きみの遺書、ぼくの記憶(同人誌再録)




草津錦史郎がその日教室に入ると、いつも先に来ている有馬燻の姿がなかった。生徒会室にでも行っているのだろうか。生徒会役員の任期は一年、文化祭も終わり、すでに月末の引き継ぎのための準備に入っている。有馬に残された仕事は少なく、わざわざ早く来てまですることはないはずだった。ならば、自ら手入れをしている花壇にでも行っているだろうか。
草津はそんなことを考えながら、授業の準備を整え、ひとりで教室を出た。朝早い校舎は静かで、凛とした冷たい空気が漂っている。
ひとまず草津は生徒会室に向かうことにした。有馬の所在はどうあれ、残された仕事を早めに片付けようと思ったのだ。なにも有馬がそばにいなくては会長職が務まらないわけではない。
草津はいくつか階段を登り廊下を渡ると、生徒会室のドアの前に立つ。有馬がここにいるのだとしたら、鍵は開いているはずだ。そう思ってドアノブに手を伸ばすと、それはするりと回った。なぜかほっとしてドアを開けたが――中にいたのは有馬ではなかった。
「あれ、おはようございます、会長」
長い髪を翻して振り向いたのは、後輩の下呂阿古哉だった。彼には次期生徒会長を任せることになっている。
「阿古哉、おはよう」
草津が挨拶を返すと、下呂は手にしていた書類を机の上に置いた。草津はぐるりと部屋を見渡す。やはり、有馬はいない。
「どうかされたんですか、こんな朝早くに」
「阿古哉こそ」
「僕も来月からは生徒会長ですから、資料の読み込みでもしようかと思いまして」
下呂は自分の美しさを保つための努力を、決して惜しまない。これも次期生徒会長としての美しさのためなのだろう。そういうところが、彼の好ましいところだ。
「今日は有馬さんは一緒じゃないんですか?」
下呂は草津のほうをじっと見てそう言った。まるでいつでも有馬と一緒にいるかのような言われようだ。しかしそれは、おそらく事実なのだろう。草津は苦笑した。
「いつもは有馬が先に教室にいるのに、今朝は教室にいなかったんだ」
「じゃあ、有馬さんを探しているんですか?」
「いや、ここには仕事を片付けに来た」
「そうですか」
有馬はやはり花壇にでも行ったのだろうか。きっとそうだろう。秋から冬へ、季節の変わり目だから、することが多いに違いない。草津はそう考えて、引き出しの中から書類を取り出した。







ところが、始業時刻が近づいて草津がひとり教室に戻っても、朝のホームルームが始まっても、一限目が始まっても、有馬は姿を見せなかった。担任の老教師は有馬が休んだ理由を言わなかったし、結局草津も尋ねそびれてしまった。有馬はこれまでめったに欠席しなかったので、彼がいないのはなんだか落ち着かない気分だ。
とはいえ、午前中の授業もつつがなく終わった。昼休みには下呂とふたりで昼食を摂った。現生徒会長と次期生徒会長として話題は尽きず、想像以上にずっと会話が弾んだ。
そして放課後は幼馴染の鬼怒川熱史に誘われて、防衛部の面々と下呂と共に大衆浴場――黒玉湯に行くことになった。
この面子で黒玉湯に行くときは、校門の前で落ち合うことになっている。草津と下呂は仕事を一段落させてそこに向かうと、すでに防衛部の面々が集まって談笑していた。
「今日は有馬、休みなんだな」
「……そうだが」
校門の前で草津の隣に有馬がいないことを最初に言及してきたのは、あろうことに由布院煙だった。防衛部、すなわちバトル・ラヴァーズと生徒会――カエルラ・アダマスは和解したとはいえ、まだ草津は彼に対する刺々しい態度が抜けきれていない。草津の態度を見て、由布院は肩をすくめて黙ってしまった。それを見た熱史がとりなすように口を開く。
「有馬は、風邪かなにかかな? だいぶ涼しくなってきたしね」
「それが、先生に理由を聞き損ねたんだ」
それならメールでもなんでもすればいいのだろうが、放課後になってそんなことで連絡を取るのもなんだかおかしい。今日は金曜日だから、月曜日にでも欠席の理由を尋ねることにしようと内心で決める。
「なー熱史、安い回転寿司って実は結構原価率高いから、他の飲食店よりコスパいいらしいぜ。今度行かねえ?」
「由布院先輩、それならぜひ私も」
「硫黄はマジでコスパって言葉に弱いよなー」
「立、金は……」
「『全て』、ね。わかってるわかってる」
「この前も行ったよね、回転寿司。ポテトがおいしかった」
「寿司屋行ってポテトっすか?」
防衛部の面々は由布院の発言ひとつで大盛り上がりだ。この、だらだらしているようでテンポのいい会話には、まだ草津も下呂もついていけない。おまけに草津も下呂もその手の回転寿司に行ったことがないので、眉を寄せることしかできなかった。そもそも、二貫でたったの百円の寿司が、美味しいはずがないだろう。

