boueibu
「あれ、今日立は一緒じゃないんだ」
浴場に入ると案の定というべきか、おなじみの先輩方――由布院先輩と鬼怒川先輩、それに草津生徒会長と有馬生徒副会長が湯船に浸かっていた。私自身もともと由布院先輩と鬼怒川先輩の習慣に相乗りするかたちで放課後の温泉に入るようになったようなものだが、生徒会長と副会長もすっかりそれに乗っかっている。入湯料や入った後のコーヒー牛乳にかかる金を考えても、温泉には十分な費用対効果があるとわかっているので、彼らが黒玉湯の良さに目覚めてしまうのも致し方ないことなのかもしれないが。
「立は女子と遊んでくるそうです」
「はー、元気だねえ」
いつものようにだらしのない口調で言ってくるのは由布院先輩で、「まったく、公序良俗に反している」とそっぽを向いたのは草津先輩だった。有馬先輩がまあまあ、とのんびりした口調で宥めている。
「蔵王は来ませんでしたけど、僕ならいますよ」
さて、僕の後ろから現れたのは、男湯で、なおかつ彼自身も男だというのに胸元までタオルで覆った下呂くんだった。有馬先輩が「ああ阿古哉、この間の議事録終わった?」と尋ねてきて、下呂くんはそれを意図的に無視した。ここにふたりで来るまでのあいだ、有馬から頼まれた仕事を放ってきてしまった、というようなことを言っていたから、まあ、そういうことなのだろう。
ともあれ私と下呂くんは洗い場でからだをしっかりと流し、湯船に入った。先輩方もまだのぼせないのか、浸かったままとりとめのない話をしている。生徒会は生徒会同士で会話を始めたようだったので、私は由布院先輩と鬼怒川先輩の向かい側に腰を下ろした。
「今日の調子はどうだったの」
「微増、ってところですかね」
今日はよくも悪くも普通の日だった。株式市場に大きな揺れはなく、外貨のルートも安定していた。まあ、それである程度増やせたのだから、マシな方なのかもしれない。
「そーいや立って、今日の小テストの追試どうなったの? 昨日追い詰められた顔で単語覚えてただろ」
「今回は合格したので今日は遊んでるんじゃないですかね」
由布院先輩の疑問はもっともだった。我ら眉難高校はそこそこの新学校なので、週に一度朝の時間を使って英単語のテストが行われる。これの合格ラインに達しないと、小テストとはいえ追試があるのだ。
「え、彼、この前のテスト、落ちたんだ」
割って入ってきたのは下呂くんだった。似たもの同士ゆえか、立と蔵王くんは少々仲が悪い。もう少しうまく噛み合えば気が合いそうな気もするが、特に私はどうこうしようという気持ちはなかった。
「もしかして毎回落ちてる?」
「月に一回くらいは落ちてますかね」
「へえ、僕一回も落ちたことないですけどね」
それは私も同じだけど、立と違って私は彼と張り合う気はない。生徒会もある程度成績上位の人間を選ぶらしいので、下呂くんの言もさもありなんではあるが。
「小テストも受からない分際で僕と対等になった気でいるなんて、まだまだだなあ」
下呂くんの言い分を聞いていた鬼怒川先輩が苦笑する。
「立がいないから言いたい放題だなあ……」
「ま、いーんじゃねえの、立がいたとしてもこのやりとり発生してそうじゃん、平和平和」
鬼怒川先輩、それに由布院先輩はのんきにそんなことを言っている。
「本当にそうでしょうか」
「え、なに、どうしたの」
「立が本気で怒ると、なかなか、……すごいですよ」
「え、なに、どーいうことよ」
「先輩たちは立がああ見えて怪力だってこと、知ってましたか」
そう、これはいま、私が悩んでいることのひとつだった。由布院先輩と鬼怒川先輩は顔を見合わせ、それから首を傾げた。
「え、そうだっけ? ラブメイキングしたあとの話じゃなくて?」
