boueibu


夕方になりかけの時間、課題の気分転換にと部屋を出た草津は、寮の廊下で有馬と出くわした。えんじ色のマフラーを巻いてベージュのコートを着ている。彼はここ最近、出かけるときはいつもこの格好だった。
「どこかに行くのか」
訊くと有馬は瞬きして、それから頷いた。
「この前知り合った人とご飯に行くんだ」
「それは誰だ?」
「あれ、あのとき錦史郎も一緒にいたよね」
有馬はそう言うけれど、草津には覚えがなかった。
「あのとき?」
「ほら、このまえふたりでお茶しに行ったときに声をかけられて」
そう言われて、ようやく草津は思い出す。二週間ほど前の休みの日、ふたりで出かけたときに声をかけてきた男がいた。どこから来たのか、なにをしに来たのか、そんなことを尋ねられて、最後に有馬だけが連絡先を訊かれた。
――そしてあろうことに、有馬はこいびとのまえで、見ず知らずの男に、さらりと自分の連絡先を教えたのである。
あのときの忸怩たる気持ちまで思い出して、草津は眉を寄せた。ところが有馬は平気な顔でこう言った。
「錦史郎も来る?」
「いや」
草津は逡巡することもなく固辞した。有馬は首を傾げて、「そう?」と笑う。





留学生寮は、(味はよくはないが)きちんと毎日食事が供される。とはいえ食べる義務もないので今日の有馬のように外に出ていく者も少なくないが、それでも多くの留学生がここを利用していた。それなりににぎわう食堂でどこに座るか見渡していると、向こうから声がかかる。
「草津さん」
どうやら下呂もこれから食事らしい。せっかくならと、彼の前に魚料理とパンとスープが乗ったトレイを置いた。日本なら食事はテーブルまで使用人たちが持ってきてくれたが、ここではすべてを自分でやらなくてはならない。
「あれ、今日は有馬さんと一緒じゃないんですね」
どうやら味が気に入らないらしく、のろのろとスプーンを口に運んでいた下呂は、草津が椅子に座ると顔を上げた。
「……外で食べるらしい」
「へえ、誰かと一緒なんですか?」
「そのようだ」
それで草津は、有馬が街で知り合った男と知らぬ間に約束をしていたことを下呂に話した。下呂は小首を傾げる。
「会長も同じ場所にいたんですよね、どうして行かなかったんですか?」
「あの男は……」
あの男は。ふたたびあのときのいらだちを思い出して、草津はぐっとスプーンを握りしめた。
「私を小学生だと思っていたんだ」
アジア人は、欧米では幼く見えると言われている。しかし、背が高く顔立ちも大人びている有馬や下呂は年相応に見られることが多い。しかし草津は違う。これでも日本人男子としては平均的な身長を持っているはずなのだが、隣にいるのが有馬や下呂だと、相対的に小さく見えてしまうらしい。加えて顔立ちも幼く見えるのか、中学生、悪ければ小学生扱いされてしまうのである。あのときもそうだった。
だから草津は有馬の誘いに乗らなかったのだ。子どもに見られるのが不満だと言いながら随分と子どもじみた言い訳だという自覚はあるが、そのような相手、気に入らないものは気に入らないのだ。
「そんなにこどもに見られるのが嫌なら、ひげでも生やしたらどうですか?」
「……それはいやだ……」
どう考えても投げやりな下呂の提案に首を横に振る。下呂も本気で言ったわけではないので、草津の声にフォークに白身魚を刺して口に入れた。
「会長」
「なんだ」
「若く見えるのも悪くないじゃないですか」
「……それは自慢か?」
「とんでもない」
下呂は最近少しこちらをからかうような物言いをすることがある。草津は彼を睨めつけた。





