boueibu
なんで、とかどうして、とか、頭の中にクエスチョンマークが山ほど降ってくる。それから次に浮かんだのは、しまった、だった。やっちまった。油断していた。
「……お前、立だよな……」
ちょっとだけ眉を寄せた先輩は、いつもと同じで眠そうな目をしていて、大して驚いたり引いたり、あるいはニヤニヤしていないところだけは、助かったな、と思えてくる。まあでも、ピンチであることには変わりないんだけど。
きっかけは、パーカーにジャージにサンダルで近所のコンビニに買い物に行ったら、店員に女と間違えられたってだけのことだった。そりゃ女顔だなんて周りにさんざん言われてるし、今更それを指摘されたところでなんとも思わない。だけどこの部屋着そのままの格好でも女に見えるらしい、というのは、俺にとってちょっとだけ新鮮な事実だった。じゃあ、もっとちゃんと女のカッコしたらどう見えるんだろう、って。
最近はネットで服を買ってコンビニで受け取るなんてこともできるので、妙な買い物をしても家族にバレることもない。オレは一週間後にはカーキのシャツワンピースを手に入れていた。これを選んだのはまず男は着ないものだし、安くなってたし、かといって色が可愛いに振り切れてないところが、オレのちょっとだけ残っていた羞恥心を軽くしてくれたからだ。
その次の日曜には、家からはいつもの服で出て、ショッピングモールの男女兼用の多目的トイレでワンピースに着替えて、ショッピングモールをうろうろして、またトイレで着替えて帰った。悪くはなかった。まあ、女にしてはタッパがあるとは思うけど、男だと疑うような視線はあまり受けなかった……と、思う。自分ではわかんなかった。たぶん大丈夫。
それで味をしめたオレは少しずつ行動範囲を広くしていった。そして季節が変わるとシャツワンピじゃ寒いので、ニットとスカートを買った。そうして半年が過ぎてのめり込み度が増してしまった女装ライフはいま、終焉の危機を迎えている。何しろ、油断をしていた。
つまりオレは、ショッピングモールの雑貨屋で、その格好で、高校の先輩に遭遇してしまったのである。
オレは先輩の手首を掴んで雑貨屋の奥へ引っ張っていく。俺よりでかいくせに、先輩はされるがままで付いてきた。抵抗するのもめんどくさいってか。先輩らしいけど、それでいいんだろうか、とも思う。
「……由布院先輩」
「なに」
俺は神妙な声をだしたつもりだったのに、先輩ときたらいつも通りのテンションなのだから困る。
「イオには、秘密で」
かわいいレターセットやシールが並ぶ棚の陰で、俺はまずそう言った。先輩ははあ、と頷く。
「なんでもいいけど、熱史とか有基には言っていいのか」
「いいわけないでしょ」
わかってるくせによけいなことを聞いてくる。まあ、そういう人だっていうのはわかっているので、ため息をつく。それに、こんなことを言ってはいるけど、先輩はひとが秘密にしておいてほしいっていうことをペラペラ話すようなひとじゃない。たぶん。
「まーなんでもいいけど」
由布院先輩は頭を掻いた。
「可愛いなと思ったけど、喋るとやっぱ立だな」
「……まあ、そりゃ、そうっすよ」
そういえばこの人は、こういう、人たらしっぽい発言もするんだった。ストレートに可愛いなんて言われて、ちょっとだけくすぐったい。先輩はオレより六センチ身長が高くて、だけど俺がこんなカッコをしてるせいか、いつもよりもっと大きく見える。
オレは由布院先輩を見上げながら、少し考える。そうだ、この人なら。
「先輩」
「なに」
「オレとデートしませんか」
「お前なに言ってんの……」
まあ、そうだよな、そういう反応だよな。だけど俺からすれば由布院先輩の眉を寄せた顔は見慣れているもので、これが本当に嫌がっているとは限らないことも知っている。
「忙しいですか?」
「や、もう帰るつもりだったけど」
ほら。ここで「予定があるからすぐ帰る」って言わないのがもうこの人の優しいところなんだよな。
「オレ、本当はヒールのある靴欲しいんですけど」
「は?お前身長いくつだよ」
「177」
「それでヒールある靴履いたら180越えるだろ、そんな女そうそういねえよ」
「由布院先輩の隣だったら少しは小さく見えるかもしれないじゃないすか」
由布院先輩は、そんなわけねえだろ、とか、バレーボールでもやってる設定なのかお前は、とか言いたげに口許を歪めて、だけどそれが全部面倒くさくなった、みたいな顔で大きくため息をついた。
「わかった、行きゃいいんだろ」
「先輩やさしっすね」
「おーおー優しいよ、崇めろ崇めろ」
先輩は適当にそう言って、ひらひらと手を振る。俺たちは並んで雑貨屋を出た。
「先輩は今日なにしにここまで来たんすか」
「映画」
「鬼怒川先輩は?」
「あいつと俺、映画の趣味壊滅的に合わねーの」
