boueibu
眉難高校の生徒ふたりが、その物理室で自殺した。つい、二日前の放課後のことだ。草津はその時間、生徒会室でいつものように生徒会長としての仕事をこなしていた。同じ建物のなかでそんなことが起こっているとは、露ほども知らなかった。
同じ部屋で寄り添うようにして死んでいた男子生徒ふたりは、両方が三年生だった。仮にA、Bとする。AとBは、生徒帰宅時間後に見回りを行っていた用務員によって発見された。すぐに救急車が呼ばれたもののふたりとも既に死亡していたと言う。
北関東の名門男子高校で生徒二人が自殺。それはそこそこキャッチーなニュースだった。翌日学校は臨時休校を決めたものの、小さな温泉街には地元メディアだけではなく、東京からも記者が集まった。学校からは取材は受けるなとお達しがあったが、どれほどの生徒が言うことを聞くだろう。
落ち着かない気分で不意打ちの休みを過ごし、明けて今日は、登校しなければならない。階段を使って学校の前までいけば取材されることは想像がついたので、今日は車を使って裏口から登校した。教室は当然その話題で持ちきりだった。くだらない……と割り切るにはあまりにショッキングなできごとだ。眉難高校の生徒会長という立場に誇りを持っているからこそ。
生徒が自殺をしたとき、メディアはまず最初に校内でのいじめを疑うらしい。そういうインタビューを受けて腹を立てている生徒がそれを大仰に別の生徒に語っている。
「Aは、部活一緒だったけどよ。そんな話聞いたこともねえ」
するともう片方の生徒も口を開く。
「Bと去年同じクラスだったけど、Bだってそういうの、なにもなかったよ」
眉難高校は校訓に文武両道自主自立を謳うこの地方でも名の知れた名門校で、基本的に生徒の素行は悪くない。特別校則が厳しいわけではないが、生真面目な生徒が多いのだ。だからこういう事件は寝耳に水で、クラス全員が動揺している。校舎内に警察官がうろうろしているのだから、当然だが。
草津はそっとため息をついた。動揺しているのは自分も同じだった。
「おはよう、錦史郎」
ふいに声をかけてきたのは有馬だった。有馬も当然この話は聞いているだろうに、まるでいつも通りの声のトーン、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている。浮ついた教室でそれはむしろ異質だったが、草津はそれで僅かに安堵する。
「おはよう」
「すごい騒ぎだね」
「そーいや生徒会はなんか聞いてないのか?」
草津と有馬が会話しているのに割り込んできたのはクラス一のお調子者で、草津が咄嗟に答えられずにいると、有馬が肩をすくめた。
「僕たちも昨日は学校には来てないし、特に何も」
「だよなあ」
そう言って彼は去っていった。野次馬根性も甚だしい男だ。草津は眉をひそめた。有馬は「今日、授業にならないかもね」とやはりいつも通りに言った。無関心だと言ってもいい。チャイムが鳴る。生徒二人がこの世から消えても、世界は、いや、学校は回っていく。
生徒どころか教師もどこか浮ついた様子で、午前中の授業が終わる。三時間目に至っては、自習になってしまった。昼休み、食堂の生徒会用のスペースに向かうと、すでに席についていた下呂が、ほっとしたように顔を上げた。
「今日はひどい日ですね。三年生なら尚更じゃないですか?」
「尚更だねえ」
有馬が苦笑する。同学年ということもあり、クラスにはAやBと仲が良かった生徒も多いので、挙がる話題はそればかりだ。だが、ふたりが在籍していたクラスなどはもっとひどかったに違いない。草津と有馬は席に座り、今日の昼食を待つ。……正直あまり食欲がない。草津はナプキンを手に取り襟元に差し込みながら、ため息をついた。
「大騒ぎになってはいるのに、こちらに詳細が伝わってこないし」
有馬はなおもぼやいている。ならば、と草津は声を上げた。
「情報開示を求めようか」
眉難高校において、生徒会役員は他の高校以上に力を持っている。なにしろ選抜方法は、生徒からの選挙ではなく、教師からの信任である。即ち家柄、成績、さらには容姿、何より――親の寄付金の額がその評価基準となっている、らしい。生徒会側からのメンバーの追加の申し入れも可能だが(例えば下呂は過去、同じクラスの鳴子硫黄という生徒を生徒会に引き入れようとした)、それも生徒会がそれだけの力を持っているからだ。
つまり、この事件についても、教師側しか知り得ない情報を得ることができる。有馬は「そうだねえ」と本当に情報開示してほしいのかしてほしくないのかもわからないような肯定をして、下呂は「そうしましょう」とこちらは少しの好奇心を煌めかせて頷いた。ここで主菜のシャンピリアンステーキが運ばれてきて、草津はさっきまでなかった食欲がわずか頭をもたげるのがわかり、ごくりと喉を鳴らした。
「では、今日の放課後までに資料を用意してもらっておく」
「わかりました」
既にステーキを頬張っている有馬は頷くだけだった。草津もナイフでステーキを切り取り、口に含む。身近なところで人が死のうと、食事は摂れるものだ。
