boueibu
革靴の靴紐をできる限りきつくきつく締め上げるようになったのはいつの頃からだっただろう。ほどけてしまうのは不安になる。蝶々結びの輪を左右にぐっと引っ張って、僕は立ち上がった。
錦史郎との待ち合わせは寮の玄関でだった。叱られたくないので、七分前にはたどり着いておく。待ち合わせをすると、錦史郎はきっかり五分前にやってくる。阿古哉は待ち合わせ時間ちょうどか、悪くて五分くらい遅れてくる。一応は母校で生徒会役員まで務めた僕たちは、それなりに時間には正確だ。
今日は三人で博物館に行く予定だ。せっかく留学しているのだから、勉強するだけじゃなくて、海外で見識を広げておくべきだと主張したのは阿古哉だった。錦史郎も僕もそれに異論は出せなくて、僕らは次の日曜三人で出掛けることにしたのだ。
寮の玄関ホールには誰もいなかった。僕は大きな柱に寄りかかるようにして、ふたりを待つことにする。
地球の征服は失敗したけれど、ここに来てから日々はなめらかに過ぎていく。日本の温泉街とはまるでちがう景色、人々は十二分に刺激的だ。
「有馬」
間もなく錦史郎が現れる。僕は柱から背中を浮かせて、彼の方を見る。
「おはよう、錦史郎」
「おはよう。阿古哉はまだか」
「まだでしょ」
そんなことを言い合って、すっと錦史郎が黙る。
僕と阿古哉はそうでもなかったけれど、錦史郎は少しばかりホームシック気味だった。生徒会長として眉難高校をあれだけ愛していたのだから、それもまた、仕方がないことなのかもしれないけれど。
「この前の薔薇園の写真、鬼怒川に送った?」
「……いや。あっちゃんに返事を求めるのも悪いだろう」
「そうかな。僕が鬼怒川だったら、すごく嬉しいけど。喜んで返事するよ」
僕が鬼怒川だったら、か。なんだか余計なことを言っちゃったような気がする。錦史郎はしばらく僕の顔をじっと見て、「……そうか」と頷いた。頬が少し赤くなって、口許が緩んでいる。
……俺にひとこと言われるだけでその気になるなら、早く送ってしまえばいいのに。
僕は心の中でだけかぶりを横に振る。いけないいけない。なにを考えているのだろう。
歴史のある博物館は、世界中から集められた絵画や彫刻、模型や剥製、化石なんかがたくさん展示されていて、さすがに壮観だった。僕たちは博物館のなかのレストランで食事を摂ることにした。日本では使用人にやらせていたことを、今の僕たちは自分たちでしなければならない。特に錦史郎と阿古哉は最初は色々と不慣れだったみたいだけど、ほんの少しもすれば、なんだって卒なくこなせるようになる。元々ふたりとも、要領がいいのだ。
「この国の料理、どうにかなりませんかね」
阿古哉は紙ナプキンで口許をぬぐいながらそう言った。
「建物だって人々だって美しいのに、料理がこれじゃどうしようもないですよ」
「まあ、日本の料理が美味しすぎる、ってことなのかもしれないけどね」
「ほんと、これで食べ物さえ美味しければ最高なのに」
阿古哉がため息をつく。料理を除けば、阿古哉には確かにこちらの国の空気が合うようだった。ここは自己主張が好まれない日本に比べて、開けっぴろげでも疎まれないから。
「そういえば錦史郎、さっきの、鬼怒川に送った?」
「え、さっきの、って、この前の薔薇園の写真ですか?」
さすが察しがいい。
「そうそう、錦史郎、朝はまだ送ってなかったんだよ」
「うるさい」
からかうようなことを言うと、錦史郎はすぐに赤くなる。
「今送っちゃったらどうですか?僕なんかよく鳴子くんや蔵王に写真送って自慢してるんです」
「すっかり防衛部と仲良くなってるね」
「仲良くはないですけど」
阿古哉とそんなやりとりをしていると、錦史郎はうんざりしたような顔をしてため息をついた。
「わかった、送る」
ところが、そう決意してからのほうが長いくらいだった。写真に添える適切な文章が書けないらしい。LINEで送る文章なんて、適当でいいと思うんだけど。錦史郎は勉強も運動もそのほかのこともなんでもだいたいできるけど、コミュニケーション、こと対鬼怒川となると、小学生、いや、赤ん坊も同然だ。
「会長ってほんとに……」
阿古哉はそこまで言ってから、結局口をつぐんだ。うん、何が言いたいのかは、よくわかるよ。
夕方前に寮に戻りそれぞれの部屋に入る。阿古哉は夕飯をこちらの友人たちと食べるのだと言っていた。俺はどうしよう。阿古哉の言うとおり、こちらの食事は正直舌に合わない。自分でなにか作ろうにも材料もないし、どちらにせよ買い物に行かなくてはいけない。
なんだかなあ。
俺はベッドに仰向けになって天井を見上げた。思い切り息を吐き出す。
