隣にいるのにここにいない
眉難高校の文化祭が終わって一週間、ようやく落ち着きを取り戻した校内で、ひときわ安堵していたのは、実は文化祭実行委員会でも演劇部でもミスターコンクールの出場者でもなかった。
ほとんどすべての生徒が知らないところで、文化祭が終わると同時に宇宙でひとつテレビ番組が打ち切りとなった。「地球滅亡できるかな?」通称「滅かな」は、この眉難高校の生徒会役員の三人を誑かし、人間離れした力を与え、彼らが地球を征服するまでのリアリティ・ショーとなるはずだったのだ。しかし、その番組は失敗に終わった。同じ高校の地球防衛部(笑)――半ば帰宅部も同然の五人が、テレビ放送倫理委員会から送り込まれたエージェントによって変身し、生徒会役員の三人と戦うことになったからである。結果としてテレビ局のディレクター暗躍が明らかになり、生徒会と防衛部は共闘し、彼らを倒すことに成功したのだった。
確かに生徒会の夢は叶わなかった。しかし生徒会のリーダーたる生徒会長の草津錦史郎は、あの戦いをきっかけに長年疎遠だった幼馴染、鬼怒川熱史と和解することができた。それは草津のなかに想像以上の清々しさと安堵をもたらした。地球征服を目指して、これまでずっと、気を張っていたのだろう。
防衛部の面々と温泉に入るのは気持ちがいい。鬼怒川との久しぶりの会話は緊張するが、心は弾む。浮かれている。自覚はある。らしくもない。受験生なのに、生徒会長なのに。しかも、それを良しと思ってしまっている。
「今日はどうする? 俺たちはまた黒玉湯にいくつもりなんだ」
「それなら僕も行こう」
何しろ、スマートフォンを通して鬼怒川とこんな些細なやり取りができるようになるなんて、ほんの一週間前まで望みこそすれそれは叶うはずのない願いだったのだ。
とはいえ、一ヶ月後には生徒会役員はカリキュラムによってイギリスへ留学することになっている。だからこれはつかの間の休暇のようなものなのだが。
留学前にはある程度生徒会の仕事を片付けておかなければならない。何しろ三年生の草津と有馬だけではなく、二年の下呂も留学することになっていて、その間眉難高校は生徒会役員すべてが不在となるのだから。
そういうわけで、草津たちは文化祭の後始末に追われることになっていた。いつもは茶を淹れ菓子を出すことに精を出す有馬も、書類に目を通したり、ノートパソコンのキーボードを叩くことに一生懸命だ。下呂も電卓を叩いては書類になにかを書き込んでいる。
草津もノートパソコンに向き合っていたが、少し目が疲れてしまった。瞬きを繰り返し、それからぎゅっと目をつぶる。息を吐いてもう一度目を開ける。
「錦史郎、大丈夫?」
「ああ……」
草津は有馬の問いかけに返事をしながら、しかしそれでも解消しない違和感に顔をしかめた。
「少し休憩しようよ」
有馬は立ち上がり、戸棚のほうへ向かう。それを見た下呂が「今日は玉露がいいです」と声をかける。有馬が「はいはい」と気楽な返事をして、ポットに湯を沸かし始める。
しばらくすると、芳しい香りが生徒会室に漂ってきた。
「はい錦史郎」
有馬が茶托に乗せた湯呑みを差し出してくる。一緒に置かれたのはこの辺りでいちばんおいしいとされている温泉まんじゅうだ。
「たまには地元の味もいいよね」
有馬が全国各地から取り寄せる生徒会の茶菓子だが、今日はそういう趣向らしい。草津は「そうだな」と返事をして湯呑みを手に取った。有馬は次に下呂のほうへお茶を出しに行った。
いつも通りの生徒会室だった。草津は湯呑みに口をつける。向こうで有馬と下呂が軽快なやりとりをしているのを聞きながら茶托に湯呑みを戻そうとして、その端に湯呑みをぶつけてしまった。
「あつ、」
僅かに溢れた玉露が手にかかる。有馬と下呂がこちらを見る。慌ててポケットからハンカチを取り出し拭うが、そのときには有馬が目の前に立っていた。
「大丈夫? ハンカチ濡らしてくるからちょっと待ってて」
有馬は言いながら、草津の手からハンカチを受け取る。少し赤くなってしまった手を見た有馬は、早足で生徒会室を出ていった。
「過保護ですね」
下呂がそう言って肩をすくめる。草津はそれを意に介さなかった。まるでいつものことだったからだ。
