きみの遺書、ぼくの記憶(同人誌再録)
「どうかした、錦ちゃん」
「いや、ええと、ああ」
どうやら気が付かないうちにぼんやりしていたらしい。さっきの有馬と同じ言葉を、鬼怒川にまでかけられてしまった。眼鏡越しに心配そうにこちらを見ている鬼怒川の視線を受けて、草津はようやく我に返った。ああ、これも、有馬のせいだ。八つ当たりのように思って、ため息をつく。
「……そうだ錦ちゃん、この前言っていた映画なんだけど」
鬼怒川は深く突っ込んでくることもなく、話題を切り替えてくれた。そういえば、先週辺りに映画を観に行きたいという話で盛り上がったのだった。
「ああ、もう公開したんだったな、いつ行こうか」
「えーと、次の土曜日なら空いてるかな」
「その日なら私も空いている」
お互い高校三年の秋にしては余裕のあるスケジュールだが、なにしろ自分たちは焦って勉強する必要がない。成績はふたりで、学年一位と二位を誇っているのだから。鬼怒川はそれを聞くと、くるりと後ろを振り向いた。
「煙ちゃんも行く? 映画」
後ろで有基の相手をしていた由布院は、きょとんとした顔でこちらを見た。
「なに見んの」
こちらの話を聞いていなかった由布院の質問に鬼怒川が答える。話題作の恋愛映画だ。鬼怒川はあらすじまで丁寧に説明するが、由布院は悩むことなく即答した。
「俺パス、そういう単調なの、途中で寝るわ」
「煙ちゃんはそうかもね……」
あっさりと鬼怒川は苦笑して、草津に向き直った。
「じゃ、二人で行こうか、錦ちゃん」
「あ、ああ」
この幼馴染とふたりで出かけるなんて、いったい何年ぶりだろう。想像以上に嬉しくて、草津は思わず頷いたまま俯いてしまう。有馬のことで落ち込んでいた気分が、ふわりと上昇する。
「よかったな会長さん、『あっちゃん』とふたりで映画行けるじゃん」
すると草津の上機嫌を悟ったらしい由布院がからかうように声をかけてくる。草津は勢いよく顔を上げると、振り向いて彼をねめつけた。頬に血がのぼっているのが、自分でもよくわかる。
「黙れ、君はいつもそうやって人を……」
「ついたっすよ―! 今日は六名様ご来てーん!」
ところが、由布院は怒鳴られてもへらへらと笑っているだけだったし、しかもそれと同時に由布院の隣にいた有基が黒玉湯への到着に嬉しそうな声を上げる。結局草津の由布院への不満は、飲み込むしかなくなってしまった。
そうこうしているうちに、土曜日はあっという間にやってきた。
草津が待ち合わせ場所の駅の改札前についたとき、まだ鬼怒川は着ていなかった。とはいえ約束の時間まであと十五分ある。楽しみにしすぎて、早く着きすぎてしまったのだ。これではまるで子どもだ。思えば、鬼怒川とふたりででかけるのは、中学生のとき以来である。
落ち着かない気分で、さっきも見たはずの腕時計を見る。つぎにスマートフォンの画面を確認して、もう一度腕時計を見た。浮ついている自覚はあるが、どうしても落ち着けない。
「おはよう、さすが錦ちゃん、来るの早いね」
そんなことをしながら五分ほど待つと、ようやく鬼怒川が現れた。着ているモスグリーンのコートには見覚えがなく、しかし彼にはよく似合っていた。草津はほっと息を吐き出して、鬼怒川のほうに顔を向ける。
「あっちゃんも、時間より早い」
そう言うと、鬼怒川は苦笑した。
「いつも待ち合わせしてる相手が時間通りに来ないから、こういうの新鮮だな」
鬼怒川が言っているのは、当然由布院のことだろう。聞けば、由布院が待ち合わせの時間に待ち合わせ場所にいることはほとんどなく、鬼怒川は多くの場合由布院の家まで迎えに行くのだと言う。