午後は体育館で学年集会が開かれた。午前中に一年と二年も同じ集会が開かれたらしい。校長や教頭が事件のあらましを話したが、テレビや新聞から得られる情報以上のことはなにもなかった。しきりに命の大切さを説かれ、うんざりしてきたところでチャイムが鳴り、集会はお開きになった。
草津は集会から教室へ戻る人並みの中に幼馴染とその親友の背中を見つけたが、声はかけなかった。
男二人で自殺。最初にその一報を聞いたとき、まるで心中のようだと思って、それから次に浮かんだのはあのふたりの顔だった。それほど、あのふたりの仲は密接だ。もっとも、よく考えなくとも、あの二人は死を選ぶような性格をしていない。
「つうかAとBって、そんなに仲よかったか?」
「一緒に自殺だもんな、でもあんまそんな記憶ないな」
「クラスも違ったよな、部活も……」
「一年とか二年のときはどうだった?」
ざわつく生徒たちは適当なことを言い合っている。草津はそれを聞き流し、背の順で後ろの方にいる有馬を探した。
「放課後は生徒会室だぞ」
「はいはい」
有馬は気楽な様子で二度返事をした。草津は相変わらずまるで態度を変えない有馬に眉を寄せる。有馬が他人にあまり関心を持たないタイプであることは知っているが、これについても興味がないのだろうか。
帰りのホームルームのあと、有馬を伴い職員室に行き、事件についての資料を教師から受け取る。それから生徒会室に向かった。一部しかないそれは複写を認められておらず、草津は生徒会室に備えられた応接セットのテーブルの上にそれを置いた。
「読まないの?」
向かいに座った有馬が問う。草津はここに来て、死者の記録に目を通すことに恐れを感じていた。
「先に読め」
有馬はぱちぱちとまばたきをすると、「はあ」と言いながらその紙の束を手に取った。そのうち下呂も生徒会室にやってきて、有馬の手元を興味深そうに覗いている。
「遺書」
有馬が小さく呟く。
「……内容が?」
「載ってるよ、自分で読んで」
さっさと読み終わった有馬はそれをテーブルの上に戻す。草津が動かないでいると、下呂が先に手に取ってしまった。それでよかったのかもしれない。これをひとりで読んだらどうなってしまうのか、わかったものではない。
AとBは高校ではいちども同じクラスにならなかったものの、同じ中学出身の、「親友」だった。とはいえタイプは随分と違う。Aは中学から高校でもテニス部、Bは高校から美術部に入った。クラスも部活も違っていたので、周囲は二人の仲を察さなかった。
死因は睡眠薬の過剰摂取で、遺体の発見時、傍らには封筒に入った手紙があった。すなわち、遺書である。
両親やその他の周囲のひとびとへの感謝と謝罪、それから学校に対する不満や進路で悩んでの自殺ではないことが綴られた遺書は、せいぜいこれから長い旅行に行くような、穏やかな文面だった。
「会長たちは、このふたりをご存知でしたか?」
「顔と名前は」
「会長は全校生徒の顔と名前、だいたい把握してますもんね……、有馬さんは?」
話を振られた有馬は、ぱちぱちと瞬きをした。
「Bくんのほうは、少し付き合いがあったよ。たまに僕の花壇の絵を描きに来ていてね」
「聞いてないぞ」
「聞かれてないからね」
それなのに今日は動揺も関心も見せなかったのか。草津はなぜかひどく不愉快な気分になったが、文句を言うのも筋違いのような気がしてむっりした顔のまま、口をつぐんだ。
「自殺するような人に見えましたか」
「……見えなかったよ」
有馬は下呂の質問にやはりいつものように答えた。草津がテーブルの上に戻した資料を手に取った下呂は、はあ、とため息をつく。またぱらぱらと紙をめくって、手持ち無沙汰に文章を読み直す。
「とにかく、どんなことが起ころうと、規律の乱れは許してはいけない。できるだけ早く平常に戻らなければ」
「そうだね」
校内で誰よりも平常心を持っていそうな有馬が同意する。下呂がそういえば、と顔を上げた。
「鳴子くんたちが今日黒玉湯に誘ってくれたんですが、お二人もどうですか」
「そうだな」
温泉で温まって、こころを落ち着けるのもいいかもしれない。草津が頷くと、有馬は少し首を傾げた。
「寄りたいところがあるから、遅れていってもいいかな」
「どこに寄るんだ?」
「図書室」
「なら私も行こうと思っていた。阿古哉、私たちは遅れて行く」
「え」
有馬がぎくりと僅か肩を跳ね上げる。下呂はそれには気が付かなかったようで、「わかりました」と応じた。最初こそ庶民のためのつまらない場所だと思っていた黒玉湯も、今や自分たちにもお気に入りの温泉だ。
有馬は結局図書室には向かわなかった。それはさっきの反応でわかっていたので、草津は有馬が向かう先に着いていくことにした。
「先に黒玉湯に行ったら?」
「いい」
草津に提案を却下され、有馬はため息をついた。とはいえ彼が自分に無理強いをすることはないことはわかっていて、草津は彼の横に立つ。嘘をついてまでどこに行くつもりなのか、興味があった。有馬はのろのろと階段を降りていく。