有馬はすぐに戻ってきた。つかつかと草津に近づき左手でその手を取ると、右手で濡らしたハンカチを草津の手に押し当てる。
「錦史郎も案外おっちょこちょいだよね」
有馬はからかうようにそう言った。草津はふと、こんなに近くで有馬の顔を見るのは久しぶりだと思った。長い前髪のせいで、表情がよく見えない。そういえば彼はいつもこちらの斜め後ろにいた。火傷をしたはずなのに、有馬の手に触れているところのほうが熱いような気がしてくる。
どうして今まで意識しなかったのか、彼があまりに自然にこちらに寄り添うものだから、まるで空気のように感じていたのか。
そうだ、自分の隣には有馬がいた。
ずっと忘れていたことを思い出したような、妙な感覚だった。有馬がこちらの顔を覗き込むようにして、訝しげな顔をする。それでようやく我に返って、草津は有馬の手から逃れるように、自分の手を引いた。ハンカチも、自分で抑える。
「錦史郎?」
「自分でできる」
言いながら、有馬から目を反らす。有馬は「そう?」と返して、自分が座っていたソファのほうへ向かってしまう。
どういうわけか、次に押し寄せてきたのは罪悪感だった。思わず唇を強く引き結ぶ。
ズンダーに声をかけられて地球征服などという大それた夢を見てしまったのは自分だった。生徒会のメンバーに声をかけると、下呂は積極的に協力すると言った。有馬はあのときなんと言ったのか。
「君が望むなら」
そうだ、そんなことを言って頷いたのだった。あのときは主体性のなさには苛立ったが、従うのなら構わないと結論づけた。そうして自分たちは地球征服に乗り出したのだった。
「会長、大丈夫ですか?」
向こうから下呂が声をかけてくる。「大したことじゃない」と応じると「まあ、そうですよね」と返されてしまった。有馬はじっとこちらを見ている。しかし赤い瞳と目を合わせたくなくて、草津は目を反らした。
自分は――、有馬を共犯者にしてしまったのではないか。
それに気がついてしまってからというもの、草津はなんとなく有馬に顔を合わせづらくなってしまった。クラスも生徒会でも同じなので、これには困ってしまう。
しかし、今日は生徒会室に下呂と自分のふたりしかいない。少し気が楽だった。有馬は進路指導のため、面談を受けると言っていた。
有馬がいないと茶を淹れるのは後輩たる下呂の役目になってしまう。今日の茶の味は期待できないな、と思いながら草津は下呂がこちらにティーカップを運んでくるのを眺めていた。
「有馬さん、今日来ますかね」
慣れないことをさせられた下呂は、少し機嫌が悪い。草津は下呂のほうを見て、「どうだろうな」と応じる。
有馬がなにを考えて地球征服に従ったのかは未だにわからないが、下呂のほうはどうだったのだろう。そう思って、草津は口を開いた。
「阿古哉、君はなぜ地球征服をしようと思ったんだ」
下呂にはすんなりと尋ねることができた。下呂は自分が入れた紅茶に顔をしかめていたが、こちらを見る。
「なぜって」
そういえば文化祭が終わって一週間あまり、自分たちがしでかしたことについて、しっかりと話したことはなかった。
「今思えばおかしな話だろう。あんなことをして、地球が征服できるものか」
あなたがそれを言うのか、とでも言いたげな顔で阿古哉は眉を寄せる。
「確かにどうかしていないと地球征服なんて考えませんけど」
下呂が肩をすくめる。
「実際僕らはどうかしてたんでしょうね。あんな力を与えられて、それができると思い込んでしまったんだから」
下呂の長いまつげは伏せられるとますます長く見える。美しくないものを憎んでいた下呂。今となっては、自分も半ば自暴自棄になって地球征服を叫んでいたとわかる。
「……有馬はなぜこんな馬鹿げた話に乗ったのだろう」
たぶん彼は気付いていただろう。学生を怪人にしたところで地球征服なんて叶いやしない。なにより彼には地球征服したくなるような理由がない。
「そんなの決まってるじゃないですか」
下呂はティーカップをソーサの上に置くと、自分の髪を指先でつまみ、くるくるといじりながらそう言った。
「有馬さんはどんなことでも会長に従うんでしょう」
「私には」
草津はかぶりを横に振る。
「……私には有馬にそこまでさせるような、恩も義理もないはずなんだ」
下呂は眉を寄せた。なにかを考えているようだった。それからしばらく黙っていたけれど、ようやく口を開く。