「怪力つったって、自販機投げるとか標識抜いて振り回すとかじゃないだろ」
「由布院さん、うちの会長が妙に落ち着かない顔してるから微妙な中の人ネタはやめてあげてくれるかな」
有馬先輩のツッコミは、「つーかお前も下呂も中の人ネタできんだろ」と由布院先輩に言い返される。
「いやなんでもない。立が怪力って話だったか」
「はい、先輩たちも見たでしょう、立が黒板消しを星になるほど教室の窓から遠くへ放り投げ、チョップひとつで机をまっぷたつにするのを」
由布院先輩が黒玉湯の天井を見上げて、それからああ、と頷いた。
「あんときか」
「煙ちゃんがウィンクでレスリング部倒して硫黄がトイレで股間を輝かせてた回だね」
生徒会の三人がなにを言っているんだ、という顔をしているが、まあそういう回があったのである。
そう、立は力が強い。この前もそうだった。
「なあ硫黄、まだ?」
私と立がふたりでいるのは、大概の場合ひとりぐらしをしている私の部屋だった。基本的に趣味趣向のちがう私達は、親友……いや、こいびと同士とはいえ、一緒に買い物に行ったり映画に行ったりする頻度は低い、と思う(比べる対象をあまり知らないので推測ですけど)。
しかしながら、立はひとしきり女子と遊んで満足したのかもしれないけれど、こちらはようやく取引が乗ってきたところだった。
「待ってください」
「えー、どれくらい?」
「二時間半」
「なげえよ」
言うとは思っていたけれど、私は無視をした。私がこういう人間であることは重々わかっているだろう、とは思ったが、どうやら立は今日に限って非常にかまって欲しがりになっていた。
「なあいおー」
私のデスクチェアのよこまでやってきて、顔を覗き込んでくる。いつもなら、いつもならおとなしく待っていてくれるのに……私は少々苛立って、少し強い口調で「いい加減にしてください」と言って立を押しのけようと彼の肩を掴んだ。が、しかし。
「……?」
びくともしない。力いっぱいこめても、ほんの少しも微動だにしない。それどころか余計にずいずい近づいてくる。挙句唇同士を簡単にくっつけられて、視界に眉を寄せた立の顔しか入らなくなる。
「……、りゅう」
モニタが見えない。いまこの瞬間に手持ちの株が、外貨が、値崩れを
起こしているかもしれないのに。なのに私が立を強く言えないのは、立が本気を出せばこのままもっと深いキスをされて、そのままこの椅子でか、ベッドの上でか、やることをやってしまうだろうという危惧があったからだった。
「……あと、三十分だけ待ってください……」
大幅に時間を削って言うと、立はもう一度唇を合わせてきた。私はため息をつくと、三十分で取引にかたをつけるために画面をねめつけた。
まあそのあと私と立がどうしてなにをしたのかなんて先輩たちに言うわけにもいかず、ましてや生徒会、とくに下呂くんになんてとても聞かせたくはない。それで「この前、立を押し返そうとしたのにびくともしなかったんですよ」と完全に前後をはしょって言った。由布院先輩は「お前手押し相撲とか弱そうだよな」と頓珍漢なことを言う(彼がすべて悟った上でこういうふうに言っている可能性もなきしにもあらずだが)。
「他に立が怪力ってエピソードある?」
なぜか鬼怒川先輩が興味津々だ。なぜだ……。しかし私は思い返す。確かに、まだあったはずだ。立の怪力は私にとって少しの懸念事項ではあったので、人に話すと少しだけすっきりするような、気がする。それで私はついつい、口を開いてしまった。
「……そうですね、そういえば……」
ある日、お金は出すので牛丼を買ってきてくれないか、と立に頼んだら、サラダとアイスまで買ってきたことがあった。
