隣にいるのにここにいない




下呂は留学の準備が終わらないからと早々に帰ってしまった。持っていく服の選定に時間がかかっているのだという。生徒会室に残った草津は、今が有馬に言いたいことを伝えるチャンスだ、と思った。残りの仕事も少ない。ここで時間を取ってもまだ余裕はあるはずだ。それを確認すると、草津はようやく顔を上げた。
「有馬」
声をかけると、応接セットのソファにもたれた有馬が慌てたように背筋を伸ばしてこちらを見る。
「ほうじ茶おかわり?」
「いや」
草津は生徒会長用の椅子から立ち上がると、有馬の正面に座った。有馬が目を丸くしている。
「……君に話したいことがあるんだ」
言うと、有馬はしばらく黙っていて、それから口許に笑みを浮かべた。
「奇遇だね、僕も錦史郎に言いたいことがあった」
有馬の言葉に、今度は草津は目を見開く。有馬が言いたいことがなんなのか、想像はできない。しかしほんの少しの、期待があった。有馬がこちらに抱いているものが自分と同じである可能性。有馬はきっと許してくれる。そしてそばに、いてくれる。そういう期待だ。
それで草津は目の前の有馬の目をまっすぐに見て、「君から言ってくれないか」と告げた。
有馬はふう、と息を吐く。
「いいの?」
「ああ」
有馬はこちらから目をそらした。その瞳がこちらを見ていないことに、なぜか心臓の辺りがざわめくのを感じた。ついさっきまであった期待感はさっさと消えてしまい、指先がじわじわと冷えていく。一瞬前の自分が信じられなかった。
先に、有馬に先に言わせる、べきではなかった。
そんな草津の思いを知ってか知らずか、有馬は今度はまっすぐにこちらを見た。
名前を呼べば静止できる気がしたけれど、うまく声が出せない。ついに有馬が口を開いてしまう。
「ずっと、言ってなかったんだけど」
「……」
「錦史郎のほうも落ち着いたみたいだし」
それは鬼怒川との和解のことを言っているのだろうか。草津は自分の唇がわななくのを感じた。有馬は小さく深呼吸をして、それから口を開く。
「実は僕、お付き合いさせてもらっている人がいるんだ」
ああ。ああ。どうして。このタイミングで。
草津は目を閉じた。
「そうか」
有馬がどんな顔をしているのかわからない。わからないほうがいい。
「そうか……」
あのとき、躊躇わなければよかった。いま、譲らなければよかった。そして有馬にこれまでの感謝と、これからの話を、するべきだった。
いや、そうしたところで、有馬に既に交際している相手がいるのなら意味がなかったのか。有馬はずっとそばにいた、そばにいたけれど、そのこころを手に入れている別のひとがいた。その事実は草津を深々と傷つける。
そうだ。自分たちは幼馴染とはいえ、十年離れていた。十年で何もかもが、変わってしまっていたのだ。わかっていたはずなのに、どうして。
「……言いたいことはそれだけか」
「うん、まあ、それだけ」
有馬はほんの少し恥じらうような顔をしている。恋人の話をするとき、この男はこんな顔をするのか。見たことのない顔だと思った。
「ねえ、錦史郎の言いたいことって、なに?」
そして有馬は間髪あけずにそう問うてくる。この男は……、この男は! 草津は手をぎゅっと握った。
「……今はやめておく」
やっと絞り出した声はみっともないったらないもので、有馬も当然困ったような顔をした。
「どうしたの、錦史郎」
「すまない、今日はもう」
言いたいことがあると言ったのはこちらのほうなのに、結局なにも言えていない。有馬が妙に思うのは当然だが、帰りたくて仕方がなかった。今日ばかりは鬼怒川とも帰りたくない。心配そうにしている有馬の顔がいっそのこと白々しい。まさか狙っていたのではないか。
「具合でも悪いの」
「……そんなところだ」
「送っていくよ」
「いらない」
