字のラインのメッセージに、心臓が跳ねる。俺が行く大学を知っていて、煙ちゃんはそこを第一志望にはしてくれなかった。ここに進学するんだろう。おめでとう。よかったね。すごい。勉強見た甲斐があった。返すべき言葉はどんどん頭に浮かぶのに、指が動かない。
しばらくすると、煙ちゃんのほうから猫のキャラクターがはしゃいでいるイラストのスタンプが送られてきた。どこかの企業が無料で配布していたスタンプだ。スタンプの猫は満面の笑みを浮かべている。煙ちゃんはどんな顔をしてこれを送ってきたんだろう。たぶんこんな、ニコニコはしていない。いつもどおりのちょっと眠そうな目で、だけど口許は軽く緩んで、そういう顔をしている。
既読がついたのに返信しないのはちょっとよくない。
「おめでとう!合格祝いなにがいい?」
とにかく無理やり打ち込んで、なんとか送信した。煙ちゃんからの返事はなかなか来ない。考えてるんだろうな。俺は財布の中に残っている小遣いのことを考えて、それからまあ、煙ちゃんのことだからそれはそれなりに気遣ってくれるだろう、と思った。
「じゃたまにはふたりでメシとか」
そういえば最近はなんだかんだついつい、後輩たちとか錦ちゃんたち生徒会のみんなとも一緒に行動しがちで、それがなくても煙ちゃんは受験で東京とこちらを往復してるしで、あんまり二人だけで話すこともなかった。結局待ち合わせはファミレスになった。煙ちゃんのほうからの提案だ。
三年は三学期登校しなくてよくなる。平日昼間のファミレスの駐車場はガラガラだ。俺は店の入り口の前で煙ちゃんを待っていた。
「おす」
本人はたいしておしゃれに興味があるわけじゃないのにファッション誌の記者に声をかけられたこともある煙ちゃんは、相変わらず人目を引く。ファミレスにおしゃれをしてきたというより、意識しなくてもセンスのいい服が買えて、コーディネートできちゃうタイプ。
こんなこと今まではどうでもよかったはずなのに、気になってしまうのは、明確に未来が見え始めているからかもしれない。
「珍しく寝坊しなかったね」
「もうベンキョしなくていいからよく寝れるんだよな」
と笑う。決定的に進路が分かたれた俺たちだけど、煙ちゃんの笑い方はいつもより軽快に見えた。せいせいしたようにも見える。
「なにくおっかな」
言いながらファミレスのドアを引く煙ちゃんに、俺は後ろから声をかける。
「合格おめでとう」
「ありがと」
煙ちゃんのちょっと低い声は、それでも弾んでいるのが伝わってくる。かわいいなと思った。それから、きれいだなと思った。
俺はいつだって遅いんだ、気が付くのが。錦ちゃんと仲違いしちゃったときもそうだった。我に返ったら、錦ちゃんとろくな会話もできなくなるほど離れていた。今もそうなろうとしている。
「サバの味噌煮定食ってあったっけ」
「男子高校生らしかぬ選択だねえ」
「好きなもんは好きなんだよ」
暇そうにしていた店員さんに案内されて、席につく。メニューを拡げながら、軽口を叩く。呼吸がらくになる気がする。空気、という単語がさっと頭をよぎる。煙ちゃんはサバの味噌煮と鮭の塩焼きで悩んでいる。俺は今回はカレーじゃなくて、ハンバーグにした。中にチーズが入ってるやつだ。
「それもうまそうだな」
煙ちゃんは自分だってメニューを持っているのにこちらを覗き込んでそう笑った。
「魚じゃないよ、これ」
「わーってるって」
煙ちゃんは少しだけ考えて「やっぱ俺も同じやつにしよ」と言う。
「珍しいね、俺たちが同じメニュー頼むの」
「そうかもな」
受験が終わったせいだろう、煙ちゃんはいつも以上に穏やかに見えた。俺たちはそれぞれハンバーガーとウーロン茶を頼んで、料理が来るのを待つ。
「でも、本当によかったね、受かって」
「な、俺絶対浪人とか向いてねえもん」
「そうだよねえ」
「だって熱史はそばにいねえんだもんなあ、浪人しちゃうと」
「そうそう」