面倒くさいなあ、と思う。そういう日もある。いや、もともと俺はなんでもかんでもてきぱき積極的にこなすような人間じゃない。できるなら楽をしたいし、簡単に生きていきたい。
錦史郎のそばにいるときは、そういうことを考えないようにしてきたけど、ね。今はひとりの部屋だし。
ごろりと寝返りを打って、スマホを触る。参ったなあ、錦史郎は鬼怒川に、阿古哉は鳴子くんや蔵王くんに連絡を取っている。俺には向こうに誰もいない。
向こうでは、クラスメイトとはうまくやっていたほうだと思う。それこそ、錦史郎の何倍も挨拶や会話する間柄の相手だっていた。けれど、飛行機で十時間のこの国で見た美しいもの、美味しくない食事、難しい課題、そんな話をする相手は誰もいない。このちいさな機械があれば、日本に文字や写真や音声を送るのは簡単だって、いうのに。
なんだかもやもやしてきて、僕はスマホを放り投げた。ベッドの足元にぼすんと落ちる。泣きたいような、笑いたいような、変な気分だ。
俺はベッドからからだを起こした。こういうときに飲むべきものを、俺はとっくに知っている。
日本と違って、この国では十八歳から合法的に飲酒することができる。俺はこちらの国で十八の誕生日を迎えたので、こちらのクラスメイトに引っ張り出されて、その日のうちにパブで酒を飲んで、そして、そのあとの記憶がない。どうやら俺は酒に弱いらしいと理解できたのは翌朝、見知らぬ人の部屋で目が覚めたときだった。このことについて僕は錦史郎には話していない。なんて言われるかわかったものじゃないからね。
とはいえ、少ない酒で簡単に酩酊してしまえるのはなかなかに経済的だ。俺は小さな商店でビールの缶を二本とナッツの小袋を買うと、寮に戻る道すがら、一缶開けてしまった。
それだけでなんとなく気分がよくなってくる。さすがに足元がもつれるほどではないので、大股で歩いた。スキップした……くはないけど。さすがに。あと一本飲んだら鼻歌だって歌えてしまいそうだけど、さすがに二本目は部屋に戻ってからにしよう。
寮の玄関をくぐり、廊下を渡る。俺はすっかり浮かれていた。部屋に入って、ドアを閉める。ドアに背中を預けると、コートも脱がないままで、ようやく二本目のプルタブを引いた。ひとくち飲む。舌にほろ苦い味が染みる。炭酸が弾けながら喉を滑り落ちていく。本当はこんなもの、美味しいなんて思っちゃいない。だけどこれを胃に流し込むと、他では味わえない、ふわふわした気分になれる。
誰かが笑っている声がする。自分の声だ。
「ふふ」
三人で日本からこんなに遠くの街に来て、俺はどうやらひとりのようだった。誰とも繋がっていないのだから、スマートフォンも持っている意味がない。錦史郎はきっと今頃鬼怒川と例の薔薇園の写真についてメッセージを飛ばし合っているに違いない。もしかしたら通話をしているかもしれない。時差はどうかな。いま日本は何時だろう。最近はアプリを使えば国際電話も無料だ。留学なんて言っても、いつでもどこでも、声が聞ける。いいことだ。
明日になったら錦史郎と阿古哉に提案してみようか。せっかく留学しているのに、日本人同士でつるんでいてもしょうがないって。お互いもう少し距離感を持とうって。阿古哉はともかく、錦史郎はまだ友達が少ないけど、彼もそれなりにうまくやれるだろう。……俺は。
俺はスマートフォンの画面を見る。誰からのメッセージもない。もしかしたら、いちばんホームシックなのは、俺なのかもしれなかった。LINEのトーク一覧画面を眺めながら、生徒会のグループ以外はろくろく更新されていないことに気づいてしまう。
例えば。錦史郎が鬼怒川に連絡をしているっていうなら、俺は由布院にメッセージを送ってみようか。そんなことを考えて、由布院の名前をタップする。日本を少し発つ前、ほんの業務連絡をしたやりとりが残っていた。ばかばかしくなってすぐに戻るボタンを押す。
二本目のビールはゆっくり飲み込むつもりだったのに、気がついたら飲み終わってしまっていた。空きっ腹に流し込んたアルコールのせいで俺はすっかり酔っ払ってしまった。缶を床に置くとのろのろと立ち上がり、そのままベッドに倒れ込む。
明日は月曜日だ。また授業に出なければいけない。今日はおかげでよく眠れそうだから、きっと朝にはまたいつものように錦史郎や阿古哉に声をかけられるようになるはずだ。
この歳で酒に頼るようじゃ、日本に戻ってからが大変なことになっちゃいそうだけど。
すっとまぶたが重たくなる。シャワーを浴びてない、着替えてすらいない、歯も磨いていない。ぜんぶを明日に投げつけて、俺は目を閉じた。
ひとりだろうがそうじゃなかろうが、眠ってしまえばぜんぶ一緒だ。
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