伸ばされた有馬の手を振り払って、草津はソファから立ち上がった。こんなはずではなかったのだ。確かに打算的だったかもしれない。自分に従順な有馬なら、そばにいてほしいと言えば頷いてくれるだろうと期待していたのだ。だけど、こんな仕打ちはないだろう。
有馬には、こいびとがいた。地球征服でも日々の仕事でも、言いつければ頷いてくれた有馬のこころとからだは、当たり前のように自分のものではなかった。この数日、クラスメイトや由布院に感じた苛立ちは、まったくの徒労だったと言ってもいい。
「じゃあ鬼怒川にでも頼んで……」
「うるさい」
草津は有馬のことばを理不尽に遮って、ようやくソファから離れる。有馬は追いかけてこなかった。
「……どんな、ひとなんだ」
「え?」
「君が付き合っているのは、どんな人なんだ」
くだらない相手なら、溜飲が下がるかもしれないと思った。浅はかな考えだとは思ったけれど、それでも有馬の返事を待つ。
「ええと、それは――、と、年上の、男の人、なんだけど」
有馬は少し言いづらそうだった。
年上の男。
「……そうか」
草津はなんとかそれだけ返して生徒会室を飛び出した。としうえのおとこのひと。有馬の丁寧な発音に、心がざわめいた。自分にはきっと、有馬にあんな声は出させられないだろう。
こんな思いをするのなら、有馬への思いを自覚しなければよかった。どのみち留学をはさんであと数ヶ月で卒業で、おそらく自分と有馬は別の大学に行く。よい友人同士でいる。それでよかったのに。そのままでよかったのに。







こいびとがいることを草津に話した有馬はどうやら隠している必要がなくなったせいで、生徒会のしごとのあと、そそくさと帰ってしまうことを躊躇わなくなった。翌々日には下呂も事実を知ることとなったが、彼はそれについてはなにも言わなかった。
こんなふうに早く帰って、いったいそのこいびととなにをしているというのだろう。草津はそんな下世話なことを一瞬でも考えてしまった自分に嫌気が差して、首を横に振る。
「どうしたの、錦ちゃん」
今日も有馬は先に帰ってしまい、草津と下呂だけで防衛部の面々と黒玉湯に行くことになってしまっていた。
「いや……」
そういえばあっちゃんには以前にも相談をしていた。少なくともその結果くらいは伝えなければならないだろうと思い、草津は「有馬が自分には年上の男のこいびとがいると言っていて」とだけ告げる。鬼怒川は長いまつげを上下させて、瞬きをした。
「こい、びと」
「……驚いてしまって、結局なにも言えないままだ」
鬼怒川は「年上の……」と呟いた。まだ草津が言ったことを反芻しているようだ。すると横から声がかかる。
「あー、俺それ見たことあるかも」
草津は思わずやけに勢い良く由布院の方を見てしまう。由布院が少したじろいだのを見て我に返り、草津は咳払いをした。そう、この湯船には由布院以下、いまは兄に代わって番頭の仕事をしている箱根以外の面々がいるのだった。
「……いつ頃だ」
「先月? 土曜の講座受けて帰る途中に饅頭食おうと思って土産物屋のほう行ってさ、そこで」
週休二日制を取っている眉難高校だが、三年生は任意で土曜日にも登校し、受験対策の講座を受けることができる。もっとも、ぐうたらな由布院がそれを受けていたのは意外だったが。
「めんどくせーから声はかけなかったけど、隣にいるの、父親にしては若いよなって思ったんだよな。あれ有馬の彼氏だったのか」
「彼氏……」
軽い言葉で表現されると、なんだか余計に重たくなるような気がする。草津がため息をつくと、鬼怒川が肩を叩いてきた。
「大丈夫?」
「ああ……」
由布院にどんな男だったのか訊いてみたい気もするが、どうせ彼のことだから覚えてはいないだろう。草津はもう一度ため息をつく。
「男っていうのは予想外だけど、あいつに付き合ってる人がいるって、そんなに意外か?」
「煙ちゃんは有馬にその……恋人がいるだろうって思ってた?」
「や、言われてみればって感じだけど」
「やー、あの余裕っぷりは恋人のひとりやふたりいるっしょ」