煙ちゃんに頼りにされるのは嬉しい。俺がいないとダメ、って言われるのは嬉しい。どうかと思うけど、それは俺の本心で、煙ちゃんが気がついているのかはわからない。たぶん、気がついてる。
「煙ちゃんがひとりで勉強するなんて想像できないよ」
というのは半分ウソで、別に俺だって煙ちゃんの受験にあたって煙ちゃんにつきっきりだったわけではない。煙ちゃんが大学に受かったのはちゃんと自分の意思と努力の力だって、本当はわかってる。なのに当てつけがましくそんなことを言ってしまうなんて、俺の器もたいがい小さい。だから俺は、てっきり煙ちゃんから反論が来るものだと思っていた。なのに煙ちゃんは少し黙ったあと、「ほんとにな」と言った。
思ってもみなかった反応に、俺は目を瞬かせて、それから「いや、冗談だけど」と答える。すると煙ちゃんは「そ」とこれ以上なく短い相槌を打つ。どうしよう、話題を変えちゃおう。
「それより、東京まで受験に行くの大変だったでしょ」
「んー、まあ、絶対起きられねえから前泊したのは正解だったわ」
「俺まだホテルにひとりで泊まったことないんだよね」
「大したことじゃないだろ」
「そうかもしれないけど」
ずっと煙ちゃんと一緒にいたのに、人生の経験値に差がついたような気がしてしまう。
「熱史にモーニングコールでも頼めばよかったって思ったんだけどさすがにな」
「頼んでくれればやったのに」
「じゃあ頼めばよかった」
「煙ちゃん」
なんだかいつもよりちょっと甘えているような口振りに、ちょっとどきどきしてしまう。煙ちゃんはそんな気なんかないだろうに、俺と同じようなこと考えてるんじゃないかって、期待してしまう。どうしよう、と思った瞬間、店員さんがじゅうじゅうと音を立てる鉄板を持ってきた。
「こちらチーズ入りハンバーグになります」
ファミレスらしい少し柔らかそうな付け合せの野菜としっかりソースがかかったハンバーグを前に、俺はごくりと喉を鳴らす。しばらくするとセットのサラダとライスもやってきて、そうなるとさっきまでの会話どころではなくなってしまう。
「うまそ」
さっきまで和風定食を食べたがっていたとは思えないくらい顔をゆるめてハンバーグを見る煙ちゃんは、さっそくナイフとフォークを手に取った。俺もハンバーグの端っこを切って、口の中に入れる。ガッツリ広がるソースの味に押されて、あんまり肉の味がしないけど、どうでもよかった。
「こっちでも東京でもハンバーグの味は同じなんだろうな」
「そりゃあそうでしょ」
「そういやうちから誰か同じ大学行くやついるかな」
「それはまあ、いるでしょ」
「お前は草津と同じだからいいよな、なあ、誰か聞いてない?クラスのやつとかさ」
「うーん、まあ、今度学校行くときにでも訊いてみれば」
はあ、と煙ちゃんが曖昧な返事をする。そんなことよりハンバーグを食べたいって感じだし、俺もそうだ。残念ながら俺たちは今のところまだ高校三年生で、どうしたって食欲には勝てない。
「でさ、お前もう部屋決めたの?」
食べ終わったところで、煙ちゃんがお絞りで手を拭きながらそう言った。部屋、というのが何のことなのか一瞬わからなくてぽかんとしてしまう。だけどすぐに思い至った。部屋。東京でひとり暮らしするための、部屋ということだろう。
「いや、まだ……かな」
「お前にしては遅いじゃん、これから部屋見つけんの大変だろ」
「そろそろ探さなきゃいけないとは思ってるけど」
「なんなら草津と住めば?」
テーブルの上に頬杖をついた煙ちゃんは、少し笑ってそう言った。
「え?」
思わぬ提案に、俺は瞬きをしてしまう。錦ちゃんと住むなんて、考えてもみなかった。東京のマンションで、幼馴染と一緒に暮らす。日々家事を分担して、一緒にご飯を食べる。うまく時間割を組めば、登校くらいは一緒にできるかもしれない。それはなかなか魅力的な生活のような気がした。だけど。
「それとも、俺と住む?」
続けて冗談めかした調子で、煙ちゃんがそう言った。
「住む」
俺は今度はなにも考えずに頷いていた。煙ちゃんのほうが「え?」という番だった。