結局有馬は校舎の外に出ると、園芸部の花壇に向かった。ここのわずかなスペースを間借りして、有馬は生徒会室で淹れるハーブティにするためのハーブなどを育てている。
「彼はね」
彼、というのがBであることに、草津は一拍間をおいて気がつく。
「おとなしそうに見えて、話が面白いやつだったな」
クラスも生徒会室でも一緒にいるので、有馬が自分のよく知らない相手と親しくなっているなどと、少しも考えたことがなかった。有馬はしゃがんで花もついていないハーブをいくつか摘み、それから薔薇を一輪切ると、それをまとめて立ち上がった。ため息をついて、ゆっくりと校舎へ戻る。
有馬はその小さな花束を持って、特別教室棟へ向かった。とはいえ、建物自体が警察によって立ち入り禁止になっている。張られた黄色いテーブルの手前に長机がひとつあって、そこにはふたりの死を悼んでか、缶ジュースや菓子がいくつか置いてあった。有馬もそこに花束を置く。
「有馬」
廊下の向こう、物理室の扉を眺める有馬の目は、さらにその向こうを見通そうとしているようだった。名前を呼ぶとはっと我に返り、有馬はこちらを向く。
「ごめん、行こうか、黒玉湯」
草津は有馬の手を握り、それからすぐに離した。校舎の中でこんな接触をするなんて、自分らしくもない。有馬だって驚いたような顔をしている。そりゃあそうだろう。
お前とBは、どういう関係だったんだ。草津はそう問いたかった。しかし、明確な答えは得られないような気がして黙っておく。
はやく温かな湯に浸かってしまいたい。草津は足を早め、有馬はそれを追った。
あの事件が起きてからというものの、由布院がぼんやりとしている。いや、由布院がぼんやりしているのはいつものことではあるのだが、それを差し引いてもいつも以上にぼんやりしている。それもそのはずで、由布院は死んでしまったAと仲が良かったのだ。
とはいえあれから数日がたち、最初の週末がきた。もともとこの週末は一緒に図書館へ行って勉強する予定で、それを遂行しているのだが、すでに課題を終えて本棚から適当な小説を引っ張り出した鬼怒川と違い、由布院はの課題の進捗は芳しくない。
「煙ちゃん」
「どーかした」
ノートに英単語を書いては休み書いては休んでいる由布院は、鬼怒川の声にホッとしたような顔を上げた。鬼怒川は眉を寄せる。
「どーかしてるのは煙ちゃんだろ」
「俺は別にどーもしてないけど」
なんだかはぐらかされている気がして、鬼怒川は由布院のノートを覗き込む。英文和訳の課題は、さっきから二行ぶんほどしか進んでいない。
「全然やってないだろ」
「物理は終わった」
「煙ちゃんって好きなものから食べるタイプだっけ」
「んなことねーけど」
やはりAが死んだのはショックなのだろう。鬼怒川はそう結論づけた。由布院と鬼怒川は気質の違いからか、お互い以外の友人があまり被らない。だから鬼怒川はAとは会話もそんなにしたことがなかった。あの日以来由布院にきちんとAの話を振ってはいないが、由布院のほうから語りだすこともなかった。事なかれ主義も大概にして、そろそろ話を聞いてみたほうがいいのかもしれない。
鬼怒川はそう考えて、口を開いた。
「煙ちゃん、Aが亡くなったの、気にしてる?」
「……そりゃ気にならないわけないだろ」
「……そうだよね」
AやBと親しかったわけではなくとも、あんな自殺のされ方をされれば気にならないはずがない。ましてや、Aと仲が良かった煙ちゃんなら。鬼怒川はふう、と息を吐く。実を言うと、こういうときにうまい言葉がかけられる自信がない。自分ではそのつもりはないのだが、周囲に「言葉がきつい」と言われることがあるのだ。
「この前話したときも、べつにそんな、なんか悩んでるって感じじゃなかったし」
傍から見ても、Aは溌剌とした生徒だった。
「煙ちゃんにも、自殺の理由は」
「……わかるわけねーだろ」
少し、尖った口調だった。やっぱり自分は言葉選びが得意ではない。鬼怒川は口をつぐむ。それからすぐに由布院は「いや」と口を開く。
「八つ当たり、した」
「ううん」
鬼怒川はかぶりを振る。由布院は黙っていた。英語の課題はますますそこにいる意味を失っているけれど、それを急かすのも違う気がする。だからといって今手にしている文庫本を読むのも、薄情だと言われそうだ。
「煙ちゃんは、Aが亡くなって、泣いた?」
訊くと由布院は唇を苦笑のかたちにした。
「泣いたよ」
青い瞳にきらりと光るものがあって、鬼怒川はその美しさに喉を鳴らし、彼が友人を亡くしているのにあまりに不謹慎だと思い直す。由布院はその瞳を隠すように目を伏せ、それから英語のノートに目を向ける。
「な、ここの『abyss』ってどういう意味だっけ」
「文脈的には、深海、とかそういう意味じゃない」
わざとらしく変えられた話題にほっとしながら応じる。由布院はそれをノートに書き留めながら、ふう、と息を吐く。
「海行きてえな」
「海なし県だよ、ここ」
「知ってるよ」
そもそももう冬も近付くような時期だ。面倒くさがりの由布院がそんなことを言い出した理由を聞くのもそれはそれで難しそうで、鬼怒川はそうだね、と同意しておく。