「した人にとっては些細なことでも、相手には大きなことになることって、よくあるでしょう」
そうだ。それを自分はよく知っている。あのとき鬼怒川は自分を裏切ったつもりなんてなかっただろう。カレーが食べたかったから、カレーが苦手な自分の誘いを断って、その代わりカレーが好きな同級生を誘った。本当に些細なことだと思う。
「有馬はいったいなにを考えているんだろう」
「そんなこと、僕にわかるわけないじゃないですか」
下呂が呆れたような声を出した。全くそのとおりだ。草津は息を吐いた。
下呂が帰るのと入れ替わりに面談を終えた有馬が生徒会室に入ってきて、「水やりだけでもして帰ろうと思って」と笑った。もう下校時間も近づいている。草津もそろそろ帰宅するため、書類を整理することにした。しかしそれもそのうち終わってしまう。
有馬が鼻歌を歌いながら観葉植物に水をやっている背中を眺めていると、それに気が付いたのかいないのか、有馬がこちらに声をかけてきた。
「今日も鬼怒川と帰るの?」
有馬がこちらを振り向きながら問うその表情はにこやかだ。恐らく有馬は自分が地球征服に巻き込んだことを怒ったり、悲しんだりはしていない。だからこそ目を合わせづらくて、草津はバッグを手に取るふりをして目を逸らす。
「ああ、そのつもりだ」
頷くと、有馬は水差しを棚の上に置いた。どうやら水やりが終わったところだったらしい。
「留学まであと三週間か」
有馬はそう呟いて、ふっと息を吐く。あと三週間。どんなに多く見積もっても、鬼怒川の下校できるのもあとニ十回――、いや、間に土日を挟むので、実際にはもっと少なくなる。
「じゃあ、僕は図書室に寄ってから帰ろうかな」
なにが「じゃあ」なんだと思ったけれど、草津は追求しなかった。
本当はあの頃のことを覚えているのだと言ったところで、有馬はきっと笑って許すのだろう。それで今日も、草津はそれを飲み込む羽目になってしまう。
有馬はやさしい。きちんとこちらに気を遣ってくれる。しかし最近それが妙に心苦しかった。有馬を地球征服に駆り出したのは自分で、その罪悪感のせいだ。
「じゃあ錦史郎、また明日」
「ああ……」
生徒会室の扉の前で別れて、草津は歩き出す。どうして彼は罪を犯した僕を、詰ることなく、馬鹿にすることなく、態度も変えずに受け入れてくれるのだろう。鬼怒川に相談すればわかるのだろうか。いや、鬼怒川だって有馬と仲が良いわけではない。
振り返ると有馬の背中はもう見えなかった。草津はふたたび前を見て、少し早足で昇降口へ向かう。鬼怒川とはそこで待ち合わせをしていた。有馬も気を遣っているようだが、どうやらそこはあの由布院も同じようで、いつも下校はふたりきりだった。
「あっちゃん」
彼は今日もひとりで待っていた。声をかけるとこちらを向く。ぱっと顔をほころばせられて、草津も胸の中がじわりと暖かくなった。
「生徒会の仕事、大丈夫?」
「ああ、有馬も阿古哉もよくやってくれているし――」
「そういえば、いぶ……有馬は一緒に帰らなくていいのかな」
「有馬は図書室に行くと言っていた」
「はは、煙ちゃんも同じこと言ってた。今頃一緒にいるかもね」
鬼怒川は軽く笑って、それからふうっと息を吐き出す。
「有馬、がこっちに戻ってきたとき、いぶちゃんって呼んだら『やめろ』って言われたんだけど、そろそろ呼んでもいいかなあ」
「いぶ……ちゃん」
そういえば、小学生の頃、確かに鬼怒川は有馬のことをいぶちゃんと呼んでいた。きんちゃん、えんちゃんと同じで、そう呼ぶのは彼の親愛の証のようなものなのだろう。
……そして、あの頃は、自分も。
「錦ちゃんは有馬のこと、いぶちゃんって呼ばないの?」
「今更そんな、……、……」
草津は俯いた。今更、というより、そもそも今の状態で、有馬をそんなふうに呼べるはずがなかった。
「実は有馬の前ではあの頃のことを、忘れたふりをしていて……」
「忘れた、ふり?」
鬼怒川が目を見開く。
「その、あっちゃんと……疎遠になったことで有馬にどうこう言われるのが嫌で、……有馬もそれ以上踏み込んでこなかったものだから」
「あー……」
鬼怒川は、そういえば有馬と再会したときに、そんな話をされたことを思い出す。やっぱり草津は忘れてはいなかったのだ。そしてあのあと有馬はそれを問い詰めなかった。