俺たちの進学先は違うから、毎日煙ちゃんと一緒に部屋を出ることはできないだろう。それどころか、煙ちゃんのこの調子じゃ毎日のように俺が起こすはめになるかもしれない。煙ちゃんは料理ができないわけじゃないけど、実際面倒くさがりだから、ご飯は毎日俺が作らないかもしれない。
「なに、熱史、お前大学いっても俺の面倒見る気なの」
どうやらびっくりから立ち直ったらしい煙ちゃんは、まだちょっとふざけたような声でそう言う。見る気なの、って言うけど、そうじゃない。あの日、本屋さんで赤本を眺めながら感じたもやもやの正体を、俺はしっかりわかっている。
「……見たいよ、面倒」
「熱史お前」
「まだ、煙ちゃんの面倒、みたい」
言った途端、煙ちゃんの頬が赤くなる。まじか、と言う声は少し震えているように聞こえる。ちょっと眉を寄せた表情、あおい瞳が少しだけ揺らぐ。俺の都合のいい妄想なんかじゃなくて、もしかして、もしかしなくても、今日の煙ちゃんは、最初っから俺に甘えたがってたんじゃないか。
俺はいつだって遅いんだ、気が付くのが。煙ちゃんも俺と同じ気持ちだったんだ。ああもう、これだから嫌になってしまう。
そのなかの一冊を手にとってめくる。目を引いたのは、煙ちゃんが今日受けに行っている大学の名前だったからだろう。センター試験の成績も相変わらずの要領の良さで上々で、それだけでいくつかの私立大学に受かったみたいだけど、煙ちゃんが受けに行ったのはそれらより少し偏差値の高い大学だった。
煙ちゃんは受かるだろうか。受かるんだろうな。そんなことを考えながら、去年の英語の問題文を目で追う。俺だってこの大学は受ければ受かるだろう。自惚れじゃなくて、そう思える。俺はため息をついた。傍から見たら、志望校の問題が難しくて憂鬱になった受験生、って感じだったかも。でもそれらは全部大間違いで、正しいのは問題を見て憂鬱な気持ちになったことだけだった。
べつに。赤本を閉じて、さっきまでの場所に戻す。べつに、違う大学に進学したからといって、煙ちゃんが俺の親友であることは変わらないだろう。だけど、いちばんの親友、というポジションは、変わらずにいられるだろうか。
俺のことを空気みたいなもん、と言ったのは煙ちゃんの方だった。あの時俺はどうでもいい返答をしてしまったけれど、そんなの、俺だって同じだったのに。気が付いたのが今更なんて、遅すぎて笑ってしまう。
いつでもそこにあって、存在を意識すらしないのに、そこにいなければ生きていけないもの。
俺は本屋でお目当てだった本も見つけられず、落ち込んだ気分だけを抱えて外に出た。
「第一志望受かった」
八文字のラインのメッセージに、心臓が跳ねる。俺が行く大学を知っていて、煙ちゃんはそこを第一志望にはしてくれなかった。ここに進学するんだろう。おめでとう。よかったね。すごい。勉強見た甲斐があった。返すべき言葉はどんどん頭に浮かぶのに、指が動かない。
しばらくすると、煙ちゃんのほうから猫のキャラクターがはしゃいでいるイラストのスタンプが送られてきた。どこかの企業が無料で配布していたスタンプだ。スタンプの猫は満面の笑みを浮かべている。煙ちゃんはどんな顔をしてこれを送ってきたんだろう。たぶんこんな、ニコニコはしていない。いつもどおりのちょっと眠そうな目で、だけど口許は軽く緩んで、そういう顔をしている。
既読がついたのに返信しないのはちょっとよくない。
「おめでとう!合格祝いなにがいい?」
とにかく無理やり打ち込んで、なんとか送信した。煙ちゃんからの返事はなかなか来ない。考えてるんだろうな。俺は財布の中に残っている小遣いのことを考えて、それからまあ、煙ちゃんのことだからそれはそれなりに気遣ってくれるだろう、と思った。
「じゃたまにはふたりでメシとか」
そういえば最近はなんだかんだついつい、後輩たちとか錦ちゃんたち生徒会のみんなとも一緒に行動しがちで、それがなくても煙ちゃんは受験で東京とこちらを往復してるしで、あんまり二人だけで話すこともなかった。結局待ち合わせはファミレスになった。煙ちゃんのほうからの提案だ。