浮かれているのだ。実際。五年間疎遠だった幼馴染との間にあった誤解を解消して、他の人間もいるとはいえ放課後に寄り道などをしている。望みであった「地球征服」は叶わなかったけれど、ここしばらく感じたことのなかった高揚だった。もうすぐ受験も本番なのだから、気を引き締めなくてはいけない。もっとも、草津は推薦入試での進学を考えているのだが。
日曜日の午後、翌日のための予習を終えた草津は、勉強机の前からゆるりと立ち上がる。休憩がてら玉露でも飲もう。そう思って部屋を出た。草津の自室は草津家の敷地内の離れにある。一旦外に出て、母屋の台所に向かう。
茶を飲むのに使用人の手を煩わせるのがむしろ面倒で、草津はやかんに水を注ぎ、湯を沸かすことにした。
湯のみや急須を準備していると、丁度母親が通りかかる。
「あら錦史郎、丁度よかった。手紙が来ていたわ」
「手紙?」
「珍しいわね」
母親から手渡された白い封筒の表書きには、確かに自分の名前が書いてある。見覚えのある筆跡だった。――つい最近目にしたことがあるような。草津は少しだけ考えて、それが有馬の文字であることに気が付いた。彼はいつも、やや縦に長く、しっかりとした文字を書く。封筒を裏返すと、やはり有馬の名前が書いてある。さらにもう一度表面を見る。鳥の絵が描かれている切手の上には、昨日の日付の消印が押されている。
有馬がわざわざ封書の手紙を出してきたことに、草津は首を傾げた。お互いスマートフォンを持っているし、当然メールアドレスも、メッセージアプリのアカウントも教え合っている。連絡をするなら、そちらのほうが圧倒的に早いだろう。中にどんなことが書かれているのか想像もできず、草津は眉を寄せた。だが、こうして改まった文章にしてくるということは、よいことが書かれているようには思えない。草津は唇を引き結び、じっと封筒を見る。やかんが湯がわいたのを知らせる笛を鳴らすまで、そのままでいた。











拝啓









なんて、こうして手紙を書くことが久しぶりすぎてつい堅苦しいことばから初めてしまったけれど、時候の挨拶なんて必要ないよね。
月末の引き継ぎまであと二週間だけど、いつも生徒会長のお仕事お疲れさま。もう少しのあいだ、頑張ろうね。
とはいえ、突然手紙なんて出して、驚いたよね。ごめん。でも、メールや電話で伝えるには少しだけ躊躇があったので、こうして筆を取りました。そういうわけで、さっそく本題に入ります。



君と僕が中学生だったとき、君がちょっとした行き違いで親友を失してしまったあの頃、僕は君には無断で、君の執事兼友人という立場を取ることに決めました。そしてこの約五年、僕は執事としてはいささか出過ぎた態度で、まるで友人のように君と接してきました。そして君はこんな僕を、地球征服という崇高な目的のために行動していたときも、隣に置いてくれました。とても嬉しかった。感謝しています。
さて、結果として地球征服には失敗しましたが、そのかいがあって、君はついに鬼怒川熱史と友人関係に戻り、日々を穏やかに暮らしています。それは君の幸せを願う僕にとっても、とても喜ばしいことです。