「どうして余計なものを買ってきたんですか、私は牛丼の分しか払いませんからね」
外国で起きたテロでレートが乱れたせいでFXにおいて大幅なマイナスを出してしまっていた私は、その日かなり機嫌が悪かった。気のおけない立相手であったことも相まって、少しきついことばをかけてしまったのだと思う。
取引のためのパソコンを置いたデスクの前から離れない私を一瞥した立は思い切り眉を寄せて、アイスバーを二本冷凍庫に放り込んだ。
「最近お前牛丼しか食べてねーだろ。牛丼だけじゃ野菜取れないじゃん」
「牛丼には玉ねぎが入ってますよ、あと紅しょうがも」
「そんなんで足りると思ってんのかよ」
……それが立なりの気遣いであることは勿論わかっている。だけど私はそのとき本当に腹を立てていたのだ。
「私には玉ねぎと紅しょうがで十分です。立がふたりぶん食べたらどうですか」
いつもなら私の機嫌をある程度慮ってくれる立も、そろそろ本気でムッとしている。まずいと思ったときにはもう遅く、立はなかなかお目にかかれないようなきつい目つきをしてこちらを見ていた。それを新鮮だと思えるような余裕は勿論当時の私にはない。反射的にねめつけ返すと、立はつかつかとこちらにやってくる。立と手を出すような喧嘩はしたことがないが、これが最初の機会になるのかもしれない――、などと私が考えていると、立は私が座っているチェアの背もたれに手のひらを当てて、こちらにずいと顔を近づけた。長いまつげが瞬きにしたがって一度上下する。
「いいから食えって言ってるだろ」
「ですから私は」
「じゃないと無理やりにでも食わせてやる」
「やれるのならやってみたらどうですか」
私はこのときすっかり立の怪力のことを忘れていた。ゆえに次の瞬間ふわっとからだが浮いて、一瞬なにが起こったのか、さっぱりわからなかった。
立はあろうことに、私を抱き上げていたのだ。
「ちょっと、離してください!」
思わず言うと、「落ちたらあぶねえだろ」と正論で返されて、私は結局あっけなく、立にダイニングテーブルまで連れてこられてしまったのだった。もうこうなってしまうとさっきまでの不機嫌もどこかへ行ってしまう。私はサラダと牛丼を食べ、更にアイスまで出されて、その頃にはもうさっきの大損は明日取り戻せばいいだろう、というところまで回復していた。それもこれも立のおかげだ。私は結局立に牛丼もサラダもアイスのぶんまで金を支払った。
立は私にはもったいないくらいのひとだと思うことがある。しかし、それにしても、立の怪力は私を戸惑わせていた。
「あ、今日はやる前に硫黄をベッドまで抱っこしてみようか」
「勘弁してください」
「えー、なんで」
するときは私が男役で立が女役だから――男のほうが力があるべきだ、だから立に抱き上げられるのは男の沽券に関わるのだ、などという前時代的なことを言うつもりはない。ただ単に気恥ずかしかっただけだ。立はにやにやと笑っていた。なにかを企んでいる。そしてその内容はこれまでの会話からほぼほぼ推測できる。立はきっと私のスキを突いて抱き上げるつもりだ。
気を抜かないようにしなければ、と思うと同時に、私は自分が立に力で勝てないであろうことを悟っていた。
その後本当に立に抱き上げられてベッドに運ばれたことは差っ引いて、私は喧嘩のあらすじと結果として立に抱き上げられた話をした。正直、理性を失い力を制御できなくなるらしいセックス時のほうが、立の怪力エピソードには事欠かないのだけど、さすがにそれを話すわけにはいかないだろう。
「鍛えたら、私もああなれるんですかね」
「体質なんかもあるし、必ずしもそうとは言えないんじゃない」