三年は三学期登校しなくてよくなる。平日昼間のファミレスの駐車場はガラガラだ。俺は店の入り口の前で煙ちゃんを待っていた。
「おす」
本人はたいしておしゃれに興味があるわけじゃないのにファッション誌の記者に声をかけられたこともある煙ちゃんは、相変わらず人目を引く。ファミレスにおしゃれをしてきたというより、意識しなくてもセンスのいい服が買えて、コーディネートできちゃうタイプ。
こんなこと今まではどうでもよかったはずなのに、気になってしまうのは、明確に未来が見え始めているからかもしれない。
「珍しく寝坊しなかったね」
「もうベンキョしなくていいからよく寝れるんだよな」
と笑う。決定的に進路が分かたれた俺たちだけど、煙ちゃんの笑い方はいつもより軽快に見えた。せいせいしたようにも見える。
「なにくおっかな」
言いながらファミレスのドアを引く煙ちゃんに、俺は後ろから声をかける。
「合格おめでとう」
「ありがと」
煙ちゃんのちょっと低い声は、それでも弾んでいるのが伝わってくる。かわいいなと思った。それから、きれいだなと思った。
俺はいつだって遅いんだ、気が付くのが。錦ちゃんと仲違いしちゃったときもそうだった。我に返ったら、錦ちゃんとろくな会話もできなくなるほど離れていた。今もそうなろうとしている。
「サバの味噌煮定食ってあったっけ」
「男子高校生らしかぬ選択だねえ」
「好きなもんは好きなんだよ」
暇そうにしていた店員さんに案内されて、席につく。メニューを拡げながら、軽口を叩く。呼吸がらくになる気がする。空気、という単語がさっと頭をよぎる。煙ちゃんはサバの味噌煮と鮭の塩焼きで悩んでいる。俺は今回はカレーじゃなくて、ハンバーグにした。中にチーズが入ってるやつだ。
「それもうまそうだな」
煙ちゃんは自分だってメニューを持っているのにこちらを覗き込んでそう笑った。
「魚じゃないよ、これ」
「わーってるって」
煙ちゃんは少しだけ考えて「やっぱ俺も同じやつにしよ」と言う。
「珍しいね、俺たちが同じメニュー頼むの」
「そうかもな」
受験が終わったせいだろう、煙ちゃんはいつも以上に穏やかに見えた。俺たちはそれぞれハンバーガーとウーロン茶を頼んで、料理が来るのを待つ。
「でも、本当によかったね、受かって」
「な、俺絶対浪人とか向いてねえもん」
「そうだよねえ」
「だって熱史はそばにいねえんだもんなあ、浪人しちゃうと」
「そうそう」
煙ちゃんに頼りにされるのは嬉しい。俺がいないとダメ、って言われるのは嬉しい。どうかと思うけど、それは俺の本心で、煙ちゃんが気がついているのかはわからない。たぶん、気がついてる。
「煙ちゃんがひとりで勉強するなんて想像できないよ」
というのは半分ウソで、別に俺だって煙ちゃんの受験にあたって煙ちゃんにつきっきりだったわけではない。煙ちゃんが大学に受かったのはちゃんと自分の意思と努力の力だって、本当はわかってる。なのに当てつけがましくそんなことを言ってしまうなんて、俺の器もたいがい小さい。だから俺は、てっきり煙ちゃんから反論が来るものだと思っていた。なのに煙ちゃんは少し黙ったあと、「ほんとにな」と言った。
思ってもみなかった反応に、俺は目を瞬かせて、それから「いや、冗談だけど」と答える。すると煙ちゃんは「そ」とこれ以上なく短い相槌を打つ。どうしよう、話題を変えちゃおう。
「それより、東京まで受験に行くの大変だったでしょ」
「んー、まあ、絶対起きられねえから前泊したのは正解だったわ」
「俺まだホテルにひとりで泊まったことないんだよね」
「大したことじゃないだろ」
「そうかもしれないけど」
ずっと煙ちゃんと一緒にいたのに、人生の経験値に差がついたような気がしてしまう。
「熱史にモーニングコールでも頼めばよかったって思ったんだけどさすがにな」
「頼んでくれればやったのに」