そこで僕は、君と友人であったことのいっさいを忘れて、単なる執事に戻ることにしました。
突然のことで驚くかもしれませんが、安心してください。残り少ない副生徒会長の仕事は全う致します。また、主人のあなたが僕にそう命令するまで、この立場を離れることは致しません。
実際のところ、今日の僕と明日からの僕は、なんら変わることはないでしょう。これまで通り、僕はいつでもあなたのそばにおります。このことについて、あなたが気にかけることはなにひとつありません。明日も僕はあなたの仰せのままに、紅茶を入れて、お茶菓子を用意し、お話を伺います。ただ、これまで友達口調であったものが敬語で話しかけてきたりしたら、あなたが驚くだろうと思い、あえてお知らせさせていただきました。

それではまた明日、学校でお会いしましょう。







敬具

十月十八日                                                                   有馬燻





草津錦史郎様
玉露を飲み終えてから部屋に戻り、封をあけた封筒の中から出てきた白い便箋には、信じがたいことばが並んでいた。
「……なにを勝手な」
思わず口からこぼれたのはこんな言葉で、草津は次にかぶりを振った。「そこで僕は、君と友人であったことのいっさいを忘れて、単なる執事に戻ることにしました」の一文をもう一度読み、それからため息をつく。忘れる? これまでの記憶を? そんなことが都合よくできるものか。
ならばこれは、有馬の冗談かなにかなのだろうか。それこそ、あまりに失礼な話だ。草津は苛立ち、その文面をねめつけた。見れば見るほど、字の乱れも、修正のあとも全くない、平然とした手紙である。有馬に対して怒りを覚えたのは、もしかしたら初めてかもしれない。ため息をつくと、手紙を机の上に置く。鞄のなかにしまいっぱなしだったスマートフォンを取り出し、画面の上で指をスライドさせて、有馬にメールを打つ。
「あの手紙はなんだ、どういうつもりだ」
ここまで書いてから、メールでは彼が返事を寄越さない可能性があることに思い至る。いや、有馬がメールを返さなかったことなど、これまで一度もなかった。草津はそれをそのまま送信する。
送ったところで、メールの返事を待つのはどうも落ち着かない。草津は机の上にスマートフォンを置く。読み途中だった文庫本に手をのばそうとして、それからもう一度スマートフォンを手にする。この調子では集中などできやしない。







夕食を摂り、風呂に入り、歯を磨き、明日の授業の支度を終え、草津はついに布団のなかに入った。結局今まで有馬からメールの返事はない。電話もかけてみたけれど、いくら待てども繋がらなかった。
いったい、どういうことなのだろう。頭のなかでは未だに有馬からの手紙の文面がぐるぐると回っていた。「単なる執事に戻ることにしました」。それがどういうことなのか、わからないわけではない。
――草津と有馬が出会ったのは、ふたりがまだ十分に幼い時分であった。何歳のころなのかは覚えていない。ただ、すでに小学校には上がっていたはずだから、七歳か、八歳の頃か。
有馬家はその十年ほど前までは、この地で草津家と同様に繁栄を誇った名家であった。しかし当時、寄る不景気には逆らえず、底なし沼にはまっていくように、ずぶずぶと没落しようとしていた。
その有馬家を救ったのが先々代のころから交流があった草津家で、それ以来、有馬家のものは草津家に跪くようになっていた。有馬家現当主の三男、燻も例に漏れず、初めて会った日から、恭しくこちらにこうべを垂れた。そして草津が「友達になろう」と言いながら差し出した手は、結局握られなかった、はずだ。
同い年ではあったが、当時から有馬のほうが背も高く、体力もあった。没落しかけた家で苦労したことも多かったのだろう、精神的にも成熟していたように思う。当時草津は有馬を兄のように思っていたけれど、有馬はあくまで一歩引いて、こちらに接していた。例えば、鬼怒川と遊ぶときに有馬を誘っても、彼はいつも首を横に振った。「僕は錦史郎様と『遊ぶ』ことはできません」と目を伏せた有馬を無理やり連れて行くことはできず、草津はいつも鬼怒川とふたりであちこちに出かけたのだった。
それが現在のような態度になったのは、今思えば確かに、そう、あの手紙にあったように、中学の半ばからだった。草津が鬼怒川とささいなことで疎遠になってしまったあの頃から、有馬は草津に柔和な笑みを向け、敬語を使うのをやめた。そうだ、そうだった。有馬が以前はもっと執事然としていたことなんて、最近の態度が馴染みすぎていて、すっかり忘れていた。
草津はため息をついた。そういう意味では確かに、なにも変わらないのかもしれない。
有馬は自分の友人である前に、執事であったのだから。