「最初から煙ちゃんちで待ち合わせにしたほうが早いんじゃないかって最近思うんだよね」
「……よく付き合いきれるな」
それは草津の本音だった。例えバトルラヴァーズとカエルラ・アダマスとしての和解はしていても、草津には由布院のだらしのなさや覇気のなさは認めがたいものだ。ところが鬼怒川は親友が貶されたというのに気を悪くした様子もなく笑うと、「煙ちゃんを迎えに行くの、実は結構好きなんだよね」とますます信じがたいことを言った。しかし、照れたような表情を見るに、それは嘘ではないのだろう。草津が鬼怒川を無視していた間、確かに由布院は鬼怒川の隣にいた。彼らの友情は、もしかしたら自分がいちばん目の当たりにしていたのかもしれない。だからこそ、今更自分にそれを非難することはできなかった。
「じゃあ、そろそろ電車も来るし、いこっか」
だが、鬼怒川の表情は、子供のころとなにも変わらない。
「そうだな」
頷きあって、ふたりは改札口に向かった。
映画は前評判通り、叙情的な風景のなかで主人公の男女が静かに感情を育てていく美しい映画だった。周囲はカップルか女子同士のグループばかりだったが、それが気にならないほど楽しむことができた。
ふたりは昼食を食べるために、映画館が入っているショッピングモールのなかのレストランに入った。庶民向けの店は騒がしいが、鬼怒川とふたりならば、それもやぶさかではない。鬼怒川と草津はそれぞれランチセットを頼んだ。鬼怒川はビーフシチューをメインに選び、草津はデミグラスソースのオムライスを選ぶ。先にやってきたセットのアイスティーを飲みながら、鬼怒川は満足気にため息をつく。
「いい映画だったねえ」
「そうだな、特にあの、あじさいの花の中で」
「あれって鎌倉かな? 行ってみたくなっちゃった」
「鎌倉はここからだと少し遠いな」
疎遠だった時期は長かったけれど、だからこそ話題は尽きない。映画のことを一通り話し終えると、学校のこと、先生のこと、進路のこと、料理が来ても飽きることなく話し続けることができた。鬼怒川の声は優しく、草津も自分の声がいつになく穏やかであることに、自ら驚いてる。
ようやくオムライスを食べ終え、草津は大きくため息をついた。最近は有馬のことでずっとすっきりしない気分だったので、なんのてらいもなく楽しいと思えたのは久しぶりのような気がする。
「どうしたの錦ちゃん、ため息なんかついて」
「あ、ああいや、楽しいなと思って」
「それはよかった」
鬼怒川の笑顔を見た瞬間、すとんと有馬のことを相談してみようか、と思った。こうして見ると、鬼怒川の笑顔と最近の有馬の笑顔はまるで質が違う。ずっと腹の中で溜め込んでいるこのもやもやを、誰かに話せば、なにかが変わるかもしれない。
草津は息を吸って吐き出すと、口を開く。
「……有馬のこと、なんだが」
「有馬? そういえば今日の映画、有馬も誘えばよかったね」
「……誘っても、来なかったと思う」
「そうなの?」
ここまで言ってから、草津は口をつぐんだ。有馬のことを話すとして、どこから話せばいいのだろう。「この前の日曜日に有馬から『友人であった記憶を消して執事に戻ります』という手紙が来て、月曜日から本当に有馬はこちらを様付けで呼ぶ執事になってしまった」なんて馬鹿げた話を、鬼怒川が信じるだろうか。いや、そもそもお互い緑のハリネズミや桃色のウォンバットやしゃべる金魚のせいで非科学的な出来事を体験してきた身だ。信じてくれる可能性のほうが高いだろうか?