いつもなら図書館で勉強したあとはどちらかの家に行ってだらだらしたり、家族がいなければセックスしたりするものだけど、結局今日は由布院がぼんやりを極めているので大人しくそれぞれ帰ることにした。
「じゃあまた、月曜日ね」
「おお」
最寄り駅でそう声をかけると、由布院はひらひらと手を振る。口許が笑みの形になっているのが辛うじて救いだった。
鬼怒川はぶらぶらと家までの道のりを歩きながら考える。クラスメイトの間では(というより、その事件についての話を聞いた人間なら誰しもそう考えるのだろうけど)AとBは心中したと思われている。同じ部屋で同じ薬を飲んだのだから当たり前だ。だけどもしかしたらどちらかがどちらかを殺して、そのあと自殺したのかもしれない。なんちゃって。
鬼怒川はミステリを読むのも好きだったけれど、さすがに探偵ごっこをするつもりはない。そんなことをするくらいなら、受験勉強をしなければならないし、由布院を元気づけるほうがよっぽど肝要だ。
鬼怒川が生まれたときにはもう曾祖父母は亡くなっていたし、祖父母は父方・母方共に健在だ。はじめて身近で感じた死は、しかしそんなに鬼怒川のこころを揺らさない。
(まあ、だって、親しい相手じゃなかったしな)
そう言い訳をしてみるが、愛だのなんだの標榜させられていたわりには相変わらず自分は冷たい人間なのだと突きつけられている気分になる。なにしろ由布院は今日だって涙目になっていた。
どうしたら由布院を元気にさせられるのだろう。いや、由布院は最初から元気いっぱいな人間ではないのだけれど。
明日、日曜も会う約束すればよかった。海なし県だろうがなんだろうが、行きたいと言うのなら、海に連れて行ってやればよかった。電車を乗り継げば行けないことはない。夏だってそうやって合宿に行ったわけだし。
言わずに後悔するのもいい加減に飽き飽きだった。鬼怒川はスマートフォンを取り出して、さっき別れたばかりの由布院にメッセージを送る。
最初にスマートフォンで調べた海のある町への乗り換えは、新幹線を使うやり方ばかりで、バイトもしてない高校生には少しばかり負担が大きかった。あれやこれや検索条件を変えてようやく弾き出した急行を使わない行き方は、各駅停車を乗り継いで、およそ三時間。鬼怒川が示したそれに、しかし由布院はこくりと頷いた。
鬼怒川と由布院は、ずっと一緒にいる。一昨日も、昨日も、今日も、そして明日も一緒にいるだろう。こうなると話題は出そうと思えば無限にあるけど、出そうとしなければなにもない。ふたりは刈り取りの終わった田園が延々続く車窓からの景色をぼんやりと眺めながら、ボックス席に向かい合って座っていた。鬼怒川の手には昨日借りた図書館の本があるけれど、最初の20ページから進んでいない。由布院の手には英語の単語帳が収まっているが、それもまた最初の十単語を見たところで止まっていた。いつものように眠ればいいのに、どういうわけか目を開けたままだ。
鬼怒川はそっと由布院の顔を伺った。相変わらずぼんやりしている。昨日とまるで変わっていなくて、つまりいつもとは違っている。自分たちの会話は由布院の方から話題を出すことが多いので、すっかり静かだった。
受験が終わったらすぐ、免許を取りに行こう、と鬼怒川は考える。そうしたら、もっと海まで気楽に行けるようになるに違いない。
「たまには電車に長く乗るのもいいよな」
ところが由布院が唐突にそうつぶやく。どうやら正反対のことを考えて
いたらしい。鬼怒川はひとまずそうだね、と頷く。
ようやく辿り着いた海は寒々しく、人ひとりいない。どうして由布院は海に行きたい、なんて言い出したのだろう。由布院はざくざくと砂浜を歩いて海の方に向かっていく。鬼怒川はあとを追いかけて、その背中に声をかけた。
「煙ちゃん」
「うん」
「…………言いたくなかったらいいんだけどさ」
一応、気を遣った前置きをする。
「煙ちゃんが知ってるAのこと、教えてよ」
由布院は一度口を開けてまた閉じる。鬼怒川のほうは見なかった。目を伏せて、砂浜を見つめる。
「あいつさ」
「うん」
あいつ、という言葉の親密さにどきりとする。鬼怒川はAのこともBのこともあいつ、とは呼べない。
「一年……じゃなくて二年の頃か、『お前と鬼怒川って付き合ってるだろ』って言ってきたんだよ」
「え」
由布院と鬼怒川は確かに中学生の頃から「付き合っている」。それは勿論、恋愛的な意味でだ。特に隠してはいないけれど、触れ回ってもいない。もともと親友からこいびとになったので、周囲からはやけに距離の近い親友同士、くらいに思われていることが多い。防衛部の後輩あたりにはとうに悟られているはずだけど。
「それでまあ、おう、って言ったんだよな」
「認めたんだ」
「まあ」
そんな話は初めて聞く。鬼怒川はどうして言ってくれなかったのか問い詰めたかったが、話の腰を折るのは本意ではない。由布院はふう、と息を吐き出す。
「それで、あいつの相談に乗ってた」
「相談?」
「あいつも男が好きだったんだよ。Bが」