ほんの少し緊張しながら教室に入る。いつもなら有馬は他のどの生徒よりもはやく教室に来て、草津を待っていた。誰もいない教室で、有馬がこちらを振り向いて、「おはよう、錦史郎」と微笑んで、草津がそれに「おはよう」と返すのが、毎日の習慣になっていた。
果たして草津が教室のなかに入ると、そこにはいつも通り、有馬が立っていた。しかし彼はこちらを真っ直ぐに見て、それから唐突に頭を下げた。草津はなんとなく気圧された気分になって、思わず立ち止まる。
「おはようございます、錦史郎様」
完璧な角度で礼をしながら、朗々と有馬はそう言った。なるほど、「単なる執事に戻る」と、朝の挨拶はこういうものになるらしい。草津は唇を引き結ぶ。こちらの心中など知らずに笑っている有馬を見ていると、胸の内にじわりと不快感が広がる。そしてそれはそのまま口をついて出た。
「……朝からずいぶんと機嫌がよさそうだな」
有馬は理不尽な草津の苛立ちをぶつけられて、しかしひとつも表情を変えなかった。
「すがすがしい朝ですよ、錦史郎様」
「それがどうした」
「いえ、なんでもございません。今日はこれから生徒会室に行かれるのですか」
「……ひとりで行く。君は来なくていい」
いつもは有馬を伴って向かうところだが、草津は有馬の笑顔を見ていられず、突っぱねるようにそう言った。心臓がうるさいくらいに音を立てている。どうやら自分は有馬の前で緊張しているらしい。
「そういうわけにはいかないでしょう」
「来るな」
より声を強めると、有馬はすんなりと一礼した。相変わらず完璧な角度だった。
「仰せのままに」
草津は有馬が顔を上げる前に踵を返した。これが友人ではない、一介の「執事」としての有馬燻だというのか。彼の笑顔は今までとまったく変わらないはずなのに、胸の内の不快感は広がるばかりだ。彼は草津のこの不機嫌をどう思っているのだろうか。有馬はこちらの不機嫌の理由を訊こうとすらしなかった。
――勝手に主人とのことを忘れる執事など、この世界にいるものか。そんな執事が考えていることなど、私は知らなくていいはずだ。
幼いころ、決してこちらの手を取らなかった有馬のことを唐突に思い出す。あのとき自分は有馬のことをどう思ったのだろう。今となっては、思い出せない。







