boueibu



イギリスに来て驚いたことがある。この街では野生のハリネズミをあちこちで見かけるのだ。ご多分にもれず人間による森林の伐採などで住処をなくしたハリネズミたちは、天敵が少なく食料の多い街に降りてきて、人間のごく近くで生活している。害虫を食べるハリネズミは人間にも歓迎されているという。
留学先の校庭(と言っても日本のものとはまるで違う、ばらの花が植えられた、イングリッシュガーデンだ)でも、ハリネズミにはしばしば遭遇することができた。校内に巣があるのか妙に人馴れしていて、近づいても逃げられない。だからついそろそろとそばに寄ってしまう。
そうして僕は授業のあと、寮に戻る道すがら、一匹のハリネズミと対峙していた。小さくてつぶらな瞳、みじかい手足、長い鼻筋、なによりその背中の針。……ハリネズミは事実、愛くるしい動物である。
「だからって飼うのは無理でしょう」
「当たり前だ」
後ろから声を書けてきたのは、後輩の阿古哉だった。しかし、阿古哉に言われずとも野生のハリネズミを捕まえて飼おうなどとは思っていない。こればかりは本当だ。
「実際買うとなると虫なんか食べさせなきゃいけないらしいしねえ」
「どういう虫を食べるんですか?」
「こういう、小さい、うねうねした虫かな」
「ええ、それ捕まえてくるんですか?」
「いや、そういうのペットショップで売ってるんだよ」
「うえー……」
「生きているのをピンセットで摘んで」
「やめてください」
僕がハリネズミと向き合っている間に、背後では有馬と阿古哉の会話が進んでいる。そちらに顔を向けると阿古哉が顔をしかめていた。だというのに有馬はにこにこしていて、まるでからかいが成功したことを喜んでいるようだった。阿古哉は反撃するように有馬をねめつける。
「ハリネズミって、カタツムリも食べるんですか?」
「え!? なにいきなり」
有馬は非常にカタツムリが嫌いだ。その名前を聞くのすら嫌だと言う。有馬の狙いは大成功だった。
「カラをバリバリ噛み砕いて、中身をつるっと食べたりするんですかね?」
「やめろって」
本気で青ざめている有馬を見ながら、僕はため息をついた。
有馬も阿古哉も、知らない。胸のポケットにあの小さな温もりがあることの素晴らしさを。ズンダーはいつも僕の胸ポケットにいた。有馬や阿古哉のポケットに入ったことはないはずだ。
……彼やその上司に騙されていたことは確かに許してはいないのだが、ズンダーが僕のそばから消えてしまったことは、確かに僕に寂しさを与えていた。
「あ、有馬さん、あそこのバラの葉にカタツムリが」
「嘘だろ、あ、本当……だ……」
そんなことを知ってか知らずか、有馬と阿古哉は一通り盛り上がっているようだった。僕はため息をつく。

ひとりの部屋に戻ると、僕はスマートフォンを取り出した。ハリネズミがだめならハムスターでも飼おうか。しかしこちらで買ってしまったら、日本に持ち込むのは大変かもしれない。調べてみようと思ったのだ。……ハムスターといえば、昔はあっちゃんがハムスターを飼っていて、よく見せてもらったものだった。さすがに今は飼っていないはずだけど、あっちゃんのハムスター好きは変わっていなくて、この前はあっちゃんの部屋でハムスターのDVDを見せてもらったのだった。あっちゃんと同じテレビの画面が見られて、本当に嬉しかった……。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に画面に新着メッセージが届く。ひとまずそれを確認しようとタップすると、まさにあっちゃんからだった。防衛部の部室の写真と「元気にしてる?」という簡単なメッセージ。まさかズンダーがいなくて寂しい、なんて言うわけにもいかない。
ぼんやりと防衛部の写真を見る。どいつもこいつも相変わらず、ということばがよく似合う。そういえば、ズンダーは帰ってしまったものの、防衛部の桃色のウォンバットは帰らなかったんだな……。
一瞬よぎった羨ましい、という感情をかぶりをふって否定する。写真には桃色ウォンバットは映っていなかった。どこかに行っていたのだろうか。
「元気だよ」
返事をするために四文字打ち込んでから、あまりにそっけないなと思う。
「そちらは相変わらずだな」
いや、これは嫌味っぽいだろうか。
もう一度写真を見る。特に言及したくなるようなところもなく、僕は眉を寄せる。
「ウォンバットはいないんだな」
それで結局、さっき気がついたことを送ってみる。
「たまたま出かけてたみたい。ゆもとはウォンバットがいないとえんちゃんをモフモフしちゃうんだよね」
返事はすぐにきた。たしかに写真を見ると、いつもウォンバットとモフモフ――という名のスキンシップを取っている箱根有基は、机のうえでぐたりとしている由布院の髪をかき回しているようだった。由布院はいかにもされるがままといった様相である。
「ウォンバットの毛と由布院の毛では質が違いそうだけど」
「ゆもとはそこまで考えてないと思うよ」
少しずつだが、あっちゃんとの雑談にも身構えなくなってきた気がする。ほんの少し前まであんなに近くにいたのに会話の一つもままならなかったのに、今は離れていてもやりとりができる。その喜びはまだ薄れていない。