草津が逡巡している間に、鬼怒川は飲み終えたアイスティーのストローを指先でいじりながら、口を開いた。
「有馬って、俺たちが遊んでても一緒に来たりはしなかったよね、小学生の頃。俺、錦ちゃんに有馬みたいな執事、がいるの、結構長い間知らなかったし」
「ああ、そうだったな」
「最初有馬に会ったときは、ちょっとびっくりしたよ。有馬ってあの頃から大きかったのに、俺のこと『熱史様』なんて呼んでお辞儀するんだもん」
鬼怒川はすらすらと思い出話をしてくれる。だが、有馬は決して。
「……有馬は執事だったけれど、私の友人でもあったんだ」
それは事実だった。特に、自分が鬼怒川と疎遠になってからは、有馬は唯一隣にいた相手だと言ってもいい。だからこそ、彼がそこから一歩下がろうとしていることが、どうにも気に入らない。最近のもやもやの理由を突き詰めれば、そこにあるのだ。
「なのに最近、有馬が執事に戻ると言い出したんだ」
「戻る?」
聞き返した鬼怒川に、草津は幼い動作でこくんと頷いた。
「今まで私のことを『錦史郎』と呼んでいたのが突然『錦史郎様』になって、仰々しい言葉遣いになってしまった」
「戻ったのは言葉遣いだけ?」
結局最初から今の状況を説明するのは叶わなかったが、どうやら鬼怒川は相談に乗ってくれるらしい。
「いや、なんというか、態度もよそよそしい、というか」
「そういえば、有馬はこの前黒玉湯にも来なかったよね。この間まではちゃんと来てくれてたのに」
鬼怒川は腕を組んで、うーん、と小さく唸った。
「気を悪くしないでほしいんだけど」
「?」
鬼怒川になら、なにを言われても構わない。そう思いながら鬼怒川の目を見ると、彼は目を伏せてしまった。
「錦ちゃんが俺によそよそしくなったとき」
どきりとした。だが、言われてみれば今の草津は、あのときの鬼怒川と同じ立場にいるのかもしれない。突然「友人」だと思っていた相手がよそよそしくなって、しかしその理由にも踏み込めていない。あのときの鬼怒川はこんな気分だったのだろうか。戸惑って、苛立って、悲しい。心のなかがかき混ぜられているような、ぐちゃぐちゃの気分。
「俺も最初は理由をいろいろ考えたんだ」
「……うん」
実際、あれは草津の八つ当たりのようなものだった。草津が鬼怒川を遊びに誘ったら用があると断られた。その道すがら、なりゆきで一緒になった由布院と鬼怒川は、ふたりでチェーン展開されているカレー店へと向かったのだった。そしてその様子を草津は見ていて、鬼怒川は自分ではなく由布院を取ったのだと思った。
今となっては、あまりに幼い理由だ。鬼怒川がこちらの誘いを断ったのだって、こちらがカレー嫌いであることを慮ってのことであることは、考えなくたってわかる。鬼怒川が自分でその理由を気づくことなどできるはずがない。
「俺、錦ちゃんを怒らせるようなことしたかなって。怒らせたなら謝らなきゃ、とは思ってたんだよ、ずっと。でも全然錦ちゃんを怒らせた理由が思いつかなくてさ。煙ちゃんは『ちゃんと話聞いてみたら?』って言っててくれたんだけど、俺はいずれまた仲良くなれるだろうって結局なあなあにしちゃって」
「……」
草津はなにも言えなかった。気に入らないことひとつですねて、この心優しい幼馴染を悩ませていたのだという罪悪感は、今だって消えていない。
「やっぱりあのときちゃんと錦ちゃんと話すべきだったって、今でも思ってるよ。そりゃあ、ああやって戦いのなかで分かり合えたのも嬉しかったけど、本当は自分でその機会を作るべきだったって」
本来謝罪すべきなのはこちらのはずなのに、鬼怒川の声には重たい反省が乗っているような気がする。草津は唇を引き結んだ。
「怪人のせいだったから知ってるとは思うけど、煙ちゃんと喧嘩したこともあってさ」
それは、もちろん知っている。よりにもよって、あのときはふたりの喧嘩を喜んでしまった。あのとき有馬は苦笑していたっけ。
「あのときも、やっぱり俺は煙ちゃんを避けちゃったんだよね。結局先に一歩踏み出して来てくれたのは煙ちゃんのほうで、相変わらず俺はなかなかそういうのに踏み出す勇気は出せないから、人のこと言えたわけじゃないんだけど」
心臓が締め付けられるような気分だ。草津は俯き、声を絞り出す。
「……由布院と喧嘩させてしまって、ごめん」
「それはいいんだ。なんだかんだ、あの後煙ちゃんともっと仲良くなれたような気がするし」
鬼怒川はようやく顔を上げる。少しだけ首をかしげて、草津のことをまっすぐに見た。