割って入ってきたのは蔵王である。さっきまで鳴子や下呂と同学年同士盛り上がっていたようだが、どうやらこちらの話しは聞いていたらしい。女好きと名高い彼は、うんうん、と頷いている。
「俺は女子一筋なんで男が好きっていうのは正直わかんねーっすけど、有馬先輩ならさもありなんっつーか。年上ってのも納得っすね」
納得してしまうのか……草津は蔵王の言葉に動揺してしまう。
「なあ、硫黄はどう思うー?」
「私に振らないでください……」
恋愛ごとにはそう耐性がない鳴子はやれやれと言った様子でかぶりを振った。下呂がつつっと近づいてきて、草津に顔を寄せる。
「いいんですか会長、有馬さんのこと言いふらして」
「…………、」
さすが愛の王位継承者といったところか、有馬が同性と交際していると言ったところで誰一人差別的な発言はなかった。しかし、人の恋愛事情を本人のいないところで暴露してしまうのは、確かによくないことだったかもしれない。
「……今までずっと黙っていた罰だ」
「なに? 会長さん、知らない間に有馬にそういう人がいたの、ショックなんだ」
「うるさい」
由布院にからかわれてそっぽを向きながら、しかしそれが正解であることは草津がいちばんよくわかっていた。
鬼怒川が心配そうにこちらを見ている。草津は彼らから逃れるために、先に湯から上がることにした。







有馬にこいびとがいようがいまいが、日々は過ぎていく。気がつけば留学まで残り二週間になっていた。一応は語学研修が目的なので、生徒会の三人は、その業務の合間に英語教師から英会話のレッスンを受けなければいかないことになっていた。
とはいえ三人共英語の成績は悪くないし、海外旅行の経験もそれなりだ。
「正直、アレいらないですよねえ」
教師に礼を言って教室を出て生徒会室に戻る道すがら、下呂はため息をついた。「こらこら」と軽くたしなめるのは有馬で、草津は「どんなことでもやりすぎということはないだろう」と言う。
いつも通り、円滑に回っているように見えていた。しかし草津はあれからずっと、有馬への気持ちを忘れられていない。
相変わらず有馬は自分の斜め後ろにいて、笑っている。こちらの気も知らないで。
このままではここを卒業したらすんなりと疎遠になってしまうのではないだろうか、という危惧はあった。しかし、こいびとという絶対的な存在がいる有馬に、「これからもずっと一緒にいてほしい」などと言うのは、どう考えてもこいびとに背信を迫ることでしかない。――それは不本意だった。
「それで阿古哉はもう全部荷物はトランクに詰め終わったの?」
「まだですよ。あと二週間もあるじゃないですか」
「二週間しかない、でしょ」
有馬と下呂の会話を聞きながら、草津はひとつの事実に気がついてしまう。
別に、こいびとがいようがいまいが、あくまで友人として「これからもずっと一緒にいてほしい」と言うことは、大したことではないはずだ。有馬が頷いたとして、それはこいびとへの裏切りにはならないはずなのだ。
ならば自分は。
草津は思わず振り向いた。有馬が驚いたように目を見開き、それから小さく首をかしげる。
「どうしたの、錦史郎」
「いや、……虫が飛んできたような気がしたから」
あまりに下手なごまかしだったが、有馬も下呂も深く追求しようとはしてこなかった。
ならば自分が有馬に対して抱いているのは、……、……。
自分の気持ちになど気が付かなければよかった、と思うのは何度目だろう。草津は最早頭を抱えたい気分だった。事態はどんどん悪くなっているとしか言いようがなかった。廊下で叫びださなかっただけマシだったとしか言いようがない。
有馬が生徒会室の扉を開ける。
「今日も僕はちょっと早く帰ろうかな」
「またこいびとさんと会うんですか」
「いや……、まあ、向こうも東京から来てくれてるから……」
下呂はなんの躊躇もなく、有馬にこいびとの話を振る。
「有馬、仕事は終わって」
「ますよ、錦史郎も知ってるでしょ」
