boueibu
「煙ちゃん、進路希望票出した?」
「だした」
「ちゃんと出さなきゃだめだよ」をすでに口の中に用意していた俺は、それを吐き出さないようにするのに一回口を開けて閉じてそれからようやく代わりに「本当に?」と訊くことができたのだった。
「ほんと」
俺の反応を見た煙ちゃんは、からかうようににやりと笑う。すると「由布院先輩らしくないっすねー」と立が言って、「明日は雨かもしれませんね」と硫黄が笑う。有基は「煙ちゃん先輩どこの大学行くんすか!」と早速核心を突く質問をぶっこんできた。
「受かってねえのに言いたくねえ」
「てことは由布院先輩外部行くんすか、らしくねえっすね」
「うるせえ俺の評定じゃ内部進学もろくなとこ行けねえんだよ」
「それ自慢になってませんから」
そう、うちの高校は一応エスカレーターで大学にも行けることになっている。とはいえ、評定がよくなきゃ希望の学部にいけないし、そもそも学部も多くないので外部の大学に進学するやつも多い。美術や音楽を勉強したいやつなんかは、100パーセント外部進学だ。
俺はと言うと、希望の学部が眉難大学にあって、そこそこレベルが高いので、内部進学するつもりだ。先生にもいけるだろうってお墨付きをもらってる。そのために三年間学年二位をキープしていたようなものだしね。
「硫黄は大丈夫だろうけど、立も気をつけろよー」
「俺は東京出たいんで、評定どーでもいいんすよね」
「立のモテは東京でも通用するんでしょうか」
「通用させんだよ」
言いながらケラケラ笑う立を見ていると、二年とは言えふたりもどうやら卒業後の話はしているらしい。確かに立は都会に出たいだろうなあ。
「俺は俺はー!内部進学するっすよ!そんで数学の勉強して、あんちゃんと黒玉湯するっす!」
「就職先決まってんの羨ましすぎるわ」
「煙ちゃん先輩も黒玉湯で働くっすか!?」
「いやそれはないけど」
煙ちゃんは大きくあくびをした。どうやらそろそろいつも通り寝ようとしているらしい。
「……俺、煙ちゃんが外部進学する気だったなんて初めて知った」
言うと、後輩たちが皆してこっちを見る。煙ちゃんは机の上にからだを伏せて、でも机の上の手の甲にあごをのっけるみたいにして、こっちを見る。
「そーだったっけ?」
煙ちゃんが適当なのはいつものことで、俺も煙ちゃんの性格からして内部進学だろうと思い込んでいたのも悪いんだけど、そんな、ちょっとなんの感慨もなく言われるとは思わなかった。
「言ったと思ってたわ」
煙ちゃんはとうとう机に突っ伏した。本格的に寝るつもりらしい。俺は煙ちゃんに言いたいことがたくさんあるはずなのにうまくそれがまとめられなくて、結局止めることもできなかった。
「先輩が知らなかったなんて意外っす」
立が言う。
「なんかもう、俺も意外だよ」
「なんすかそれ」
煙ちゃんもたぶん聞いてるんだろうけど無反応で、俺はなんとなくそれに腹がたった。
帰ってから今日の復習をするために机の前に座って、それからやっぱり煙ちゃんのことを考える。さすがに俺も煙ちゃんの通知表なんて見たことないけど、教科によっては「追試はめんどい」って赤点スレスレもザラの煙ちゃんの成績がいいとは思えない。
「はあ」
ため息をつく。そういえば、錦ちゃんはどこの大学に行く予定なんだろう。有馬は?俺はそんなことも知らない。どうして訊かなかったんだろう。
本当に煙ちゃんが外部の大学を受けるなら、煙ちゃんとは離れ離れになってしまう。
俺はさっぱり勉強する気をなくしてしまった。そもそももう、俺は進路が決まっているようなもので、言ってしまえば必要がない。……煙ちゃんと違って。
俺はスマートフォンを取り出して、LINEを起動して、煙ちゃんとのトーク画面を開いて、それから結局なにも打たずに閉じた。
煙ちゃんとは気の置けない仲だ。それは間違いない。なのにどうしてこの件ではうまく問い詰められないんだろう。
翌日も煙ちゃんは相変わらず眠そうで、授業中も真面目に受ける気がなさそうで、俺もモヤモヤしつつもいつも通り接して、そうして放課後になった。
「熱史」
「なに?」
「今日俺んちくる」
部室に向かう途中、煙ちゃんが珍しい提案をした。俺たちはどちらかといえば親が家を開けがちな俺の家に行くことが多い。
「どうしたの」
「いや、来たいかなって思って」
どきっとした。煙ちゃんのこういうさり気ない言い方、煙ちゃんは本当に上手だ。
「行く」
俺はすぐにそう答えた。煙ちゃんは口許を緩めた。煙ちゃんは階段を先に登り始める。俺も煙ちゃんの背中を追った。
煙ちゃんの部屋は、たぶん他の皆が思うほど散らかってはいない。あんまりものが無いからだ。ただ、布団は万年床状態だけど。
「昨日お前をびっくりさせたみたいだから」
煙ちゃんは部屋に入るなりそう言った。鞄を降ろした俺は、煙ちゃんに勉強机から持ってきた紙を渡されて、それを見下ろした。
それは有名な予備校の名前が入った模試の成績表だった。最初から内部進学するつもりの俺は、一度も受けたことがない。志望校の欄には、いくつか有名な大学の名前が印字されていた。どれも東京にある大学だ。そして、判定はだいたいがBだ。B。この時期にBなら、やりようによっては二月にはA判定レベルに持っていくことは不可能じゃないだろう。
「ここを受ける、の?」
「……考え中だけど」