「だから錦ちゃんも、できるならちゃんと有馬と話したほうがいいと思う。有馬は……まだそばにいるんだから」
「……うん」
有馬は一体なにを考えているのだろう。昔も今も彼はにこにこ笑ってばかりで、そうじゃないのはかたつむりが視界に入った時くらいだった。そもそも、こんなに長い間近くにいて、自分は一体有馬のなにを見てきたのだろう。それすらもわからないままだ。
「理由を聞くのが無理ならせめて、敬語はやめろって言ってみたら?」
「……そう、だな」
草津は頷く。やはり鬼怒川に相談してよかった。少し気が楽になったし、鬼怒川の話も聞くことができたのだから。
「大丈夫だよ、きっといつかはこうやって元に戻れるから」
だけど、そのきっかけは自分で作ったほうがきっと後悔しないよ。鬼怒川はそう言ってにこりと笑った。
週があけて草津が登校すると、やはり教室には有馬が先に来ていた。他の誰もまだ教室にはいない。有馬は草津が教室に入るのを確認すると、いつものようにほほえみ、相変わらず完璧な一礼をした。
「おはようございます、錦史郎様」
いつもどおりの朝の挨拶だ。毎朝、同じ角度で腰を曲げ、同じ声で、同じ言葉を口にする。そして自分も、同じように「おはよう」を返していた。けれど今朝は違う。草津は映画を観に行ったあとに鬼怒川に言われたことを実戦しようと決めていた。有馬の笑顔を見据え、ひとつ息を吸って息を吐き出す。わずかに緊張していた。しかし、今の有馬が主人の言葉に逆らわないだろうという打算もあった。
「有馬、学校でそのような仰々しい態度は取るな。様付けはやめろ」
鬼怒川の言った通り、この口調と態度を改めさせれば、以前の有馬に戻るのではないだろうか。有馬は一瞬目を見開いた。久しぶりに有馬の笑顔以外の表情を見たような気がする。
「……仰せのままに」
やはり、逆らわなかった。草津は内心でそっと胸を撫で下ろす。有馬はすらりと肯定し、それから口を開く。
「それでは、これからは、なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
「錦史郎、でいい」
「呼び捨て、ですか」
「ああ」
有馬は表情を変えずにしばらく草津のほうを見つめていた。なにかを考えているようだが、なにを考えているのかがわからない。
「錦史郎、様」
「敬語はやめろと言っているだろう」
言ったそばからこれか。思わず口調を強めて草津が咎めると、有馬は首を横に振った。
「僕は執事ですから、やはり弁えない態度を取ることはできません。他の方がいるときに僕のような者がいることに気が引けるとおっしゃるなら、彼らがいるときは敬語も様付けも辞めましょう。しかし、二人のときはこのままでいることをお許しください」
そう言われて、草津は我を通しきることができなかった。やはり有馬は自分との間に線を引きたがっているのだと、実感せざるを得ない。草津が声を出さないでいるのを肯定と受け取ったのか、有馬は自分の席に戻っていく。
「錦史郎様、今日は生徒会室へ行かれるのですか」
「……ああ」
付いて来いと言わないうちに、有馬は自分の斜め後ろを追ってくる。このほんの数メートルの距離感が、どうしようもなくもどかしい。
鬼怒川の言うとおり、はやく有馬を問い詰めるべきなのだろう。しかし、有馬は記憶を失っている。「なぜ私を避けるのか」と訊いたところで、明確な答えは得られるのだろうか。
相手は自分の執事であり、友人であるはずなのに、たったそれだけのことを口にする勇気がでない。鬼怒川の言っていたことをもう一度思い出す。「有馬はそばにいるんだから、ちゃんと話すべき」。わかっている。わかっているはずなのに。
地球を征服しようとして失敗して、一方で鬼怒川と和解して、それでも自分はまだ何一つ変われていない。草津は奥歯を噛み締めた。
その日のひと通り生徒会の仕事が一段落すると、まるでそれを見計らったかのように有基を銭湯に防衛部の面々ががやってきて、黒玉湯に誘ってきた。
「今日は悪いけどパスします。習い事があって」
下呂はそう言って肩をすくめた。おおかた幼い頃から習っているという、ヴァイオリンの稽古だろう。草津は今日も特に予定がない。有馬はどうだろうとそちらに視線を向けると、有馬は有基に向かって首を傾げたところだった。
「うーん、僕も遠慮しようかな」
「有馬先輩、黒玉湯嫌いになっちゃったっすか? 先週は『今度は行けるといいね』って言ってくれたのに」