反論もできない。有馬のほうがうわてだった。そもそも、有馬は昔から、小学生のころから、大人びていた。自分なんかよりもずっと。
子どものように癇癪を起こす寸前で、草津は言葉を飲み込む。その男はどういう社会的立場で、年齢はいくつで、どこで出会って、きみとはどんな話をして、そしてふたりで何を会ってなにをするのか。
訊いてみたかった。いや、絶対に訊きたくはなかった。
「それにしても有馬さんって勝手ですよねえ」
下呂はソファに思い切りよく腰掛けながら言った。
「前は会長と交際するなら自分と通せ、みたいなこと言ってたくせに、自分は僕らに内緒で恋人作ってるんですもん」
「あー、まあ、あのときは、ねえ、錦史郎には余計だったよね。ごめんね」
「……まったくだ」
本当に身勝手だ。この男は。なにが執事だ、なにが副会長だ、なにが。
しかし草津の聡明な頭脳は理解もしている。これは自分のわがままで、だから有馬がすべて悪いわけではないことも。
たとえばあのとき、忘れたふりなどせずに、有馬との再会を喜べば。たとえばあのとき、地球征服など志さなければ。例えばあのとき、有馬にしっかりと感謝と謝罪と、そしてこれからのことを伝えていれば。
後悔なんて大嫌いだ。なのにあれからずっと、そればかりだ。







とうとう留学は一週間後に迫っていた。案の定阿古哉は荷造りを終えられず、今日はそうそうに帰ってしまう。最近は有馬もこいびとのもとに足繁く通っているようだったので、草津と有馬がふたりきりになるのは久しぶりだった。というより、草津が有馬を好きだと気がついてから、初めてのことだった。
生徒会室はしんとしていて、お互いがノートパソコンのキーを叩く音ばかりが響いている。下呂の仕事を肩代わりさせられた有馬だが、それで機嫌が悪くなるわけでもないようで、黙々と書類を作成しているようだった。
「有馬」
「なに?」
草津が声をかけると、有馬はきちんと顔を上げた。こちらに応答するとき、有馬の丁寧な仕草が好きだ。柔らかな声が、柔和な微笑みかたが、そして、こちらを見抜くような赤い瞳が。
もっとも、本当にこちらの気持ちを見抜かれてしまってはたまったものではないけれど。
「今日は早く帰らなくていいのか」
「え、なんで?」
言わせるつもりか、と思うと少々腹が立ったが、草津はなんとかそれを堪えた。
「最近いつも……早く帰っていただろう。その……こいびとのために」
「ああ、それならもう別れたよ」
草津は予想外の言葉に思わず口をぽかんと開けるはめになってしまった。別れた? そんな馬鹿な。
「留学するから当分会えないって言ったら、それならって」
「な……」
草津はようやく声が出せたけれど、それは意味のあることばにはならなかった。唇が慄く。草津はこれまで恋人というものを作ったことはないが、その程度のことで別れるような、軽いものではないと思っていた。そもそもこの留学だって、卒業までのごくごく短期間の留学だ。
「そんなに、気軽に」
「そんなものでしょ」
有馬はさっぱりとした口調でそう言った。彼は恋人との別れで何一つダメージを受けていないようだった。
「ああ、錦史郎は、こいびととは長く付き合いたいタイプって感じだよね」
からかうような口調なのが解せない。映画だって小説だって、これまで草津が触れてきた物語では、こいびととはそういうものだった。あれらはフィクションかもしれないけれど、現実でだってそうあるべきだ。そう思うことが間違っているとは思えなかった。
「……君はこいびとをなんだと、」
「どうしたの錦史郎」
あのとき、私にその存在を知らしめたとき、有馬の顔は確かに恋に対する恥じらいを浮かべていたのに。今はこんなにもあっけらかんとしている。有馬の情緒はどうかしているのではないか。草津はいっそ寒気すら感じる。
「おかしいのは君のほうだろう」
「おかしい、って」
自分がしでかした失言に草津は口をつぐむ。「おかしい」はさすがに言い過ぎだろう。