有馬先輩が軽い口調でそう答える。「俺やだよ、後輩ふたりも怪力になっちゃうの……」と嘆いているのは由布院先輩だ。そういう由布院先輩だって鬼怒川先輩を抱き上げていたことがある。あれは身体能力をアップさせるというバトラヴァスーツのおかげのような気もするが。
「結果は伴わなくとも、心身を鍛えることには意義があるだろう」
とは生真面目な草津先輩らしい言い分だった。
「さすが錦ちゃんらしいね」
鬼怒川先輩が笑みを浮かべる。「でも、俺も硫黄が鍛えたいっていうなら応援するよ」
先輩らしい励ましのことばに頷くと、後ろから盛大なため息が聞こえてきた。振り向くと、下呂くんが湯船から上がろうとしているところで、ため息の主もまさに彼がついたものだった。
「あれ、もう上がるの?」
「……鳴子くんの話を聞いていたらもうお腹いっぱいです」
有馬先輩の問いかけに振り向きもせず答えた下呂くんは、そのままぺたぺたとタイルの上を歩いていく。
「じゃあ俺もあがろっかな、錦史郎は?」
「私も長湯し過ぎた、そろそろ上がろう」
生徒会の皆さんは連れ立って脱衣所のほうへ行ってしまった。ぴしゃんと引き戸が閉まるのを見送った由布院先輩が、「あーあ」と声を上げる。
「俺らは言わないでいたのに、下呂のやつ」
「私の話がなにか……」
「話自体はまあ、友達同士の微笑ましいエピソード、って感じだったけど、ねえ、煙ちゃん」
「ああ、硫黄のやつ、顔、とか、ゆるゆるだったよな、熱史」
仲の良いふたりの意地の悪い笑い方に、私は恥ずかしさが急激に顔を熱くしているのを感じた。今すぐに先輩たちから離れて湯船を出て脱衣所に出たいところだったけれど、向こうには向こうで生徒会のみなさんがいるのだった。お湯に沈めば逃げられるのだろうか……などと現実逃避じみたことを考えながら、私はニヤニヤ笑う先輩方の顔を睨みつけることしかできなかった。
浴場に入ると案の定というべきか、おなじみの先輩方――由布院先輩と鬼怒川先輩、それに草津生徒会長と有馬生徒副会長が湯船に浸かっていた。私自身もともと由布院先輩と鬼怒川先輩の習慣に相乗りするかたちで放課後の温泉に入るようになったようなものだが、生徒会長と副会長もすっかりそれに乗っかっている。入湯料や入った後のコーヒー牛乳にかかる金を考えても、温泉には十分な費用対効果があるとわかっているので、彼らが黒玉湯の良さに目覚めてしまうのも致し方ないことなのかもしれないが。
「立は女子と遊んでくるそうです」
「はー、元気だねえ」
いつものようにだらしのない口調で言ってくるのは由布院先輩で、「まったく、公序良俗に反している」とそっぽを向いたのは草津先輩だった。有馬先輩がまあまあ、とのんびりした口調で宥めている。
「蔵王は来ませんでしたけど、僕ならいますよ」
さて、僕の後ろから現れたのは、男湯で、なおかつ彼自身も男だというのに胸元までタオルで覆った下呂くんだった。有馬先輩が「ああ阿古哉、この間の議事録終わった?」と尋ねてきて、下呂くんはそれを意図的に無視した。ここにふたりで来るまでのあいだ、有馬から頼まれた仕事を放ってきてしまった、というようなことを言っていたから、まあ、そういうことなのだろう。
ともあれ私と下呂くんは洗い場でからだをしっかりと流し、湯船に入った。先輩方もまだのぼせないのか、浸かったままとりとめのない話をしている。生徒会は生徒会同士で会話を始めたようだったので、私は由布院先輩と鬼怒川先輩の向かい側に腰を下ろした。
「今日の調子はどうだったの」
「微増、ってところですかね」
今日はよくも悪くも普通の日だった。株式市場に大きな揺れはなく、外貨のルートも安定していた。まあ、それである程度増やせたのだから、マシな方なのかもしれない。