そういえば彼らはそんなやりとりをしていたか。有基の声があからさまにしょんぼりしているので、有馬は取り繕うように「そうじゃないんだけど」と言う。
「なあ会長さん」
由布院がそれを見て、草津に声をかけた。草津は眉を寄せて彼を見上げる。由布院の青い瞳は、妙に真摯ないろをしていた。目の色だけならば、美しいと言える余地がある、と草津は思った。
「……あんたの『執事』さん、あんたが言えば黒玉湯来れるんじゃねーの?」
草津は由布院の眠たげな声に説得力があることを認めざるを得なかった。ため息をつく。確かに記憶を失してから、有馬が一緒に黒玉湯に来ることはなくなった。主人と執事としての線引きのつもりかもしれないが、以前は平気で来ていたのだから。
「ねえ錦ちゃん、せっかくだし有馬も誘わない?」
おまけに鬼怒川にそう声をかけられては、そうするしかなかった。これらの会話は有馬にも当然聞こえているはずなので、まったく茶番劇じみている。
「有馬」
「はい」
「君も黒玉湯に来い」
「ん、わかった」
言えば、やはりすんなりと草津の言うことをきく。言いつけどおり、敬語も解除されている。由布院がニヤニヤ笑っていることは腹立たしいが、草津はなぜか安堵していた。やったあ、ともろ手を挙げて喜んでいるのは有基だ。
「うちの風呂に入れば有馬先輩の疲れもすっきりするっすよ」
次にはくるりと有馬のほうを振り返り、有基はガッツポーズをして見せる。有馬はきょとんと目を丸くした。
「疲れ? 僕が?」
「有馬先輩、疲れてるっすよね、執事はかっこいーっすけど」
「そんなことないよ」
「そーっすか?」
否定してなお疑わしそうな有基は、しかしそれでも一応黙った。決して物事をなにも理解していない阿呆ではないのだ、この後輩は。
「おーし、じゃあ話もまとまったみたいだし、行くか!」
スマートフォンをいじっていた蔵王が伸びをする。
「今日は三千万儲けが入ったので、コーヒー牛乳でもいただきましょうかね」
とんでもないことを言っているのは鳴子で、しかし蔵王は平然と「じゃ、俺はフルーツ牛乳」と笑った。どうやらこれが地球防衛部の日常茶飯事らしい。草津は彼らを毛嫌いしていたことを、今更のように思い出す。それが今はすっかり馴染んでしまっていて、あまつさえ裸の付き合いまでしている。決して不愉快ではないのがくすぐったい気分だ。
……有馬のことを除いては。
ぞろぞろと通学路の階段を下りながら、有馬は後ろで由布院と話をしている。会話の内容はここからではわからないが、時折有馬が笑い、由布院が笑った。まるで気安い友人同士のようだ。いや、実際友人とくくってもいいのかもしれない。由布院と有馬の間には、なんの因縁もない。
草津がため息をつくと、鬼怒川が「錦ちゃん」と声をかけてくる。
「この前のこと、やっぱりまだ戻ってないみたいだね」
「敬語はやめろと言ったんだが」
「確かに敬語は、使ってないみたいだけど」
鬼怒川に悟られるほどなら、やはり有馬のよそよそしさは相当のものなのだろう。草津がため息をつくと、鬼怒川は苦笑した。そうこうしている間に、黒玉湯についた。
「今日も六名様ご案内っす〜!」
有基が声を上げながらのれんをくぐる。玄関で掃き掃除をしていたのは、草津たちにも顔なじみになりつつある、有基の兄の強羅だ。
「おう有基、お帰り」
「うん、ただいまあんちゃん!」
番台に駆け上った有基にそれぞれ入湯料を払って、脱衣所に入る。どうやら他に客もいないようで、今日もいちばん風呂だ。
さっきまで隣を歩いていた鬼怒川は由布院の隣のロッカーに向かってしまう。どうやら前々からそこを定位置にしているらしい。草津も適当なロッカーの前に立ち、服をまとめるために籠を引き出す。有馬は一つ離れたロッカーを使うことにしたようだ。さっそく首元のホックを外し始めた。草津も同じく、白い学ランを脱ぐ。
「先週はなぜここに来なかった?」
有馬の顔を見ないようにして問うと、有馬がこちらを見る気配がした。
「家で用があったので。申し訳ありません」
やはりふたりだけの会話では、敬語を使うつもりらしい。それとも、これも辞めろと無理強いすれば、辞めるのだろうか。無理強いしたところで、態度が変わらなければ今より更にもやもやするだけだろうが。
有馬はさっさと上着を脱いでしまうと、シャツのボタンに手をかける。草津も彼に遅れを取らないよう急いでみるが、有馬のことが気になって、服を脱ぐことにすら集中できない。