「……、……いや、言い過ぎた……すまない」
有馬が驚いたように瞬きをする。草津は目を伏せた。
「……そうだね、俺はちょっとおかしいのかもしれない」
「有馬」
ところが有馬はため息をついた。そういうつもりじゃなかったんだ、草津がもう一度弁明しようとしたが、有馬のほうが先にことばを継いだ。
「錦史郎のこいびとはきっと幸せだね。大事にしてもらえる」
草津はもう彼に言うべき言葉が見つからなかった。
こんなにも深いと思っていなかったのだ。自分たちの間にある断絶が。
有馬はいつものように微笑んでいて、それがいっそ痛々しかった。心臓が必要以上にどくどくと音を立てているような気がする。もっと近くでこの話を振るべきだったかもしれない。生徒会長用の机と有馬のいる応接セットの距離が、いまはひどくもどかしかった。
「……そんなことはない」
結局草津はうつむいてそう言うしかなくなってしまう。有馬は草津がなにか傷ついてしまったらしいと察したのか、しばらくなにを言うべきか考えているようだった。
「本当は」
そしてようやく口を開く。
「俺は恋人と別れて大いに傷ついているけど、錦史郎のまえだから強がってるだけ……って言ったら、錦史郎は慰めてくれる?」
「……は、」
草津は一瞬有馬がなにを言い出したのか理解し損ねて、間の抜けた声を出してしまう。
「なんてね」
「いい加減にしろ!」
なんて男だ。結局のところ、有馬は自分をからかうことに余念がない。
有馬はやはり笑っていて、草津は苛立ちを増すのを自覚せざるを得なかった。自分はこの数週間、有馬のことばかり考えていた。地球征服に付き合わせたこと。十年前のことを忘れたふりをしたこと。そして有馬のことを、他の誰かのものにしたくないと思ってしまったこと。そしてそれはすでに叶わない願いになっていたということ。
いや、有馬がそのこいびとと別れたというのなら、今がチャンスなのかもしれない。男同士という大きなハードルになりうる事実は、有馬がすでに男と交際していることによって完全にないものになっている。
……しかし、ここで有馬とこいびとになって、今のように、簡単に手放されてしまったら。
それを考えるだけでぞっとした。思わず身震いすると、有馬がいぶかしい声を出す。
「錦史郎?」
「……きみはなぜ、」
想像以上に自分の声は震えていた。しかし、草津はせめてすべて言い切ってやりたいという衝動に駆られる。
「君はなぜ、地球征服になど付き合ったんだ、あんな、馬鹿げた、計画」
まるで脈絡のない話題だということもわかっていた。有馬の笑みが消えているのがその証拠だった。そして有馬は数秒考えた後、小さく首を傾けた。
「なんでかなあ」
いつだって、そうだった。有馬は、全部をこちらに教えてくれやしない。
草津はぐっと歯を食いしばって、それから視線をノートパソコンに向けた。仕事なんてする気も起きない。







「そういえば、鬼怒川に見送りに来てもらえるように、もう頼んだ?」
あれから数日、有馬はやはりいつもと変わらない態度でそう声をかけてきた。有馬のことで頭がいっぱいだったのと、そもそも授業のあとに遠方の空港まで足を運ばせることへの申し訳なさも相まって、草津はまだ鬼怒川に声をかけていなかった。しかし、それを有馬にどうこう言われるのは癪だ。
「君こそ、誰か見送りを頼むような相手はいないのか」
そして、意趣返しをしてやろうという気になる。
「こいびとと別れたから、そういう相手もいないか」
言うと有馬は苦笑した。「手厳しいね」
そう言っているくせにどのみち有馬はダメージのひとつも食らっていない。どうしてこちらばかり気分を上下させなければいけないのだろう。理不尽とも言える気持ちになりながら、草津はふん、と鼻を鳴らした。
「まあ実際そうなんだけどね」