翌日の帰りにも、校庭で野生のハリネズミを見かけた。昨日のあっちゃんとのやりとり以降あの寂しさは忘れていたつもりだったのに、胸が痛む。
「あ、またハリネズミ」
阿古哉も気がついたようで、今度は阿古哉がハリネズミに近づいていく。
「ぜんぜん逃げませんねえ」
「人間から餌をもらってるのかもしれないね」
「カタツムリとか?」
「ミルワームとか」
有馬と阿古哉は相変わらずの調子だ。僕が立ち尽くしているあいだにふたりはハリネズミの前にしゃがみこむ。
「鼻ひこひこさせてるね」
「ひこひこさせてますねえ」
ふたりの背中に近付く。ハリネズミは特にこちらを威嚇するでもなく、鼻をひくひくさせながらあたりのにおいを嗅いでいる。それは確かにあのときのズンダーを思い出させた。しかしこれは緑色でもなく、日本語も話さない。キョロキョロしてから、小さな脚で歩き始める。有馬と阿古哉はなぜか面白がってそれについていくことにしたらしい。やいやいと言い合いながら、しゃがんだままちまちまとハリネズミの道程を追う。僕はその背中を追いかける。
淋しいなんて言おうものならふたりに笑われてしまいそうで、しかし僕はこの手にあの小動物を収めたくて仕方がない。手のひらを見つめる。
「ゆもとはウォンバットがいないと」
ふと、なぜか昨日のあっちゃんとのやりとりを思い出す。
「えんちゃんをモフモフしちゃう」
閃いたような気分だった。緑色のモフモフ。僕はほとんど衝動的には有馬の後頭部に手を伸ばした。
「え、なに!?」
有馬が声を上げるが答えなかった。量が多い、少しぱさついた癖の強い髪のなかに指を埋めて、ぐるぐるとかき回す。たとえばズンダーの腹とは似ても似つかない毛だ。
「ちょっと錦史郎、やめてって」
有馬が抗議の声をあげる。有馬に上目遣いされるのは珍しくて、僕はそれでも手を止めない。阿古哉も驚いたように僕と有馬を交互に見て、それから眉を寄せた。
「有馬さんはズンダーじゃないですよ、会長」
「えっ、なに、僕ズンダーの代わりにされてるの?」
阿古哉の言うことはずばり正しかったが、僕は答えなかった。有馬はそのうち諦めたようにため息をつく。こういうときの諦めの早さ、少しは考え直したほうがいい。しかし僕は今回ばかりはそれをいいことに、有馬の髪を指先でかき回し続ける。
「あ、有馬さん、ハリネズミ行っちゃいましたよ」
「もういいよ……」
僕に捕まり動けない有馬は肩を落としてかぶりを横に振る。阿古哉は呆れたような目をしている。
昨日まで、日本に戻ったらハリネズミを飼おうと本気で検討していたのだ。しかしもしかしたら、その必要はないかもしれない。あっちゃんとメッセージのやりとりをしていると、新しいアイディアさえ貰えるのだ。僕は頷きながら有馬の頭から手を離す。
「ほんとになんだったの……」
阿古哉に引かれるようにして立ち上がる有馬のぼやきには答えなかった。ひとつの結論がこころを満たす。人の髪に触れるのも、まったく悪くない。
「会長、もともとちょっと変なところありますからね」
「誰が変だって?」
有馬の戸惑いも、阿古哉の揶揄も僕の機嫌を損ねない。妙に清々しい気分で、僕は寮の方へ歩き出す。そうすればふたりがついてくることだって、僕は知っている。


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