翌日の放課後、草津は有馬と共に生徒会室に向かった。残り少ないとはいえ有馬にだって生徒会の仕事はあるし、彼のことをいつまでも避けるわけにはいかない。
いつも隣に並んで歩いていた有馬は、今は斜め後ろをついてくる。昔を思い出して懐かしいといえば懐かしいが、先週までの距離感に慣れてしまっているせいでどうにも落ち着かない。悶々としながら歩いていると、不意に有馬がこちらを追い抜いて行った。思わず顔を上げると、彼は生徒会室の扉をあけて、草津に向けて微笑んだ。
「どうぞ、錦史郎様」
仰々しい動きのような気がして草津は一瞬ためらったが、これが執事というものだと思い直し、ひとつ頷き生徒会室に入った。先に来ていた下呂は彼の定位置とも言えるソファに座っていて、こちらに気づいて顔を上げる。
「お疲れ様です」
華やかな笑顔を浮かべて、下呂は少しだけ顔を傾けた。草津は会長用の机にまっすぐに向かう。
「お疲れさま」
「お疲れさま」
草津と有馬はそれぞれ下呂に挨拶を返して、草津は生徒会長用の机に向かった。有馬はソファのそばに鞄を置くと、すぐに踵を返した。
「今日は紅茶でいいかな」
さっきまでの丁寧語まみれの口調ではない、先週までの有馬と同じ口の効き方に、草津は顔を上げた。なぜかひどく安堵して「玉露を」と言おうとして、有馬はまっすぐに下呂のほうを見ていることに気が付き、それを飲み込む。
「じゃあ、ダージリンお願いします」
「はいはい」
二度返事をしつつ下呂のリクエストに応じて有馬が淹れた紅茶は、完璧な味だった。その上彼が神戸から取り寄せたという茶菓子は、確かに草津と下呂を満足させた。先週までの有馬は案外茶の淹れ方が適当なところがあったのだが、それはあくまで友人としての隙を作るためだったのだろうか。執事として茶を淹れれば、どうやら彼の給仕は完璧になるらしい。
草津が手が空いた有馬に書類整理を頼むと、いつもよりずっと早く終わらせてきた。しかし揃えてきた書類は完璧で、草津の不備までチェックしてある。
友人であったことを捨てただけで、仕事の質まで違うものだろうか。ということは、先週までの有馬も決して、すべて本心を晒してこちらに接していたというわけではないのだろうか。
とりかからなくてはならない書類があるのに、次から次へと疑問がわく。しかし、それを有馬に問うてみる気にはなれなかった。彼はこの五年間ずっと、草津に執事として付き添ってきたのだと思っている、はずだ。
「有馬さん」
書類に向かって俯いていると、ソファに座ったふたりの会話が聞こえてきて、草津はふと顔を上げた。有馬は草津にいつも通りの笑顔を向けている。先週までは、自分も向けられていた、その表情。
「なんだい阿古哉」
応じる声も、言葉も、やはり先週までの有馬と同じだった。もしかしたら、すべて思い出したのかもしれない、草津は淡い期待を抱いて、有馬と下呂の会話に聞き耳を立てる。
「……有馬さんのハーブティ、これからは飲めないんだな、と思って」
「はは、まるで僕がお茶を淹れる係だったみたいだね」
有馬の声は穏やかだ。草津はついに書類にサインを入れる手を止めてしまう。下呂はふふ、と含んだような笑い方をした。
「そうじゃなかったんですか?」
「阿古哉は手厳しいなあ」
そう言いながら、まるでへこんだ様子も見せず、有馬はにこやかに笑っている。阿古哉はソーサの上にティーカップを置いて、小さくため息をつく。それを見た有馬はほんの少し声を潜めた。
「新しいメンバーと馴染めるのか、不安?」
「いえ。僕が馴染むのではなくて、向こうが僕に馴染むんですよ」
「それもそうだ」
やはり下呂に対する有馬の態度はまるで今までと変わっていない。有馬は残った紅茶を飲み干すと、ふうと息を吐く。
「ということは、阿古哉は僕たちに馴染んでくれたってこと?」
「……そうかもしれませんね」
からかうような言葉に不満げに、だが素直に答えた下呂に有馬は小さく声を出して笑った。ふたりの間にあるものは確かに親しい先輩と後輩という関係そのものだ。――同級生同士なのに主人と執事という関係になってしまった自分たちとは違って、正常で、穏やかで、心和むようなやりとり。まるで、あの手紙に書かれたようなことなんて、なにもなかったかのような。
草津は奥歯を噛み締めた。ペンを強く握った。やはり有馬は記憶なんて失ってないんじゃないだろうか。もしくは今はもう、元に戻ってるのではないか。
「有馬」
思わず彼の名前を呼んでしまう。有馬が顔を上げてこちらを見た。瞬間、その瞳にあった穏やかな光が、すっと消えるのが、わかった。
「なにかご用ですか」
たったそれだけの言葉で、草津は愕然とした。やはり有馬は自分には執事として接するつもりなのだ。有馬は下呂を見るのと同じ瞳でこちらを見ない。ここに横たわる溝を自覚し、草津はごくんと喉を鳴らした。なにか、なにか返事をしなければならない。
「……今日はあっちゃんたちと帰る」
「かしこまりました」
草津が無理に絞り出した回答に余計な口を挟まず、有馬はひとつ頷いた。
そんな会話を聞いて、訝しく思ったのは下呂である。
「さっきから思っていたんですけど、有馬さん、いつもと言葉遣い違いません?」
「そう?」
やはりこちらには敬語を遣わずあっけらかんとそう言った有馬に、下呂はますます眉を寄せる。
「僕にはいつも通りですけど、会長に対してはやたら丁寧ですよ。ねえ会長」
どうやら下呂にも有馬の態度が妙であることがしっかりと伝わっていたらしい。下呂がこちらに話題を振ってきたので、草津はなんと答えるべきかわからず口をつぐむ。すると、それより先に有馬が答えてしまった。
「いつも通りだよ。僕は執事だから、阿古哉に向けての言葉遣いと錦史郎様に向けての言葉遣いは変わるかもしれないけど」
「執事……錦史郎、様、ねえ」
下呂はなにか言いたげに目を細めた。唇がにんまりとした笑みの形になる。
「もしかして有馬さん、卒業が近付いて、今更執事キャラを取り繕う気ですか」
「取り繕うなんて」
阿古哉はひどいなあ、と有馬はまた笑う。草津は有馬が笑顔以外を浮かべないのを、ぼんやりと眺めていた。