あと一時間で寮の門限だ。有馬は帰ってきたのだろうか。草津はテキストを閉じて立ち上がり、廊下に出た。どうせ締切まであと一週間はあるレポートだ。
有馬の部屋はすぐ隣だ。ドアの前に立ってノックをしようとして、中に誰もいないような気がしてやめる。草津は有馬の部屋の鍵をあけた。入寮した当時、万が一のことがあったときのために、草津らは三人でそれぞれ部屋のスペアキーを交換して、草津は下呂に、下呂は有馬に、有馬は草津にそれぞれ部屋への侵入権を渡したのである(もっとも下呂は有馬に「勝手に入らないでくださいね」と堂々と言っていたし、草津も下呂には似たようなことを言った)。
有馬の部屋は予想通り暗く、誰もいない。草津は部屋の電灯をつけた。ものの少ない部屋は自分の部屋と同じ間取りのはずなのに、なんだか異様に広く見えた。
草津はスマートフォンを取り出した。「もう門限だぞ」と打ち込んで、さて有馬に送信しようとしたところでドアが開く。
「もう門限だぞ」
だから結局、それは口から先に出た。有馬はぱちぱちとまばたきをする。寒い中急いで帰ってきたのだろう、らしくもなく頬や鼻の頭が真っ赤だ。草津が近づくと、有馬はようやく首を傾げた。
「なんで錦史郎がおれの部屋にいるんだろ」
「待っていた」
「なんで俺を?」
草津は言葉に窮した。どうして合鍵を使ってまで有馬の部屋にいたのか、明文化しようとすると、うまくことばが浮かばない。そうしたかったからそうした、なんて論理的ではない返答はどうにもしがたく、草津は話題を変えることにした。
「……飲んできたのか」
「合法だよ」
「わかっている」
少し手を伸ばせば触れられる距離に至り、草津は有馬のまとう外気のなかに、僅かなアルコールの予感を得た。この国では十八から酒が飲める。だから有馬が外で酒を飲むのは咎められることではない。ただ有馬は――その図体に反してあまり酒が強くはないらしい。
「ふふ」
有馬はなにがおかしいのか、草津の顔を見て笑った。
「『錦史郎は来ないのか』って言われちゃった」
「行くものか。……そもそも今日はどこでなにを食べて来たんだ」
「ええと、どこだったっけ。チャイニーズを食べたよ」
酒を飲んだ有馬はいつもより少し曖昧な物言いをする。草津は彼のコートの襟をつかんでこちらに引き寄せる。有馬はきょとんと目を丸くした。
「そんなに楽しかったのか?」
「うーん、まあまあ?でも錦史郎は来なくてよかったかも」
「なぜ」
「あの人たぶん、錦史郎目当てだったから」
意外な返答に、草津は思わず有馬から手を離した。そんなはずはない。あのとき、あの男は、確かに有馬の目だけを見ていたではないか。しかし有馬は平然としている。
「『錦史郎はあの時あなたに子どもに間違えられて怒ってましたよ』って言ったら、『負けん気が強くて可愛いね』みたいなこと言ってたし」
草津の手から解放された有馬は、マフラーをほどきコートを脱ぐ。草津は呆気にとられてしまう。有馬はどこかせいせいしたような顔をしていた。
「だから、錦史郎は来なくてよかったよ」
「……それで有馬は」
有馬は別に男が草津に言い寄るつもりだったことに腹を立てているわけではなさそうだった。しかし、草津はそこで思い当たる。自分が本当に嫌だったのは、歳を下に見られたことだったのだろうか。本当に?
「僕が行かなかった腹いせに、何かされたり言われたりしたのか?」
「まさか!」
あまりにもすぐに答えが返ってきた。まるで元々返答を用意していたかのようだった。酒を飲んだせいか、詰めが甘いのだ、今の有馬は。
「何をされた?」
「何も。……こちらでは挨拶だろ」
それでだいたいなにをされたのかを察し、草津はため息をついた。
あのとき不満だったのは、小学生に見られたからではなかった。今日有馬と一緒に行かなかったのは、小学生に見られたからではなかった。あの男が有馬の目を見たからだ。あの男が指先で有馬の手の甲に触れたからだ。有馬のそのからだに対しての無防備さ、そして、草津が有馬が他の男と出かけて嫉妬すると微塵も考えていないその軽薄さに腹を立てているからだ。
草津はようやくそれに思い至る。目の前の男はコートをハンガーにかけている。白いケーブルニットの背中を見ながら、草津は声をかける。
「有馬」
「なに?」
「次の約束はしたのか?」
「さあ」
有馬が振り返る。草津は微笑む彼の口許にどうしようもなくますます腹が立ち、草津は彼のまだ赤い鼻を思い切り摘んでやった。いきなりのことで驚き声を上げる有馬に、いい気味だと思ってしまう。
「少しは反省しろ」
「なにを!?」
鼻声で素っ頓狂な声を出す有馬は、やっぱりなんにもわかっていない。怒りを通り越して泣きたくなるとはこのことで、草津は彼を強く睨みつけた。
どうしてこんな男を好きになってしまったのか、それでも好きなのだからどうしようもない。



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