鬼怒川は目を見開いた。そこまで出されれば理解できる。由布院が自分にAとのやりとりを黙っていた理由。彼はたとえ自分が相手でも不用意に友人のプライベートを晒したりはしない。そして――、あの事件から由布院がぼんやりしていた理由は、仲の良い友人が自殺した、ということ以上に。
「煙ちゃん」
もう、言わなくてもわかる。制止したつもりだった。だが由布院は言葉を繋げる。
「AとBが死んじまったのは、俺がAの背中を押して、付き合わせたからじゃねえのかなって」
由布院が振り返る。しかし強い風が吹いてその髪が翻り、表情を隠した。笑っているようにも泣いているようにも、いっそ喜んでいるようにも怒っているようにも見える。鬼怒川は思わず由布院の肩を掴んで彼の顔を覗き込んで見据えた。
「そんなの煙ちゃんのせいじゃないだろ!」
「俺のせいだよ」
由布院の声は波の音で消されかねないほど静かだった。鬼怒川はそのまま由布院のからだを引き寄せようとしたけれど、肩にかけていた手を振り払われる。もともと由布院のほうが力が強い。
「そういうの、いいから」
「どういうのならいいんだよ」
反射的に言い返すと、由布院はふたたびこちらに背中を向ける。
「……隣にいて」
鬼怒川は彼に三歩で駆け寄ると、由布院の手を取る。あまりにも冷え切っているものだから、強く握ってやると、由布院が軽く握り返してきた。
「うん」
こんなに遠くまで来たら、知り合いなんて会うはずもない。ましてやこんな晩秋の海だ。鬼怒川は由布院の指に指を絡める。こちらを見た由布院の瞳がいつもよりずっと幼く見えて、思わず顔を近付けて、口付ける。
「誰も煙ちゃんのこと、責めないよ」
「どうだか」
由布院は苦笑する。こんな寒い海に来るからアンニュイになってしまうのだ。鬼怒川は由布院の腕にぴったりとからだをくっつける。
「俺があいつらの親だったら俺に文句言うけどね」
「……早くかえろ、煙ちゃん」
明日は月曜日だし。鬼怒川が言うと、由布院はやたらに大きなあくびをした。全部話したら眠くなるなんて、わかりやすくてやはり由布院は可愛い。
月曜日になり、学校の周囲にいるマスコミは随分と減ったものの、未だに校内は落ち着かない。今日も今日とて四時限目が自習になってしまった草津は、出されたプリントを早々に終わらせて持ってきた参考書を取り出した。不意に廊下の方を見たのは偶然だ。ふらふらと由布院が歩いている。
(また由布院は)
彼にさぼり癖があることはとうに知っている。大方彼のクラスも自習になったのだろうが、それならば教室で大人しくしていればいいものを。覇気がないのはいつも通りだが、いつも以上に覇気がない由布院の背中はそのうちここからは見えなくなる。草津は小さく息を吐き出し、日本史のテキストを開いた。
昼休みに入り、有馬や下呂と食堂で昼食を摂る。さて、教室に戻ろうとしたところで気が付くと有馬がいない。
「有馬は?」
「さっき戻っていきましたけど」
ここのところ、有馬はするりと単独行動してしまう。どこに行っているのかの見当はついているが、どうにも落ち着かない。下呂とも別れ、草津は廊下をひとり歩く。ざわめく生徒たちのなか、耳が拾う話題はやはり先週の事件のことばかりだ。自然ため息をつく。
「あれ、錦ちゃん」
声をかけてきたのは、弁当箱が入っているのであろうランチトートを片手に持った鬼怒川だった。隣に由布院がいないのが意外だが、そういう日もあるだろう。
「ちょうどよかった、錦ちゃん、これお土産。有馬にも渡しておいて」
鬼怒川はランチトートから取り出した饅頭をふたつ、草津の手のひらのうえに置いた。どうやら彼はこれを渡すために自分たちの教室に向かうところだったらしい。草津は自分の手の中にある饅頭を見つめ、ぱちぱちとまばたきをする。
「どこかに行ったの?」
「あー……海、に」
「海?」
予想外の答えに草津が目を見開くと、鬼怒川はひとつ頷いた。海。それはずいぶんと遠出したものだ。
「煙ちゃん、けっこうAと仲良かったんだよね。だから最近ちょっと元気なくて。今もお昼も食べずに保健室に行っちゃったんだ」
そう言われて、さっき教室から見かけた由布院のしょぼくれた背中を思い出す。あれは保健室に行くところだったのだろう。合点がいって、草津は頷いた。だからといってこの時期に海に行く、というのもよくわからないが、由布院を元気づけるのにいいと思ったのだろう。このふたりのやりとりに自分は介入できないのだ。いい加減にそれは受け入れている。
草津は手の内の饅頭をつぶさないように指を曲げた。
「そういえば」
由布院の話をきいていて、ひとつ思い出す。似たような話を最近聞いたような気がした。
「有馬もBと仲が良かったらしい」
「へえ、それは知らなかった」
同じ校内、同じ学年なのだから、そういうこともあるだろう。鬼怒川が頷くのを見ながら、草津は今日も変わらずいつも通りだった有馬を思い出す。こうして見ると、友人を亡くして憔悴する由布院はまだ可愛げがあるのかもしれない。
「有馬はまったく動揺していないんだけど」
「仲が良かった、ってどれくらい仲が良かったんだろ」
「彼がよく花壇に来て、話をしていたと言っていた」