ところで、生徒会室にはかつて戸棚の後ろにあって、草津たちもその存在を知らなかった扉がある。その存在が明るみに出て、しかもそれが防衛部の部室とつながっていたことをお互いが知ったのは、つい最近のことだ。
「草津せんぱーい!」
明るい声と共に、ノックもなしにその扉が開いた。思わず肩をびくつかせてそちらを見ると、予想通り、そこには防衛部唯一の一年生、箱根有基が立っていた。以前なら声を張り上げて注意したところだが、それが通じない相手であるといい加減諦め始めたところだ。そして、その有基の後ろからヒョイ、と顔を出したのが鬼怒川である。
「ごめんね錦ちゃん、引き継ぎ近くて忙しいのに。黒玉湯行こうって話になったら、有基が生徒会のみんなも誘おうって聞かなくて」
まるで有基の母親のような口ぶりだ。鬼怒川に申し訳なさそうな声を出されてしまっては、草津も不満を飲み込むしかない。
「忙しいならなおさら温泉浸かって疲れを取るっすよ!」
かつて敵対していた相手にここまで天真爛漫に誘われてしまえばもう、こちらの負けだ。草津はひとつため息をついた。
「わかった、行こう」
「じゃあ僕も行きます。今日は体育があったから、汗かいちゃったし」
草津の同意を受けて頷いたのは、下呂だった。常々庶民を馬鹿にしがちな下呂だが、どうやら大衆浴場である黒玉湯はそれなりに気に入っているらしい。もしかしたら、仕事を切り上げるタイミングを見計らっていたのかもしれないが。
「有馬さんも行きますよね」
下呂が長い髪を翻して有馬を振り返ると、有馬は少しだけ首を傾げた。
「僕はパス。家でやることがあって」
ところが、有馬は肩をすくめてこう言った。思わず草津は眉を寄せる。執事だから、一緒に風呂にも入らない、ということか。有馬はおそらくその不機嫌に気づいただろうが、それに言及してくるようなことはなかった。
「残念っす。次は来てくださいっす」
有基が眉尻を下げる。有基に悲しそうな顔をさせたことにさすがに罪悪感を持ったのか、有馬も眉を寄せる。
「そうだね、次は行けるといいな」
「じゃあ、今日も校門の前で待ち合わせようか」
鬼怒川が話をまとめる。草津たちもそれを了承して、荷物を片付けることにした。有馬が黒玉湯に来ないことに苛立ちと同時に安堵を感じている自分に気がついて、草津はかぶりを振った。
「どうかしましたか、錦史郎様」
あれもこれもなにもかも、全部お前のせいだ、などと言えるはずもなく、草津は目を逸らして「なんでもない」と呟いた。


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