思えば由布院先輩と鬼怒川先輩は、ベタベタ仲良くしてるけど、性格ときたら正反対で、確かにそういう趣味はあいそうになかった。腑に落ちる説明に頷いた。何見たんすか、と訊くと、丁度俺が見たいと思ってた映画だったので、ネタバレしないでくださいね、とだけ言った。
まあ思えば俺と硫黄もあんまり映画の趣味は合わないから、そういうもんなんだろうな。そういう意味では、俺と由布院先輩、硫黄と鬼怒川先輩のが趣味が合うのかもしれない(有基は完全に未知数だけどな)。
ショッピングモールは親子連れが多くて、たぶんでかい女とでかい男が並んで歩いてることに興味を持つ余裕もないんだろう。俺はずっと行ってみたかった靴屋までたどり着く。
「ヒールある靴なんて履けんのか?」
「先輩、ラブメイキングラブメイキング」
「あれそんなにかかと高くないだろ」
俺たちはこそこそ小声で話しながら、棚を見る。変身したあとのショートブーツも、ほんの少しだけかかとが高い。少なくとも、普段履いてるローファーよりは。
ピンク、水色、白、黒、グレー、ベージュのパンプス。布地もいろいろあるみたいだ。ああ、これからもっと寒くなるし、ブーツもいいな。でも高いか。
今までの俺はこの格好をするときもスニーカーを履いていた。もちろん今もだ。だけどこれを買えば。見ているだけでわくわくしてくる。
先輩はちょっと店の前をうろうろして、それから「俺よりでかくなる高さのヒールはやめろよ」と言ってきた。
「そんなこと言ってると背の高い女子にもてないっすよ」
「別にもてなくてもいいし」
まあでも、俺だって最初からそんなに高さのある靴は履きたくない。ヒールの高さは三センチくらいでいいだろう。ひとまず履きやすそうなグレーのパンプスに当たりをつけて、ひっくり返して靴底に書いてあるサイズを確認する。にじゅうにてんごせんち。
「ちっせ」
一緒に靴底を覗き込んだ由布院先輩がそう呟いた。それからこっちを見る。
「お前足何センチ?」
由布院先輩の質問に答えると、由布院先輩は眉間にシワを寄せる。
「んなサイズの女もんの靴、ほとんど売ってねーんじゃねーの」
……言われてみれば全くその通りだった。俺は愕然とした。どうしてここまで気が付かなかったんだろう。先輩に見つかって焦って、でも先輩が買い物に付き合ってくれたのになんとなく浮かれて、男の足のサイズのことなんて、すっかり頭から抜けていた。
「なにかお探しですか?」
靴をまっすぐ棚に戻したところで、店員さんが声をかけてくる。俺たちは首を横に振って、そそくさと靴屋から離れた。さよならパンプス。ブーツ。三センチヒール。
着替えのために入った多目的トイレから出ると、ドアの真ん前で由布院先輩が待っていた。結局目的を失した俺たちは、すぐに帰ることにしたのだ。
「お、立だな」
スマホから顔を上げて俺の顔を見た先輩は、そう言って笑った。ちょっと安心した、みたいな顔だ。女装してても俺は俺なんだけど、それでも俺は頷いて、先輩のほうに向かう。
「なんか今日は……すみませんでした」
「や、まあ……いいよ別に」
由布院先輩はそう言いながらゆるゆると歩き始める。俺も隣に並ぶ。時刻は夕方に近づいていて、それでもショッピングモールの喧騒は収まらないみたいだ。脱いだ女物の服が入ったショッパーの肩紐を直して、俺たちは出口に向かう。
「明日も学校かよ、だり」
「だるくない日ってあるんすか」
「ないな」
元も子もない会話をしながら自動ドアをくぐり、だだっ広い駐車場を抜けてバス停まで向かう。はやく車が運転できるようになりたい、とずっと思っている。バスでここまで来るのはなかなか面倒だ。決まった時間に来て、決まった時間に帰らなくちゃいけない。ここまでチャリだとちょっと遠すぎるし。到着するまでに疲れちまう。
「靴さ」
「はい?」
ふと先輩は俺の目を見て口を開いた。
「お前が着替えてるあいだにぐぐってみたけど……ネットでならでかい靴も買えそうだぜ」
履いてない靴買うなんて自殺行為のような気もするけど……と気怠そうに続ける先輩は、やっぱり悪い人ではない。めんどくさがりで、ついでに本人の性格もなかなかめんどくさいけど、俺たちはたぶんそれなりに気が合うし、硫黄とは別の、気兼ねしない相手だなと思っている。先輩相手にそういうのもどうなんだって話だけどな。
「先輩やさしいっすね」
「別に」
願わくば先輩も俺のことをそう思っててほしいなと思うんだけど、それはどうなんだろうな。やってきたバスは隣同士の席は空いてなくて、俺たちはバラバラに座る。すぐにすとんと眠ってしまったらしい先輩の後頭部を眺めながら、俺は女子と連絡すべくスマホを取り出した。
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