もう出発まで日も差し迫っていて、生徒会の仕事も終えてしまった。しかし今日は鬼怒川――防衛部の面々たちと黒玉湯に行く約束をしていた。となると、防衛部が終わるのを待たなければいけない。……バトル・ラヴァーズとして戦っているときを除けば、彼らは部活動という名の雑談に興じているだけなのだが、だからといって「部活を終わらせて帰ろう」と草津が命じられるようなものでもなかった。
だから、草津は有馬と他に誰もいない教室で、自習をしながら待つ羽目になっている。
「鬼怒川だって、言えば喜んで来てくれると思うけどねえ」
「寂しいものだな、見送りに誰も来ないというのは」
話題を戻そうとする有馬を遮ると、有馬がふっと口許を緩めた。
「錦史郎が鬼怒川に頼まない限り、たぶん誰も見送りを呼ばないから、そうなるね」
「……!」
やはり有馬に口では勝てないのかもしれない……、と草津は表情を歪める。言いくるめられた有馬はどうやらそれで満足したらしく、英語のテキストに視線を落とした。外から運動部の声が聞こえてくる。草津も黙って同じテキストに目を落とした。
しばらく沈黙していた。そういえば、地球征服を志していたあの頃は、こういう沈黙はまるで苦にならなかった。有馬はいてもいなくても同じで、そう、例えるなら空気のようだった。
そう、空気だ。いつの間にか有馬は、自分にとって、なくてはならないものになっていたのに。そこにあるのが当然だと、思い込んでいた。
「ねえ」
三十分もそうしていただろうか。不意に、有馬が声を上げた。草津はテキストから目を上げる。
「……このまえ、どうして俺が地球征服に乗っかったのかって言ったよね」
まさか今更そんな話題が出るとは思わず、草津はぱちぱちと瞬きをした。
「した、が」
「あれは君に従いたかったっていうのも、勿論あるんだけど」
一週間ほど前の話だった。有馬は今更語る気になったらしい。それを拒む理由もなく、草津は有馬を見つめた。しっかりと目が合うと、有馬が笑う。ぞっとするほど美しく、草津は無意識に喉を鳴らす。
「……俺自身が、こんな世界なんか、めちゃくちゃにしてやりたかったからだよ」
「……、……」
声だけならいっそ能天気とも言えるような調子なのに、有馬はとんでもないことを口にした。草津は胸のうちがざわつくのを感じて、ぐっと拳を握る。しかし、逃げるわけにはいなかかった。そもそも草津が尋ねたことであるし、なにより有馬が自分から自分のことを語るのは珍しい。逃すわけにはいかなかった。
「ごめんね、錦史郎」
有馬はふっと息を吐き出した。
「俺は君が思っているような人間じゃないよ」
「そんなことはわかっている」
彼がこいびとの存在を語ったときから、自分が思う有馬と有馬自身が乖離していたことくらいは理解している。
「そっか」
有馬はふう、と息を吐いた。なんだかひどく疲れているように見える。草津はじっと有馬を見つめた。
めちゃくちゃにしてやりたかった。有馬はそう言った。それはどういうことなのか。彼がそんなに世界を憎んでいるようには見えなかった。いつだってにこやかで、皮肉の一つやふたつは言ったとしても、声を荒げてなにかを罵倒するところも見たことはない。嫌いなものはカタツムリだということは知っているけれど、そのために地球征服どうこうするとは考えづらい。
「……教えてくれないか」
「なにを?」
「君が、……世界をめちゃくちゃにしてやりたかった、理由を」
「大した話じゃないよ」
有馬はそう言って、それからしばらく黙っていた。……話す気がないのだろうか。草津がそう考え始めたころ、もう一度口を開く。
「子どもの頃から家が嫌いだったんだ、親も親戚もみんな、うわべだけ笑って、うわべだけのことばで話すから」
「…………」
十年前、幼い頃の無愛想な有馬を思い出す。きっとあの頃にはとっくにそう考えていたのだろう。自分たちのまえでは多少なりとも笑っていたが、あのときの有馬は大人にたいして妙に警戒心を持っているように見えた。まだ草津も鬼怒川も、性善説を疑ってもいなかったあの頃。
有馬はまた口を開いた。