鬼怒川はそれなら由布院ほどは凹まないのではないだろうか、と思った。由布院はふたりの死を自分のせいだと思っている。話をしたことがある、程度なら、彼ほど傷付かないだろう。たぶん。
「だけど有馬は」
草津は鬼怒川を見上げる。
「あれから毎日現場の前まで行っているようなんだ」
特別教室棟はあれからまだ立ち入り禁止状態が続いている。弔うために缶ジュースなどを供える者、興味本位で近づく者、あるいは怖がって近づかない者。反応は生徒それぞれだが、事件に無関心なように見える有馬は、事件後はじめて登校したあの日現場に花を供えに行った。あの日以降、例えば今のようにすっと姿を消すことがある。どうして有馬が何度も現場に行くのか、草津にはわからない。やはり草津の知らないところで、有馬とBは親密な関係だったのだろうか。
「有馬は優しい、からね」
「優しい……」
本当にそうなのだろうか。草津はまだ、有馬のことをよく理解できていない。距離だけならもっともそばにいるのに、確かにこころだって寄せ合っているはずなのに。
「もうあと一ヶ月でニ学期も終わりか」
鬼怒川は不意にそんなことを言った。三学期になれば、三年は受験に向けて自由登校になる。とはいえ、鬼怒川も草津も模試では第一志望もA判定を叩き出しているのでなんの心配もない。
「寒くなるね」
「そうだね」
はやく校内がいつも通りになってほしいと思う。しかし、いつも通りになったらすぐ、この学校を卒業することになりそうだ。
あまりに色々なことがありすぎた高校生活だが、なんとも後味が悪い。草津はそっと息を吐き出した。
「よくやるねえ」
保健室でつかの間の休息を取ろうとしていたのに、由布院に上から声をかけられる。目を開けるのもめんどうだった有馬は、手の甲を目元に押し付けるポーズを取って話は聞いていることを示す。
「また吐いたんだろ」
由布院の手が被っている毛布越しに鳩尾のあたりを擦る。生徒会のメンバーで昼食を摂ったあと、草津や下呂に詮索されないうちに、有馬は保健室に向かった。その道すがらトイレで昼食の殆どを戻してしまったのは事実だ。しかし、なんとなく頷きたくはない。
しばしば保健室の住人になっている由布院と、あれ以降しばしばこうして保健室で寝るようになった有馬は、こうして会話するようになった。
「吐くくらいなら食わなきゃいいのに」
由布院は手を離してしまう。有馬はようやく目を開けた。由布院が完全に構って欲しがっているようで、このままでは埒が明かない。
「うるさいよ」
いろいろなことを、草津に訊かれるのがいやだった。今だって、昼休みが終わったらすぐに教室に戻るつもりだ。四時間目からさぼっている由布院に休憩の邪魔をされる筋合いはない。由布院は「こわいこわい」などとふざけていて、ますます腹が立つ。
「言っちまったほうが楽になるぜ、たぶん」
「ならないよ、そんなの」
有馬の声は低い。
「錦史郎に話して彼らが生き返るわけでもあるまいし」
「それもそーだ」
由布院は適当に頷く。彼は鬼怒川に話したのだろうか。おそらくはそうなのだろう。しかしまだ、だからといって、ぜんぶを下ろしていない。
「由布院もちゃんと授業出たら?」
「自習の時間に寝に来て何が悪いんだよ」
クラスメイトたちは受験のせいもあってどことなく焦っている者ばかりなのに、由布院ときたら随分とマイペースだ。彼のそういうところに触れていると、なんとなくこころが落ち着いてしまう。自分勝手で怠け者のように取られがちな彼を慕う人間が実のところかなり多いのは、そういうところに起因しているのだろう。
「ま、邪魔して悪かったな」
「悪いって自覚あったんだ」
「ありますよ、そりゃ」
由布院はひらひらと手を振ってベッドを囲うカーテンの外に出ていってしまう。有馬はそれを見送ると目を閉じた。昼休みは短い。チャイムが鳴るまえに、せめてひと寝入りできるだろうか。
五時間目に入っても、有馬は戻ってこなかった。解き終わった英語のセンター試験の過去問を見下ろしながら、草津はなんとはなしに廊下の方を見る。有馬はどこへ行ってしまったのだろう。まだ鬼怒川にもらった饅頭を渡すことすらできていない。
思い出したのはさっきの鬼怒川の発言だ。由布院が保健室によく行くようになったという。有馬も……、Bの死に本当はショックを受けているのではないか、というのが、草津の結論だった。だからこそ無関心を装い、だからこそ、他の誰よりいつも通り過ごそうとしている。
このあと授業の時間の半分を使ってこの問題の解説が行われる。しかし、どのみち満点だろう。草津は落ち着かない気分で授業が終わるのを待つ。
ようやく授業が終わると、草津は足早に保健室に向った。養護教諭の原に有馬がいるか尋ねると、ベッドの内ひとつを示される。
「有馬」
カーテンの外から声をかける。反応がない。カーテンをあけると、有馬はこちらに背を向け丸くなって眠っていた。
「ありま」
肩を掴んで揺らすと、どうやら有馬はようやく目を覚ましたらしい。しばらく動きを止めていたが、そこにいるのが草津であることを確認した途端、がばりと起き上がった。
「よく寝ていたな」
「え、いま昼休み……」