「じゃあ頼めばよかった」
「煙ちゃん」
なんだかいつもよりちょっと甘えているような口振りに、ちょっとどきどきしてしまう。煙ちゃんはそんな気なんかないだろうに、俺と同じようなこと考えてるんじゃないかって、期待してしまう。どうしよう、と思った瞬間、店員さんがじゅうじゅうと音を立てる鉄板を持ってきた。
「こちらチーズ入りハンバーグになります」
ファミレスらしい少し柔らかそうな付け合せの野菜としっかりソースがかかったハンバーグを前に、俺はごくりと喉を鳴らす。しばらくするとセットのサラダとライスもやってきて、そうなるとさっきまでの会話どころではなくなってしまう。
「うまそ」
さっきまで和風定食を食べたがっていたとは思えないくらい顔をゆるめてハンバーグを見る煙ちゃんは、さっそくナイフとフォークを手に取った。俺もハンバーグの端っこを切って、口の中に入れる。ガッツリ広がるソースの味に押されて、あんまり肉の味がしないけど、どうでもよかった。
「こっちでも東京でもハンバーグの味は同じなんだろうな」
「そりゃあそうでしょ」
「そういやうちから誰か同じ大学行くやついるかな」
「それはまあ、いるでしょ」
「お前は草津と同じだからいいよな、なあ、誰か聞いてない?クラスのやつとかさ」
「うーん、まあ、今度学校行くときにでも訊いてみれば」
はあ、と煙ちゃんが曖昧な返事をする。そんなことよりハンバーグを食べたいって感じだし、俺もそうだ。残念ながら俺たちは今のところまだ高校三年生で、どうしたって食欲には勝てない。
「でさ、お前もう部屋決めたの?」
食べ終わったところで、煙ちゃんがお絞りで手を拭きながらそう言った。部屋、というのが何のことなのか一瞬わからなくてぽかんとしてしまう。だけどすぐに思い至った。部屋。東京でひとり暮らしするための、部屋ということだろう。
「いや、まだ……かな」
「お前にしては遅いじゃん、これから部屋見つけんの大変だろ」
「そろそろ探さなきゃいけないとは思ってるけど」
「なんなら草津と住めば?」
テーブルの上に頬杖をついた煙ちゃんは、少し笑ってそう言った。
「え?」
思わぬ提案に、俺は瞬きをしてしまう。錦ちゃんと住むなんて、考えてもみなかった。東京のマンションで、幼馴染と一緒に暮らす。日々家事を分担して、一緒にご飯を食べる。うまく時間割を組めば、登校くらいは一緒にできるかもしれない。それはなかなか魅力的な生活のような気がした。だけど。
「それとも、俺と住む?」
続けて冗談めかした調子で、煙ちゃんがそう言った。
「住む」
俺は今度はなにも考えずに頷いていた。煙ちゃんのほうが「え?」という番だった。
俺たちの進学先は違うから、毎日煙ちゃんと一緒に部屋を出ることはできないだろう。それどころか、煙ちゃんのこの調子じゃ毎日のように俺が起こすはめになるかもしれない。煙ちゃんは料理ができないわけじゃないけど、実際面倒くさがりだから、ご飯は毎日俺が作らないかもしれない。
「なに、熱史、お前大学いっても俺の面倒見る気なの」
どうやらびっくりから立ち直ったらしい煙ちゃんは、まだちょっとふざけたような声でそう言う。見る気なの、って言うけど、そうじゃない。あの日、本屋さんで赤本を眺めながら感じたもやもやの正体を、俺はしっかりわかっている。
「……見たいよ、面倒」
「熱史お前」
「まだ、煙ちゃんの面倒、みたい」
言った途端、煙ちゃんの頬が赤くなる。まじか、と言う声は少し震えているように聞こえる。ちょっと眉を寄せた表情、あおい瞳が少しだけ揺らぐ。俺の都合のいい妄想なんかじゃなくて、もしかして、もしかしなくても、今日の煙ちゃんは、最初っから俺に甘えたがってたんじゃないか。
俺はいつだって遅いんだ、気が付くのが。煙ちゃんも俺と同じ気持ちだったんだ。ああもう、これだから嫌になってしまう。
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