「そーいや立って、今日の小テストの追試どうなったの? 昨日追い詰められた顔で単語覚えてただろ」
「今回は合格したので今日は遊んでるんじゃないですかね」
由布院先輩の疑問はもっともだった。我ら眉難高校はそこそこの新学校なので、週に一度朝の時間を使って英単語のテストが行われる。これの合格ラインに達しないと、小テストとはいえ追試があるのだ。
「え、彼、この前のテスト、落ちたんだ」
割って入ってきたのは下呂くんだった。似たもの同士ゆえか、立と蔵王くんは少々仲が悪い。もう少しうまく噛み合えば気が合いそうな気もするが、特に私はどうこうしようという気持ちはなかった。
「もしかして毎回落ちてる?」
「月に一回くらいは落ちてますかね」
「へえ、僕一回も落ちたことないですけどね」
それは私も同じだけど、立と違って私は彼と張り合う気はない。生徒会もある程度成績上位の人間を選ぶらしいので、下呂くんの言もさもありなんではあるが。
「小テストも受からない分際で僕と対等になった気でいるなんて、まだまだだなあ」
下呂くんの言い分を聞いていた鬼怒川先輩が苦笑する。
「立がいないから言いたい放題だなあ……」
「ま、いーんじゃねえの、立がいたとしてもこのやりとり発生してそうじゃん、平和平和」
鬼怒川先輩、それに由布院先輩はのんきにそんなことを言っている。
「本当にそうでしょうか」
「え、なに、どうしたの」
「立が本気で怒ると、なかなか、……すごいですよ」
「え、なに、どーいうことよ」
「先輩たちは立がああ見えて怪力だってこと、知ってましたか」
そう、これはいま、私が悩んでいることのひとつだった。由布院先輩と鬼怒川先輩は顔を見合わせ、それから首を傾げた。
「え、そうだっけ? ラブメイキングしたあとの話じゃなくて?」
「怪力つったって、自販機投げるとか標識抜いて振り回すとかじゃないだろ」
「由布院さん、うちの会長が妙に落ち着かない顔してるから微妙な中の人ネタはやめてあげてくれるかな」
有馬先輩のツッコミは、「つーかお前も下呂も中の人ネタできんだろ」と由布院先輩に言い返される。
「いやなんでもない。立が怪力って話だったか」
「はい、先輩たちも見たでしょう、立が黒板消しを星になるほど教室の窓から遠くへ放り投げ、チョップひとつで机をまっぷたつにするのを」
由布院先輩が黒玉湯の天井を見上げて、それからああ、と頷いた。
「あんときか」
「煙ちゃんがウィンクでレスリング部倒して硫黄がトイレで股間を輝かせてた回だね」
生徒会の三人がなにを言っているんだ、という顔をしているが、まあそういう回があったのである。
そう、立は力が強い。この前もそうだった。
「なあ硫黄、まだ?」
私と立がふたりでいるのは、大概の場合ひとりぐらしをしている私の部屋だった。基本的に趣味趣向のちがう私達は、親友……いや、こいびと同士とはいえ、一緒に買い物に行ったり映画に行ったりする頻度は低い、と思う(比べる対象をあまり知らないので推測ですけど)。
しかしながら、立はひとしきり女子と遊んで満足したのかもしれないけれど、こちらはようやく取引が乗ってきたところだった。
「待ってください」
「えー、どれくらい?」
「二時間半」
「なげえよ」
言うとは思っていたけれど、私は無視をした。私がこういう人間であることは重々わかっているだろう、とは思ったが、どうやら立は今日に限って非常にかまって欲しがりになっていた。
「なあいおー」
私のデスクチェアのよこまでやってきて、顔を覗き込んでくる。いつもなら、いつもならおとなしく待っていてくれるのに……私は少々苛立って、少し強い口調で「いい加減にしてください」と言って立を押しのけようと彼の肩を掴んだ。が、しかし。