「は、とっくに終わった。五時間目も終わった」
「ま、マジで……」
有馬の言葉遣いが緩んでいるのが新鮮だったが、ここでそれを指摘するのも野暮だろう。あからさまに凹んでいる。
「六時間目は出るだろう」
「出ます……」
有馬はため息をつきながらベッドから降りて白い靴を履く。それからあたりを見回すようにして「さすがに由布院は帰ったか」と呟いた。
「由布院くんは昼休みが終わる頃に教室に戻りましたよ」
原が肩をすくめて教えてくれる。有馬はふたたびため息をついた。
「お世話になりました」
「いえいえ」
言いながら微笑む原も、すっかり疲れている様子だ。由布院や有馬だけでなく、あの事件で衝撃を受けた生徒が保健室を利用するようになったことは想像に難くない。会釈をしながら廊下に出ると、暖房のかからない空気は冷たかった。
「保健室に行くなら言って行け」
「……はい」
有馬は従順に頷いた。眉尻を下げて、心底反省しているように見える。それならしつこく言うようなことでもないのかもしれない。もっと他に、言うべきことがあるだろう。
「……きょう、家に来ないか」
草津は極力有馬の顔を見ないようにしてそう言った。
「いいけど、なにかあった?」
なにかあったのはお前のほうだろう、と言いたいのを堪えて、草津は有馬を見上げる。少し眠たげな目がこちらを見ている。
「なにもない」
「そう?」
有馬が小さく首を傾げた。草津は唇を引き結び、先に立って歩く。
草津の自室は、本宅とは別の離れまる一軒である。有馬も何度か来たことがあるので、勝手知ったる様子で靴を脱ぐ。草津邸は純和風の邸宅だが、離れも同じだ。
和室に通された有馬は、礼儀正しく正座をした。さっき保健室で背中を丸めて寝ていたのと同じ人間とは思えない、美しい姿勢だ。草津も向き合って座る。生徒会室では有馬が茶を淹れるが、ここでは有馬のほうが客人だ。草津は自ら急須に沸かした湯を挿れ、湯呑みふたつに緑茶を注いだ。
有馬の前にそれを差し出し、草津はそれを一口飲むと、本題を切り出すために口を開いた。
「聞きたいことがあって、呼んだ」
「うん」
有馬は頷く。それくらいのことは悟られているだろう。
「……Bとは、どういう関係だったんだ」
「たまに僕の花壇に来ていた」
「それは聞いた」
有馬が言い切る前にそれを止める。
それだけではないのだろう。有馬ははっと目を見開き、それからようやく誤魔化す気をなくしたのか、ふっと息を吐いた。緑茶をひとくち飲んで、それからようやく口を開いた。
「錦史郎がどう予想をつけているのかはわからないけど」
有馬は目を伏せる。草津は黙って先を促した。
「去年だったかな。彼に告白されたんだ。『副会長、僕を抱いてください』ってね」
草津は小さく息を吸う。それは想像していなかった。抱いてください。頭のなかで一度呟いてみる。たしかに有馬は背が高くて体格もよく、なにより優しげな顔立ちをしている。そういう対象に見られることくらいあるだろう。
「錦史郎だって、告白くらい珍しくはないだろ」
「いや、有馬ほどではない」
「そう?」
自分の気質と有馬の人当たりの良さを考えればそれは当然だと思うが、草津はそれについて言及するのはやめておくことにした。それは話の本筋ではない。
「……それで、その告白は」
「もちろん断ったよ。……だけど、そのあと少し絡まれてた時期があったかな。それだけ」
それだけ。
それで有馬の話は終わりだった。これ以上なにも話すつもりもないのだろう。それきりにこにこしながら黙ってしまう。草津は喉を鳴らした。続きを望むべきか、ここで打ち切るべきか。どうしてこうも、自分はコミュニケーションが不得手なのか。
「他になにか、ある?」
「……Bが亡くなったのを、君はどう思っているんだ」
寂しいとか怖いとか残念だとか、あるいは――言い寄ってくる相手がいなくなって、せいせいした、とか。草津はそういう答えを予想したけれど、有馬は首を横に振った。
「それがよく、わからないんだ」
彼にも自分にも、欠落した場所があるのかもしれない、と草津は思う。有馬の所在なさげな顔を見ていると、どういうわけか急に胸が痛くなる。草津は有馬に向けて手を伸ばす。有馬は黙っている。草津はそのまま有馬の背中に手を回す。自分がこうして彼を抱いたところでどうなるというのだろう。
「……錦史郎、したいの」
有馬の問いかけに、草津は答えなかった。
由布院の部屋で、由布院と鬼怒川に向かい合って座っていた。鬼怒川は由布院の肩に手をかけている。ふたりはもうしばらく、性交をしていなかった。正確に言えば、あの事件が起きてから、由布院が気乗りしないと首を横に振り続けていたのだ。
「……ごめん」
由布院は鬼怒川から目を逸らして、やはり首を横に振る。
「やっぱ、しばらく、むり」
鬼怒川はしかし由布院の肩を掴んだまま、彼の目を無理矢理覗き込む。由布院が拒む理由はもちろんわかっている。しかし彼が力づくで手を払わないのが、本気で嫌がっていない証左ではないか、とも思う。由布院が本気を出せば、鬼怒川のほうがマウントを取られる側になり得ることは、よくわかっている。