自分と草津の関係も大概だったけれど、いぶちゃんと錦ちゃんもなかなかだなあ。鬼怒川はそう思いながら頬をかく。草津は俯いたまま首を横に振った。
「謝りたいとは思っているんだが、その、なかなか」
「有馬なら許してくれるんじゃない?」
「そうだとは思う」
だからこそだ。
だからこそ、簡単なことばで謝罪はできない。そう思うと胸が傷んだ。しかし、これまでしてきたことを思えば、これらはひとつひとつ解決すべきことなのかもしれなかった。
*
草津はクラスメイトとある程度距離を置いていたが、有馬はそうでもない。朝の教室でクラスメイトと談笑する有馬は、自分といるときよりほんの少し楽しそうに笑う。歳相応というにはそれでも大人びているように見えたけれど。
草津が弓道場での朝練から教室に入ると、既に登校していた有馬が、数人の生徒と談笑していた。留学間際、お互いの連絡先でも交換しておこうという話なのか、なにごとかが書きつけられた小さな紙を交換しているようだ。
「って言っても、卒業式前には戻ってくるし……」
「お土産よろしくなあ」
「えー、イギリスのお土産って何かなあ」
「メシはまずいって言うよな」
それを後ろから眺めていると、クラスで有馬がどう振る舞おうとどうとも思ったことはなかったはずなのに、今日は妙に苛立った。……もういまさら、庶民を庶民と馬鹿にするような人間ではない、つもりなのに。なぜ有馬は庶民とあんなに楽しそうに会話しているんだ、という小さな引っ掛かりが、じわじわと胸のなかに広がっていく。
どういうことだろう、これは。
有馬のことを気にするあまり、こんな、わけのわからない苛立ちを感じてしまっているのか。それはいつか、鬼怒川と仲良くする由布院に対して感じた気持ちによくよく似ていた。ならばこれは、嫉妬にカテゴライズされるのか。そんな馬鹿なことがあるか。
「ったく、こんな卒業間際に留学なんて金持ちはいいよなあ」
お調子者のクラスメイトが、ばしんと有馬の背中を叩く。有馬はそれになにか言い返しているようだったけれど、それは結局草津の耳には届かなかった。あえて聞き耳を立てている自分の卑しさに嫌気がさしたのだ。鞄から教科書やノートを取り出し、それを机のなかに収めながら、小さくため息をつく。
違う、そうじゃない。自分は有馬に謝罪しなければならない。こんなことで不満を覚えている場合ではないのだ。
ところが、それから数日、同じ不快感はたびたび草津を苛んだ。
「煙ちゃん、また英語の小テスト落ちたんだよね」
例えばそれは恒例となった黒玉湯で、由布院や鬼怒川、そして有馬と湯船に使っているときだった。いつも通りの世間話に興じている最中、鬼怒川はそんなことを言い始めた。由布院が思い切り顔をしかめる。
「英単語二十個覚えようが覚えまいが、受験には関係ないだろ」
「いやー、そろそろ関係あるでしょ」
相変わらず由布院は緩い態度しか取っていない。鬼怒川もそれを強く指摘するでもないようなので、草津は文句のひとつ言って彼の態度を改めさせようと思った。思ったが同時に、自分が言ったところで由布院が従うわけもないと思うと言うだけ無駄である。それでなんとなく逡巡していると、先に有馬が口を開いた。
「由布院、僕の英語の参考書いる?留学前に処分しようと思ってたのが結構あるんだけど」
「なに有馬、お前英語得意?」
「まあ?」
「じゃあ今度英作採点してくれ」
「えー、まあ、いいけど」
「ふは、もう有馬結婚してくれ」
こんなのは、よくある由布院の冗談のはずだった。有馬も呆れた表情を隠していない。有馬が「いやだよ」と言って終わるはずのやり取りだったはずなのに。
「冗談も大概にしろ!」
口をついて出た非難にその場の全員の目がこちらを向く。浴場だったことも悪かった。声がわんと響いて、それからしんとする。しかしその声に最も驚いたのは自分だった。すぐに冷静になって、冷静になると、いっそ湯船に沈んでしまいたく鳴る。言われた由布院も、そして鬼怒川も有馬も、みんなぽかんとした顔でこちらを見ている。その視線が痛くて仕方がない。
「え、どーしたの会長さん」
「錦史郎?」