「……?」
びくともしない。力いっぱいこめても、ほんの少しも微動だにしない。それどころか余計にずいずい近づいてくる。挙句唇同士を簡単にくっつけられて、視界に眉を寄せた立の顔しか入らなくなる。
「……、りゅう」
モニタが見えない。いまこの瞬間に手持ちの株が、外貨が、値崩れを
起こしているかもしれないのに。なのに私が立を強く言えないのは、立が本気を出せばこのままもっと深いキスをされて、そのままこの椅子でか、ベッドの上でか、やることをやってしまうだろうという危惧があったからだった。
「……あと、三十分だけ待ってください……」
大幅に時間を削って言うと、立はもう一度唇を合わせてきた。私はため息をつくと、三十分で取引にかたをつけるために画面をねめつけた。
まあそのあと私と立がどうしてなにをしたのかなんて先輩たちに言うわけにもいかず、ましてや生徒会、とくに下呂くんになんてとても聞かせたくはない。それで「この前、立を押し返そうとしたのにびくともしなかったんですよ」と完全に前後をはしょって言った。由布院先輩は「お前手押し相撲とか弱そうだよな」と頓珍漢なことを言う(彼がすべて悟った上でこういうふうに言っている可能性もなきしにもあらずだが)。
「他に立が怪力ってエピソードある?」
なぜか鬼怒川先輩が興味津々だ。なぜだ……。しかし私は思い返す。確かに、まだあったはずだ。立の怪力は私にとって少しの懸念事項ではあったので、人に話すと少しだけすっきりするような、気がする。それで私はついつい、口を開いてしまった。
「……そうですね、そういえば……」
ある日、お金は出すので牛丼を買ってきてくれないか、と立に頼んだら、サラダとアイスまで買ってきたことがあった。
「どうして余計なものを買ってきたんですか、私は牛丼の分しか払いませんからね」
外国で起きたテロでレートが乱れたせいでFXにおいて大幅なマイナスを出してしまっていた私は、その日かなり機嫌が悪かった。気のおけない立相手であったことも相まって、少しきついことばをかけてしまったのだと思う。
取引のためのパソコンを置いたデスクの前から離れない私を一瞥した立は思い切り眉を寄せて、アイスバーを二本冷凍庫に放り込んだ。
「最近お前牛丼しか食べてねーだろ。牛丼だけじゃ野菜取れないじゃん」
「牛丼には玉ねぎが入ってますよ、あと紅しょうがも」
「そんなんで足りると思ってんのかよ」
……それが立なりの気遣いであることは勿論わかっている。だけど私はそのとき本当に腹を立てていたのだ。
「私には玉ねぎと紅しょうがで十分です。立がふたりぶん食べたらどうですか」
いつもなら私の機嫌をある程度慮ってくれる立も、そろそろ本気でムッとしている。まずいと思ったときにはもう遅く、立はなかなかお目にかかれないようなきつい目つきをしてこちらを見ていた。それを新鮮だと思えるような余裕は勿論当時の私にはない。反射的にねめつけ返すと、立はつかつかとこちらにやってくる。立と手を出すような喧嘩はしたことがないが、これが最初の機会になるのかもしれない――、などと私が考えていると、立は私が座っているチェアの背もたれに手のひらを当てて、こちらにずいと顔を近づけた。長いまつげが瞬きにしたがって一度上下する。
「いいから食えって言ってるだろ」
「ですから私は」
「じゃないと無理やりにでも食わせてやる」
「やれるのならやってみたらどうですか」
私はこのときすっかり立の怪力のことを忘れていた。ゆえに次の瞬間ふわっとからだが浮いて、一瞬なにが起こったのか、さっぱりわからなかった。
立はあろうことに、私を抱き上げていたのだ。
「ちょっと、離してください!」