「煙ちゃん」
「お前が溜まってるのはわかるけど」
「煙ちゃんは溜まってないのかよ」
「……」
わかっている、彼がこれまでないほどに傷ついていることも、だから今、そういうことをする気分にはなり得ないことも。由布院の水色の瞳はひどく暗い。
「お前は」
由布院はますます顔を伏せた。もう鬼怒川から彼の表情は伺えない。
「『愛に生き、愛に死す』とか言うだろ」
「え?」
話題が変わったと思ったら、ずいぶん突拍子もない。鬼怒川が瞬きをすると、由布院はしばらく黙っていて、それからようやく口を開いた。
「あれ、まじなの」
「いや、あれ、ウォンバットが考えてウォンバットに言わされてるやつだろ」
それは由布院だってわかっているだろう。彼が本気で「愛する地球を汚すものよ!」なんて言っているとは思えない。
「そうだよな、お前が愛の証明のために死のうとするわけ、ないよな」
口調だけは努めて軽口にしているつもりなのかもしれないけれど、由布院は鬼怒川の腕をつかむ手に力を込める。結構な力がかかっていて、そこそこ痛い。相変わらず表情を見せようとしてくれないし、いったいどうしてしまったんだろう。
「死なないよ、俺は。煙ちゃんがいる限り」
由布院の頭に手をやって、髪を撫でる。由布院はむずがるようにかぶりを振った。
「……いいぜ」
「なにが?」
「しても、いい」
「いいの」
確認すると、頷かれる。鬼怒川は由布院の両頬に両手をあてがい、顔を上げさせると、その唇に口付けた。由布院の目元に涙が溜まっているのには気がついていたが、今日はそれを見なかったふりをする。
*
由布院
Bに告白したけどダメだった
オレはあいつのことが死ぬほど好きなんだけどな
お前は鬼怒川と仲良くやってくれ
有馬くん
やっぱり君のことを愛しています
君は迷惑がるだろうけど僕はこの愛を形にして見せたい
だから
有馬と由布院は中庭にいた。とくに示し合わせて来たわけではない。由布院がなんとなく、そこに有馬がいるだろうと思って顔を出したら、本当に有馬がいた。由布院と有馬はこうしてなんとなく、行動が似通う。あの二人が死んだ日もそうだった。
あの日鬼怒川や草津と一緒に帰らなかった由布院と有馬は、昇降口で鉢合わせた。ふたりとも、片手に一枚のメモを持っていた。下駄箱に入っていたのだ。
「きのう錦史郎にBが亡くなってどう思ったのか訊かれたんだけど」
有馬は花壇のほうを見つめながらそう言った。由布院も決して有馬のほうは見ずにふうん、とだけ頷く。
「それでなんて答えたの」
「よくわからないって」
また有馬らしい回答だ。由布院はのどの奥で笑う。笑われた有馬は少し不服そうな顔をしたが、それから気を取り直してもう一度口を開く。どうせ、すべてを知っているのはお互いしかいない。
「それで昨日錦史郎としながら考えたんだけど」
「えっなにいきなり惚気?」
茶化してくる由布院の脇腹を叩くと黙る。どうせ君たちだって昨日、などと言うと話が進まないのでやめておいた。
「羨ましいんだ、たぶん」
「なにが」
「AとBのことが」
それを聞いた由布院は、あっけにとられたような顔をして、ついに有馬のほうを見た。
「有馬くん、死にたいんですか」
「由布院くんは、どうなんですか」
お互い肯定はしなかった。否定も、しなかった。くく、とのどの奥で笑って、ふたりは目を合わせる。
実際問題無理な話だ。鬼怒川にせよ草津にせよ、彼らはなにがあろうと背筋をただして生きることができる人間だ。たとえばAとBのように、ともに死ぬことなどありえない。一緒に死のう、なんて持ちかけたところで、絶対にうなずかないだろう。そういうところが、あの幼馴染は似ている。幼少期に染み付いた生命力のようなものなのだろうか。
「そもそもあいつら、付き合ってすらいなかったのに」
「それでよく、心中なんかできたものだよね」
こちらに傷だけ置いて、彼らは薬を飲んだのだ。
由布院と有馬は、そのメモを細かくちぎった。文字のひとつも判読できなくなるまで小さくして、ふたりして花壇の傍らにしゃがみ込む。有馬がシャベルで掘った穴のなかにその手紙を入れてしまう。死者を埋葬するようにうやうやしく埋め立てて、そして、ふたりで立ち上がった。
周囲は彼らは愛のために死んだのだと嘯いている。それは決して間違ってはおらず、だがその愛の方向は、周囲が想像しているのとは微妙に違っている。
「愛に生き、愛に死す、か」
「それ君の名乗りじゃないでしょ」
「詳しいのね」
「敵のことくらい調べましたから」
地球を愛して征服を唱えた。地球を愛して守ると誓わされた。そんなことがあったって、お互い人間の前では愛なんて不確かだ。愛の戦士だろうと、そうでなかろうと。
「まあ、お互いまだ死ぬわけにはいかないみたいだし」
「めんどくせえなあ」
由布院は後頭部を掻いて、それから伸びをした。一生涯付き合わなければいけないこの真実を、せめて共有する相手がいることだけが、救いなのかもしれなかった。
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