由布院はともかく、有馬にまで訝しげな顔をされて、一気に顔に血が上る。こんなことで大声を上げるつもりなんかなかったはずなのに。
「なんでもない」
「なに、有馬と結婚するのは私だ! とか言いたいわけ、会長さんは」
「由布院、錦史郎までからかわない」
「てかなんで有馬まで照れてるんだよ」
「別に……」
有馬に他の人間が深く立ち入ろうとするのを見ると胸がざわついた。今までこんなことはなかったはずだ。有馬が他の誰と会話していようが、自分には関係なかった。だって有馬は自分に膝を折って、従ってくれるものだと信じていたからだ。だけど今は違う。地球征服は叶わなかった。草津自身は自業自得とはいえ、自分の愚行に従った有馬まで、宇宙中にプライベートが晒された。本当なら、見限られてもおかしくないはずなのだ。
「有馬」
「なに?」
「……いや、」
そして自分は、有馬に見限られたくないと思っている。今までのように隣にいてほしいと思う。他の誰にも従わないでほしいとすら、思う。
「……なんでもない」
風呂から上がって着替えて外に出ると、もう随分と暗くなっていた。気温も下がっていて、これからは湯冷め対策もしなければならないかもしれない。もっとも、更に寒くなる頃には、自分たちはこの町にはいないのだけれど。
それじゃあ階段を降りて帰ろうか、というところで、おもむろに由布院が口を開いた。
「俺、薬局寄りてえから熱史先帰ってて」
鬼怒川が応じる前に乗っかったのは有馬だった。
「由布院、俺もついていっていい?」
「はいはい」
妙に気の合った様子の由布院と有馬は、鬼怒川の返事を待たずにさっさと歩き始めてしまう。さすがにふたりの意図がわからない鬼怒川ではない。取り残された草津に向かって苦笑する。
「煙ちゃんも有馬も、あんなにそそくさ帰らなくてもいいのにね」
気遣いがあからさますぎると逆に滑稽に思えてくる。しかし草津が眉を寄せているのを見て、鬼怒川は草津がまださきほどの由布院の冗談に怒っているのだろうという当たりをつけた。草津があんな剣幕で怒るのは、和解してから初めてだったのだ。
「煙ちゃんのあれはだいたい全部冗談だよ」
フォローのつもりで言うと、草津はため息をついた。
「……わかっている」
「あれは……有馬が取られるって思った?」
「あのふたり、最近仲が良いような気がしないか」
「うーん、まあ?」
鬼怒川は少し首を傾げる。たぶん煙ちゃんといぶちゃんは、和解したての自分たちに気を遣って、その結果一緒にいる羽目になっている。だから仕方のないことなんじゃないか。草津になんと言うべきか考えていると、先に口を開いたのは草津のほうだった。
「……有馬に謝りたいんだ」
「忘れたふりをしてること?」
「それも、そうだけど。地球征服などという馬鹿馬鹿しいことに付き合わせたことも」
「謝罪かあ」
鬼怒川はふと向こうに広がる町並みを見た。夕暮れというには時間が遅く、田舎町は暮れるのが早い。向こうはもう薄暗かった。
「そういえば、俺はごめんよりありがとうのほうが好きだな。煙ちゃんがそうだからかもだけど」
草津は鬼怒川の顔を見る。ごめん、ありがとう。確かに由布院は鬼怒川に世話を焼かれても、謝罪はしない。サンキュ、どうも、のような感謝を口にするほうが多かった。
「……彼は謝罪もしたほうがいいんじゃないの」
「あはは、いいんだよ、俺は別に煙ちゃんに謝ってほしくて世話焼いてるわけじゃないし。それにもう卒業も近いしね」
「卒業」
「だって俺たち、みんな別々の大学に行くだろ、たぶん」
鬼怒川は草津のほうを見る。
「だから、今だけだよ」
鬼怒川の言うことは、すんなりと草津の頭の中に染み込んで、馴染んでいく。感謝の気持ち。これからのこと。有馬に伝えるべきこと。
感謝だろうが謝罪だろうが、どのみち、有馬は笑って許容するのだろうけど。
「うん」
草津は俯きがちに頷いた。
「言ってみる、明日にでも」
「頑張って、錦ちゃん」
幼馴染が背中を叩く。それに妙に励まされて、草津はもう一度大きく頷いた。
十年前のことを忘れていたこと。地球征服などに付き合わせたこと。そして、これからも隣にいてほしいこと。有馬に伝えたいことはたくさんあった。
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