「家が嫌いで、なのに家に縛られて、それが嫌で……まあ、いろいろあって」
いったいなにが「いろいろ」なのか、その内容を問いただしたかったけれど、有馬がそこをわざと伏せたことくらいは草津にだってわかる。草津は黙っていた。有馬がこちらを見て、ふと口許を緩める。それはなんだか懐かしくなるような笑い方だった。いつもより控えめな、おずおずとした、笑い方。
「それでも昔ね、僕にも大好きなともだちがいたんだ」
草津は心臓が痛むのがわかった。それがだれなのか――わかるからだ。
「そのともだちは、うわべじゃなくて、本当に笑って、本当のことばを言ってくれた。僕の世界にはそれしかなかった。なのにそのともだちが――地球を征服したいって言うなら」
「あり、ま」
「頷くしかないだろ、ねえ、錦史郎」
声が出なかった。
有馬の赤い瞳が妙に光を乱反射しているように見えた。心臓の鼓動が耳元で聞こえるような気がする。有馬の声はかつてないほどに穏やかなはずなのに。
なにか言わなければならない。あの頃のことを忘れたふりを続けるのか。ちがう、そうじゃない、今度こそ。
焦れば焦るほど言うべきことばを見失う。そういう草津を見た有馬は、自分がことばを継ぐべきだと考えたらしい。
「錦史郎があの頃のことを忘れたふりしてたことはわかってたよ」
「……!」
無性に恥ずかしくなって、顔がどんどん熱くなる。
「別にだからどうこうってつもりはないけど。錦史郎がそんなことした理由も、わかってるつもりだし」
「あ……いや、ああ……、そうだ、その通り、だ、ぼくは……すまなかった」
なんて不格好な謝罪だ。草津は唇を噛む。もっときちんと、有馬に謝意を伝えるつもりだった。何度も頭のなかでシュミレーションしたのに、こんなことになるなんて。
「だからそれだけだよ。錦史郎は錦史郎のわがままで、阿古哉は阿古哉のわがままで、そして俺は俺のわがままで地球征服をしたがった。たったそれだけ、でしょ」
「有馬……」
「俺が言いたいのはそれだけ。ごめんね、勉強の邪魔をして」
そして有馬は会話を終わらせようとする。ここで引き下がるのは愚の骨頂だ、草津はいい加減にそれを理解していた。
今度こそ有馬に言うのだ。ぜんぶを。二度と後悔はしたくない。それに、有馬だけに言いたいことを言わせて、スッキリしてしまうのも負けたような気がする。
「有馬、私の話も聞いてくれないか」
「……錦史郎?」
一度参考書に視線を戻した有馬が、ふたたび顔をあげる。
「私も留学のまえに言っておきたいことが三つある」
「なんだろう」
有馬の手が参考書の栞代わりの折りたたんだプリントを挟んでテキストを閉じる。
「まず、十年前のことを忘れたふりをしていてすまなかった」
「……うん」
これはさっきも話したことだ。有馬もなにか言いたげな顔をしつつ、おとなしく頷いた。
「それから、君に地球征服などという馬鹿げたことに付き合わせて悪かった、ということ」
「それはさっき……」
「君は君の勝手でそうしたと言うが、それでも君が頷いてくれたことには感謝……している」
「錦史郎」
有馬が驚いた顔をする。
「感謝……って、そんなの」
「必要ないとは、言わせないからな」
有馬の言いそうなことを先回りして告げると、有馬はごくりと喉を鳴らした。どうやら本当にそう言うつもりだったらしい。草津はほっと息を吐く。そうだ、これでいい。有馬はこちらから目を逸らすと、小さくかぶりを振った。
「……最後のひとつは?」
「ああ」
いちばん言いづらいことを最後に残してしまった気がする。草津は目を閉じて、深呼吸をする。
本当は言うのが恐ろしい。有馬が首を横に振る可能性だってあるし、うまくいったとして、すぐに切り捨てられる可能性だってある。決して、なにもかも、うまくいくはずがない。だけど。



「君に、そばにいてほしい、これからもずっと」





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