boueibu
春休みの昼下がり、共働きでうちには親がいないのをいいことに、休日の父親のごとくゴロゴロしていた煙ちゃんは、なぜか新聞を読んでいた。いや、煙ちゃんはこう見えて案外活字が好きで、だからこそよくわからない雑学なんかもスラスラ口にするんだけど、新聞を読んでるところは初めて見た気がする。
「何読んでるの?」
「教職員異動の一覧」
「へえ?」
そんなもの見てるんだ。俺が覗き込むと、煙ちゃんが新聞の一箇所を指差した。
「××せんせい、市外の学校に行っちまうんだな」
××先生というのは、俺達が中学二、三年のときの担任の先生だ。感じのいい男の先生で、煙ちゃんはしばらくして指先をそこから離して、ふう、と息を吐いた。
「俺××せんせい好きだったんだよなあ」
「煙ちゃんは一年のときも××先生だったっけ」
「そ」
中学一年のときは俺たちは別のクラスだった。煙ちゃんは三年間××先生に見てもらっていたわけで、それはまあ、思い入れがあるんだろうな。
「離任式いつだろ」
「行きたいの?」
俺が声をかけると、煙ちゃんはしばらく黙って、それからこちらを見た。
「や、いいや」
なんだかその声に残念そうな色が見えて、俺は瞬きをした。
「せんせい、俺のこと覚えてんのかな」
煙ちゃんはぼんやりとそう呟いた。俺は「覚えてるんじゃない」と答えておく。由布院煙は、教師から見れば……いやまあ、俺たち生徒からしても、なかなかの問題児だと思う。そういう子って逆に先生の印象に残ってそうだな、なんて。
「俺たちには一人の先生でも、向こうは四十人の生徒のうちのひとりで、それが毎年入れ替わるんだもんな」
煙ちゃんはのっそりと起き上がって新聞を閉じた。ますます休日のやる気のない親父じみた動きだ。俺は思わず笑ってしまって、煙ちゃんは口をへの字にした。
「そんなに先生が気になるなら、会いに行けばいいのに」
俺がそう言うと、煙ちゃんはこちらを見た。そういえば今日は、煙ちゃんがこんなにそばにいるのに、目を見たのは随分と久しぶりのような気がした。いつも半分寝てるみたいな顔してて、まあ今日もそうなんだけど、いつもと違う、顔をしている気がする。どう違うかを説明するのは、無理なんだけど。
「忘れられてたらショックだから行きたくない」
そう言って煙ちゃんはちょっと目を伏せた。
「煙ちゃん案外繊細だなあ」
いや、知ってたんだけどね。煙ちゃんはなんにも気にしてません、どうでもいいです、みたいな顔してるくせに、ときどき傷付きやすい。それにしても、煙ちゃんはほんとに好きだったんだなあ、××先生のこと。煙ちゃんが小さくため息をつく。
「××せんせいの連絡先とか、訊いときゃよかった」
「……、……?」
俺はようやくここで、いくらなんでも煙ちゃんがセンチメンタルになりすぎていることに気がついた。いや、だって、ねえ。もう卒業してまる二年になる中学での担任の先生に、妙に固執してやしないか。
「煙ちゃん、なんか妙に××先生にこだわるな」
言うと、煙ちゃんはなにも言わずに苦笑した。それから突然こちらに擦り寄ってきて、俺にべったりくっついてくる。煙ちゃんの腕が俺の肩に回ってくる。髪が頬に当たってちょっとくすぐったい。
「……ばれた?」
「ばれた」
煙ちゃんはふふ、と小さく笑う。「昔の話だろ」
昔、ねえ。まだ十七歳の俺たちには、確かに二年前はずいぶん前の話なんだけど。
「言ったろ」
煙ちゃんは呟いた。
「好きだったんだよ、××せんせいのこと」
聞いた瞬間、胸の奥がぞわっとした。煙ちゃんが発音する「せんせい」という単語の柔らかさときたら。そりゃあ、煙ちゃんと俺が仲良くなったのは中二の半ば、付き合い始めたのは中三のはじめで、その前は俺と煙ちゃんは教室の向こうとこっちにいるような、交わらない相手だった。だから仲良くなる前の煙ちゃんのことを俺はよく知らないし、仲良くなってからの印象が強すぎて、忘れてしまった。
俺は煙ちゃんのからだに手を回してぎゅっとする。べつに、今の煙ちゃんの気もちを疑う気はない、けど。
「……俺は煙ちゃんが初恋だよ」
「そうだと思ってた」
煙ちゃんはふっと息を吐く。「運のいいやつ」
中二の煙ちゃんはどんな初恋をしていたのだろう。考えると、なんだか胸のあたりがギシギシと軋んでくるような気分になってきた。少し顔を話で煙ちゃんに口付けて、それからそのまま煙ちゃんを床に押し倒す。煙ちゃんの背中の下で新聞がくしゃくしゃになる。まだ新聞を読んでいない父さんは怒るかもしれないなと思ったけど、そんなことどうでもよくって、俺は笑っていない煙ちゃんの唇にもう一回キスをした。
今のお前は、俺のものでしょ。
*
せんせいが俺の気持ちに気づいていたかいなかったかは今となってはわからないけど、妙に懐かれている、くらいには思われていただろう。いつもぐうたらな俺を、少なくとも認めてくれていた先生は、ため息をつきながら、でも笑って、色んなことを教えてくれた。たとえばあと何回サボったら単位がまずくなるか、とか。
思えばせんせいと熱史は似たようなタイプなのかもしれない。熱史の顔を見上げながら今更のようにそんなことを考える。今更すぎるか。とはいえ、せんせいを好きだったのは随分前の話だ。俺はせんせいを、次に熱史を好きになって、自分の性的指向がいわゆるゲイであることを思い知った。たぶん、これからの人生、俺は男としか恋愛できないだろう。