そして気がつくと、有馬はすっかり服を脱ぎ終わっていた。腰にタオルを巻きながら、彼はこちらを見る。
「制服、畳みましょうか?」
「いい!」
かっと自分の頬が赤くなるのがわかった。他にたくさんの人間がいる中で、そんなことまで世話を焼かれるわけにはいかない。有馬はしかし平然としたものだ。
「あちらで由布院も鬼怒川に畳ませていますよ」
「そういう問題ではない!」
まったく、由布院のだらしのなさと一緒にされてはたまらない。
「……そうですか」
声を強めたせいかようやく有馬は引き下がったが、草津のことをじっと見たまま立っている。
「先に入れ」
「いえ、お待ちしています」
有馬に見られながら服を脱ぐのはとてつもなく羞恥を煽った。まだ湯に浸かったわけでもないのに、首まで熱い気がしてくる。ちらりと有馬の方を伺うと、有馬は敏感にそれを察してまたにこりと笑う。
有馬は裸である。当然だ、ここは銭湯の脱衣所で、これから風呂に入りに行くのだから。視界に入った有馬の裸を見て、想像以上に着痩せするのだな、と思った。彼の手足も胸にも、しっかりと筋肉がついている。そばにいる阿古哉が常々自分の美しさをひけらかすせいで目立たないが、有馬とて美男高校で毎月行われる美男コンテストで不動の二位を誇る美形だ。柔和な顔立ちと長身と、十七歳(十一月生まれの有馬は、まだ今年度の誕生日が来ていない)というには完成された男らしいからだ付きのアンバランスさは、なぜか草津を動揺させた。
「錦史郎様?」
既に他のメンバーは浴場に向かっている。草津も慌ててタオルを掴むと、有馬から目を逸らした。
おかしい、これだけ付き合いが長いのだから、有馬の裸だって何度も見たことがある。そうだ、この夏には一緒に海まで行った。あのとき有馬はずいぶん丈の短い水着を着ていたし、それどころかやはり風呂にも一緒に入ったはずだ。それを今更、なぜ、その肌を見ただけで、こんなにも緊張しなければならないのか。
「……きんしろう」
彼に名前を呼ばれた気がして振り向くが、有馬は目を瞬かせただけだった。それに、今の有馬はこちらを呼び捨てしたりしない。有馬、有馬、有馬。有馬のことで頭がいっぱいで、パンクしてしまいそうだ。有馬、有馬――。
その瞬間だった。有馬の肌に触れたい、というはしたない考えが唐突に頭に浮かんで、膨らんで、草津の頭のなかでぱちんと弾ける。心臓がどくどくと音を立てるようだった。有馬に触りたい。抱きしめたい。唐突にそんなビジョンが甘たのなかに浮かんだのだ。有馬のことを見ていられなくなった草津は前に向き直ると、ずんずんと浴場へ向かった。
吐き出した息はなぜか熱い。洗い場で桶と椅子をシャワーで流しながら、草津はいっそ冷水をかぶりたい気分になっていた。
いくら同じ年頃の男子に比べてその手の話題に詳しくないとはいえ、自分のこころとからだの変化くらいは手に取るようにわかる。
草津は、あの有馬燻に確かに欲情していた。
自分で自分が信じられない。男である有馬の肌を見て、確かに草津は胸を高鳴らせ、頬を熱くしてしまったのだ。打ち消そうにもその感情はありありと強く、草津の心を焼いた。
ベッドの上でごろりと寝返りを打ってため息をつく。バカバカしい、と打ち消すにはあまりに衝撃的な感情だった。有馬のことを考えすぎて、自分はなにかを履き違えてしまったのだろうか。吐き出したため息は熱い。普段は自慰だってそんなにしないのに。……それとも、自慰をしないからこそ、有馬の裸を見た程度のことで動揺してしまっているのだろうか。
明後日には生徒会も引き継ぎが終わって、自分は生徒会長の座を退き一生徒へと戻る。それと同時に有馬も副会長の座を辞する。そうなったら、ますます有馬との時間は減ってしまうし、有馬と話をする機会は少なくなってしまうだろう。
やはり、明日にでも、有馬と話をしなければならない。そうすれば、こんなわけのわからない情動も、きっと勘違いだとわかるだろう。そうであって欲しい。そうであってくれ。
覚悟を決めなければならない。有馬と向き合い、すべてを伝えなければいけない。そして、有馬の話を聞かなければ。だけど、そうするべきだとわかっていて、有馬のことを考えれば考えるほど、頬が火照る。
布団の中で、草津は自慰をした。頭のなかは、有馬の滑らかな肌でいっぱいだった。吐き出した精液が手の中で冷たくなっていくのを感じながら、眉を寄せる。