思わず言うと、「落ちたらあぶねえだろ」と正論で返されて、私は結局あっけなく、立にダイニングテーブルまで連れてこられてしまったのだった。もうこうなってしまうとさっきまでの不機嫌もどこかへ行ってしまう。私はサラダと牛丼を食べ、更にアイスまで出されて、その頃にはもうさっきの大損は明日取り戻せばいいだろう、というところまで回復していた。それもこれも立のおかげだ。私は結局立に牛丼もサラダもアイスのぶんまで金を支払った。
立は私にはもったいないくらいのひとだと思うことがある。しかし、それにしても、立の怪力は私を戸惑わせていた。
「あ、今日はやる前に硫黄をベッドまで抱っこしてみようか」
「勘弁してください」
「えー、なんで」
するときは私が男役で立が女役だから――男のほうが力があるべきだ、だから立に抱き上げられるのは男の沽券に関わるのだ、などという前時代的なことを言うつもりはない。ただ単に気恥ずかしかっただけだ。立はにやにやと笑っていた。なにかを企んでいる。そしてその内容はこれまでの会話からほぼほぼ推測できる。立はきっと私のスキを突いて抱き上げるつもりだ。
気を抜かないようにしなければ、と思うと同時に、私は自分が立に力で勝てないであろうことを悟っていた。
その後本当に立に抱き上げられてベッドに運ばれたことは差っ引いて、私は喧嘩のあらすじと結果として立に抱き上げられた話をした。正直、理性を失い力を制御できなくなるらしいセックス時のほうが、立の怪力エピソードには事欠かないのだけど、さすがにそれを話すわけにはいかないだろう。
「鍛えたら、私もああなれるんですかね」
「体質なんかもあるし、必ずしもそうとは言えないんじゃない」
有馬先輩が軽い口調でそう答える。「俺やだよ、後輩ふたりも怪力になっちゃうの……」と嘆いているのは由布院先輩だ。そういう由布院先輩だって鬼怒川先輩を抱き上げていたことがある。あれは身体能力をアップさせるというバトラヴァスーツのおかげのような気もするが。
「結果は伴わなくとも、心身を鍛えることには意義があるだろう」
とは生真面目な草津先輩らしい言い分だった。
「さすが錦ちゃんらしいね」
鬼怒川先輩が笑みを浮かべる。「でも、俺も硫黄が鍛えたいっていうなら応援するよ」
先輩らしい励ましのことばに頷くと、後ろから盛大なため息が聞こえてきた。振り向くと、下呂くんが湯船から上がろうとしているところで、ため息の主もまさに彼がついたものだった。
「あれ、もう上がるの?」
「……鳴子くんの話を聞いていたらもうお腹いっぱいです」
有馬先輩の問いかけに振り向きもせず答えた下呂くんは、そのままぺたぺたとタイルの上を歩いていく。
「じゃあ俺もあがろっかな、錦史郎は?」
「私も長湯し過ぎた、そろそろ上がろう」
生徒会の皆さんは連れ立って脱衣所のほうへ行ってしまった。ぴしゃんと引き戸が閉まるのを見送った由布院先輩が、「あーあ」と声を上げる。
「俺らは言わないでいたのに、下呂のやつ」
「私の話がなにか……」
「話自体はまあ、友達同士の微笑ましいエピソード、って感じだったけど、ねえ、煙ちゃん」
「ああ、硫黄のやつ、顔、とか、ゆるゆるだったよな、熱史」
仲の良いふたりの意地の悪い笑い方に、私は恥ずかしさが急激に顔を熱くしているのを感じた。今すぐに先輩たちから離れて湯船を出て脱衣所に出たいところだったけれど、向こうには向こうで生徒会のみなさんがいるのだった。お湯に沈めば逃げられるのだろうか……などと現実逃避じみたことを考えながら、私はニヤニヤ笑う先輩方の顔を睨みつけることしかできなかった。
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