煙ちゃんが床に座った。俺も座る。もう一度煙ちゃんの模試の成績表を見る。悪くない……いや、教科には寄るっちゃ寄るけど、十分にいい偏差値を叩き出している。これが煙ちゃんの成績だ。やればできる子、やればできる子、そう言ってきたのは俺たちなんだけど、本当にそうだったんだなあ、と今更実感させられる。
「まあ勉強しないで行けるところ行くつもり」
「……煙ちゃん、らしいな」
なんでだろう。俺はほんの少し鼻の辺りがじんとした。本当に、煙ちゃんは、東京に行ってしまう。それをきちんと文字にして突きつけられた気分だった。煙ちゃんは黙っていた。
「もっと早く言って欲しかった」
「言ったと思ってた」
「絶対言ってないよ」
「……お前が言うならそうなんだろうな」
煙ちゃんが苦笑する。俺は溜まったものを吐き出すために大きく長く息を吐いた。煙ちゃんは「そろそろいいだろ」と言って成績表を俺から取り上げた。正直もっとちゃんと見てみたかったんだけど、俺はおとなしく煙ちゃんにそれを戻す。
「……でも俺も熱史が内部だと思ってなかった」
「え?」
「熱史の成績なら東京の大学だってどこでも受かるだろ」
「言ってなかった、っけ」
「言ってなかったよ」
俺もそうだ、言ったつもりになっていたかもしれない。確かに、俺が煙ちゃんの進路のことを聞いていないなら、煙ちゃんが俺のことを聞いていなくても無理はない。
俺たちはお互いのことをぜんぶ知っているつもりだった。知っているはずだった。だけどそうじゃなかった。もう三年以上も付き合っているっていうのに。
「じゃあ俺たち離れ離れだね」
「同じ関東じゃねえか」
煙ちゃんはそう言って口許を緩めた。「生徒会みたいに、海外留学ってわけじゃねえんだから」
「そうだね」
関東って言ったって、ここは東京都面しているわけでもない。東京に出るには特急に乗ったりする必要があるわけで、毎日会えるわけじゃなくなる。毎週会えるわけでもないだろう。毎月……会えるだろうか。
そりゃあ、硫黄や立が言うように、俺たちはべったりしている。そういう自覚がある。だけどいつか離れてしまうだろうってことくらいはわかっていた。わかっていたつもりだった。
「熱史」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「なにぼーっとしてるんだよ」
「……煙ちゃん」
「なんとかなるだろ」
煙ちゃんの適当なところが好きだった。だけど今回こそは煙ちゃんの言葉に頷くことができなかった。
「……ならないよ」
なるはずがない。煙ちゃんは驚いたように目を見開いた。
「ごめん」
俺は立ち上がる。煙ちゃんがこちらを見上げる。上目遣いの煙ちゃんを見下ろして、俺は鞄を手にとった。
「熱史、落ち着け」
「落ち着けない」
「だって俺たちお相子だろ、この件では」
「…………」
反論できない。俺たちはお互いのことを知らなかった。たったそれだけの話なのに。俺は仕方なくもう一度座り直した。煙ちゃんはそれを見るとやんわり笑ってくれる。俺はこの顔が好きだ。煙ちゃんの中身も好きだ。離れたくないっていうのは、わがままなのだろうか。
「俺は大丈夫だよ、お前と離れても」
「……煙ちゃん」
「お前も、たぶん大丈夫だと思う」
「そんなの」
どうしてそう言い切れるんだ。どうして。だって俺たちはお互いの進路を勝手に思い込んで間違えていた。結局理解なんてし合っていない。俺は唇を噛んだ。煙ちゃんはふう、と息を吐き出す。
「まあお前はえっちできないのきついかもしれねえけど」
「煙ちゃんだってきついだろ」
いや、今回は性欲の話がしたいんじゃない。そういうことじゃない。
「好きだよ」
「……煙ちゃん」
「お前のこと、ちゃんと好きだよ」
煙ちゃんは俺のことを滅多に好きだなんて言ってくれない。ずるい。こういうときにそんなことを言って、そうやって煙ちゃんはごまかす気なんだ。わかっていた。わかっている。
「だから平気だって言いたいわけ」
「だめか」
ダメだって言うべきだったんだ。ダメだって言いたかった。なのに俺はその一言が言えなくて、だけど首を横にも振れなかった。俺は煙ちゃんの手のなかにある成績表を見つめることしかできない。並んでいるB判定。煙ちゃんはきっとあれらのうちのどれかに進学するだろう。少なくとも内部進学はありえない。ここらに眉難以外の大学は多くなくて、実家を離れることは殆ど確実だ。
「……大丈夫だって」
大丈夫じゃないよ。俺は。
*
熱史をなだめるのに苦労はしたけれど、とりあえず今日のところはえっちもしないで帰ってもらった。どう考えてもそういう気分じゃなかったし。お互い。
だけど俺は俺たちが離れても大丈夫だと思っている。俺はともかく、少なくとも熱史は平気だ。絶対に。あれだけべったりだった草津と疎遠になっても、平気な顔して俺の隣にいられたんだから。そういうやつだってことを、俺がいちばんよく知っている。
別に熱史のそういうところを嫌っているわけじゃない。そうやってさっさと割り切れるところは、俺からしてみれば結構羨ましいくらいだ。
馬鹿だ。あいつは馬鹿だ。俺は俺のほうがよっぽど心配だけど、そんなこともたぶんわかってない。
なんにも、わかってない。
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