だけど、熱史は、どうなんだろう。
「煙ちゃん」
「ヒ」
ぐ、とチンコを握られて、声が跳ねる。
「ちゃんとこっち見て」
「見てる」
嫉妬してんのかなあ、こいつ。まあそうだよなあ。俺は熱史に応じるために手を伸ばして頬を触ってみる。熱史は眉間にシワを寄せて、むっとする。
「そうやって誤魔化す、なよ」
「ぎ、」
熱史はぐっと腰を押しだして、奥までぶつけてきた。ただでさえ床の上でやっててあちこち痛いのに。ひどすぎ。熱史のくせに。
「あ、あ、あ、あ、」
熱史がパンパン腰をぶつけてくる衝撃を逃がすすべもなくて、情けない声しか出せない。それでも教え込まれたからだはちゃんとチンコを勃起させていて、どうしようもない。
せんせいならこんな、ひどいこと、しないのに。なんて。思っちゃったら終わりだな。それに熱史のこういうところ、必死なところ、俺は好きになったんだけど。
「だめ、だめ、ッ、い、くッ……!」
熱史のザーメンをなかに深く感じながら、俺は背中を反らした。床に擦れて痛い。涙がボロボロこぼれて、もう不格好な声さえでなくて、だけど、気持ちが良かった。
「……ッ、……!」
なあ熱史。お前は。
えっちが終わってからようやくベッドの上に上げてもらえた俺は、布団をかぶって丸まった。からだじゅうあちこちが痛くて仕方がない。それはたぶん熱史も同じだろうに、熱史はベッドの下にいる。
「ごめんね」
熱史が言うのを聞こえないふりをする。怒っているわけじゃない。せんせいの話を持ち出して、こうなることが予想できなかったわけじゃない。ただ、なんと答えればいいのかわからなかったからだ。
この春休みが終わればまだ高三だ。俺たちはまだ自分の感情ひとつコントロールできないガキで、だからこんなことになっている。……だけど、もう、高三だとも言える。そろそろ将来について考えてもいい時期だ。
「熱史」
「なに」
名前を呼ぶと、すぐ答えてくれた。こちらを覗き込むようにしてくれる。元来こいつはやさしいやつだ。まともで、まじめで、俺とはちがう。
「俺、せんせいを好きになったとき、これから一生自分が好きな人とは付き合えねえんだろうなって思った」
「煙ちゃん」
熱史が布団越しに俺の肩に触れる。俺は熱史に背中を向ける。
「それは、男同士だから?」
訊かれて、頷く。男が男を好きになってしまったのはしょうがないとして、世界には女としか恋愛できない男が圧倒的に多い。それは生物学的には当然のことだ。俺が好きになった相手がゲイで、さらにその男が俺のことも好きになる可能性は、中学生の俺にはとてつもなく低く思えた。……今だって、そう思ってる。だから。
「熱史と付き合えてんの、すげえ、ラッキーだって思ってる」
ありていの言葉で言えば奇跡みたいなものだ。さすがに恥ずかしくて口から出すのはやめたけど。熱史の初恋が本当に俺なら(そしてたぶんこれは嘘じゃない)、すごくこいつは運がいい。
「煙ちゃん」
「熱史は、これから女を好きになる、かもしれねえけど、俺はそうじゃないから」
ときどき考えていたことだ。俺たちのこれまで、これから。熱史にはこれから異性を好きになる可能性がある。生まれついてのゲイである俺と違って、熱史はバイ、かもしれない。たぶんそうだと思う。そして熱史ならきっと、好きになった女に、ちゃんと好いてもらえるだろう。
「…………」
しばらく熱史はなにも言わなかった。俺の肩の上に乗っかってる熱史の手がぎゅっと握られる。大きなため息をつかれる。熱史はそれから、ふいに立ち上がった。
「いま調べたけど、中学の離任式は明日だって」
いきなりなんの話だ。俺が顔を上げると、熱史はスマートフォン片手にこちらを見下ろしながら、「花束を買おう」と、ますますわけのわからないことを言い始めた。
「先生に花束、渡しに行こうよ、明日」
言われて、ぞわっとした。熱史の言いたいことはすぐにわかってしまった。そうして、せんせいに別れを告げろということなのだろう。熱史はほんのり笑っていて、それは素直に俺を気遣って見えるはずなのに、なんだかこわい。
「忘れられてたら嫌だって言ったろ」
「忘れないよ」
熱史はなぜか確信を持った口調でそういった。
「俺が××先生だったら煙ちゃんのこと、ぜったい忘れないけど」
「なんだそれ……」
俺はため息をついて、それからようやくベッドから起き上がった。熱史に手を引かれて、俺は熱史を見上げる。
「煙ちゃん」
「なに」
「俺も男しか好きにならないよ、たぶん、この先ずっと」
熱史は俺を安心させるためだろう、そう言って笑う。俺も取り敢えず笑い返す。その気遣いは嬉しかったし、熱史が心からそう思っているのは事実だろうから。その熱史の気持ちを否定したいわけではなかった。少しも。
ああ、だけどさ。最初っから筋骨隆々の男の写真で抜いていた俺と違って、熱史は俺とこうなる前はおっぱいの大きなグラドルの写真で抜いていたという話だって聞いたことがある。だから熱史のこのことばに確証なんかなにひとつないのだ。わかっているから胸のあたりが痛くて痛くて仕方がなくて、俺はなんとかそれを誤魔化すために、熱史の手をぐっと握った。熱史より俺のほうが握力がある。熱史がいてて、と小さく声を上げるのを見て、いい気味だなって、笑ってやる。
35/55ページ